つまり、「あきらめ」義の「観念する」は仏教用語としての「観念」の延長線上にあるということです(mapo / PIXTA)
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――於勝(おかつ)、診せんか。
苦渋に満ちた顔をして、青洲(せいしゅう)は妹に云った。於勝も観念したのか、治療室に身を横たえた。(有吉佐和子『華岡青洲の妻』)
これは、乳がんで乳房が大きく腫れたにもかかわらず隠していた於勝を、青洲が診察しようとする場面で、「観念した」とは、隠し続けるのを「あきらめた」ということです。
「観念」は元は仏教用語です。「観」とは智慧を持って深く観察すること、「念」とは思念することで、どちらもサンスクリット語の漢訳だそうです。観察し思念する対象はもちろん、仏教の真理や仏の姿で、「我れ一心に極楽を観念するに、他の思ひ出来れば、其の妨(さまたげ)と成る故也」(今昔物語)の「観念」がそうです。
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