土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「眠るひと」(改訂)

2010-10-30 02:05:10 | 短編小説(創作)


   眠るひと
                               寝子

   一 出逢い

 どうしてだろう。何故ここなのだろう。
 こんな裏通りの十字路の片隅、ひさしの届かないビルのエントランス。およそ似つかわしいとは思えない筆の字の踊る看板の前に、一人その美しいひとは居た。
 歩道から少し退いた建物と四つ角が作るそこは、左右に流れる細い道に挟まれた小さな三角州。
 正面からVの字に丈の低い花が施され、続く先には一本の高い樅の木が強い夏の日射しを遮るかのように植えられて。それは……眠る彼女の顔へ柔らかい影を落としている。
 足元を彩る花の中で、艶やかな黒の御影石の池にくるぶしを浸し、横たわる身を空にあずけて。わずかに右の肩へ落とした横顔に銀色の肌。正体を失った腕は組まれること無く片方が膝の上にあずけられ、そしてもう片方はそこに無い。
 眠るひと、彼女は彫刻だった。左の肩を二本のビスで留められて、そこに置かれたひとだった。

 神田御茶ノ水、駅、御茶ノ水橋口から続く明大通り。この坂道を南へ真っ直ぐ降りて行くと、駿河台下の交差点、日本有数の古書の街、神保町に出る。多くの人はここで左右に折れ思い思いに、本屋を巡り、スポーツ用品店を覗き、そして疲れた足を喫茶店へと向かわせる。
 巡るが目的なら一日がかりともなろうこの街で、そのまま過ごしそのまま家へと戻る人、人。学校に通う者、オフィスに来る者以外で、どれだけの人が知るだろう。ここで折れる、いや、そうでなくとも気づくには難しい。

 古くから学校が立ち並んだJR御茶ノ水、都営地下鉄神保町駅周辺には、本、画材、楽器、運動具などの店が多く軒を並べる。必要とする学生に調達された街並は、今でもその求めに応じ少しずつ変わっていく。食堂にファーストフード、喫茶店にカフェ、古書に新本に、シアター、サブカルチャー。
 新しい、この賑わいを前にして誰が想像しうるだろう。学校が休みとなる日曜には開けた店なぞ殆ど無かったと。
 一列に並ぶ本屋。神保町の交差点から遠く見渡しても、誰も見えない……自分一人しか歩いていない昼間、という時間がかつて存在した。東西に抜ける靖国通り、それはここをまだ路面電車が通っていた頃、昭和四十年初頭のことだったか。
 都電のチンチンが鳴らない隙間、往来の人も車も消え、ひっそりとした寝息に包まれる休日の神田。カーテンを閉じた店。白日夢の中に在る、やけた本の色の風景。時間の止まった街。そんな記憶が甦る。
 北向きに作られた入り口。洋風な構えを設えた看板建築、長屋。
 そんな住居を兼ねた低い木造モルタルの店も一つ二つと消えていき、表通りには大型店舗も増え、今や灯の消えた日曜も無くなった。
 空を塞いだ架線は取り払われ、電車は地下に潜り。南に面した商店からは古いアーケードが外された。卸す紙の匂いが漂っていた裏通りからは幾つもの問屋が消えて、代わりに居住塔を兼ねた大きな複合施設が建ち並ぶ。こうやって街は少しずつ変わっていく。
 そういえば、街路樹はいつ匂いを失ったのだろう。秋になれば実をつけた銀杏はもうその跡を残さない。白く黄色くつぶれた匂いも、いつからか消えてしまった。雌花の木々はどこへ行ったのだろう。扇に開いた葉はまだ確かに、ここに有るというのに。

 プラタナスの続く明大通りは交差点を境に、その銀杏の並ぶ千代田通りへと名前を変える。
 広い靖国通りの陽光を跨いで南に続くその路は、本屋街から離れる程にオフィス色へと様相を変えて、抜ける明るさの大通りに比べれば、いささか地味な印象を与えるだろう。商店よりもビル、学校が目立つからかもしれない。
 先を進めば皇居、そのはざま。そんな性質か、喧噪は徐々に遠退き、気持ちはゆったりと巻き戻されていく。御膝元。明治以降、数多くの学校が集まった、校舎とオフィスが並ぶ街の、主の居ない土曜の午後。
 静かな……ここにはまだ、眠る休日の、記憶の中の時間が残っている。
 横断する首都高速道、その下を流れる日本橋川を超えれば、あと少し。変わる街路のエンジュの木は、もう白い花をつけている頃だろう。
 川に架かる錦橋の二つ手前、皇居に程無いところであった。目の前に、止まった時間に新しい、目新しいものが突然現れた。
 彫刻が二つ、信号を挟んでまるで申し合わせたかのように並んでいる。片方は、敷地と言うには躊躇われるような歩道の角に。もう片方も、植込みの中とはいえ表に面して堂々と。
 装飾の為設置されたとは言い難い体で、はっきりと自己主張してくる彼らは、どこから見ても美術品そのものだった。
 いつから……
 こんな、触れられることを厭わない?
 信号を渡って立ち止まるひとしきり、ふと辺りへ目を配ってみれば。少し離れた、左へ渡る道の奥まったところにも、光る何か抽象らしきが立っていた。
 パブリックアート、彩るを超えた街づくりの一環か。場所柄の、学術的気風の表れだろうか。右に左に見える学校の名に、そんな思いが呼び起こされる。
 銀杏の緑が交差する並木道に彫刻、思いがけずの……から、だったろう。
 他にも。
 神田駅へと通じる路に古くから並ぶ二校は、建て替えられている。
 もしかしたら。
 軽い期待に、自然道を折れていた。

 丸窓、門、広めの階段、垂れ幕。一見他のビルと何ら変わらぬように見えた外観も、一つ一つつぶさに見てみれば、そこかしこに学校の面持ちが残っている。
 垣間見える学生の気配。男子校だった内の一校は近年、共学に変わった筈だ。道を反対に折れた先で交差する、白山通りが女子校で、ここ一角は男子校。そんな区分けも無かったが、女子が歩く通りを想像して、何故か可笑しい微笑ましい気分になっていた。そんなことを考えていた為か、気がつけばもう二つ目の門も過ぎている。
 待ち人は……
 進むままに校舎の先を見ていると、はたしてそれは見つかった。今度は、歩道に沿って大きく連なるものだっだ。
 ビルの軒先、ガラス張りの大きなエントランスを占める、それは築に合わせて最初から目的とされたものだろう。建築主の在り方か、それとも地域振興の表れか。狭い区域にこれだけ点在するのには、やはり景観に対する意識がかかわっているのだろう。
 街の一部。現れた新しい存在は、ややもすると殺風景な、この神田警察通りにとって好もしいものに違いなかった。
 土曜日の午後、向かいの時折見える商店は、どこも皆閉まっていた。
 あと、もう少し……
 木陰に誘われるままそぞろ歩く道は、風が通り抜けるだけで何故かしんと静まりかえっていた。
 本郷通りまで……、考える矢先のことだった。
 広いラウンジの中に、白いテーブルと黒い椅子が整然と並ぶその中に、柱を背にして一人置かれたものが居る。それは通りに面しているにもかかわらず、何故だろう彼の目の前には太い柱が、あてがわれていた。
 足元には小さなプレート。目を閉じているのかそれとも、黙念するかのような、宙に足を浮かばせた立像。狭い通路を挟んだ正面のウィンドウには柱。向き合うには不都合な、外からでは為す術も無い。
 空いた椅子とテーブルの、誰も居ない広いガラスケースの中で、見る人もなく像はただそこに居る。
 ジジジジ、七月の日射しが蝉の声を運んできた。休業のカフェは素っ気ない顔をしていた。

 おしまいか。
 そう、ひとつ吐いた溜め息に、切れる道の角を曲がっていた。
 クリニック、教材を扱う店、お菓子屋。閉まった店。勤め人の居ない、人けの無い路地裏を歩くのも悪くない。昔ながらの佇まいでぽつねんとある商店は、そんな思いを起こさせた。
 川沿いのプラタナスの路へ出る、ほんの手前の時だった。小さな緑陰の中にひっそりと佇むひとが居た。

 どうしてだろう。何故ここなのだろう。
 こんな裏通りの片隅、けして目立つような、何故? 一人まどろむ美しいひと。色鮮やかな花と青々とした木々の中の、触れられそうで触れられない、触れてはいけないような境界。
 もの言わぬひと、彼女は彫刻だった。支柱に左の肩を二本のビスで留められた、そこに置かれたひとだった。
 休みの店、閉めたビル。まるで街と共に眠りについた、閉じた……静寂。
 深い眠りに満ちた表情、束ねられた髪。襟ぐりを大きく刳ったローブ、細いプリーツが流れに添う上品なドレス。右肩に落とした頬、ほどいた右手。そして、何故か左腕が無かった。
 そっと近づいてよく見れば、気がつけば。長椅子にもたれた、そんな風に見える姿も、身体をあずけている筈の支えが見当たらない。
 横たわる? 空に。彼女自身が? と、思えば。右腕の肩から地面へ下りた脚は木の枝に、ひだに見えた細い流れは割ける木肌に見えてくる。
 同化してる?
 眠るこのひとは、名前は? 題名は何というのだろう。そういえば、ここには銘が無い。他の五つに有った、作品名と作者の名が記されてない。
 どうして?
 台座を見ても木立の間を探しても、見当たらない。辺りを見回しても、ぐるりを回ってみても見つからない。脚には? 背には?
 探る、如何にも無遠慮な自分に気がついて、思わず我に返った。
「わたしは何をしてるのだろう」

   二 雨

 その日は雨が降っていた。
 まだ昼休みも過ぎて間も無い時刻だというのに、垂れこめた雲に街は暮れる間際のようだった。道には明かりが灯り、彫刻達も既にライトアップされていた。金曜の街は雨に濡れても華やかだった。
 人知れずのような場所であっても、木が茂り花が咲いているそこは美しい小さな森。ほんの数分先の、今日は別の道から入ってみる。

 高いビルで見えなくなった裏手には、小さなビルに挟まって二階建ての町工場がぽつりぽつりと残っていた。道端に出された植木鉢、機械を動かす音がする。側を通ると湿った空気に混じってインキの匂いがした。
 古ぼけたビルの灯りと、大きなエントランスを飾る照明と。コインパーキングのこうこうとした明かり。
 彼女はライトアップされていた。雨に濡れた身体をブロンズに濃く染めて、そこに居た。ドレスのひだを滑る雫が、膝で切れた裾を伝わって彼女の足に作るその跡を、光はくっきりと映し出していた。腹部に刻まれた影が傷のように思われた。……傷んだ樹皮。
 ……ビスで留められた?
 いやこれは、この杭は傷ついた木を、枝の折れた左肩を、支えていたのかもしれない、失われた腕の代わりに。彼女を守る森は、失った手を、再生の時を待っているのかもしれない、もしかしたら。
 そんな気がして、わたしは立ち去れなくなっていた。
 叩く、雨音に。斑を重ねたハナミズキが、はじける雨の中でいつまでも揺れていた。

   三 黙

 帰宅の道は夜の八時を過ぎていた。
 明かりの灯る表通りを端に見て、入る土曜のそこは相変わらずの、人けの途絶えた、何ら変わらずの筈だった。 
 彼女は暗がりの中に在った。
 人の出入りの無いビルは明かりで飾る必要が無かった。見る者の居ない休みの夜につけるライトは無駄だった。
 ひっそりと沈む鎮魂の杜に溶ける影。
 高速道路の下で、枝を払われたプラタナスが白く浮かんでいた。

   四 音

 音の無い朝だった。わたしは夢を見ていた。一面の白の中で、一枚のガウンに身を包んだ女性が歩いていた。頭からすっぽり被った白い布は足元までゆるやかに広がり、足先を覆う裾を長く後ろに引いていた。白の奥で見えない顔のその人が、彼女であることは相違なかった。
 降りしきる雪の中、何処へ行くのだろう。とたん、雪が降るのをやめた。
「やまないで」
 そんな心許無げな一瞬に目が覚めた。薄暗い部屋の中で、視線の先のカーテンだけが真白い光に包まれていた。指が、目尻の流れの先を拭った。

 夜半の雨が変わった、季節にはまだ早い雪が街を白く染めていた。日曜の朝の道にはまだ何の跡も無い。誰も気配に気づかない。降り積もった雪を見て、わたしは何故か安堵していた。
 硝子に張った細かい露に触れた指先を、もう片方で拭って、夜気のまだ残る窓を閉めた。わたしはカーディガンを羽織り、そして、やかんを火にかけた。
「歩いてた……」
 残る思いが声になる。わたしは何故こんな、何がこんなにも気にかかるのだろう。戸惑う気持ちを探ろうとした時、けたたましく笛が音を鳴らした。開けた口から広がる蒸気が部屋を暖めていく。擦り合わせる手が温まる。彼女の手、彼女には左腕が無い。
「肩を留められていた筈なのに……」
 手が有ればただそこで、居られたのに。
 手は、彼女の腕はまだ、誰が持っているのだろうか。
 手の無い、名前の無い彼女は……探しているのか。
「知りたいのか……」
 名前が無い。そうかもしれない。
 かつて名前を知りたがった人が居た。わたしの本当の名を知りたがった男が居た。わたしは教えなかった。教えられなかった。けれども知らせなければならない時が来て、わたしは彼にそれを伝えた。
 あれから何年経っただろう。あれから一度も、その名前は呼ばれたことが無い。
「理由が……」

 雪はやみそうになかった。時計は午後を指していた。その横で、デジタルの数字を知らせるだけとなったCDプレーヤーが文字を変えた。ラックの隙間には、空っぽのプラスチックケースが無造作に押し込められたままになっている。
 入れっぱなしのディスクに、電源を入れ再生ボタンを押してみる。シュルシュルと可動音がして、消音にしたスピーカーは声を上げない。無音の時間が回って、やがて停止を告げる小さな音がした。取り出したディスクをケースに帰して、わたしは消音を解いた。
 そう、もう何年も経っていた。
 雪はもう、やんでいた。

   五 永遠

 明くる日は晴れていた。
 思いがけず早く目覚めた朝に、外に出てみた。雪に洗われた街が眩しい。通る車に車道の雪は殆ど消えている。路肩と日陰に残るだけの雪に、わたしは真っ直ぐそこへ向かった。

 早朝の街、まだ人影もまばらの街に。犬を連れた人が見える、カタカタと危なげな自転車の音が聞こえる、街路樹の根元の土に雪がかき集められて。どこからかやって来る焚き火の香は、まもなく訪れる冬の匂いがした。わずか十数分の散歩道。坂を降りたあの先の、街の中で息づく小さな。
 彼女はそこに居た。
 まだ白いそこの、花にはまだ雪がかかったままなのに、何故か彼女の上にそれは無い。薄いベールのような白が裾に広がる真ん中で、彼女だけが変わらぬ姿でそこに居た。
 五十年、百年。名前が無くとも……
「いつか……」
 あなたの本当を知るひとが。あなたの手を、そっと取ることを夢に見る。
 あなたは何を見ている? 目覚めの時を待つひと。
 眠れるひと。
 その右の細い指の傍らで、寄り添うように在るひと枚の、紅い葉に朝の日が射し込んでいた。

                             了

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※(インテルサイト用)表紙写真。

※2024/08/05 修正:古本 → 古書
※2024/08/05 加筆:叩く、雨音に。