土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

今日はこれだけ;

2008-11-25 23:55:19 | 日記




「ドッペルゲンガー」の舞台;の、
銀座ギャラリーです。
http://gallery.club.or.jp

日比谷側から銀座を望んだ所。
今日、写真を撮りに行って来ました。






こちらは、上がった所の阪急と西武の間の通路。(1階)
「天使の舞踏会」

もう、どこもクリスマスの飾り付け。綺麗です。(^_^)


間違えた時

2008-11-24 22:45:16 | 随筆
11/17の記事(後半)からの続きと、言えるかもしれない。

昨日書き始めたのだが、その間に「元厚生次官殺傷事件」の犯人の出頭が有り、そちらを含む事としても少し書きたいと思う。


一昨日「たけしの教育白書」を少しばかり見た。
親子の間に起こった問題のはけ口?が外、他者へとが向かった事件を扱っていた。(ホーム転落殺人事件)
接見しても、事件に言及しようとしない父。


常日頃からの思い…
子供が壊れる要因は殆どの場合、親、大人なのではないか。
が、浮き彫りになる様な(加害者の父親への)インタビュー、追取材だと感じた。



以前にもあった。
子供の生きる力を奪い、選択肢(他の道)の全てを摘んでおきながら、数字(年齢)で括って見放すという行為。


『そこ気をつけろ』でも無く、考えさせる(見守る)でも無く。
成長の通り道にある壁、石、小石さえも取り除いてしまう。(過保護)

あげく、自立(或いは承認)を試みようとする子の自力歩行の芽まで摘む。(過干渉)

<不快>を取り除かれ。
閉ざされた世界に押し込められ、唯一の窓だった人間から否定・放任された時、自己肯定出来ない子(人)は、その人との関わりだけにすがって、繋がりを留めようとする。
関心を引きたい。それが<事件>という形であっても。
その人との関わりからでしか、世界を自分を見る事が出来無いからだ。


この加害者は、父親の『身の丈にあった所を目指せ(的な)』言葉に『自分は見捨てられた』と思ったと言う。
事件への動機というには、余りにも短絡的で理不尽な他者への凶行。

反抗期を奪われたこの若者には、親の言葉という障壁を乗り越える力は育って無かった。



無理・無謀な障壁に挑んでる<様に見える>時、近しい者はその人に対して何が出来るか。
何を言ったら良いのか。(心配するは自然な気持ち)

止める、促す、一概には言えない。

でも。たとえ、結果、その時点の結果、達成出来なくとも、
<経験>させる・する事が大切なのでは無いか。
長い人生の内で『全勝(?)』である事等、無い。
『やるだけやった』が次に繋がる事を、もっと信頼すべきなのでは無いだろうか。

『やった』そこから『出来る』(出来無いも)という<次>が生まれる。
やった、からこそ、進む・諦めるも、見える覚える。

先回りするばかりが。道を整えてやる、事が教育では無い筈だ。
自発性を育てる。
障害に向き合わさせる。(後ろに控える)
自分(大人)の経験は『やった』後ででも良い。

隣る者は、心配するよりも、信じて待つ、事の方が大切なのでは無いか。そう思う。


他方、モンスターと化す親達も居る。
モンスターペアレンツとは、親の過保護と自己愛の投影によるもので、やはり子の人格を認めず、『分身なり』と私物化する親の形態だろう。
分身(子)を不遇に扱われる事は、取りも直さず自分への否定と受け取るのだ。

そこからは、また別の『(子供を見ずに)闇雲に信じて非行(の兆し)を見逃す』という過ちも生まれたりする。(「信じる」の誤用)


誇大自我。
動かせない社会・体制(大きなもの)、状況への不満から、その中の小市民であるしかない( ← 自己認識)自分を実際より大きく見せる為に、より弱いもの(子供・年寄り・学校・サービス業等々)に向けられる矛先。



理由が見えにくい、不可解な事件の数々。

飼いならされた、障壁に挑まなかったが故に経験が足らず、単一な思考回路しか持ち得ない。
その事件の凶悪さに結びつかない、驚く程単純な動機(理由)は、犯罪者の視界の狭さから来るのか。そこには他者(の視点)は無い。
自分目線の中で整合性は保たれる。(ペット → 親 → 厚生省)
ある種のすり替え。


直接の原因(親等)に犯行が直結しないのは、それが自分より大きな(かなわない)相手と感じているか、故に間接的に貶めたい(復讐)のか、或いは見捨てられたく無い最後の拠(よりどころ)と認識してるから。
本来関係のない相手に刃が向かうのは、そういった心の表れでは無いか。
『誰でもよかった』本当に理解して欲しい相手以外なら…


そして場当たり的に対象を探す。衝動的、或いは。
今現在に於いて大きな話題となる要素を含んだもの。
自己をより大きく印象づけられるものを狙う誇大自我。

犯行を起こす時には、自暴自棄になっているか、清算をして人生を終わらせ様としている。だからつかまる事を恐れない大胆(目立つ)な行動を取る。(取れる)
最後に大々的に取り上げられて、主張したり見てもらったりしたい。
思い通りにならない現実への大人の駄々。


今回の事件。
待てない(我慢が出来無い)自我(エゴ)は、自ら全ての証拠(自己証明)と共に出頭という選択を用意する。

『ペットを殺されたから』厚生次官に向けられたは、後づけの理由。
『ペットを殺した』させたのは、選択したのは親なのである。(故に関連のあるを選んだのでは)
『殺さないで』を聞き入れてくれなかった親への、大きな力への反抗。
『無駄な殺生すれば、それは自分に返って……』
この一言が、親に向けられたものに感じられてならない。
(殺された・犬 ⇒ 自分の気持ち ⇒ 自分)

根源的には愛の問題(いずれも)で『愛して欲しい』の表れ(裏返し)が、の様な気がしてしまうのです。

親は逃げずに、息子、自分自身に向き合って欲しい。
『手紙』から目を逸らさないでと思う。(対話からも)

ここに書いたものは、想像ですが。



背後にあるものは。
自分を頂点とする小さな支配(弱き者へ)の構造。(愛故に、も)
過保護も過干渉も浸食も放任もせず、とは。


人は通り魔的な不可解な事件が起こる度に、被害に遭われた方を憂い同情を寄せると共に、自分の愛する者達が被害に遭わぬ事を願う。
そして、同時に加害者(側)になるやもしれない可能性にも思いを馳せる。


ただ一つのマニュアル等無い。同じ条件(環境)も無い。
人が人を育てるのだから、時に間違える事も後悔する事も有る。

ただ一つ必ずしなければならない事は。
(親子間の問題だけにかかわらず)
<間違えた時>に自らした事をきちんと見つめる。では無いか。
『向き合わずに逃げる』をせずに。

厳しく、大変な重荷になる場合もあるだろう。
でも、それをせずには(乗り越えた)先は無い様に思える。
無かった事には出来無い。


まず、大人が気づかなければ。
逃げない姿を示さなければいけない。

難しい。けれど、
「ごまかさないで」、そうありたいと思うのだ。


何選ぶ…

2008-11-23 21:30:34 | 歌日記

小春日の出しビルから 午後の庭  


小春日の中に私と鳩一羽(11/17) 

若木なら枝も落とせず 黄葉たつ(11/18) 



正確に言うと「庭」ではありませんが;
「若木」は11/14で書いた枝下ろしを、免れたプラタナスの木の事。


ビルの日陰に入ってる庭;は、この時期寒々しいもの。
ビルの途切れ目から徐々に陽の影が伸び、やがて光の塊が現れた。
「眩しい」
そして、
目で追っていた時間を腕に射す暖かさで感じた。

どれが「今日」は残ったのか。


目で追うか心で追うか 冬の季語 


説明なんて…

2008-11-21 20:57:58 | 制作日誌
7/8に予告?したまま、放ったらかし;になっていた「ドッペルゲンガー」さんの話を、やっと;昨日手をつけてソッコー;書き上げました。


ご存知の方も多いかもしれませんが、中に出て来る「銀座ギャラリー」は、地下鉄日比谷駅から銀座方面へ向かう途中の地下通路に有ります。
有楽町阪急・西武に出る階段の下まで続く細い通路を利用して、両サイド(壁)に駅の看板よろしく列車の窓よろしく;額(ウィンドー)が並びます。

7/5に書いたドッペルゲンガー(激似)さんとは、ここで遭遇したのですね。
だから「掌編」とは言っても、限りなくノンフィクション。
今までの三編、皆そう;

(ちなみに当日開催していたのは、荒谷良一写真展「猫と子と」)


タイトルは、そのまま直球「ドッペルゲンガー」で。
話的には、地下、地下鉄、列車の窓(?;)、トンネル?等、異空間(異世界)を匂わせる材料が揃っていたので、それを使ってと。
異次元、表と裏・時間等を感覚的に描きたいな、と思いました。

作品(構成)的;には、前回の「横顔」で試してみた(?)境界線を消して行く…様な感じを継続して入れて。


等と…要らない説明。ごめん。
「解って頂けたか?」「効果があったか?;」
というところ;で書いてみたけど…
(聞くのが怖い;コメント欄、設けてないのに;「スミマセン」?)

「くくくっ」(悩)
;少しでも楽しんで貰えたら;嬉しいです。



さて;今日はこれから(21:00~)日テレで「ALWAYS 続・三丁目の夕日」があります。
去年の今頃、契機?に一役かってくれた?作品。(思い入れの有る)
DVD 持ってますが;見ます!

ご覧になる方は、冒頭をお見逃しせぬ様に。
東宝の往年の大スターが出ますから!

って、(煽っても;)皆知ってるよね?;



(個人的;)補記。去年の手帳を、ちょっと見てみたら。

丁度、去年の今日「ALWAYS …」見に行ってたんだ…。
ちょっと「感慨」。(映画見ながら)


No.36「ドッペルゲンガー」

2008-11-20 21:59:07 | 掌編(創作)
上映時間まであとわずか。途中、地上へ出る地下道の中にそのギャラリーは有る。
いつも、急ぐ私を引き留めようとするもの、もの達。
「いけないっ今日は猫だ!」
もう遅い。
猫が居る「この子可愛い」猫が居る。フレームの窓の中に猫が居る。
猫が居る「この子好き」猫が居る。フレームの外に人が居る。やって来る。
猫、猫。外に人、近づいて来る。猫、猫。すれ違う人。
人通りの多い街で人は皆、器用にスライドして行く。視線も合わさずに。

その人もまた視線は猫のままに近づいて来た。同じ写真、同じ道を反対方向へ行く二人。
瞬間ひらりと私は猫から目を移す。
一瞬。無邪気な笑み。
顔を横に向けたままゆっくりと泳ぐ様に進むその人を見送る私は声を掛けられない。

「美紗子?」
瞬時に思う「違う」。目の前を過ぎて行った人は「違う人」。
でも、美紗子。一目で解るあの笑顔。
昔の、高校生の彼女だ。
黒のチュニック、レースのレギンス。今、目の前を過ぎた彼女は誰。

ゆっくりと流れて行くその、無邪気な笑顔の前に私は声を掛けられない。

自由に一人で。歩く楽しそうな彼女。若々しい人。
あの頃の彼女。
「この人は誰?」

きっと。
彼女はきっと…これから帰るのだ。
「そうね」

その先に有る改札をくぐり、幼い子供の待つ家へ。
ひとときの自由。笑顔、無邪気な。
笑顔の待つ家へ。「戻る人」。

私は声を掛けない。
「またね…」「そうね」

瞬きに。後ろ姿を見送って、私は階段を上がった。
ゆっくりと、そこを後にして。


2008.11.20 ?