土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「ぐるりのこと。」

2008-07-09 23:58:41 | 本・映画
「後日」と予告?した感想文。
ちょっと;スッポカそうかと思ってました。

「良い映画です。ご覧になって下さい。」
う……ん。「良い」のです。色々見える事などあって。
ただ、「そこ」について書くともなると、とても書きづらい。(かな?)
書き出すと、連鎖的に次々言及せざるおえなくなる。原因と結果、因果関係について。ぐるりについて等。
焦点が定まらなくなっていくのが解るので、ちょっと書きあぐねた…。
だから一部、ですが。


「書きづらい」を一言で言うと、解ってはいても中々到達出来ない領域?の事、だから?

リリー・フランキーさん扮するところのカナオの「スタンス」(と言ってしまう位だから;)に希望が見えるのが。「人の有り様(よう)」なのだろう。は、解る。
けれど、だからこそ再び「『ぐるり』にジャッジを下さない」事の難しさに直面もする。

受け入れられる「ぐるり」と、入れられない又は相容れない「ぐるり」との差異・境界線にどうしても立返ってしまう。


例えば(?)幼稚園;からの友人達との会食の時の話だが。
指導的立場、年齢の私達は、相談やアドバイスを求められる事も少なく無い。
『(その人にとって)必要な、だろう事は伝えるけど、数回言っても解らない人には、後は言わない。』『自分で気付かない限り変わらないから。』『結局自分で乗り越えなければ、自身(心)の問題だから。』三人の共通意識。
個々人の出来うる範囲には限りが有る。

問題が個の中に有る事に目をつむって、境界であろう(留まろう)とする人間に過剰に頼って来る。全能・絶対を求めて来る。(或いは支配したがる)

私達(?)は自らを律する、顧みる事をせずに、外にのみ救いを求める依存して来る人間に、境界線上で居てあげる(?)事が出来無い。(依存症には依存対象と切り離す事が療法でもある)

結果、境界線上から降りる。
その事の是非?というか…
敢えて降りる(解ってても尚、だからこそ先を促す)を選択するのは冷たい・厳しいのか?

全てに同じ様には出来無いだろう。待てる・寄り添える相手と、そうでない人。
許容出来ないもの(価値観等)・人に対しての、スタンス、有り様、を突きつけられる錯覚?

希望の提示と共に、逆に。
歴然として、(近くの)ぐるりにも範囲が限界(限度)がある。を感じてしまう。
(私には)そこを問われている様な作品に感じられた。



映画は法廷と日常を並べて、延長線と境界線を提示する。

法廷シーンでは(事実からのものか、フィクション・演出上のものか解らないが)
アンクレットをしてくる、証言席に立つ被害者の母の『してやった』『あれ』と、被告女性の『ごめんなさい』『M(だったかな?)さん』の言葉に、見えるもの。
『継母』『偽善者』の言葉に泣き崩れる被害者の母(の心傷・自責)と情報開示の不公平性。
罪を詫びる被告とその苦しみと、感情の一切を退ける人間性を失った集団。
死刑を望んでいた被告の、精神疾患者(鑑定)への変容。
現実に起こった事件をベースに、人間が壊れていく因、社会に有る問題点を見せて行く。

また、カナオや翔子のぐるりでは、
そこに至った状況や、形成された性格の元なるもの。(が有り、見せながら)
(褒められたものでない)それを否定せずにいながら、(自分が)相手に出来る僅かなこと(肖像画等)を探し、力まず押し付けがましくなく、渡して行くという「ぐるり」への在り方が描かれている。
それに因って開かれて行く「関係や心」に説得力がある。

そして、カナオと翔子。
寄り添って歩んで行く様は、どんな時・事からも逃げない相手への信頼が。心地よい安堵となって私達をも支えてくれる。
聞く(言う)だけでいい。向き合って開いて行ければいい。のだろう、事。



説明を省き、エピソードを並行として重ねる。
個と相手と社会のぐるりが有る、が並行として見える。


良いも悪いも、するもしないも、出来るも出来無いも、留まるも降りるも、考えるのは私達で。
それは(監督の)観客への信頼なんだろう。

未だ…でも「考える」は、出来るのだから。


う~ん;やっぱ何が書きたかったのか?;とっ散らかったものになってしまった。
「すみません。」


なんだかよく解らなくなってしまったので;あとは個人的に馳せた事をテキトー;に書きます;

「残る絵」を描く描ける立場の翔子を『羨ましい』と率直に言いながらも、自分を貶めずに、ただ大切な人(の為に)と生活を営めるカナオの心中をちょっと想像してみたり、カナオの度量に感心したり。

「カナオ」にしか見えないリリー・フランキーさんの演技と、リアリティー溢れる(色んな意味で;)翔子との日常。全く時間(尺の長さ)を感じさせない構築。
に、見終わってから「凄いなぁ」なんて改めて感じ入ったり。

(感想は)そんなところかな?;

とにかく、口で説明されても仕方無いと思うので、劇場に足をお運び下さい。
なんて;手に余って投げ出して;終わります。
(ちなみに、シネスイッチ銀座は金曜がレディースデーです。900円です;女性の方へ)



追伸。見た者同士で「どこが気になった?」と探り合い(笑)が出来そうな映画です。
(私が一番印象に残ったのは「肖像画」のエピソードでしたが;…じゃ、つまらない?)
見た人のひっかかりがバレてしまう映画かも;です。



小説と映画

2008-06-12 02:14:51 | 本・映画
やっと昨日「時をかける少女」読了。
5/18 に手に入れてから何日経っているのか;
映画の方は 5/20 に DVD を買って来て、一昨々日 BS2 で見て…。

(再三書いてますが、この話題)
小説が届いた日、例の言葉( → 5/23 記事等)や気になる所をチェック。
巻末の「解説」と…部分的に拾い読みして、止まってました;
その間、DVD で久しぶりに見返して、新たに気付いた事。
放送を見て、本を(通しで)読んで納得(合点)した事。


映画で引っ掛かっていた部分。
『僕の記憶さえも…』と告げながら、再びやって来た時、深町は和子を振り返る。
小説とは結末が違っているので、何故?か、が解らない部分。

『時間はやって来るもの…(又この時代にやって来る)』と言い、彼は和子に <希望> を与えた。
『僕の記憶さえも…(小説にこの設定は無い)』当初私は、彼は免れたのか…と考えたが。
今は、彼は嘘を言ったのではないか、と思う。
深町は(大林監督は)たぶん、和子に『共感」という <支え> をも与えた。(疑似体験してる観客にも)
『君だけが忘れてしまうんじゃないよ。』
(この場合『他のクラスメートも』というのは和子にとって意味が無い)
『僕も同じ、君と一緒なんだ。』という絆だ。
恋しい相手との突然の別れ、に対する和子の気持ち、へのいたわりと愛情。

…そんな気がする。(今頃;)

映画は小説(中学三年?)よりも、年齢が上の設定である。その為(?)小説とは違って、こちらは、より踏み込んで「恋愛」が軸になっている。
吾朗と深町の間で、恋・愛を、物思う形になっている。


(ハルキ文庫)巻末の大林監督による「解説」インタビュー記事引用部分、でも書かれていますが、
大林『僕の見る筒井康隆像、というのは、本格派の、正統的な文学者です。十九世紀的な魂についての、人間の尊厳の問題を、常に文学上の主題としている。』(中略)
『筒井さんも、異端の振りのまことに見事な正統派作家。』( →「今日の言葉」5/22)


小説は、SF・ファンタジーという道具立てを使いながら、とても古典的な浪漫な作品。
恋愛の手前の、思春期の目覚め・憧れを描写している。
(レースのカ-テンと日差しの関係、手を洗う吾朗の科白、等の描写・表現の違いも丁寧です)
「手前」であるから、一人称の、和子の物思いで、余韻で締められる。
(対象は偶像で良い。王子様が未来人になっている。「ロマンチシズム」)
映画は「より踏み込んでいる」から、より「感情(コミュニケーション)」に寄り添っている。
画という姿(生身)を持ったから、生きる姿(その後)で締めている。
(観客に不完全燃焼させない、も)
そんな風に、やっと?合点(?)が行きました。


小説を読まないと、気付かなかったかもしれない。
映画化された(見た)作品は、やっぱ本も読んでみた方が…
今回読んでみて、新たな視点が増えて良いなあ、と思いました。
(今頃;;)

あと映像について。ラスト近く、和子がいぶかし気に振り返るシーン。
「時間」が流れて行く、過ぎて行く「時間」をカメラで表現したシーンが秀逸です。和子の目線なのが意味を持つ。(と同時に、和子の背なめのカメラで、一緒に観客もフィクションの時間から戻す)
前述した(5/23)廊下のシーンと共に、素晴らしいカットだと思います。


これで、「時かけ」の話題はやっと;「締め」になります。たぶん;
再三;長々;と、おつきあい下さって、有難うございました。