お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

東殿山城

2014-04-13 07:36:30 | 岐阜県
 東殿山城

2014/4/5

岐阜県郡上市のお城めぐり

 東氏の支族遠藤氏に攻め滅ぼされた東氏最後の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 東殿山城
よみ: トウドノヤマ
別称: 赤谷山城・犬鳴城・気良城
所在地: 岐阜県郡上市八幡町島谷
現状: 山
築城年代: 赤谷山城=応永十六年(1409) 東殿山城=天文十年(1541)
築城者: 東益之(赤谷山城)、東常慶(東殿山城)
形式: 山城
遺構: 曲輪、石垣
規模: 30m×30m、標高570m、比高340m
文化財:
訪城日: 2014/4/5


≪ 訪城記 ≫

郡上八幡城から東殿山城へ向かう。

城山公園前の駐車場を出て、曲がった坂道を降り、城下町プラザ突き当りのT字三叉路を左折、県道319号を南下、町中を通って突き当りのT字三叉路を右折、西進して突き当りを大きく左へ曲がり、吉田川に架かる橋を渡り、町中を南下、突き当りのT字三叉路を左折、細い町中の道を東進、突き当りで斜めに大きく右折して愛宕神社前に出る。国道256号を少し西進した愛宕神社西側の駐車場に車を駐車する。

駐車場南側の戦没者慰霊塔の階段を登り、左側奥の三十三間堂右側に遊歩道があり、ここが登城口です。他に愛宕神社からの遊歩道もあります。登城口に説明板があり、ジグザグの遊歩道を約20分登っていくと、広く削平された場所に赤谷城跡の標柱と祠があります。ここは赤谷城跡ではなく、さらに歩道の案内板のある山の奥へ行く踏付け道へ入って行く。一度登って降りたところに東殿山国有林管理歩道図が小さな看板に張られている。ここまで祠から約15分。険しい山道を登っていくと小さな削平された場所があり、ここが最初の曲輪らしい。さらに降りてまた登ると、用心水のドラム缶のある小さな削平地に出る。ここが二つ目の曲輪です。ここまで約15分。さらにまた降りてロープを使って登るほど険しい山道を登った山頂に二段の小さな削平地があり、赤谷山城(東殿山城)の看板が建っている。ここまで約15分。祠から約45分かかりました。
山頂の曲輪(本丸)の西側斜面に石垣が残ってます。ここも斜面が垂直に近いため非常に危険です。
山頂付近の斜面は急で必ずロープを使って上り下りしてください。
帰りは愛宕神社側に降りました。愛宕神社付近には宝暦義民碑、五人塚があります。
どうも赤谷山城と東殿山城は同じ場所のようです。


≪ 歴 史 ≫

応永十六年 (1409) 篠脇城を築いた東氏村より三代目の益之が赤谷山城を築き一時的な居城としていたようです。
天文十年 (1541) 天文九年(1540)と十年の二回、越前の朝倉義景の攻撃を受け、篠脇城では防ぎきれないと判断して、東益之から四代後の東常慶が天然の要害である赤谷山城に東殿山城を築き移る。
永禄二年 (1559) 朝倉勢撃退に活躍した支族の遠藤胤縁が東殿山を訪れたときに、城主東常堯が家臣に命じて殺してしまった。これに激怒した胤縁の弟遠藤盛数が兄の弔い合戦で攻め、激闘の末、落城して東氏は滅亡した。この時、盛数が陣を敷いた八幡山に築いた城が郡上八幡城です。


≪ 写 真 ≫


郡上八幡城からの東殿山城全景


山頂の本丸


西側斜面の石垣


二つ目の曲輪


最初の曲輪


歩道図のある谷


急な山道


赤谷山城跡標柱と祠


祠横の歩道入口


三十三間堂からの登り口


三十三間堂


宝暦義民碑


五人塚


愛宕神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
長良川鉄道郡上八幡駅から徒歩約40分で愛宕公園、さらに山頂まで約60分。険しい山なので要注意。
<車>
東海北陸道郡上八幡ICを降りて八幡IC口交差点信号を左折、国道156号越前街道を南下、吉田川を渡り、城南交差点信号を左折、国道256号せせらぎ街道を東進、郡上市役所を過ぎた道の南側に愛宕公園の駐車場がある。愛宕神社から登城道があり、険しい山道を登ること約60分で山頂に着く。斜面がきついので要注意。


≪ 位置図 ≫

東殿山城(赤谷山城)


愛宕公園


紹介したお城の数 201城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版




戦国山城を攻略する-キャッスリング入門-
森本 基嗣
吉備人出版

郡上八幡城

2014-04-12 06:13:44 | 岐阜県
 郡上八幡城

2014/4/5

岐阜県郡上市のお城めぐり

 東氏を滅ぼした支族の遠藤盛数が築いた居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 郡上八幡城
よみ: グジョウハチマン
別称: 八幡城・積翠城・郡城・虞城
所在地: 岐阜県郡上市八幡町柳町
現状: 郡上八幡城・城山公園・岸剣神社
築城年代: 永禄二年(1559)
築城者: 遠藤盛数
形式: 平山城
遺構: 復興模擬天守・隅櫓二棟・城門・天守台・松の丸・桜の丸・八幡屋敷・石垣・首洗い井戸・空堀
規模: 標高523m、比高220m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2011/9/13・2014/4/5


≪ 訪城記 ≫

篠脇城から郡上八幡城に向かう。

「古今伝授の里フィールドミュージアム」の駐車場を出て、栗栖川沿いの県道318号を西進、徳永交差点信号を左折、国道156号越前街道を南下、東海北陸道高架下をくぐり、長良川、長良川鉄道沿いに進み、五町三叉路信号を左折、すぐに大きく左に曲がり県道319号を北上、道が大きく右に曲がり郡上八幡トンネルを通り総合庁舎前三叉路信号を右折して南下、道が左へ曲がった中坪1交差点信号を右折、約700m南下した城下町プラザ駐車場の交差点を左折、突き当りの安養寺前を右折してすぐに今度は左折した坂道を登って、道が左に曲がり城山公園沿いに右に曲がった郡上八幡城への登城道前の駐車場に車を駐車する。

城山公園には山内一豊と妻の像があり、像越しに見上げる郡上八幡城が美しい。城山公園の登城口から徒歩でヘアピンカーブの一方通行道路を登ること約10分で石垣のある入口に着く。石垣沿いの道を登り、そのまま犬走り道を東に抜けると、断崖の八幡屋敷があり、ここから眺める天守閣も美しい。西側の出丸、隅櫓を見ながらお城への登城道を進むと売店と入場券売り場があり、入場料は310円です。城門をくぐり天守閣を見学する。北側にも隅櫓がある。
天守閣北側の駐車場は空堀跡で南西隅に首洗い井戸がある。


郡上八幡城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

永禄二年 (1559) 木越城主遠藤胤縁が東殿山城を訪問したとき東常堯が家臣に命じて胤縁を謀殺させた。胤縁の弟盛数は兄の弔い合戦で東殿山城を攻撃して城を奪い、東氏を滅ぼした。郡上を支配することとなった遠藤盛数が東殿山城攻撃の際に陣を張った八幡山に城を築いたのが郡上八幡城の始まりです。盛数はわずか四年で没し、長子慶隆が跡を継いだ。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いで遠藤慶隆は岐阜城主織田信孝に味方し、豊臣秀吉に領地を没収され小原城主に移される。
天正十六年 (1588) 稲葉一鉄の子稲葉貞通が郡上八幡城主となる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いで、最初西軍に属した稲葉貞通の郡上八幡城を遠藤慶隆が金森可重の援軍を得て攻め、戦後、途中から東軍に転じた稲葉貞通は豊後臼杵に転封となり、遠藤慶隆が郡上八幡城主に復帰する。その後、養子の慶利、その子の常友と継ぐ。
寛文七年 (1667) 常友が城を修理して、城下町を整備する。以後、常春、常久と続く。
元禄五年五月 (1692) 常久が重臣に毒殺され、嗣子なく、弟の胤親が遠藤氏を継ぎ、常陸国で減封となる。その後、しばらく笠松代官が置かれる。
元禄五年十一月 (1692) 井上正任が郡上八幡城主となる。その後、正岑が継ぐ。
元禄十年六月 (1697) 井上正岑が丹波亀山へ転封となり、代わって金森頼旹が郡上八幡城主となる。頼旹が没すると子の頼錦が継ぐ。
宝暦八年十二月 (1758) 金森頼錦は郡上宝暦騒動の百姓一揆によって所領を没収される。代わって丹後宮津城主青山幸道が郡上八幡城主となる。以後、幸完、幸孝、幸寛、幸礼、幸哉、幸宜と続き、明治の版籍奉還となる。
昭和八年 (1933) 大垣城に模して天守閣が造られる。


≪ 写 真 ≫


郡上八幡城


西側通路からの見上げる天守閣


西側からの天守閣


松の丸からの天守閣


天守閣と隅櫓


八幡屋敷からの天守閣


南面の隅櫓


北西面の隅櫓


城門


桜の丸


松の丸


首洗い井戸


松の丸石垣


入口の出丸


力石


八幡屋敷


入口の石垣


登城口


山内一豊と妻の像と郡上八幡城


現地郡上八幡城案内図(リンク付サムネイル)


現地城山公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
長良川鉄道郡上八幡駅からバスで城下町プラザ下車、徒歩約20分。
<車>
東海北陸道郡上八幡ICを降りて八幡IC口交差点信号を右折、五町三叉路信号を右折、すぐに大きく左に曲がり県道319号を北上、道が大きく右に曲がり郡上八幡トンネルを通り総合庁舎前三叉路信号を右折して南下、道が左へ曲がった中坪1交差点信号を右折、約700m南下した城下町プラザ駐車場の交差点を左折、突き当りの安養寺前を右折してすぐに今度は左折した坂道を登って、道が左に曲がり城山公園沿いに右に曲がった郡上八幡城への登城道前の駐車場がある。天守閣北側にも駐車場があるが、登城口から駐車場まで一方通行なので注意。


≪ 位置図 ≫

郡上八幡城


紹介したお城の数 200城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版





図説・日本名城集―決定版 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学研

篠脇城

2014-04-11 06:22:53 | 岐阜県
 篠脇城

2014/4/5

岐阜県郡上市のお城めぐり

 斎藤妙椿に城を奪われたが、東常縁が悲しみの和歌を詠み返還された東氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 篠脇城
よみ: シノワキ
別称: 郡上城
所在地: 岐阜県郡上市大和町牧
現状: 山・東氏館跡庭園
築城年代: 正和元年(1312)ごろ
築城者: 東氏村
形式: 山城
遺構: 本丸・二の丸・腰曲輪・土塁・畝状空堀群・横堀・竪堀・井戸
規模: 標高523m、比高220m
文化財: 市指定史跡・国名勝
訪城日: 2014/4/5


≪ 訪城記 ≫

自宅から篠脇城へ向かう。

東海北陸道ぎふ大和ICを降りて北上、道が大きく右に曲がり長良川沿いの県道52号へ出る突き当りの三叉路を左折、すぐに次の三叉路を右折して長良川の架かる橋を渡り、県道61号を東進、長良川鉄道踏切を渡り、徳永交差点信号を直進、県道318号を約2.2kmで道の左側に「古今伝授の里フィールドミュージアム」があり、ここの駐車場に車を駐車させてもらう。

「古今伝授の里フィールドミュージアム」の西側に明建神社があり、神社前に篠脇城趾碑が建っている。
駐車場から道を渡り、道の南を流れる栗栖川に架かる橋を渡った先に東氏館跡庭園があり、古今伝授の碑のある突き当りを左折した山裾の道が登城口で、説明板と実測図が建てられている。
ジグザグの登り道を約15分登ると目の前に大きな竪堀が見え、大手門通りに着き、左の大手門通りを進むと明瞭な竪堀群が見られる。分かれ道に戻り、右側の道を登っていくといくつか竪堀が見られ、古井戸への案内板のある踏付け道を降りると今も水を蓄える井戸がある。井戸から戻り、さらに本丸下の横堀を南に進むと西側の見事な畝状空堀群、本丸南側の下には深く大きな東西の横堀が2条あり、さらに出丸らしき台地上の削平地がある。本丸下の東側にも見事な畝状空堀群を見られる。本丸下を一周して本丸へ登ると、まず腰曲輪、二の丸、本丸と北から三段になっていて、畝状空堀群と比べると質素な削平地で本丸南面に土塁跡が残るのみです。
本丸中央に東家の碑があり、南西土塁横に篠脇霊魂堂の社と実測図、本丸北東に篠脇城跡の看板と裏面に説明書きがある。


≪ 歴 史 ≫

正和元年 (1312) 阿千葉城を居城とした東時常が越前の大野郡に攻め入り討死、その弟下野守氏村が家督を継ぎ篠脇城を築き居城とする。氏村ののちは常顕、師氏、益之、氏数と続いたが、永享十年(1438)の永享の乱で氏数は宗家千葉氏に従って鎌倉公方足利持氏に与したと疑われ、同十二年(1440)、周防国に流される。氏数の跡は弟の常縁が継いだ。
康正元年 (1455) 常縁は将軍義政の命を受け、宗家下総の千葉氏の内紛で死んだ胤直の甥実胤を援けるため関東に下向した。
応仁二年 (1468) 応仁の乱が起こり、篠脇城は美濃守護代斎藤妙椿の攻撃を受け、落城する。
文明元年 (1469) 常縁が篠脇城が落城した悲しみを詠んだ和歌が発端となり、妙椿が常縁に篠脇城を返還する。東氏は歴代和歌に長じ、特に常縁は「古今伝授」を確立した人物で、この頃に連歌の名匠宗祇が「古今和歌集」の伝授を受ける。宗祇に伝えられた古今伝授は、三条西実隆を経て細川幽斎に伝わる。
天文九年 (1540) 常縁の死後、元胤、常慶と継ぎ、常慶のときに越前朝倉義景の攻撃を受け、篠脇城は守るのに不適として、翌十年(1541)、東殿山城を新たに築き移る。


≪ 写 真 ≫


篠脇城本丸


本丸中央の「東家之碑」


本丸南側の土塁


本丸南西側の篠脇霊魂堂


本丸入口


二の丸


腰曲輪


北東側の畝状空堀群


東側の畝状空堀群


南東側の畝状空堀群


南側の出丸付近


南側の横堀


西側の横堀


西側の畝状空堀群


井戸


大手通りの畝状空堀群


大手通り


大手通り前の竪堀


登城口


東氏館跡庭園


古今伝授の碑


栗栖川に架かる橋


明建神社前の篠脇城趾碑


現地篠脇城跡実測図(リンク付サムネイル)


現地東氏館跡庭園図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
長良川鉄道徳永駅から徒歩約30分。登城口から約30分で本丸。
<車>
東海北陸道ぎふ大和ICを降りて北上、道が大きく右に曲がり長良川沿いの県道52号へ出る突き当りの三叉路を左折、すぐに次の三叉路を右折して長良川の架かる橋を渡り、県道61号を東進、長良川鉄道踏切を渡り、徳永交差点信号を直進、県道318号を約2.2kmで道の左側にある「古今伝授の里フィールドミュージアム」に駐車場有。登城口から約30分で本丸。


≪ 位置図 ≫

篠脇城


東氏館跡庭園


紹介したお城の数 199城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版




戦国の山城―山城の歴史と縄張を徹底ガイド (歴史群像シリーズ)
全国山城サミット連絡協議会
学研マーケティング

本郷城

2014-03-25 18:09:39 | 岐阜県
 本郷城

2014/3/15

岐阜県池田町のお城めぐり

 土岐頼忠が築き、のちに土豪国枝大和守為助の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 本郷城
よみ: ホンゴウ
別称: 池田城
所在地: 岐阜県揖斐郡池田町本郷
現状: 住宅街・田
築城年代: 南北朝時代(十四世紀後半)
築城者: 土岐美濃守頼忠
形式: 平城
遺構:
規模: 標高37m
文化財: 町指定史跡
訪城日: 2011/6/14・2014/3/15


≪ 訪城記 ≫

揖斐城から本郷城へ向かう。

揖斐川町役場駐車場を出て南側の道を東進、突き当りのT字路を右折、国道417号を南下、揖斐川に架かる岡島橋を渡り、粕川に架かる脛永橋を渡り、萩原交差点信号を右折、約600m西進した三叉路を左折、約400m南進した道路東側のパチンコ店の広い駐車場に車を駐車させてもらう。

パチンコ店の駐車場北側の農道を東進した次の角を右折、田んぼの中にポツンとある住宅の角を左折、農道を約200m東進、突き当りの住宅街の道を北上してすぐのT字路に本郷城址の小さな案内板がある小道に入り、しばらくして右折した突き当りに小高い丘の小さな公園がある。ここが本郷城跡で、丘の上に本郷城址碑と入口に説明板と本郷城歴代武将馬乗石があるだけで遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

土岐頼清の三男土岐美濃守頼忠が本郷城を築き池田氏を称する。
応永四年 (1397) 土岐頼忠が没し、子の頼益が継ぐが尾張海東郡萱津に移り住む。
応仁~文明元年 (1467-1469) 土岐氏の家臣、国枝大和守為助が本郷城を改築して移り住む。
明応四年 (1495) 国枝為助は船田合戦で斎藤利安、利綱の兵と戦い、兄弟五人揃って討死する。その後、大和守正助、大和入道宗竜、三河守重光、甚六重元と継ぐ。
慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦で城主国枝修理亮政森が岐阜城主織田秀信に仕え西軍に属し、本郷城は東軍に焼き払われ、廃城となった。


≪ 写 真 ≫


本郷城


本郷城入口


本郷城址碑


本郷城歴代武将馬乗石


現地本郷城復元図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
養老鉄道美濃本郷駅から徒歩約20分。
<車>
東海環状道大垣西ICで降りて国道21号中山道を東進、道が大きく北へ曲がり、すぐに東へ大きく曲り東進、河間交差点信号を左折、国道417号を北上、本郷北三叉路信号を左折、約400m西進した付近の住宅街で付近に駐車場なし。


≪ 位置図 ≫

本郷城


紹介したお城の数 195城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版




別冊歴史REAL 空撮で甦る現存天守12城 (洋泉社MOOK)
クリエーター情報なし
洋泉社

揖斐陣屋

2014-03-24 06:52:00 | 岐阜県
 揖斐陣屋

2014/3/15

岐阜県揖斐川町のお城めぐり

 西尾光教が築き、旗本岡田家が継いだ陣屋

≪ お城の概要 ≫

城名: 揖斐陣屋
よみ: イビ
別称:
所在地: 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪
現状: 住宅街
築城年代: 慶長五年(1600)
築城者: 西尾豊後守光教
形式: 平城
遺構:
規模: 327m×163m
文化財:
訪城日: 2011/5/15・2014/3/15


≪ 訪城記 ≫

揖斐城から徒歩で揖斐陣屋へ向かう。

揖斐城の入口の三輪神社から少し南下し、揖斐小学校の南西角を左折、次の十字路を左折、少し北上したところに竹中医院の案内看板のある三叉路を右折、約50m東進した竹中医院の東側の水路角に揖斐陣屋趾碑があるのみで遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

慶長五年十一月 (1600) 関ヶ原合戦の戦功により西尾豊後守光教が安八郡曾根より移って築城する。光教には子がなく、外孫の嘉教に跡を継がせる。
元和九年 (1623) 嘉教にも子がなく、卒してお家断然となり城もすたれる。西尾氏断絶後は幕領となり美濃代官岡田将監善同が支配する。
寛永八年 (1631) 西尾氏の城址後に岡田善同が陣屋を築き、善同ののち、善政、善諧、善章、善算、善遷、善明、善功、善宝、善長と旗本岡田家を継ぎ、明治維新となって版籍奉還し、取り壊される。


≪ 写 真 ≫


揖斐陣屋趾碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
養老鉄道揖斐駅から揖斐川町コミュニティバスで揖斐川町バス停下車、徒歩約5分で揖斐陣屋趾碑に着く。
<車>
東海環状道大垣西ICで降りて国道21号中山道を東進、道が大きく北へ曲がり、すぐに東へ大きく曲り東進、河間交差点信号を左折、国道417号を北上、粕川に架かる脛永橋を渡り、揖斐川に架かる岡島橋を渡り、上新町交差点信号を左折、国道303号を西進、次の昭和町信号を左折、約100m南下した道の西側に揖斐川町役場があり、役場の駐車場を利用すると良い。ここから徒歩で昭和町信号を右折、東進して上新町信号を左折、約90m北進した突き当りT字路を右折、すぐ次のT字路を左折すると三輪神社の参道で、道の角の地図付の案内板がある。約100m北上して東側に揖斐小学校の南西角を右折、次の十字路を左折、少し北上したところに竹中医院の案内看板のある三叉路を右折、約50m東進した竹中医院の東側の水路角に揖斐陣屋趾碑がある。


≪ 位置図 ≫

揖斐陣屋


紹介したお城の数 194城



お城の手帖 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版




お城の手帖 戦国武将編 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版