阿部健治郎七段が審判長。開会式では「緊張しています」と言っていましたが、閉会式では、全選手の棋譜を並べ、
データをもとにした見解を述べてくれました。若いなりに精一杯やったという感じが伝わり、もとより実直な人柄
ゆえ好感度は上がりました。兄の阿部慎太郎君の大会運営サポートも含めて酒田の阿部兄弟は素晴らしい。少し
身贔屓もあるかもしれません。
初日、山形市の山形メディアタワーに会場入りすると真っ先に島先生が歩み寄ってきて「NHK杯戦2回戦の谷川―小山
の解説が私(島朗九段)に決まりました。」と続けて「怜央君は近いうちに上がるでしょう。間違いなく」と太鼓判を
押してくれた。ちょうど1年前に会ったときは鈴木環那3段(義理の娘)が、これまでになく将棋の勉強に打ち込んで
いると話していたので「環那ちゃん、今年になって結果が出てきましたね」と伝えると笑顔で頷いていた。今回は次代
を担う地元の阿部健治郎七段(酒田市)、岡部怜央四段(鶴岡市)に遠慮して黒子の役割に徹していたようだ。
島先生との出会いは3日制だったころの29回東北六県の指導対局が始まりである。筆の達者な審判長の原田泰夫八段
(鈴木環那3段の師匠)と副審判長に島朗五段、当時は開会式の後、懇親会までの1時間半の間に「模範対局」と称して
地元の代表1人(その年は選手になれなかった僕)がプロ棋士と角落ちで対戦するのが恒例だった。4段から5段(C級1組)
に昇段したばかりの弱冠20歳の島五段をいいところまで追い詰めながら寄せきれずに敗れた。その20年後、愚息の師匠と
なって頂き、それがご縁となったのか随分と釜石に足を運んでいただき指導して頂いている。プロ棋士小山怜央誕生の陰に
島先生がかかわっていたのは紛れもない事実である。
審判長の健治郎君と小泉君は同い年である。小泉君は中1のとき、お父さんと大会会場で話をして知るようになったし、
健治郎君とは中1~中2の中学生名人戦の時、東北から出てきたもの同士、宿泊地近くの蒲田将棋クラブで一緒に練習将棋を
指したものだった。中1のとき奨励会に入れそうな実力がありながら、なぜ受けさせなかったのか土岐田勝弘さん(かつて六県
大会の生き字引と言われた方)から伺うと、「受かるとは思うけれども、受かったとしてもその後、黒星続きで一人帰る夜行
バスはつらいでしょ。もっと力を付けてすぐに昇級していけるようにしたいからなのよ」と、いつもの荘内弁で目尻を下げ
嬉しそうな表情で答えてくれた。そんな昔話を今大会中、会場でそれぞれ別(小泉君は対局前、健治郎君には色紙を書くとき)
にすると、2人とも「それは正解でしょうね」と同じ答えが返ってきたのには驚いた。
大会では中川慧梧の強さが際立った。岩高にいたころと変わらぬ落ち着きがあり、大人になって風格さえ感じられるように
なっていた。小山怜央の3大会連続全勝優勝越えにチャレンジできるのは慧梧君しかいない。洋野町出身で岩手高OBの宮城県
先鋒・工藤元(はじめ)君と岩手大卒の秋田県先鋒・納谷瑛志君の最終戦全勝対決は本県ゆかりの選手だけにとてもワクワク
しました。本県はベストメンバーなのに岩泉君を除けば30分40秒に慣れていない(読みのスパンが短い)ような感じもあり、
持ち時間を長くするなどして県全体として底上げしていかないとBクラス脱出は難しいような印象を受けました。2年連続最下位
監督反省の弁でした。
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