予期せぬ同期のHのリタイヤもあって、小生の練習のモチベーションも高まりました。
『第25回 臙脂の集い』の本番まで、1週間を切るか切らないか…そうですね…10日前くらい前でしょうか…2年生以下の下級生部員は、1日だけ全員「気合」を入れるために、『床屋デー』といわれる「練習を休んで良い日」が与えられます。
そのために練習を休むには、必ず上級生に…
「床屋に出かけるために、練習を休みます。」
と申告しなければなりません。
ですので、練習が辛くて「床屋に行く振り」をしてサボっても、髪型が変わっていなければ当然バレますので、「あまり嬉しくない練習休日」なわけです。
(その代わり、学校近くの床屋でなくても良く、住まい近くの行きつけの床屋でも良かった点は、ある意味「良心的」といえるかもしれません。)
今のご時世はそうでもありませんが、小生達が学生の頃は格好で「気合」を示すには、やはり頭髪を「丸める」ことが手っ取り早かったのです。
今年の『六旗の下に』を観覧なさった読者皆さんなら、いくつかの大学の1年生リーダー部候補の学生が、「丸刈り」としていたと思いますが、まさにあんな感じで、1年生は「絶対に」5分刈り以下に短髪にすることが「義務」でした。
小生は、確か行きつけの床屋で、「3分刈り」にしてもらった記憶があります。
床屋のマスター(現在も、小生の出身で店を経営し続けています)から…
「せっかく伸びてきたのにね…」
と、お声をかけていただきましたが…仕方ありません。3年生には逆らえませんから。
ですが、抵抗はありませんでした。
なぜなら、中学校の校則も、当時は男子は5分刈り以下の「丸刈り」が原則だったからです。
ところが、これが「嫌」で、退部をした部員もいましたね。
2年生の先輩方は、望ましくは「角刈り」だったと思います。
それが嫌であっても、「7・3分けで、ポマードで崩れないように固める」ことが求められていたと思います。
確か、小生の記憶が正しければ、小生を勧誘なさったT先輩は、「角刈り」にして登場なさったと思います。
この辺は、さすがですね。
この頭髪の件…実は当日、凄い展開を迎えます。それは、当日の感動と共にお届けしましょう。
さて、厳しい練習が連日続き、最後の3~4日は、電車通学の部員全員が「最終電車」まで練習していたように記憶しています。
(もちろん、「朝練」もやっていました。)
『臙脂の集い』当日2日前から当日までは、一応、応援指導部は「こんな練習をしています」とか、「こんな応援歌があります」とか、「この応援歌に対しては、こんなテクを駆使します」というようなことを、先日まで自己紹介欄に掲載したモノクロの写真を、自分達や写真部に依頼して撮影&現像していただいて掲載したり、普段応援で使用する道具や、部の「小史」を紹介する展示を行い、展示会場にお見えになったお客様に説明することもするので(その様子は、6月19日のエントリー記事でも紹介しています)、その準備や会場設営もするので、本当に大変だった記憶があります。
今にして思うと、「超人的」な毎日を過ごしていましたが、『臙脂の集い』前日の練習が、本当に凄まじかったです。
ここまで一生懸命練習したのだから、「人事を尽くして天命を待つ」という概念は、応援指導部には全くありません。とにかく、最後まで練習をするのです。
辛くても、苦しくても…。
授業そっちのけで毎日10個程度考えた『余興』から、より面白い…すなわち、当日ご来場いただいたお客様の大多数に「受ける」であろう、披露するモノも10題ほど決まり、『臙脂の集い』で披露する演題全てを通しで練習する、いわゆる「リハーサル」を前日に行います。
披露する『余興』の、本当に細かいところまで厳しく指導なさったのが、第14話で紹介したKT先輩でした。
その指導は、本当に具体的。
「ここは、オーバーにやるべき」とか、「この余興は、普通にやったら面白くないから、こうしろ」とか、本当に演出一つ一つに厳しかったですね。
最後に披露する『余興』は、当時は「伝統」になっていた「バルタン星人」でした。
ウルトラマンのバルタン星人が、「分裂」したり「融合」したりする…あの様を大勢で披露します。
その動き一つ一つにも、本当にKT先輩の「思い入れ」があって、『余興』だけでもとても厳しかった…。
そして、ステージ演技全体を「通し練習」しますが、前日というのに、やっぱり最終電車ギリギリの、夜の23時ちょっと過ぎまで練習していました。
前日は、母校の文化祭の1日目と重なりますから、ステージが空くのが16時ごろ。
そこからぶっ通しですから、7時間は練習していたことになります。
照明の当て方から、全てのチェック…もちろん、テクの出来・不出来や、気合の入り方までも対象ですから、本当に小生達1年生にとっては「地獄」でした。
そんな中、心臓に持病を抱える同期(結局、後に退部しますが…)が、倒れました。
当日は、その「倒れ方」からステージに立つことは難しいだろうとさえ思われました…。
そんな状況です。逃げ出したい気持ちに駆られて当然かもしれませんが、小生は「この年」は、不思議と体力の消耗度は小さかったかもしれません。
食らい付いて、最後まで練習をこなし、最終電車で帰宅して、翌日の『臙脂の集い』当日も、6時40分ごろには、平然と部室にいたと思います。
凄い「気合」…いや、「気力」と「意地」だったと思います。
今にして思うと、やっぱり、53番との「約束」と、TSさんが、ひょっとしたら当日観に来てくれるのではないか…という「期待」が、小生をそうさせたのかもしれません。
(6月に文化祭を開催する高校は、小生の母校のほかにもう1校しかなく、しかもその1校は男女共学校なので、当時も現在も、毎年近隣女子校の生徒が大挙して母校に訪れるのです。TSさんは、小生の母校に近い女子校に通っていましたから…密かにそれを願っていたのです。)
そして、いよいよ3年生幹部の引退の花道となる『臙脂の集い』当日を迎えたのです。
次回は、いよいよ『第25回 臙脂の集い』当日の「感動」をお伝えします。
お楽しみに。
(次回に続く)
『第25回 臙脂の集い』の本番まで、1週間を切るか切らないか…そうですね…10日前くらい前でしょうか…2年生以下の下級生部員は、1日だけ全員「気合」を入れるために、『床屋デー』といわれる「練習を休んで良い日」が与えられます。
そのために練習を休むには、必ず上級生に…
「床屋に出かけるために、練習を休みます。」
と申告しなければなりません。
ですので、練習が辛くて「床屋に行く振り」をしてサボっても、髪型が変わっていなければ当然バレますので、「あまり嬉しくない練習休日」なわけです。
(その代わり、学校近くの床屋でなくても良く、住まい近くの行きつけの床屋でも良かった点は、ある意味「良心的」といえるかもしれません。)
今のご時世はそうでもありませんが、小生達が学生の頃は格好で「気合」を示すには、やはり頭髪を「丸める」ことが手っ取り早かったのです。
今年の『六旗の下に』を観覧なさった読者皆さんなら、いくつかの大学の1年生リーダー部候補の学生が、「丸刈り」としていたと思いますが、まさにあんな感じで、1年生は「絶対に」5分刈り以下に短髪にすることが「義務」でした。
小生は、確か行きつけの床屋で、「3分刈り」にしてもらった記憶があります。
床屋のマスター(現在も、小生の出身で店を経営し続けています)から…
「せっかく伸びてきたのにね…」
と、お声をかけていただきましたが…仕方ありません。3年生には逆らえませんから。
ですが、抵抗はありませんでした。
なぜなら、中学校の校則も、当時は男子は5分刈り以下の「丸刈り」が原則だったからです。
ところが、これが「嫌」で、退部をした部員もいましたね。
2年生の先輩方は、望ましくは「角刈り」だったと思います。
それが嫌であっても、「7・3分けで、ポマードで崩れないように固める」ことが求められていたと思います。
確か、小生の記憶が正しければ、小生を勧誘なさったT先輩は、「角刈り」にして登場なさったと思います。
この辺は、さすがですね。
この頭髪の件…実は当日、凄い展開を迎えます。それは、当日の感動と共にお届けしましょう。
さて、厳しい練習が連日続き、最後の3~4日は、電車通学の部員全員が「最終電車」まで練習していたように記憶しています。
(もちろん、「朝練」もやっていました。)
『臙脂の集い』当日2日前から当日までは、一応、応援指導部は「こんな練習をしています」とか、「こんな応援歌があります」とか、「この応援歌に対しては、こんなテクを駆使します」というようなことを、先日まで自己紹介欄に掲載したモノクロの写真を、自分達や写真部に依頼して撮影&現像していただいて掲載したり、普段応援で使用する道具や、部の「小史」を紹介する展示を行い、展示会場にお見えになったお客様に説明することもするので(その様子は、6月19日のエントリー記事でも紹介しています)、その準備や会場設営もするので、本当に大変だった記憶があります。
今にして思うと、「超人的」な毎日を過ごしていましたが、『臙脂の集い』前日の練習が、本当に凄まじかったです。
ここまで一生懸命練習したのだから、「人事を尽くして天命を待つ」という概念は、応援指導部には全くありません。とにかく、最後まで練習をするのです。
辛くても、苦しくても…。
授業そっちのけで毎日10個程度考えた『余興』から、より面白い…すなわち、当日ご来場いただいたお客様の大多数に「受ける」であろう、披露するモノも10題ほど決まり、『臙脂の集い』で披露する演題全てを通しで練習する、いわゆる「リハーサル」を前日に行います。
披露する『余興』の、本当に細かいところまで厳しく指導なさったのが、第14話で紹介したKT先輩でした。
その指導は、本当に具体的。
「ここは、オーバーにやるべき」とか、「この余興は、普通にやったら面白くないから、こうしろ」とか、本当に演出一つ一つに厳しかったですね。
最後に披露する『余興』は、当時は「伝統」になっていた「バルタン星人」でした。
ウルトラマンのバルタン星人が、「分裂」したり「融合」したりする…あの様を大勢で披露します。
その動き一つ一つにも、本当にKT先輩の「思い入れ」があって、『余興』だけでもとても厳しかった…。
そして、ステージ演技全体を「通し練習」しますが、前日というのに、やっぱり最終電車ギリギリの、夜の23時ちょっと過ぎまで練習していました。
前日は、母校の文化祭の1日目と重なりますから、ステージが空くのが16時ごろ。
そこからぶっ通しですから、7時間は練習していたことになります。
照明の当て方から、全てのチェック…もちろん、テクの出来・不出来や、気合の入り方までも対象ですから、本当に小生達1年生にとっては「地獄」でした。
そんな中、心臓に持病を抱える同期(結局、後に退部しますが…)が、倒れました。
当日は、その「倒れ方」からステージに立つことは難しいだろうとさえ思われました…。
そんな状況です。逃げ出したい気持ちに駆られて当然かもしれませんが、小生は「この年」は、不思議と体力の消耗度は小さかったかもしれません。
食らい付いて、最後まで練習をこなし、最終電車で帰宅して、翌日の『臙脂の集い』当日も、6時40分ごろには、平然と部室にいたと思います。
凄い「気合」…いや、「気力」と「意地」だったと思います。
今にして思うと、やっぱり、53番との「約束」と、TSさんが、ひょっとしたら当日観に来てくれるのではないか…という「期待」が、小生をそうさせたのかもしれません。
(6月に文化祭を開催する高校は、小生の母校のほかにもう1校しかなく、しかもその1校は男女共学校なので、当時も現在も、毎年近隣女子校の生徒が大挙して母校に訪れるのです。TSさんは、小生の母校に近い女子校に通っていましたから…密かにそれを願っていたのです。)
そして、いよいよ3年生幹部の引退の花道となる『臙脂の集い』当日を迎えたのです。
次回は、いよいよ『第25回 臙脂の集い』当日の「感動」をお伝えします。
お楽しみに。
(次回に続く)