FMサウンドクルーザーの話をしよう。
FMサウンドクルーザーはNHK FMが放送する、45分間の音楽番組であった。何人かの選曲者が交代で、あらかじめ欧米ポップス、イージーリスニング、ジャズなどのジャンルから8~10曲を選んでおいて、番組ではただその音楽だけを続けて流すという内容で、曲をフェードアウトまで全部流し、無音部をおいて次の曲に移るといういかにも音楽FM番組らしい、録音して「カセットテープを作る」のには向いている番組だった。が、あまりにも曲を流すことに寄りすぎていて番組中はMCが一切無く、番組の冒頭は無音状態から女性アナウンサーによる「FMサウンドクルーザー」というコールのみでいきなり1曲目に入るというシンプルの極み。あとは曲の演奏が延々と続き、番組の最後もギター独奏のテーマBGMに合わせて同じ女性アナウンサーが「FMサウンドクルーザー、お聞きいただきました曲は、〜〜」と曲を紹介しきるとBGMがフェードアウトして終わるという、当時聞いていてもなんだか不思議な感じがする番組であった。
中学の時、科学部という名の帰宅部に所属していた。顧問の先生には部活ではほとんど相手してもらった記憶がないのだが、一度だけ部活をやるぞと招集がかかり、珍しさもあって2、3人の部員と一緒に指定された教室に集合して待っていた。しばらくすると「ラジオの製作」か何かの雑誌を携えて先生が登場し、「こういうの作ってみない?」ぜひやってみたいと言うと、車に乗れと言う。ダイオードや抵抗端子といった電子工作部品は地元には売っておらず、県庁のある街まで出かける必要があったのだ。透明なプラスチックの引き出しを開けると抵抗がスペック(縞模様の色で区別できる)毎に分けて並んでいる、そんなものが壁いっぱいにぎっしりと並ぶ店に初めて入ってえらく興奮したのを覚えている。先生の運転で電子部品を扱う店に向かう間の約1時間、部活で顔を合わせるのも珍しいほど忙しい先生相手に、車の中で何をしゃべったか全く覚えていない。ただ、先生がカーステレオでかけていたのはラジオではなくカセットテープだったのがやけに印象的であった。「番組を丸ごと録音して、繰り返し聞くんですよ。好きなので」記憶はあいまいで、わずかなインターネットの情報によるとその番組は時期が違っていてFMサウンドクルーザーではなかったらしいのだが、僕にとってはそういう音楽の楽しみ方があるんだな、とその時初めて知ったのだった。ちなみにその時作った電子工作はラジオにビープ音を飛ばすだけのおもちゃであった。
手元にはFMサウンドクルーザーを番組丸ごと録音したテープが19本残っていた。片面45分で計38回分を録音していたことになる。
学生の頃、父の用事にくっ付いて横浜の伯父の家に泊りに行った時に、新幹線の移動時間を潰すために分厚いカセットテープのウォークマンと、このテープを2、3本持って行った。あわただしく用事を済ませて帰りの新幹線に乗ると、席について荷物を落ち着かせる間もなく列車は東京駅を滑り出し、上野駅の地下へと入っていく。僕は椅子に座り、早速駅弁を開けはじめている父親を横目にウォークマンを取り出し、ヘッドホンを付けてプレイボタンを押す。1曲目はバッハのチェンバロ協奏曲をシンセサイザーで演奏したものだった。当時クラシック曲としてのオリジナルを聞いたことがなかった僕は、そのボブ・ジェームスのニ短調の華やかなメロディを聴きながら、バロック音楽のオマージュみたいだな、などとぼんやり思いながら音符の波に浸っていた。すっかり日が落ちたビルの合間から滑り込んだトンネルの中は真っ暗で、パッと明かりが戻ると上野駅に止まり、乗客を乗せる。静かに車両が滑り出し、ゆっくりと地上に姿を現す。曲が終わって一息の静寂の後、ピアノによる独奏が始まる。それが「追憶の街」であった。
それ以前にもテープで何度か耳にしていたはずなのだが、この時に改めて番組の曲構成で落ち着いて聴き込んでみて、はじめてこの曲の美しさを細部まで見渡すことができたのだった。自らの足跡をひとつひとつ確かめるかのような旋律、ピアノの歌に寄り添う柔らかいオーケストラの伴奏、記憶の向こうから語り掛けるように主題に向き合うオーボエの音色。静かな曲想は一つのイベントを終えた気分と重なって、僕の思い出を呼び起こす。高架のふもとには夜の都会の街の灯りが広がり、視線の所々にはビルに瞬くネオンサインと窓の光が残っているが、その上の空は既に星空に替わっている。恐らくは曲の元のモチーフとは違っているだろう、けれども、夜の訪れとともに都会を去りゆく自分の目の前を流れる風景、そして記憶の中の懐かしい景色がクロスオーバーする。
それから僕は、何かにつけて頻繁にその撮り溜めたテープを持ち歩いては、その時に聞いた音楽と出かけた先や道中の風景、思い出や感情をセットで記憶するようになった。中には録音した当時のノイズが残ったままの所があって、そのノイズすらそれら風景の一部として記憶される事になった。
社会人になり可処分所得を手にするのと前後して、レコード屋でこの曲が収められたCDを見つけ手に入れた。それから現在まで、以前聞いた音楽をこまめに探しては手に入れる作業を続けることになる。思い出のお気に入りの曲をきちんとCDで手に入れる、その取っ掛かりはこのCDであった。アルバムにおけるコンセプトはもちろんFM番組のそれとは異なっていて、アルバムの中では同じ曲の響き方も少し違う印象すらある。音は当然クリアで透き通っている。しかし逆に言えば、この番組での曲の並び、さらには撮り溜めたテープでしかあり得ない繰り返し聞いたノイズなどは、当然オリジナルのアルバムには含まれている訳がなく、だから同じ曲を聴いていても僕の中に立ち上がる記憶は違っている。なので僕は今も、ちゃんと買ったCDとは別に時々このテープを引っ張り出してきて、曲とセットで刷り込まれた僕の思い出を、懐かしく聴いてみたりしている。
中村由利子 「絹の薔薇」 CBS/SONY CSCS5002