光の正体については粒子説と波動説との論争があり、量子論の誕生に至って光にはどちらの性質もあることになり、いわば止揚されたと一般には理解されていると思います。この歴史については多くの書物や、例えば[Ref-5,6]のようなウェブサイトで紹介されていますが、多くは17-19世紀の歴史について以下のような内容になっています。
ホイヘンスがホイヘンスの原理を見出して波動説を唱え、ほぼ同時にニュートンにより唱えられた粒子説との間で論争が続いた。17世紀19世紀初めにヤングの干渉実験(1805年頃)が行われ、以後は波動説が有力になった。
さらにマクスウェルの理論により光は電磁波であるという理論が提唱されて受け入れられたが、光電効果を説明するためにアインシュタインが提唱した光量子仮説が提唱されて量子論に至った。
19世紀(1800年代)のヤング以降については、フレネルやキルヒホッフによるホイヘンスの原理の改良がなされ、フーコー(1850年)やフィゾー(1851年)による空気中での光速度が水中での光速度より大きいと言う確認がなされるなど波動説に有利な発見が続きます。また波動説によらなければ説明できないアラゴスポット(Arago Spot)という現象が、1723年にジャコーモ・フィリッポ・マラルディ(Giacomo Filippo Maraldi)により発見されていましたが、これが1811年頃から1816年にかけてフランソワ・アラゴ(François Jean Dominique Arago)によって追試確認されました。
このアラゴスポットは私もこの記事のための調査で初めて知ったのですが、なかなかおもしろい現象です。まるで重力レンズみたい(^_^)。
しかしニュートンとホイヘンスからヤングまでの、そしてニュートンとホイヘンス以前の論争についてはなかなか詳しい記載が見つかりませんでした。論争と言うと現代の科学界のリアルタイムな論争を思い浮かべてしまいますが、18-19世紀ともなれば論争の手段はいわゆる"Letters"が主なものでしょうし、現代から見ると数十年も世代の離れた者同士が直接論争したかのような錯覚にも陥りがちです。その辺りの経緯が最も詳しそうな資料が鬼塚史朗の論文[Ref-3]でした。ヤングの干渉発見の年が上述と異なりますが、これはヤングの論文が1801年,1802年,1804年と3回に渡って投稿されているためです[6.2 ヤングの研究]。
1665年 フックの縦波説
1678年頃 ホイヘンスの原理
1704年 ニュートン『光学』出版。
1801年 ヤング、光の回折・干渉発見
一般にはニュートンは『光学』において粒子説を唱えたと理解されています。が、意外にもニュートンは必ずしもはっきりと粒子説の立場ではなかったようです。
-------------引用開始-------------------------
ただしニュートンは直感的には光を粒子ととらえていたようであるが確信的に光の粒子説を主張していたわけではない。しかし、1671年王立協会に投稿されたニュートンの論文を審査したフックらには、ニュートンは粒子説の立場に立っていると理解された。
(5. 18世紀は粒子説の世紀)
-------------引用終り-------------------------
『光学』(Opticks)の日本語訳を直接読めば良いのでしょうが、詳しい概要が書かれた安池智一の論文[Ref-2]があったのでこれを参照します。
-------------引用開始-------------------------
定義Ⅰ:光の射線とは、光の最小粒子であって、異なる直線上で同時に存在するばかりでなく、同一の直線上で相継いで存在するものとする。
Newtonは『光学』において必ずしも一貫した立場として粒子説を主張してはいなかったが、冒頭にこれがあることにより、粒子説を取ったとされることが多い。
-------------引用終り-------------------------
さらに安池智一論文には『光学』の最後に書かれた31個のQueryが紹介されています。これはいわば未解決課題の一覧ですが、この中には波動説の立場からの設問・課題も含まれているのです。
なおwikipediaの記事[Ref-1]では『プリンキピア』でも粒子説が提唱されたと書かれていますが、こちらは日本語訳を見ると第1巻[Ref-4]の第14章「ある極めて大きな物体の各部分へと向かう求心力の作用を受けるときの極めて微小な物体の運動」の記載を指しています。これは光を粒子と仮定したときに屈折現象を数学的に説明する理論を書いたものです。なのでこれも必ずしも確信的に光の粒子説を主張しているとは言えませんでした。
どうもニュートンの立場は、いかにも慎重で優秀な科学者らしく、対立する仮説を共に公平に見て評価検討するというものだったように思えます。それを周囲の者達が「ニュートンは粒子説だ」と思い込み、ニュートンの権威が高まった後の特に後継者たちは波動説には無条件に反対した、とも言われます。
-------------引用開始(鬼塚論文[Ref-3]))----
ニュートン以後のケンブリッヂは、ニュートンの研究成果を正しく理解し、わかりやすく説明して広く普及させるも者、つまりニュートニアンたちの根城となった。光の粒子説に意義を唱える者はケンブリッヂから排除された。
(5. 18世紀は粒子説の世紀)
-------------引用終り-------------------------
うわー、トンデモさん達がよく主張する「異説を排除する学界の権威」そのままだよ。もしかして「粒子説の世紀」とか言ってもまともな粒子説なんて出なかったんじゃあないの? 同じく鬼塚論文からの下記引用を読むと、18世紀の間は本当にそうだったらしい。
-------------引用開始-------------------------
18世紀の間、光は粒子としての側面を見せた。というよりはむしろ、研究者たちはニュートンの視線をおそれて光の一側面しか見ようとしなかったのである。したがって、この間、光の研究はほとんど進展しなかった。
(8. まとめ)
-------------引用終り-------------------------
いやいや上記のニュートニアンたち以外にはまともな粒子説論者もいたと信じたいです。というか、19世紀に入るとヤングの実験を嚆矢として、アカデミーの定説信奉者達と新興の(いや復活の)波動説論者達との論争が激しくなったと鬼塚論文には書かれています。論争が活発なときは科学が発展しているときということでしょうね。
そしてヤング以降に波動説が固まっていく中で一番の難点は、波なら媒質があるはずだがその性質が奇妙で捉えにくい、ということだったようです。「波なら媒質があるはず」というのは現代から見ると弾性波からの類推による思い込みだったと言えますが[*1]。
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*1) 当ブログ記事参照
「科学的方法とは何か? 場・波・粒子-2-媒質1」(2019/10/28)
「科学的方法とは何か? 場・波・粒子-2-媒質2」(2019/11/11)
「場・波・粒子-3.2- 3種の波」(2019/12/09)
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Ref-1) wikipediaから光の波動説および光の粒子説(corpuscular theory of light, particle theory of light)。
(ホイヘンスは)1690年に刊行した自身の著書『光についての論考』内で、回折など光に関する波動としての性質を論じ
すぐ後に、ニュートンによる光の粒子説が提唱され
ニュートンが自身の講演や著書『プリンキピア』及び『光学』の中で17世紀頃に提唱した仮説
Ref-2) 安池智一 "『光学』におけるニュートンの物質観" 放送大学研究年報 第34号(2016)159-170頁 (JournalofTheOpenUniversityofJapan, No. 34(2016)pp. 159-170)
1704年に『光学』出版。
Ref-3) 鬼塚史朗 "光の粒子説と波動説(連載 科学誌)" 物理教育 43巻(1995) 4号(その書誌事項)
1665年 フックの縦波説
1678年頃 ホイヘンスの原理
1704年 ニュートン『光学』出版
1801年 ヤング、光の回折・干渉発見
Ref-4) アイザック・ニュートン;中野猿人(訳)『プリンシピア 自然哲学の数学的原理 (ブルーバックス), 第1編 物体の運動』 講談社(2019/06/20)。当ブログ記事も参照。
「科学的方法とは何か? ニュートンの規則」(2019/10/26)
「科学的方法とは何か? ニュートンの規則」(2019/11/18)
Ref-5) 2007.7.1 平野拓一「電磁波発見の歴史」(2007/07/01)。ニュートンの粒子説提唱の記載はない。
1666年 ニュートン(イギリス)による光の分散(プリズム)の発見
1678年 ホイヘンス(オランダ)が光の波動説を提唱
1801年 ヤング(イギリス)が光の干渉、光の三原色を発見
Ref-6) 大阪教育大学・種村雅子講師による光の性質について論争・実験をしてきた人々。ニュートン『光学』の出版年が間違っているので注意。
1666年 ニュートン、光の分散をプリズム実験によって発見する。
1666年 ニュートン、光学を出版し、光の微粒子説の立場をとる。
1678年 ホイヘンス、「ホイヘンスの原理」を提唱
ホイヘンスがホイヘンスの原理を見出して波動説を唱え、ほぼ同時にニュートンにより唱えられた粒子説との間で論争が続いた。
さらにマクスウェルの理論により光は電磁波であるという理論が提唱されて受け入れられたが、光電効果を説明するためにアインシュタインが提唱した光量子仮説が提唱されて量子論に至った。
19世紀(1800年代)のヤング以降については、フレネルやキルヒホッフによるホイヘンスの原理の改良がなされ、フーコー(1850年)やフィゾー(1851年)による空気中での光速度が水中での光速度より大きいと言う確認がなされるなど波動説に有利な発見が続きます。また波動説によらなければ説明できないアラゴスポット(Arago Spot)という現象が、1723年にジャコーモ・フィリッポ・マラルディ(Giacomo Filippo Maraldi)により発見されていましたが、これが1811年頃から1816年にかけてフランソワ・アラゴ(François Jean Dominique Arago)によって追試確認されました。
このアラゴスポットは私もこの記事のための調査で初めて知ったのですが、なかなかおもしろい現象です。まるで重力レンズみたい(^_^)。
しかしニュートンとホイヘンスからヤングまでの、そしてニュートンとホイヘンス以前の論争についてはなかなか詳しい記載が見つかりませんでした。論争と言うと現代の科学界のリアルタイムな論争を思い浮かべてしまいますが、18-19世紀ともなれば論争の手段はいわゆる"Letters"が主なものでしょうし、現代から見ると数十年も世代の離れた者同士が直接論争したかのような錯覚にも陥りがちです。その辺りの経緯が最も詳しそうな資料が鬼塚史朗の論文[Ref-3]でした。ヤングの干渉発見の年が上述と異なりますが、これはヤングの論文が1801年,1802年,1804年と3回に渡って投稿されているためです[6.2 ヤングの研究]。
1665年 フックの縦波説
1678年頃 ホイヘンスの原理
1704年 ニュートン『光学』出版。
1801年 ヤング、光の回折・干渉発見
一般にはニュートンは『光学』において粒子説を唱えたと理解されています。が、意外にもニュートンは必ずしもはっきりと粒子説の立場ではなかったようです。
-------------引用開始-------------------------
ただしニュートンは直感的には光を粒子ととらえていたようであるが確信的に光の粒子説を主張していたわけではない。しかし、1671年王立協会に投稿されたニュートンの論文を審査したフックらには、ニュートンは粒子説の立場に立っていると理解された。
(5. 18世紀は粒子説の世紀)
-------------引用終り-------------------------
『光学』(Opticks)の日本語訳を直接読めば良いのでしょうが、詳しい概要が書かれた安池智一の論文[Ref-2]があったのでこれを参照します。
-------------引用開始-------------------------
定義Ⅰ:光の射線とは、光の最小粒子であって、異なる直線上で同時に存在するばかりでなく、同一の直線上で相継いで存在するものとする。
Newtonは『光学』において必ずしも一貫した立場として粒子説を主張してはいなかったが、冒頭にこれがあることにより、粒子説を取ったとされることが多い。
-------------引用終り-------------------------
さらに安池智一論文には『光学』の最後に書かれた31個のQueryが紹介されています。これはいわば未解決課題の一覧ですが、この中には波動説の立場からの設問・課題も含まれているのです。
なおwikipediaの記事[Ref-1]では『プリンキピア』でも粒子説が提唱されたと書かれていますが、こちらは日本語訳を見ると第1巻[Ref-4]の第14章「ある極めて大きな物体の各部分へと向かう求心力の作用を受けるときの極めて微小な物体の運動」の記載を指しています。これは光を粒子と仮定したときに屈折現象を数学的に説明する理論を書いたものです。なのでこれも必ずしも確信的に光の粒子説を主張しているとは言えませんでした。
どうもニュートンの立場は、いかにも慎重で優秀な科学者らしく、対立する仮説を共に公平に見て評価検討するというものだったように思えます。それを周囲の者達が「ニュートンは粒子説だ」と思い込み、ニュートンの権威が高まった後の特に後継者たちは波動説には無条件に反対した、とも言われます。
-------------引用開始(鬼塚論文[Ref-3]))----
ニュートン以後のケンブリッヂは、ニュートンの研究成果を正しく理解し、わかりやすく説明して広く普及させるも者、つまりニュートニアンたちの根城となった。光の粒子説に意義を唱える者はケンブリッヂから排除された。
(5. 18世紀は粒子説の世紀)
-------------引用終り-------------------------
うわー、トンデモさん達がよく主張する「異説を排除する学界の権威」そのままだよ。もしかして「粒子説の世紀」とか言ってもまともな粒子説なんて出なかったんじゃあないの? 同じく鬼塚論文からの下記引用を読むと、18世紀の間は本当にそうだったらしい。
-------------引用開始-------------------------
18世紀の間、光は粒子としての側面を見せた。というよりはむしろ、研究者たちはニュートンの視線をおそれて光の一側面しか見ようとしなかったのである。したがって、この間、光の研究はほとんど進展しなかった。
(8. まとめ)
-------------引用終り-------------------------
いやいや上記のニュートニアンたち以外にはまともな粒子説論者もいたと信じたいです。というか、19世紀に入るとヤングの実験を嚆矢として、アカデミーの定説信奉者達と新興の(いや復活の)波動説論者達との論争が激しくなったと鬼塚論文には書かれています。論争が活発なときは科学が発展しているときということでしょうね。
そしてヤング以降に波動説が固まっていく中で一番の難点は、波なら媒質があるはずだがその性質が奇妙で捉えにくい、ということだったようです。「波なら媒質があるはず」というのは現代から見ると弾性波からの類推による思い込みだったと言えますが[*1]。
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*1) 当ブログ記事参照
「科学的方法とは何か? 場・波・粒子-2-媒質1」(2019/10/28)
「科学的方法とは何か? 場・波・粒子-2-媒質2」(2019/11/11)
「場・波・粒子-3.2- 3種の波」(2019/12/09)
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Ref-1) wikipediaから光の波動説および光の粒子説(corpuscular theory of light, particle theory of light)。
(ホイヘンスは)1690年に刊行した自身の著書『光についての論考』内で、回折など光に関する波動としての性質を論じ
すぐ後に、ニュートンによる光の粒子説が提唱され
ニュートンが自身の講演や著書『プリンキピア』及び『光学』の中で17世紀頃に提唱した仮説
Ref-2) 安池智一 "『光学』におけるニュートンの物質観" 放送大学研究年報 第34号(2016)159-170頁 (JournalofTheOpenUniversityofJapan, No. 34(2016)pp. 159-170)
1704年に『光学』出版。
Ref-3) 鬼塚史朗 "光の粒子説と波動説(連載 科学誌)" 物理教育 43巻(1995) 4号(その書誌事項)
1665年 フックの縦波説
1678年頃 ホイヘンスの原理
1704年 ニュートン『光学』出版
1801年 ヤング、光の回折・干渉発見
Ref-4) アイザック・ニュートン;中野猿人(訳)『プリンシピア 自然哲学の数学的原理 (ブルーバックス), 第1編 物体の運動』 講談社(2019/06/20)。当ブログ記事も参照。
「科学的方法とは何か? ニュートンの規則」(2019/10/26)
「科学的方法とは何か? ニュートンの規則」(2019/11/18)
Ref-5) 2007.7.1 平野拓一「電磁波発見の歴史」(2007/07/01)。ニュートンの粒子説提唱の記載はない。
1666年 ニュートン(イギリス)による光の分散(プリズム)の発見
1678年 ホイヘンス(オランダ)が光の波動説を提唱
1801年 ヤング(イギリス)が光の干渉、光の三原色を発見
Ref-6) 大阪教育大学・種村雅子講師による光の性質について論争・実験をしてきた人々。ニュートン『光学』の出版年が間違っているので注意。
1666年 ニュートン、光の分散をプリズム実験によって発見する。
1666年 ニュートン、光学を出版し、光の微粒子説の立場をとる。
1678年 ホイヘンス、「ホイヘンスの原理」を提唱
数直線を『幻のマスキングテープ』で眺望すると、連続性が非連続な連続性を帯同するコトかなぁ~
これが、『刀札』の模様に偶奇性が顕現するコトかなぁ~