人が世界を認識するということは、世界の中の存在を分類するということを意味します。そして、どんな方法で何を基準として分類するかにより、見えてくる世界が大きく異なります。そして、往々にして人は自分が使っている分類の枠組みの無自覚なものです。それは自分が無自覚に使ってきた枠組みとは異なる枠組みを突きつけられない限り、なかなか気づけるものではありません。まさに理論負荷性という言葉に通じるものです。
久我勝利『知の分類史―常識としての博物学(中公新書ラクレ236)』中央公論新社(2007/01)を読むと、歴史上の実に様々な分類体系が登場します。私が気に入ったひとつの生物分類体系を、42ページから紹介しましょう。
-----引用開始-----
■『大戴礼記』「易本命篇」の説■
有明之轟 三百六十種 長は鳳風
有毛之轟 三百六十種 長は麟麟
有甲之轟 三百六十種 長は神亀
有鱗之轟 三百六十種 長は較龍
裸之轟 三百六十種 長は聖人
--中略--
「虫」という字は、現在、「轟」の新字として使われているが、もともと「虫」と「轟」はまったく違う意味だった。「轟」は、広く動物をさす言葉だったのである。ここでは、動物が、「羽根の生えているもの(鳥類)」「毛の生えている獣」「殻のついたもの」「鱗のある魚類、爬虫類」「裸のもの」に分けられている。
--中略--
裸の虫蝋とは、イモムシやミミズのようなヌメヌメした生き物のことだ。その最高位がヒトなのである。ヒトを動物界の別格とする西洋の分類法に比して、ここでは、人類はイモムシの親玉にすぎない。
-----終わり -----
しかしgooブログのジャンルなるものの分類にはカルチャー・ショックを受けました。「科学」という名のジャンルが「暮らし」の下にだけひっそりとあるのですから。社会学とか経済学とか心理学も、どうもここに入れるしかなさそうです。哲学とか歴史とかどうするのでしょうか? まあ広く捉えれば科学ジャンルでもいいのでしょうけどね。幸福の科学? む--、政治学の話題だからでしょうか?(^_^)
久我勝利『知の分類史―常識としての博物学(中公新書ラクレ236)』中央公論新社(2007/01)を読むと、歴史上の実に様々な分類体系が登場します。私が気に入ったひとつの生物分類体系を、42ページから紹介しましょう。
-----引用開始-----
■『大戴礼記』「易本命篇」の説■
有明之轟 三百六十種 長は鳳風
有毛之轟 三百六十種 長は麟麟
有甲之轟 三百六十種 長は神亀
有鱗之轟 三百六十種 長は較龍
裸之轟 三百六十種 長は聖人
--中略--
「虫」という字は、現在、「轟」の新字として使われているが、もともと「虫」と「轟」はまったく違う意味だった。「轟」は、広く動物をさす言葉だったのである。ここでは、動物が、「羽根の生えているもの(鳥類)」「毛の生えている獣」「殻のついたもの」「鱗のある魚類、爬虫類」「裸のもの」に分けられている。
--中略--
裸の虫蝋とは、イモムシやミミズのようなヌメヌメした生き物のことだ。その最高位がヒトなのである。ヒトを動物界の別格とする西洋の分類法に比して、ここでは、人類はイモムシの親玉にすぎない。
-----終わり -----
しかしgooブログのジャンルなるものの分類にはカルチャー・ショックを受けました。「科学」という名のジャンルが「暮らし」の下にだけひっそりとあるのですから。社会学とか経済学とか心理学も、どうもここに入れるしかなさそうです。哲学とか歴史とかどうするのでしょうか? まあ広く捉えれば科学ジャンルでもいいのでしょうけどね。幸福の科学? む--、政治学の話題だからでしょうか?(^_^)
面白いですね。世界の切り取り方の多様性、楽しいです。
同じような時代のことなんでしょうか、アリストテレスはちゃんとクジラを哺乳動物に分類していたようですね。
「分類についてのアリストテレスの主要な功績は、構造、生理、生殖様式および行動を基本とした自然群に固執した点である」
(「知のツールとしての科学」学会出版センター2003.1.15 p45)
サイエンスの基礎、ギリシャの奇跡について、驚くばかりですが。
前後しましたが、ブログ立ち上げ、おめでとうございます。
楽しみに、読ませていただきますっ
御紹介の本はおもしろそうですね。学校の理科系教科書では最初に古代人の宇宙観などから始まっていたのを思い出します。
生物だけでの分類の歴史もおもしろいですが、他の事物も含めての分類でも色々あって、ラマルクは「植物と動物をまとめて鉱物から分けたのは自分だ」みたいなことを『動物哲学』で書いていましたが、どうなんでしょうね。このようなテーマもそのうち本ブログで取り上げたいと思います。