「夢」を理由に行動することって、何かあります?
「よい夢を見たので、大盤振る舞いする!」とか、そういうことはあってもよいな(*´ω`*)♪
よい夢によって、よいことが社会に還元されるとか。
「悪い夢を見たので会社を休みます!」とか言われたら、「こいつ、なに考えとんじゃΣ(゚∀゚ノ)ノ」くらいのリアクションはする(^o^;)
そんなこと、今どき言う人はまずいないとは思うけれども(^o^;)
悪い夢が社会に還元されるとか、あってほしくないけど、悪夢の方が人に行動を促すような気がしないでもない( ・ั﹏・ั)
今日の行動の理由が夕べ見た「夢」による?となると、これは現代の社会通念上、あんまり都合がよいことにはならないのかも(^o^;)
だけど、みんながみんな、見た「夢」を素直に語るということは、そもそもあり得ない。自己申告の義務はないし。誰かが「夢」に基づいて行動しているとして、他人がそれを見抜けるか?というと、それはちょっと難しい。その人を見ただけで判別できるものでもないし。
つまりは、その人の行動原理が「夢」によるものではないと、客観的に判断できる材料など、何ひとつないのだ。
「夢」の話というのは、現代においては「夢判断」とか、「夢占い」の材料になるかな?というくらいで、それ以外には取り立てて意味を成すことはないのかも知れない。
しかし、この領域がやたらと広大なことになっていて。
ネット上には、夢に見たいろいろについて、その意味を呆れるほど詳細に解説してくれる夢占いが、おそろしくたくさん存在する。
たくさんあるのには需要以上に、構造的理由があるかも知れない。「夢」を典型や類例に分けて説明することはとりあえずは可能なのだろうけど、見た「夢」が典型通りそのまんまということはまずない。同じモチーフが登場しても、シーンによって、その登場の仕方によって、意味がかなり違ってくるということなので、バリエーションが無数に、無限に生まれてしまう。そうなると、ネットの丁寧過ぎる説明も、なんだか分かったような、分からないような。。。(*‘ω‘ *)
やや混乱した状態に(^o^;)
結局のところ、自分では判断不能に陥るので、「夢」は専門家による有料の個人鑑定で!っていう誘導がその先に待っている。
お、おそろしい((((;゚Д゚))))
いやはや(^o^;)
いろんなご商売があるものですな(^ω^ゞ
もっとも、よくよく考えてみると、「夢」を読み解くというのは、昔々からずっと続いてきた、あやしいながらも、「由緒正しき」お仕事、ほとんど最古レベルのご商売である。
その辺のどんな職業よりも古くから続いているとさえ言える。
それがネット上にも拡がっていて、ネット上でのノウハウをも蓄積しているとなると、これはなかなか侮れるものでない。
「夢」による「お告げ」などは昔々の日本ではめずらしくもない。それどころか、「夢」が自らの行動や立場の正統性を保証することさえある。
聖徳太子が建てた「夢殿」はまさにそれ。「夢」が縁起になった建造物を、現代の僕たちは目のあたりにしている。
聖徳太子の「夢」はわかりやすい一例だが、聖徳太子以前にも、以降にも、歴史上の重要人物には「夢」にまつわる話がマストと言わんばかりにで、とにかく必須。
偉い人であるならば、「夢」でお告げを受けるなんてことは、あってあたりまえなのだ。
平安時代の文学、物語にあっても、「夢」は並べて重要な「しるし」として捉えられる。
「源氏物語」しかり、「伊勢物語」しかり、「蜻蛉日記」しかり。枚挙にいとまがない。
今、僕の念頭にあるのは「更級日記」なんだけど、ところどころで筆者の菅原孝標女が見る「夢」の話こそ、実はこの作品を書かしめるに至った動機、理由なんじゃないか?と睨んでいる。
「夢」はともすると核心めいていて、決して軽く扱われてよいものではない。
「旧約聖書」では「夢」によって示されたという記述を山のように見つけることができる。
「夢」を読み解くことで、国の未来を左右する。
ヤコブは「夢」で天の梯子を登り降りする天使たちを見て、自らの子孫たちの国を神により約束される。
ヨセフはファラオの「夢」を読み解いて、国の宰相となった。
ダニエルはネブカドネザル王の「夢」を解き明かし、王はダニエルにひざまずいた。
大預言者は「夢」を読み解く者でもあった。
預言はともかくとしても。
僕の感想では、「人間」にとって「夢」はかなり重要な要素。
これを敢えて説明するのであれば、少なくとも当事者に「経験」と同等の感覚を与え得るという「実感」について語らなければならない。
時に、「夢」が実体験以上の「体験」を与えることがあると( ・ิω・ิ)b
「夢」が無意識に影響を与えるか?はたまた無意識が「夢」を見させるのか?だが、そうした「夢」の生成の過程よりは、「夢」が意識にまでのぼってきてしまうこと、僕にとってはこれが問題なのだ。
現代社会においては、「夢」で見たこと、体験したことが「社会的」に「実際にあった」として認められるはずもない。「夢」はそういう「社会的扱い」によって、「社会的」に切り離されている。逆説的に、「夢」の「社会性」はそんなところにあらわれる。現代において「夢」は「社会的」に「有意」に扱ってはならない、切り離しておくべき事柄なのだ。
だが、「夢」は純粋に個人的なものだろうか?そもそも「個人的」という括りがはじめから「社会性」を帯びているわけだが、「夢」がもたらすであろう「イメージ」が「社会性」から完全に隔離された、まったく完璧に「個人的」なものであると言うことは、かなり難しい。
その逆なら?
むしろ、逆の方が考えやすい。
そもそも、「夢」はまったく「個人的」な領域にあるものなのだろうか?
「夢」がまったく「個人的」なものとして現出するには、それこそ別種の虚構を必要とするのではないか?
ある種の「社会性」があるからこそ、人は「夢」の「イメージ」に意味を見出そうとする。
「夢判断」は、結局のところ、「夢」を見たその人がどういった文化圏の、どの地域の、どういった「社会的立場」にいるのかによって大きく左右されるのだから、これは完全に「文化的背景」を前提としている。それがすべてではないにしても、「カルチャーコード」が大きな前提にある。
その意味では、まったく個人的な「イメージ」というのは、論理的にあり得るとしても、それと認識することがそもそも困難な「イメージ」であるはずなのだ。「イメージ」は「意味」に近い。個人的な「意味」というものを完全に創出することができたとして、それが真に「個人的」であったとしたら、他人は、社会は、そこからどうやって「意味」を取り出せるのか?
「個人的」な「イメージ」というある種の純粋性は、普通は別の言葉で語られる。「潜在的」というのは、別の誰かが、あるいは社会が、言うなれば「カルチャーコード」が、そこに「意味」を見出すまでの時間的な遅れを呼ぶ呼び名にさえ聞こえる。
「夢」の「社会性」。
フロイトの「夢判断」だって、「夢」にあらわれる様々な要素を整理しようとしたものなのだから、様々な「社会的要素」の中に「宗教」を大きな前提として見たのは当然だ。
「現代」において、あるいは「フロイト以降」、「夢」は解剖学的にさんざん切り刻まれてきたわけだが、どうかとすると、そのフロイト的分析の態度は「夢」の詳細にいたるまでの「社会的要素」、「宗教的要素」、その他諸々の「カルチャーコード」の再定義にあるような気がする。「社会」から「夢」を引き剥がし、「個人」を別のシステム、別の目的につけかえる。
だが、ここでの関心はそこにはない。
「夢」が「意味」すること、これがそもそも「社会的」であるという前提は「夢」の「条件」なのであり、今も昔も変わりようがないリアリティであると、このことを確認しておきたいのだ。
「よい夢を見たので、大盤振る舞いする!」とか、そういうことはあってもよいな(*´ω`*)♪
よい夢によって、よいことが社会に還元されるとか。
「悪い夢を見たので会社を休みます!」とか言われたら、「こいつ、なに考えとんじゃΣ(゚∀゚ノ)ノ」くらいのリアクションはする(^o^;)
そんなこと、今どき言う人はまずいないとは思うけれども(^o^;)
悪い夢が社会に還元されるとか、あってほしくないけど、悪夢の方が人に行動を促すような気がしないでもない( ・ั﹏・ั)
今日の行動の理由が夕べ見た「夢」による?となると、これは現代の社会通念上、あんまり都合がよいことにはならないのかも(^o^;)
だけど、みんながみんな、見た「夢」を素直に語るということは、そもそもあり得ない。自己申告の義務はないし。誰かが「夢」に基づいて行動しているとして、他人がそれを見抜けるか?というと、それはちょっと難しい。その人を見ただけで判別できるものでもないし。
つまりは、その人の行動原理が「夢」によるものではないと、客観的に判断できる材料など、何ひとつないのだ。
「夢」の話というのは、現代においては「夢判断」とか、「夢占い」の材料になるかな?というくらいで、それ以外には取り立てて意味を成すことはないのかも知れない。
しかし、この領域がやたらと広大なことになっていて。
ネット上には、夢に見たいろいろについて、その意味を呆れるほど詳細に解説してくれる夢占いが、おそろしくたくさん存在する。
たくさんあるのには需要以上に、構造的理由があるかも知れない。「夢」を典型や類例に分けて説明することはとりあえずは可能なのだろうけど、見た「夢」が典型通りそのまんまということはまずない。同じモチーフが登場しても、シーンによって、その登場の仕方によって、意味がかなり違ってくるということなので、バリエーションが無数に、無限に生まれてしまう。そうなると、ネットの丁寧過ぎる説明も、なんだか分かったような、分からないような。。。(*‘ω‘ *)
やや混乱した状態に(^o^;)
結局のところ、自分では判断不能に陥るので、「夢」は専門家による有料の個人鑑定で!っていう誘導がその先に待っている。
お、おそろしい((((;゚Д゚))))
いやはや(^o^;)
いろんなご商売があるものですな(^ω^ゞ
もっとも、よくよく考えてみると、「夢」を読み解くというのは、昔々からずっと続いてきた、あやしいながらも、「由緒正しき」お仕事、ほとんど最古レベルのご商売である。
その辺のどんな職業よりも古くから続いているとさえ言える。
それがネット上にも拡がっていて、ネット上でのノウハウをも蓄積しているとなると、これはなかなか侮れるものでない。
「夢」による「お告げ」などは昔々の日本ではめずらしくもない。それどころか、「夢」が自らの行動や立場の正統性を保証することさえある。
聖徳太子が建てた「夢殿」はまさにそれ。「夢」が縁起になった建造物を、現代の僕たちは目のあたりにしている。
聖徳太子の「夢」はわかりやすい一例だが、聖徳太子以前にも、以降にも、歴史上の重要人物には「夢」にまつわる話がマストと言わんばかりにで、とにかく必須。
偉い人であるならば、「夢」でお告げを受けるなんてことは、あってあたりまえなのだ。
平安時代の文学、物語にあっても、「夢」は並べて重要な「しるし」として捉えられる。
「源氏物語」しかり、「伊勢物語」しかり、「蜻蛉日記」しかり。枚挙にいとまがない。
今、僕の念頭にあるのは「更級日記」なんだけど、ところどころで筆者の菅原孝標女が見る「夢」の話こそ、実はこの作品を書かしめるに至った動機、理由なんじゃないか?と睨んでいる。
「夢」はともすると核心めいていて、決して軽く扱われてよいものではない。
「旧約聖書」では「夢」によって示されたという記述を山のように見つけることができる。
「夢」を読み解くことで、国の未来を左右する。
ヤコブは「夢」で天の梯子を登り降りする天使たちを見て、自らの子孫たちの国を神により約束される。
ヨセフはファラオの「夢」を読み解いて、国の宰相となった。
ダニエルはネブカドネザル王の「夢」を解き明かし、王はダニエルにひざまずいた。
大預言者は「夢」を読み解く者でもあった。
預言はともかくとしても。
僕の感想では、「人間」にとって「夢」はかなり重要な要素。
これを敢えて説明するのであれば、少なくとも当事者に「経験」と同等の感覚を与え得るという「実感」について語らなければならない。
時に、「夢」が実体験以上の「体験」を与えることがあると( ・ิω・ิ)b
「夢」が無意識に影響を与えるか?はたまた無意識が「夢」を見させるのか?だが、そうした「夢」の生成の過程よりは、「夢」が意識にまでのぼってきてしまうこと、僕にとってはこれが問題なのだ。
現代社会においては、「夢」で見たこと、体験したことが「社会的」に「実際にあった」として認められるはずもない。「夢」はそういう「社会的扱い」によって、「社会的」に切り離されている。逆説的に、「夢」の「社会性」はそんなところにあらわれる。現代において「夢」は「社会的」に「有意」に扱ってはならない、切り離しておくべき事柄なのだ。
だが、「夢」は純粋に個人的なものだろうか?そもそも「個人的」という括りがはじめから「社会性」を帯びているわけだが、「夢」がもたらすであろう「イメージ」が「社会性」から完全に隔離された、まったく完璧に「個人的」なものであると言うことは、かなり難しい。
その逆なら?
むしろ、逆の方が考えやすい。
そもそも、「夢」はまったく「個人的」な領域にあるものなのだろうか?
「夢」がまったく「個人的」なものとして現出するには、それこそ別種の虚構を必要とするのではないか?
ある種の「社会性」があるからこそ、人は「夢」の「イメージ」に意味を見出そうとする。
「夢判断」は、結局のところ、「夢」を見たその人がどういった文化圏の、どの地域の、どういった「社会的立場」にいるのかによって大きく左右されるのだから、これは完全に「文化的背景」を前提としている。それがすべてではないにしても、「カルチャーコード」が大きな前提にある。
その意味では、まったく個人的な「イメージ」というのは、論理的にあり得るとしても、それと認識することがそもそも困難な「イメージ」であるはずなのだ。「イメージ」は「意味」に近い。個人的な「意味」というものを完全に創出することができたとして、それが真に「個人的」であったとしたら、他人は、社会は、そこからどうやって「意味」を取り出せるのか?
「個人的」な「イメージ」というある種の純粋性は、普通は別の言葉で語られる。「潜在的」というのは、別の誰かが、あるいは社会が、言うなれば「カルチャーコード」が、そこに「意味」を見出すまでの時間的な遅れを呼ぶ呼び名にさえ聞こえる。
「夢」の「社会性」。
フロイトの「夢判断」だって、「夢」にあらわれる様々な要素を整理しようとしたものなのだから、様々な「社会的要素」の中に「宗教」を大きな前提として見たのは当然だ。
「現代」において、あるいは「フロイト以降」、「夢」は解剖学的にさんざん切り刻まれてきたわけだが、どうかとすると、そのフロイト的分析の態度は「夢」の詳細にいたるまでの「社会的要素」、「宗教的要素」、その他諸々の「カルチャーコード」の再定義にあるような気がする。「社会」から「夢」を引き剥がし、「個人」を別のシステム、別の目的につけかえる。
だが、ここでの関心はそこにはない。
「夢」が「意味」すること、これがそもそも「社会的」であるという前提は「夢」の「条件」なのであり、今も昔も変わりようがないリアリティであると、このことを確認しておきたいのだ。