さっちゃんのお誕生日から始まって、11月の終わりまで、ほぼひと月半の間はわが家的祝祭モード。
それが終わり12月に入れば、すっかり年末モードだし、クリスマスにかまけていたりすると、あっという間にお正月がやってくる。
2022年に限らず、いままでを振り返るに、やり残したことのあまりの多さに、呆れるのを通り越して、ほとんど諦めに似た思いがするのだが。。。これを素直に口にしてしまったら、さっちゃんから
「何言ってるんですか。まだやれること、いっぱいあるじゃないですか。」とたしなめられたΣ(゚∀゚ノ)ノ
す、すみません(^o^;)
ごもっともでございます(^o^;)
「水浴の少女と魚」と一緒のタイミングで額装してもらった「樹と村の小寺院」。
この画はもちろん僕らのお気に入りで、展覧会で見るたびに「なんか、いいんだよね〜」と、何度も確認し合った1枚。
「いいんだよね〜」という作品は他に多数あるのだけど、わが家で額装するっていうことになると、条件がやけに具体的になる。すると作品の方から「はい!」と手を挙げてくることだってあるΣ(゚∀゚ノ)ノ
作品の見え方って、こちら側の態度ひとつで、まったく違ってくるものなんですね(^ω^ゞ
どこかの展覧会に行ったときには、作法のひとつとして「家に飾るなら」という視点で眺めてみる時間をつくるべきですな(*^ω^)♪
別のことを確認することもある。自分ではすごく気に入っていて、どうにかして飾ってみたいという作品でも、「この場所ではない」と、作品の方からご辞退されることも、しばしば起こるのである( ・ิω・ิ)b
美術館というのは、鑑賞装置として機能的にできている。とても融通の利くシステムなんだな。テーマに沿った展開、展示が求められるわけなので、コンセプトに従った基本的なフォーマットのような、いわゆるお約束などもあるだろうし、それを逆手に取った斬新な展示というのもあるだろう。
だが、自分たちが気に入った画を自宅に飾るとなると、そういったテーマ性は一気に後退する。
だいたい、自分たちの好みの画ばかりを並べるつもりでいる場所に、逆手に取るべきお約束などはない。
これを趣味とか好みとか言うのはたやすいのだが、その趣味とか好みとかを、のっぴきならないところで吟味していくと、どこか、自分の感性とか、感覚とか呼んでいた、好き嫌いを決定しているであろう何かにどうしてもタッチしてしまう。ある種の領域を、領域ごと丸裸にしてしまうようなところがある。
要するに、自分たちにとっての必然を晒すことと同義なわけだ。
まぁ、好きな画の中からさらに選ぶ(ホントは選ばれる?)ことになるのだから、気楽にはじめたつもりなのに、いつの間にか、ものすごく真剣になる( ・ิω・ิ)
仮に。どこかの展示と同じような作品の並びになったとしても、それはよく整理されたテーマ性とか、そういう概念からはほど遠いものになる。遠いどころか、対極にある。
あるべくして在る。これ以外を必要としないから。
自宅のスペースには限りがあるしね(あと予算にも(^o^;))。
そういう意味で、わが家にあるべき1枚に「樹と村の小寺院」が加わった。
現在、わが家の階段は、この1枚の画を目指して昇ることになっている(*^ω^)♪