福井城
2014/4/12
福井県福井市のお城めぐり
徳川家康次男結城秀康の越前松平氏代々の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 福井城
よみ: フクイ
別称: 北庄城
所在地: 福井県福井市大手3丁目17-1
現状: 福井県庁
築城年代: 慶長六年(1601)
築城者: 結城秀康
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・御本城橋・御廊下橋・内堀・石垣・井戸
規模: 約1,750m×約1,950m
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12
≪ 訪城記 ≫
北ノ庄城から徒歩で福井城へ向かう。
柴田神社横の道を北へ抜け、柴田神社入口の鳥居をくぐり右折、約60m東へ向かい交差点を左折、約150m北上、福井鉄道福武線福井駅前横をを渡り直進して県庁入口信号を渡り、約140mで福井県庁入口の御本城橋に着く。
ちょうどふくい春まつりの日でした。
まずは広い内堀と石垣を眺めながら一周する。石垣に垂れ下がる桜の花が優雅で美しい。
西側の石垣はところどころ膨らんでいる所もある。
大手門の石垣、南西の押櫓跡石垣、北西の天守台石垣、北東の艮櫓跡石垣、南東の巽櫓跡石垣と堪能しました。
内堀西側中央付近の御廊下橋を渡り、山里口御門跡の桝形虎口を通って、右側の急な石段を登り福井城天守台と控天守台、福の井が見られ、特に控天守台は福井地震によって大きく崩れています。
≪ 歴 史 ≫
慶長五年十二月 (1600) 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、越前国の領主として次男結城秀康を封じる。
慶長六年九月 (1601) 福井城の築城を始め、六年をかけ、慶長十一年(1607)に完成する。
慶長九年 (1604) 結城秀康が徳川姓松平に復し、結城家は五男直基が継ぐ。
慶長十二年 (1608) 秀康が逝去、長子忠直が継ぐ。
寛永元年 (1624) 乱行の多かった忠直が豊後へ配流となり、忠直の弟忠昌が越後高田から三代藩主として入部する。
正保二年 (1645) 忠昌の嫡男光通が継ぐ。このとき庶兄昌勝は松岡、庶弟昌親は吉江に分封、支藩を起こす。光通の跡は、吉江から昌親が入り、五代藩主となるが、しばらくして家督を昌勝の子綱昌に譲る。
寛文九年四月十五日 (1669) 大火にみまわれ、城下の大半を焼き、天守を始め櫓等ほとんどが焼失、翌年、再建に着手、三年を要して復旧したが天守は再現されなかった。
貞享三年 (1686) 綱昌が大法に触れ、再び昌親が吉品と改称して七代藩主となり、吉品の跡は義子吉邦(昌勝の子)が継ぐ。
享保六年 (1721) 吉邦が逝去し、跡を松岡藩主宗昌が継ぐ。宗昌の跡は、直基の四世孫宗矩が継ぐ。
寛延二年 (1749) 宗矩の代で秀康の正系は絶え、徳川吉宗の子一橋宗尹の長子重昌が継ぎ十一代藩主となる。重昌の跡は、弟重富が継ぐ、治好、斉承と続く。
天保六年 (1835) 徳川家斉の子斉善が継ぐ。
天保十一年 (1840) 田安斉匡の子慶永が十六代藩主となる。
安政五年 (1858) 慶永は隠居を命じられ、春嶽と号する。越後糸魚川から松平直廉が名を茂昭と改め、最後の藩主となる。
明治五年 (1872) 天守代用であった巽櫓(三重櫓)が破却される。
≪ 写 真 ≫
福井城天守台石垣
天守台
控天守台
天守台と控天守台
福の井
山里口御門跡の桝形虎口
天守台西側の石垣
御廊下橋
大手門の石垣と御本城橋
西側内堀
南西の押櫓跡石垣
西側内堀と石垣
南側内堀
北東の艮櫓跡石垣
南東の巽櫓跡石垣
大手門の石垣
南側内堀と石垣
現地天守台跡案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を右折、国道8号福井バイパスを北上、米松交差点信号を左折、県道114号を西進、北陸本線を渡り、約600m西進すると福井県庁の北側に着く。付近に有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
福井城
紹介したお城の数 204城
2014/4/12
福井県福井市のお城めぐり
徳川家康次男結城秀康の越前松平氏代々の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 福井城
よみ: フクイ
別称: 北庄城
所在地: 福井県福井市大手3丁目17-1
現状: 福井県庁
築城年代: 慶長六年(1601)
築城者: 結城秀康
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・御本城橋・御廊下橋・内堀・石垣・井戸
規模: 約1,750m×約1,950m
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12
≪ 訪城記 ≫
北ノ庄城から徒歩で福井城へ向かう。
柴田神社横の道を北へ抜け、柴田神社入口の鳥居をくぐり右折、約60m東へ向かい交差点を左折、約150m北上、福井鉄道福武線福井駅前横をを渡り直進して県庁入口信号を渡り、約140mで福井県庁入口の御本城橋に着く。
ちょうどふくい春まつりの日でした。
まずは広い内堀と石垣を眺めながら一周する。石垣に垂れ下がる桜の花が優雅で美しい。
西側の石垣はところどころ膨らんでいる所もある。
大手門の石垣、南西の押櫓跡石垣、北西の天守台石垣、北東の艮櫓跡石垣、南東の巽櫓跡石垣と堪能しました。
内堀西側中央付近の御廊下橋を渡り、山里口御門跡の桝形虎口を通って、右側の急な石段を登り福井城天守台と控天守台、福の井が見られ、特に控天守台は福井地震によって大きく崩れています。
≪ 歴 史 ≫
慶長五年十二月 (1600) 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、越前国の領主として次男結城秀康を封じる。
慶長六年九月 (1601) 福井城の築城を始め、六年をかけ、慶長十一年(1607)に完成する。
慶長九年 (1604) 結城秀康が徳川姓松平に復し、結城家は五男直基が継ぐ。
慶長十二年 (1608) 秀康が逝去、長子忠直が継ぐ。
寛永元年 (1624) 乱行の多かった忠直が豊後へ配流となり、忠直の弟忠昌が越後高田から三代藩主として入部する。
正保二年 (1645) 忠昌の嫡男光通が継ぐ。このとき庶兄昌勝は松岡、庶弟昌親は吉江に分封、支藩を起こす。光通の跡は、吉江から昌親が入り、五代藩主となるが、しばらくして家督を昌勝の子綱昌に譲る。
寛文九年四月十五日 (1669) 大火にみまわれ、城下の大半を焼き、天守を始め櫓等ほとんどが焼失、翌年、再建に着手、三年を要して復旧したが天守は再現されなかった。
貞享三年 (1686) 綱昌が大法に触れ、再び昌親が吉品と改称して七代藩主となり、吉品の跡は義子吉邦(昌勝の子)が継ぐ。
享保六年 (1721) 吉邦が逝去し、跡を松岡藩主宗昌が継ぐ。宗昌の跡は、直基の四世孫宗矩が継ぐ。
寛延二年 (1749) 宗矩の代で秀康の正系は絶え、徳川吉宗の子一橋宗尹の長子重昌が継ぎ十一代藩主となる。重昌の跡は、弟重富が継ぐ、治好、斉承と続く。
天保六年 (1835) 徳川家斉の子斉善が継ぐ。
天保十一年 (1840) 田安斉匡の子慶永が十六代藩主となる。
安政五年 (1858) 慶永は隠居を命じられ、春嶽と号する。越後糸魚川から松平直廉が名を茂昭と改め、最後の藩主となる。
明治五年 (1872) 天守代用であった巽櫓(三重櫓)が破却される。
≪ 写 真 ≫
福井城天守台石垣
天守台
控天守台
天守台と控天守台
福の井
山里口御門跡の桝形虎口
天守台西側の石垣
御廊下橋
大手門の石垣と御本城橋
西側内堀
南西の押櫓跡石垣
西側内堀と石垣
南側内堀
北東の艮櫓跡石垣
南東の巽櫓跡石垣
大手門の石垣
南側内堀と石垣
現地天守台跡案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を右折、国道8号福井バイパスを北上、米松交差点信号を左折、県道114号を西進、北陸本線を渡り、約600m西進すると福井県庁の北側に着く。付近に有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
福井城
紹介したお城の数 204城
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