第一期『ひみつのアッコちゃん』連載終了後、翌号より、同じく「りぼん」誌上にて引き続き連載されたのが、ロバート・スティーブンソン監督、ジュリー・アンドリュース主演によるウォルト・ディズニー・カンパニー製作のミュージカル映画『メリー・ポピンズ』(原作/パメラ・トラバース)にヒントを得て描いたというホームコメディー『キビママちゃん』(65年10月号~66年8月号)である。
大会社を経営する裕福な大川家は、父親である桃太郎社長以下、男勝りでスポーツ万能、勝ち気な性格の長女・テツ子、花や人形が大好きで、お洒落にも興味津々という、ちょっぴりフェミニンな一面を見せる長男のカオル、悪戯が大好きなきかん坊でありながらも、動物好きという優しい一面を持つ次男のカン吉(『ひみつのアッコちゃん』より連続登板)、幼さゆえ、時折亡くなった母親を思い出し、涙にくれるものの、常に微笑みだけは絶やさない末娘のトコの二女二男の四姉弟が暮らす父子家庭だ。
若くして妻を亡くし、日々仕事に忙殺される男ヤモメの桃太郎社長は、ろくに子供達の躾も出来ず、お陰で大川家の四姉弟は、部屋はゴミだらけで、散らかし放題、喧嘩は日常茶飯事という、荒れ果てた毎日を送っていた。
そんな彼らに業を煮やした親戚の叔母さんは、ある日突然、春野キミ子という若いハウスキーパーを大川家に派遣する。
キミ子は、その可憐でキュートな見た目とは裏腹に、部屋の掃除も洗濯物の後片付けも、全て本人達にやらせ、彼らのだらしのない生活もピッチリ管理する猛烈に厳しい女の子だった。
当初、柔道の達人でもあり、容赦なくビシビシいくキミ子のバイタリティーに、現代っ子である子供達は、戸惑いを隠せなかったものの、キミ子の朗らかで優しいキャラクターと、みんなに希望と勇気を振り撒くそのハッスルぶりは、次第に彼らの心をガッチリと捉え、キミ子もまた、家族の一員として大川家に溶け込んでゆく。
そして、その厳しい性格と、何処となく亡くなった母親に似た面影を宿しているという理由から、キミ子は子供達から「キビママちゃん」のニックネームを貰い、キビママちゃんと子供達は、時には喧嘩をしながらも、血の繋がりという隔たりを越え、明るくのびのびと本音を言い合って、理解し合える対等の関係を築き、親子以上に強い愛情で結ばれてゆく……。
キビママちゃんや四姉弟の奮闘を通し、物事を率先して行い、自らの力量で最後までやり遂げてゆく自発的行動と意思決定の重要性を、作品のテーゼとして明確に示したエピソードがいくつも描かれているが、それらが気高い美意識に准えて掲げられているため、陰々滅々な説教臭さは微塵も感じさせない。
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『キビママちゃん』は、リアルな日常を切り取った生活漫画でありながらも、舞台となる大川家の洋館風の邸宅やインテリア等のモダンなレイアウト、登場人物達の小洒落たキャラクターイメージなど、少なからず少女漫画ならではの華やいだ情趣に彩られており、その軽妙洒脱なやり取りと、ブライトな夢が注がれた当世風のドラマとの相乗効果により、何処となくアメリカのホームコメディーを彷彿させる、初期赤塚作品独特の泥臭さと 明らかな差異を含有した、ちょっぴり垢抜けた作風へと仕上がった。
本家『メリー・ポピンズ』では、ドラマを進行する重要なモチーフである不思議な魔法の能力を、本作を執筆するにあたり、押しなべて封印していることからも、赤塚自身、前作『ひみつのアッコちゃん』とは質の異なるカラーを打ち出し、その良質のテーマだけで、如何に読者にドラマの趣深さと共感性を訴えるか、試行錯誤を重ねていたかが伝わってくる。
後にステロタイプ化する装飾的表現と恋愛的要素をふんだんに盛り込み、様式美的な華麗さの追求を命題とした作品が勃興するなど、少女漫画というジャンルそのものが、大きく様変わりしつつあった変革期に、どんなに時代が変わっても、薄れゆくことなどないと信じたいヒューマニティへの賛美をテーマとして捉えている点に、清々しい心地好さを感じる。
既にこの時、赤塚は、ジャンルの時流から逸れつつありながらも、宮城まり子主演の同名タイトルの人気テレビドラマのコミカライゼーション版で、東北の分教場に赴任してきた新任の女性教師の奮闘と生徒達との交流を、細やかな人情とともにユーモアと哀切を織り交ぜて描いた『まりっぺ先生』(原作・舟橋和郎、「りぼん」59年4月号~12月号、4月号~11月号は別冊付録での連載)や、下宿人の募集に同時に応募してきた二組の姉弟が、一つの部屋をカーテンで区切って住み、当初は喧嘩ばかりしていた二組が、喜びや悲しみを分かち合いながら、次第に心を通わせてゆく人間模様をほんわかとしたタッチでスケッチした『夕やけ天使』(原作・高垣葵、「りぼん」61年11月号~62年4月号)といった、可憐で健気な、しかし芯のしっかりとした、逞しくて情に篤い女性の生き方を通し、時にはささやかな感動や幸せの瞬間を、また時には奥深い陰影をドラマに刻んだ秀作を複数執筆していた。
例え、悲歎に打ちしひがれても、心の望みを棄てずに生きることの尊さを謳い上げた、これら赤塚の少女向け生活漫画の延長線上に位置する産物にして、その作品様式の完成型として昇華させたものこそが、この『キビママちゃん』なのだ。
朗らかさや健気さといった、人間が本来持つ美徳を性善説の観点から描出し、地味だが、人間愛に基づいた癒しの幸福感がドラマの根底に注がれた作品だからこそ、人間関係の希薄化、延いては家族の孤立化が叫ばれ、稀ならず、育児放棄や児童虐待が横行するなど、物事の理非曲直に対する判断基準もが大きく揺らぎ、社会的においても、様々な病理現象が噴出するこの受難の時代に、是非読み継がれることを願わずにはいられない。
また、若干スノッブ感は禁じ得ないものの、近年マニアックなフェティシズム的倒錯からオタク文化の巨大水脈として完全に定着した、メイド萌えの要素を多分に含んでいる『キビママちゃん』には、時代をも先んじる進取性があると捉える向きもあり、そうした見解例からも、現在最も映像化に適した赤塚作品と言えるだろう。