(城山公園下田市3丁目)
下田港を臨む岬にある自然公園鵜島城跡で、老松、桜、椿、ツツジ、アジサイなどの中に散策路があります。
下田港を望む小高い丘で、春はツツジが咲き競い、6月には300万輪のあじさい、冬は161種の椿が咲くロマンチックな公園です。園内の開国広場には開国記念碑があり、毎年、5月第3土曜日に「黒船祭」が開催されます。さらに、カーター記念碑や下岡蓮杖の碑などがあり、散策しながら下田情緒も満喫できます。また、下田が北条氏の支配下であった頃、水軍根拠地として「鵜嶋城」があったことから城山公園とも呼ばれ、天守台跡、空掘が昔の面影を残し、松の大木など緑に包まれた公園として親まれています。























下田城 (伊豆国)
下田城は静岡県に存在した海城。
現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。
歴史
後北条氏は当城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。天正18年(1590年)に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。
下田港を臨む岬にある自然公園鵜島城跡で、老松、桜、椿、ツツジ、アジサイなどの中に散策路があります。
下田港を望む小高い丘で、春はツツジが咲き競い、6月には300万輪のあじさい、冬は161種の椿が咲くロマンチックな公園です。園内の開国広場には開国記念碑があり、毎年、5月第3土曜日に「黒船祭」が開催されます。さらに、カーター記念碑や下岡蓮杖の碑などがあり、散策しながら下田情緒も満喫できます。また、下田が北条氏の支配下であった頃、水軍根拠地として「鵜嶋城」があったことから城山公園とも呼ばれ、天守台跡、空掘が昔の面影を残し、松の大木など緑に包まれた公園として親まれています。























下田城 (伊豆国)
下田城は静岡県に存在した海城。
現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。
歴史
後北条氏は当城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。やがて豊臣秀吉との関係が悪化すると伊豆衆の清水康英を城将とした。天正18年(1590年)に豊臣側の水軍が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城している。北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となった。忠次の子・尊次は慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し、廃城となった。城址は下田公園となっている。