ノーベル文学賞2016の続きですが、川崎大助という人がボブ・ディランがノーベル文学賞をとった「当然の理由」(2016/10/17)で授賞に好意的な見解を4ページに渡って述べています。
そしてその3ページ目でおもしろいことを書いています。
--------引用開始-------------------
たとえば、スマートフォン、タブレット端末などで、人は日常的にテキストを読む。音楽を聴く。動画も見る。ということは、往々にして、以下のような状況となることがあるに違いない。
電子書籍を読みながら、そのバックグラウンドで「音楽」を流す。それが現代のポップ音楽だったら、歌詞があることが多い。だから目で文字を追う。耳で「言葉と楽器の音」を聴く。これをまったく同時に、一切のストレスなく、ひとつのデバイスから享受することができるようになったのが、現代だ。
そこには「印刷された文字のような」テキストがあり、「まるで目の前でだれかが歌っているかのような」音声で開陳されていく歌詞もある。動画だってある。そして言うまでもなく、「こんな環境で」言葉を受け取ることが普通の日常となったのは、人類史上、いまが最初だ。
そして、この環境において初めて「書かれた言葉」と「音声としての言葉」が、真の意味で等価に近づいた――いや、等価へと「戻った」とも言えるのではないか。遠くギリシャの時代の、たとえば詩と歴史書の関係のように。
もしかしたら我々は、文化史的にとてつもなく大きな曲がり角に差し掛かっているのかもしれない、ということを端的に告げる画期的な顕彰が、今回のディランだったのだと僕は考える。そしてこの大胆な顕彰は、その判断は、圧倒的に、正しい。
--------引用終り-------------------
ここで古代ギリシャでは「書かれた言葉」と「音声としての言葉」が等価だったことが述べられています。ここでは「詩と歴史書の関係」として述べられていますが、実は哲学(当時は数学や自然科学も含む)でもそうだったらしいのです。いや等価どころか、話言葉の方が優位にあったということが、納富信留『ソフィストとは誰か?』[Ref-1]8章:言葉の両義性(p288-340)に紹介されています。これは、書き物はほとんど残さなかったものの当時は高名なソフィストとして知られていたアルキダマスについて述べた章です。
-----引用開始-P307------
アルキダマスというソフィストの活動を再考することは、古代における知的活動の忘却された側面を照らし出すことである。それは、プラトンや、別の意味ではイソクラテスら、表舞台で光に当たってきた思想家たちの伝統を、影の側から反省することでもある。
この作業は、ホメロス以来、古代ギリシアにおける伝統的な「語り言葉」の重視と、新たに勃興した「書き言葉」という知的活動との間の緊張を問題にする。古典期のギリシア社会においても、「語り言葉」が絶対的な優位を占めていたことは、言うまでもない。そもそも「言葉」(ロゴス)という語は「語る」(レゲイン)の名詞形であり、「書く」の分詞からなる「書かれた言葉」(グラフトス・ロゴス)に先立つ。しかし、その古典期から「書き言葉」は次第に文化の中心となっていく。二種の言葉が実際にどのような緊張関係にあったかは、状況から推定するほかない。しかし、アルキダマスの「ソフィストについて』という論考は、まさにこの対立を直接に取り上げた、時代の証言なのである。
-----引用終り---------
このようにアルキダマスは書くことに対する語ることの優位性を主張しているのですが、その内容をよく表している文章をいくつか示します[p310-315][Ref-2]。
以下の1)-3)では書くことは語ることより容易であり、それゆえ語る能力を持つ者の方が書くことしかできない者よりも優れているのだと主張しています。
1)「ソフィストと呼ばれる人々の一部は、探究と教養を怠り、語る能力には素人と同様に無経験でありながら、言論を書くことには訓練を積んできていて、本をつうじて自身の知恵を示すことで重々しく振舞い、自負を持っている」
2) 書くことは、多くの時間をかけて修正を加え、先行例を収集して真似できるため、素人にさえ容易な、ありふれた営みである。他方で、時宜に応じてその場で適切な考えを言葉に組み立てることは、長い訓練が必要な困難なことである。
3) 言論を書くことに従事する人は、いくつかの重大な欠陥を避けられない。まず、書かれた書物なしに知恵を示すことができない。次に、そのような人は、主題が提示されても直ちには語ることができない。書く訓練は語ることを邪魔するからであり、書くことに専従する人は、語る能力を欠くからである。最後に、書くというゆっくりした知的作業に慣れた人は、語るという素早い知性の働きの要求に対して、すぐに行き詰まってしまう。
以下の4)-6)では語ることの方が実際に役立つと述べています。
4) 議会での演説、法延での論争や、私的なつきあいの場で何よりも必要なのは「時宜」(カイロス)に適うことである。
5) 書き物は精確な記憶を必要とし、それを語る場で忘却すると変更が難しく、重大な問題を引き起こす。これに対して、即興的な言論は「アイデア」(エンテユメーマ)への集中が核となる。少ない数の「アイデア」を習得しておけば、多彩な言辞を用いてそれを一度に明示できるからである。その場合、失念はあまり大きな問題とはならず、つねに柔軟な対応が可能なのである。
6) 即興的に語る人の特長は、聴衆の欲求に合わせた言論を提供できることにある。反対に、書き物に依存する語り手は、実際の欲求より長すぎたり、短すぎる言論を与えてしまう。事前にそれらを精確に予測することは、不可能であるから。また、そのような人は、時宜や状況に応じて新しい考えを用いることに失敗し、それらを調和ある秩序に置くことも出来ない。
むろん以上のことを彼は書き残しているのですが、それは語ることができる者には書くこともできると示すために書いたのだと述べています。というわけでアルキマダスの書き残した史料はプラトンなどに比べると非常に少なく、納富信留は「忘れられたソフィスト」と呼んでいます。
古代ギリシャで書くことが低く見られた要因のひとつに、ギリシャ文字が少数のアルファベットだけで間に合い容易に習得できるものだったことがあります。それに対してエジプトのヒエログラフや漢字は文字数が多く習得が大変なので、書くことは知的エリートの専有物になってしまったというわけです。
-----引用開始-P321------
ヨーロッパにおいて古代ギリシアが初めてアルファベットを導入し、それを用いた「書き物」の文化を打ち立てた。しかし、このことは、ギリシア文明が「語る」能力を「書く」能力よりも重視していたことと矛盾しない。書く営みは、つねに従属的な意義しか持たず、おもに奴隷や下僕の仕事とされた。この特徴は、オリエントの先進文明と比べると際立つ。エジプトの神聖文字やメソポタミアの模形文字は、「書記」や「神官」といった社会的に高い身分の者たちに独占されていた。文字に通じることが文化人の条件であり、政治や宗教への権力を意味していた。これは、中国や東アジアにおける「漢字」の読み書きが、国家官僚や文化人の必須条件であったこととも共通する。
ギリシア人が発明した二四文字のアルファベットによる全ギリシア語の音声表記は、文明の進歩において画期的であった。読み書きの習得がきわめて容易で、専門技術を必要としないため、民主政下で多くの人々がその能力をもって政治に参加できたからである。他方で、習得の容易さは、社会における「文字」の権威をあまり高めなかった。人前で語る「言論」が基本であるその文化において、「文字」はあまり便利ではない不完全な写し、つまり、本来の言葉である「語り言葉」の影に過ぎないという見方が生じた。これが、アルキダマス『ソフィストについて』(27-28)とプラトン『パイドロス』が表明する「書き言葉」批判の背景である。
-----引用終り---------
アルキマダスが主張する、語ることは即興的技能が必要で書くことより難しい、という事実は時代によらない普遍的事実です。しかし、その語る能力が「実際に役立った」のは、古代ギリシャが言論が社会的な力となる民主制社会だったからだということも、語ることが優位と見られたひとつの要因です。エジプトや古代中国では、統治者が示す「文書」が力を持っていたということなのでしょう。さらに中国では、語り言葉の通じない多民族同士をひとつの国としてまとめるのに書き言葉である漢字が共通語として使われたという事情もあるでしょう。
そして近現代では、言論自体は古代ギリシャと同じく力を持っていますが、多くの場合それは書き言葉で表現されます。契約や法なども全て、変化消滅の恐れのない書き言葉が使われます。しかしマルチメディア時代となり、語り言葉は必ずしも消滅するものではなくなりました。語り言葉と書き言葉のせめぎあいが今後どうなるのか、なかなか興味深いものではないでしょうか。
-------参考文献-------
Ref-1) 納富信留『ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)』筑摩書房 (2015/02/09)
Ref-2) ウェブ上で読めるものでは村越行雄「話し言葉vs書き言葉:アルキダマス「ソフィストについて」がぴったりである。
古代ギリシャのソフィストについては本ブログの以下の記事も参照のこと。
ソフィスト(1) 最強の詭弁家ソクラテス
ソフィスト(2) 弁論術とは説得の術なり
ソフィスト(3) 最初のソフィスト
ソフィスト(4) 徳の教育可能性
ソフィスト(5) 徳の5つの部分、正義と敬虔は同一のものか
ソフィスト(6) 徳とは
ソフィスト(7) 3冊の本
ソフィスト(-) ソクラテス時代の年表
ソフィスト(8) アテナイ対スパルタ
ソフィスト(9) ソフィストという分類
ソフィスト(10) 同名の者たち
そしてその3ページ目でおもしろいことを書いています。
--------引用開始-------------------
たとえば、スマートフォン、タブレット端末などで、人は日常的にテキストを読む。音楽を聴く。動画も見る。ということは、往々にして、以下のような状況となることがあるに違いない。
電子書籍を読みながら、そのバックグラウンドで「音楽」を流す。それが現代のポップ音楽だったら、歌詞があることが多い。だから目で文字を追う。耳で「言葉と楽器の音」を聴く。これをまったく同時に、一切のストレスなく、ひとつのデバイスから享受することができるようになったのが、現代だ。
そこには「印刷された文字のような」テキストがあり、「まるで目の前でだれかが歌っているかのような」音声で開陳されていく歌詞もある。動画だってある。そして言うまでもなく、「こんな環境で」言葉を受け取ることが普通の日常となったのは、人類史上、いまが最初だ。
そして、この環境において初めて「書かれた言葉」と「音声としての言葉」が、真の意味で等価に近づいた――いや、等価へと「戻った」とも言えるのではないか。遠くギリシャの時代の、たとえば詩と歴史書の関係のように。
もしかしたら我々は、文化史的にとてつもなく大きな曲がり角に差し掛かっているのかもしれない、ということを端的に告げる画期的な顕彰が、今回のディランだったのだと僕は考える。そしてこの大胆な顕彰は、その判断は、圧倒的に、正しい。
--------引用終り-------------------
ここで古代ギリシャでは「書かれた言葉」と「音声としての言葉」が等価だったことが述べられています。ここでは「詩と歴史書の関係」として述べられていますが、実は哲学(当時は数学や自然科学も含む)でもそうだったらしいのです。いや等価どころか、話言葉の方が優位にあったということが、納富信留『ソフィストとは誰か?』[Ref-1]8章:言葉の両義性(p288-340)に紹介されています。これは、書き物はほとんど残さなかったものの当時は高名なソフィストとして知られていたアルキダマスについて述べた章です。
-----引用開始-P307------
アルキダマスというソフィストの活動を再考することは、古代における知的活動の忘却された側面を照らし出すことである。それは、プラトンや、別の意味ではイソクラテスら、表舞台で光に当たってきた思想家たちの伝統を、影の側から反省することでもある。
この作業は、ホメロス以来、古代ギリシアにおける伝統的な「語り言葉」の重視と、新たに勃興した「書き言葉」という知的活動との間の緊張を問題にする。古典期のギリシア社会においても、「語り言葉」が絶対的な優位を占めていたことは、言うまでもない。そもそも「言葉」(ロゴス)という語は「語る」(レゲイン)の名詞形であり、「書く」の分詞からなる「書かれた言葉」(グラフトス・ロゴス)に先立つ。しかし、その古典期から「書き言葉」は次第に文化の中心となっていく。二種の言葉が実際にどのような緊張関係にあったかは、状況から推定するほかない。しかし、アルキダマスの「ソフィストについて』という論考は、まさにこの対立を直接に取り上げた、時代の証言なのである。
-----引用終り---------
このようにアルキダマスは書くことに対する語ることの優位性を主張しているのですが、その内容をよく表している文章をいくつか示します[p310-315][Ref-2]。
以下の1)-3)では書くことは語ることより容易であり、それゆえ語る能力を持つ者の方が書くことしかできない者よりも優れているのだと主張しています。
1)「ソフィストと呼ばれる人々の一部は、探究と教養を怠り、語る能力には素人と同様に無経験でありながら、言論を書くことには訓練を積んできていて、本をつうじて自身の知恵を示すことで重々しく振舞い、自負を持っている」
2) 書くことは、多くの時間をかけて修正を加え、先行例を収集して真似できるため、素人にさえ容易な、ありふれた営みである。他方で、時宜に応じてその場で適切な考えを言葉に組み立てることは、長い訓練が必要な困難なことである。
3) 言論を書くことに従事する人は、いくつかの重大な欠陥を避けられない。まず、書かれた書物なしに知恵を示すことができない。次に、そのような人は、主題が提示されても直ちには語ることができない。書く訓練は語ることを邪魔するからであり、書くことに専従する人は、語る能力を欠くからである。最後に、書くというゆっくりした知的作業に慣れた人は、語るという素早い知性の働きの要求に対して、すぐに行き詰まってしまう。
以下の4)-6)では語ることの方が実際に役立つと述べています。
4) 議会での演説、法延での論争や、私的なつきあいの場で何よりも必要なのは「時宜」(カイロス)に適うことである。
5) 書き物は精確な記憶を必要とし、それを語る場で忘却すると変更が難しく、重大な問題を引き起こす。これに対して、即興的な言論は「アイデア」(エンテユメーマ)への集中が核となる。少ない数の「アイデア」を習得しておけば、多彩な言辞を用いてそれを一度に明示できるからである。その場合、失念はあまり大きな問題とはならず、つねに柔軟な対応が可能なのである。
6) 即興的に語る人の特長は、聴衆の欲求に合わせた言論を提供できることにある。反対に、書き物に依存する語り手は、実際の欲求より長すぎたり、短すぎる言論を与えてしまう。事前にそれらを精確に予測することは、不可能であるから。また、そのような人は、時宜や状況に応じて新しい考えを用いることに失敗し、それらを調和ある秩序に置くことも出来ない。
むろん以上のことを彼は書き残しているのですが、それは語ることができる者には書くこともできると示すために書いたのだと述べています。というわけでアルキマダスの書き残した史料はプラトンなどに比べると非常に少なく、納富信留は「忘れられたソフィスト」と呼んでいます。
古代ギリシャで書くことが低く見られた要因のひとつに、ギリシャ文字が少数のアルファベットだけで間に合い容易に習得できるものだったことがあります。それに対してエジプトのヒエログラフや漢字は文字数が多く習得が大変なので、書くことは知的エリートの専有物になってしまったというわけです。
-----引用開始-P321------
ヨーロッパにおいて古代ギリシアが初めてアルファベットを導入し、それを用いた「書き物」の文化を打ち立てた。しかし、このことは、ギリシア文明が「語る」能力を「書く」能力よりも重視していたことと矛盾しない。書く営みは、つねに従属的な意義しか持たず、おもに奴隷や下僕の仕事とされた。この特徴は、オリエントの先進文明と比べると際立つ。エジプトの神聖文字やメソポタミアの模形文字は、「書記」や「神官」といった社会的に高い身分の者たちに独占されていた。文字に通じることが文化人の条件であり、政治や宗教への権力を意味していた。これは、中国や東アジアにおける「漢字」の読み書きが、国家官僚や文化人の必須条件であったこととも共通する。
ギリシア人が発明した二四文字のアルファベットによる全ギリシア語の音声表記は、文明の進歩において画期的であった。読み書きの習得がきわめて容易で、専門技術を必要としないため、民主政下で多くの人々がその能力をもって政治に参加できたからである。他方で、習得の容易さは、社会における「文字」の権威をあまり高めなかった。人前で語る「言論」が基本であるその文化において、「文字」はあまり便利ではない不完全な写し、つまり、本来の言葉である「語り言葉」の影に過ぎないという見方が生じた。これが、アルキダマス『ソフィストについて』(27-28)とプラトン『パイドロス』が表明する「書き言葉」批判の背景である。
-----引用終り---------
アルキマダスが主張する、語ることは即興的技能が必要で書くことより難しい、という事実は時代によらない普遍的事実です。しかし、その語る能力が「実際に役立った」のは、古代ギリシャが言論が社会的な力となる民主制社会だったからだということも、語ることが優位と見られたひとつの要因です。エジプトや古代中国では、統治者が示す「文書」が力を持っていたということなのでしょう。さらに中国では、語り言葉の通じない多民族同士をひとつの国としてまとめるのに書き言葉である漢字が共通語として使われたという事情もあるでしょう。
そして近現代では、言論自体は古代ギリシャと同じく力を持っていますが、多くの場合それは書き言葉で表現されます。契約や法なども全て、変化消滅の恐れのない書き言葉が使われます。しかしマルチメディア時代となり、語り言葉は必ずしも消滅するものではなくなりました。語り言葉と書き言葉のせめぎあいが今後どうなるのか、なかなか興味深いものではないでしょうか。
-------参考文献-------
Ref-1) 納富信留『ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)』筑摩書房 (2015/02/09)
Ref-2) ウェブ上で読めるものでは村越行雄「話し言葉vs書き言葉:アルキダマス「ソフィストについて」がぴったりである。
古代ギリシャのソフィストについては本ブログの以下の記事も参照のこと。
ソフィスト(1) 最強の詭弁家ソクラテス
ソフィスト(2) 弁論術とは説得の術なり
ソフィスト(3) 最初のソフィスト
ソフィスト(4) 徳の教育可能性
ソフィスト(5) 徳の5つの部分、正義と敬虔は同一のものか
ソフィスト(6) 徳とは
ソフィスト(7) 3冊の本
ソフィスト(-) ソクラテス時代の年表
ソフィスト(8) アテナイ対スパルタ
ソフィスト(9) ソフィストという分類
ソフィスト(10) 同名の者たち
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