本日の散歩ルートは以下の通り。
ルート1:京王多摩センター駅~パルテノン多摩~京王多摩センター駅
ルート2:京王永山駅~ころがっと坂~沓切坂~霞ノ関南木戸柵跡~無名戦士の墓~関戸古戦場跡~阿弥陀三尊来迎板碑~町名由来碑(多摩市関戸)~デザインマンホール蓋(ラスカル3種類)~山の婆坂~へっぴり坂~京王永山駅
10:40頃、京王多摩センター駅へ到着。
ここでの目的地は、駅から南南東方向、直線距離約430m先にある「パルテノン多摩」です。
10:45頃の到着しました。
コンサートホールや市民ギャラリー等からなる複合施設です。
ここの一般公開されている区画に、多摩地区関連の資料や書籍が置かれているようなので、
散歩のネタ探しを兼ねて寄ってみました。
その中にあった、市制施行20周を記念して発行された「多摩市の町名」という本に幾つか興味を惹かれる記述があったので、
この後の散歩予定を少し変更して、巡ってみる事にしました。
11:45頃に施設を退館し、一旦京王多摩センター駅まで戻ります。
京王線に乗って隣りの京王永山駅へ。
12:00頃に京王永山駅へ到着しました。
まずは駅から北北西方向、直線距離約600m先の地点を目指します。
12:10頃に到着。
写真の坂は、昔「ころがっと坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂下から。右側写真は坂上から)
関所で捕らえた罪人を乞田川近くの処刑場へ連れて行くところ、
川近くのこの辺りで罪人がなかなか進もうとしなくなったため、
転がすように引きずって行った、という話が残っているとの事でした。
次の目的地は、坂を上ったところから北東方向、直線距離約220mの地点です。
途中で多摩市役所の前を横切る際に、史跡案内柱「古市場」がありました。
戦国時代、この付近で市が開かれていたとの記録が残っているそうです。
また、その先では「鎌倉古道」である事を示す標識が設けられていました。
12:20頃、目的地へ到着。
写真の坂は、昔「沓切坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂上から。右側写真は坂下から、右手へ上る道)
鎌倉時代末期、新田義貞(または子の義興)が鎌倉討ち入りでこの急坂を登る時に、
馬の沓が切れた事に由来する、との事でした。
次の目的地は、坂を下った所から北北東方向、直線距離約210m先にある「霞ノ関南木戸柵跡」です。
12:30頃到着しました。
昨年8月21日の散歩で訪れた際にも書いておりますが、
熊野神社の参道脇に残る、鎌倉時代の関所の柵跡です。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約340m先の「無名戦士の墓」です。
12:40頃到着しました。
鎌倉時代後期に起きた「関戸合戦」の際に亡くなった戦士の無縁仏です。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約260m先の「関戸古戦場跡」です。
移動途中、酒屋「小山商店」を見かけました。(本日は定休日でした)
老舗っぽい店構えだったので帰宅後に調べたところ、
地元だけではなく全国的にも有名な酒屋のようですね。
大正三年に創業し、全国から選りすぐった日本酒、焼酎、ワインなど常時1000種類を超える商品を販売しているようです。
12:45頃、目的地へ到着しました。
関戸地区のこの近辺は、北条泰家率いる鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍との間で行われた合戦の跡地とされています。
「分倍河原の戦い」で勝利した反幕府勢は多摩川を越え、この関戸で幕府軍を追撃。
幕府軍は敗退して多くの犠牲者を出しつつ大将は鎌倉に逃げ戻りますが、
この関戸の戦いから数日後に鎌倉幕府は滅亡したそうです。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約200m先の「阿弥陀三尊来迎板碑」です。
移動途中、大栗川を越えた先にある駐車場近辺で、石塔を見かけました。
気になったので帰宅後に調べたところ、「刻経塔」という石塔のようでした。
正面には「南無観世音菩薩」と刻まれていて、
右側に「右 ふちゅう」、左側に「左 八おうじ」とあり、道標の役割も果たしていたようです。
12:50少し過ぎ頃に目的地へ到着しました。
かつてこの場所には鎌倉時代末期に造立された供養塔があったようですが、
現在は多摩市教育委員会が所蔵しているようです。
次の目的地は、北西方向、直線距離約270m先にある「関戸の町名由来碑」です。
13:00頃到着しました。
由来碑は「九頭龍公園」の川崎街道側の入口に設置されています。
「関戸」の名の由来は、かつてこの地に関所が設置されていた事によります。
ここまで史跡巡りをして来ましたが、ここから少しの間は趣向を変えて、
聖蹟桜ヶ丘駅近辺のデザインマンホール蓋巡りとなります。
「日本アニメーション」の本社が多摩市内にある縁から、
「あらいぐまラスカル」がデザインされたマンホール蓋が、
駅周辺に三種類、五か所に設置されています。
まず最初は、駅から北北東方向、直線距離約100m先にあるマンホール蓋です。
通称「さくらラスカル」。
「聖蹟桜ヶ丘SCせいせきC館」の手前、「京王電鉄」の本社に近い辺りの歩道上に設置されています。
次は、駅から南南東方向、直線距離約100m先にあるマンホール蓋です。
通称「いちょうラスカル」。
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の1Fに入居している「石坂商事」近辺の階段傍に設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約130m先のマンホール蓋です。
こちらも「いちょうラスカル」です。
「さくら通り」に面した歩道上で、
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の地下の食品売り場へ降りる階段への入口近くに設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約170m先のマンホール蓋です。
こちらは「さくらラスカル」です。
「さくら通り」に面した歩道上で、
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の1Fに入居している薬局前の横断歩道近くに設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約550m先にあるマンホール蓋です。
通称「おさんぽラスカル」です。
「いろは坂通り」の途中、「いろは坂桜公園」の手前の階段前に設置されています。
デザインマンホール蓋巡りはここまで。
再び元の趣向に戻り、次の目的地を目指します。
次の目的地は、いろは坂から西北西方向、直線距離約450m先の地点となります。
13:45頃に到着しました。
写真の坂は、昔「山の婆坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂下から。右側写真は坂の上から、右手へ下る道)
大栗川に架かる「東寺方橋」から「東寺方小学校」を右手に見るように進んだ先の坂です。
昔、左側の山の中に「山の婆ア」と呼ばれる老婆が住んでいた。
老婆は大層不気味な容姿(お歯黒で口は耳まで裂け、身の丈は六尺)をしており、
大きなザルを手に小豆を洗っていたというが、
その様を人に見られると、相手の頭にそのザルをかぶせて捕らえた後に、
食べてしまうと言われ、付近の人はこの坂を恐れたという、という話が伝わっているそうです。
次の目的地は、西方向、直線距離約80m先の地点となります。
13:50頃到着しました。
写真の坂は、昔「へっぴり坂」と呼ばれていたそうです。
先ほどの坂から乞田東寺方線(都道157号線)を挟んで、
ほぼ反対側の路地の先の坂です。
昔、この坂があまりに急なため、荷車を引いて上る時には力を入れて気張る必要があった。
ある時、気張ったあまり大きな「屁」が出てしまい、辺りにこだまする程だったので、
この名で呼ばれるようになった、という話が伝わっているそうです。
これで本日の目的地は全て巡り終えたため、
南南東方向、直線距離約1.9km先の京王永山駅を目指します。
14:35少し過ぎ頃に駅へ到着しました。
本日の散歩は以上です。
ルート1:京王多摩センター駅~パルテノン多摩~京王多摩センター駅
ルート2:京王永山駅~ころがっと坂~沓切坂~霞ノ関南木戸柵跡~無名戦士の墓~関戸古戦場跡~阿弥陀三尊来迎板碑~町名由来碑(多摩市関戸)~デザインマンホール蓋(ラスカル3種類)~山の婆坂~へっぴり坂~京王永山駅
10:40頃、京王多摩センター駅へ到着。
ここでの目的地は、駅から南南東方向、直線距離約430m先にある「パルテノン多摩」です。
10:45頃の到着しました。
コンサートホールや市民ギャラリー等からなる複合施設です。
ここの一般公開されている区画に、多摩地区関連の資料や書籍が置かれているようなので、
散歩のネタ探しを兼ねて寄ってみました。
その中にあった、市制施行20周を記念して発行された「多摩市の町名」という本に幾つか興味を惹かれる記述があったので、
この後の散歩予定を少し変更して、巡ってみる事にしました。
11:45頃に施設を退館し、一旦京王多摩センター駅まで戻ります。
京王線に乗って隣りの京王永山駅へ。
12:00頃に京王永山駅へ到着しました。
まずは駅から北北西方向、直線距離約600m先の地点を目指します。
12:10頃に到着。
写真の坂は、昔「ころがっと坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂下から。右側写真は坂上から)
関所で捕らえた罪人を乞田川近くの処刑場へ連れて行くところ、
川近くのこの辺りで罪人がなかなか進もうとしなくなったため、
転がすように引きずって行った、という話が残っているとの事でした。
次の目的地は、坂を上ったところから北東方向、直線距離約220mの地点です。
途中で多摩市役所の前を横切る際に、史跡案内柱「古市場」がありました。
戦国時代、この付近で市が開かれていたとの記録が残っているそうです。
また、その先では「鎌倉古道」である事を示す標識が設けられていました。
12:20頃、目的地へ到着。
写真の坂は、昔「沓切坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂上から。右側写真は坂下から、右手へ上る道)
鎌倉時代末期、新田義貞(または子の義興)が鎌倉討ち入りでこの急坂を登る時に、
馬の沓が切れた事に由来する、との事でした。
次の目的地は、坂を下った所から北北東方向、直線距離約210m先にある「霞ノ関南木戸柵跡」です。
12:30頃到着しました。
昨年8月21日の散歩で訪れた際にも書いておりますが、
熊野神社の参道脇に残る、鎌倉時代の関所の柵跡です。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約340m先の「無名戦士の墓」です。
12:40頃到着しました。
鎌倉時代後期に起きた「関戸合戦」の際に亡くなった戦士の無縁仏です。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約260m先の「関戸古戦場跡」です。
移動途中、酒屋「小山商店」を見かけました。(本日は定休日でした)
老舗っぽい店構えだったので帰宅後に調べたところ、
地元だけではなく全国的にも有名な酒屋のようですね。
大正三年に創業し、全国から選りすぐった日本酒、焼酎、ワインなど常時1000種類を超える商品を販売しているようです。
12:45頃、目的地へ到着しました。
関戸地区のこの近辺は、北条泰家率いる鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍との間で行われた合戦の跡地とされています。
「分倍河原の戦い」で勝利した反幕府勢は多摩川を越え、この関戸で幕府軍を追撃。
幕府軍は敗退して多くの犠牲者を出しつつ大将は鎌倉に逃げ戻りますが、
この関戸の戦いから数日後に鎌倉幕府は滅亡したそうです。
次の目的地は、北北東方向、直線距離約200m先の「阿弥陀三尊来迎板碑」です。
移動途中、大栗川を越えた先にある駐車場近辺で、石塔を見かけました。
気になったので帰宅後に調べたところ、「刻経塔」という石塔のようでした。
正面には「南無観世音菩薩」と刻まれていて、
右側に「右 ふちゅう」、左側に「左 八おうじ」とあり、道標の役割も果たしていたようです。
12:50少し過ぎ頃に目的地へ到着しました。
かつてこの場所には鎌倉時代末期に造立された供養塔があったようですが、
現在は多摩市教育委員会が所蔵しているようです。
次の目的地は、北西方向、直線距離約270m先にある「関戸の町名由来碑」です。
13:00頃到着しました。
由来碑は「九頭龍公園」の川崎街道側の入口に設置されています。
「関戸」の名の由来は、かつてこの地に関所が設置されていた事によります。
ここまで史跡巡りをして来ましたが、ここから少しの間は趣向を変えて、
聖蹟桜ヶ丘駅近辺のデザインマンホール蓋巡りとなります。
「日本アニメーション」の本社が多摩市内にある縁から、
「あらいぐまラスカル」がデザインされたマンホール蓋が、
駅周辺に三種類、五か所に設置されています。
まず最初は、駅から北北東方向、直線距離約100m先にあるマンホール蓋です。
通称「さくらラスカル」。
「聖蹟桜ヶ丘SCせいせきC館」の手前、「京王電鉄」の本社に近い辺りの歩道上に設置されています。
次は、駅から南南東方向、直線距離約100m先にあるマンホール蓋です。
通称「いちょうラスカル」。
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の1Fに入居している「石坂商事」近辺の階段傍に設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約130m先のマンホール蓋です。
こちらも「いちょうラスカル」です。
「さくら通り」に面した歩道上で、
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の地下の食品売り場へ降りる階段への入口近くに設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約170m先のマンホール蓋です。
こちらは「さくらラスカル」です。
「さくら通り」に面した歩道上で、
「聖蹟桜ヶ丘オーパ」の1Fに入居している薬局前の横断歩道近くに設置されています。
次は、駅から南南西方向、直線距離約550m先にあるマンホール蓋です。
通称「おさんぽラスカル」です。
「いろは坂通り」の途中、「いろは坂桜公園」の手前の階段前に設置されています。
デザインマンホール蓋巡りはここまで。
再び元の趣向に戻り、次の目的地を目指します。
次の目的地は、いろは坂から西北西方向、直線距離約450m先の地点となります。
13:45頃に到着しました。
写真の坂は、昔「山の婆坂」と呼ばれていたそうです。(左側写真は坂下から。右側写真は坂の上から、右手へ下る道)
大栗川に架かる「東寺方橋」から「東寺方小学校」を右手に見るように進んだ先の坂です。
昔、左側の山の中に「山の婆ア」と呼ばれる老婆が住んでいた。
老婆は大層不気味な容姿(お歯黒で口は耳まで裂け、身の丈は六尺)をしており、
大きなザルを手に小豆を洗っていたというが、
その様を人に見られると、相手の頭にそのザルをかぶせて捕らえた後に、
食べてしまうと言われ、付近の人はこの坂を恐れたという、という話が伝わっているそうです。
次の目的地は、西方向、直線距離約80m先の地点となります。
13:50頃到着しました。
写真の坂は、昔「へっぴり坂」と呼ばれていたそうです。
先ほどの坂から乞田東寺方線(都道157号線)を挟んで、
ほぼ反対側の路地の先の坂です。
昔、この坂があまりに急なため、荷車を引いて上る時には力を入れて気張る必要があった。
ある時、気張ったあまり大きな「屁」が出てしまい、辺りにこだまする程だったので、
この名で呼ばれるようになった、という話が伝わっているそうです。
これで本日の目的地は全て巡り終えたため、
南南東方向、直線距離約1.9km先の京王永山駅を目指します。
14:35少し過ぎ頃に駅へ到着しました。
本日の散歩は以上です。
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