お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

福井城

2014-04-20 07:33:52 | 福井県
 福井城

2014/4/12

福井県福井市のお城めぐり

 徳川家康次男結城秀康の越前松平氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 福井城
よみ: フクイ
別称: 北庄城
所在地: 福井県福井市大手3丁目17-1
現状: 福井県庁
築城年代: 慶長六年(1601)
築城者: 結城秀康
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・御本城橋・御廊下橋・内堀・石垣・井戸
規模: 約1,750m×約1,950m
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

北ノ庄城から徒歩で福井城へ向かう。

柴田神社横の道を北へ抜け、柴田神社入口の鳥居をくぐり右折、約60m東へ向かい交差点を左折、約150m北上、福井鉄道福武線福井駅前横をを渡り直進して県庁入口信号を渡り、約140mで福井県庁入口の御本城橋に着く。

ちょうどふくい春まつりの日でした。
まずは広い内堀と石垣を眺めながら一周する。石垣に垂れ下がる桜の花が優雅で美しい。
西側の石垣はところどころ膨らんでいる所もある。
大手門の石垣、南西の押櫓跡石垣、北西の天守台石垣、北東の艮櫓跡石垣、南東の巽櫓跡石垣と堪能しました。
内堀西側中央付近の御廊下橋を渡り、山里口御門跡の桝形虎口を通って、右側の急な石段を登り福井城天守台と控天守台、福の井が見られ、特に控天守台は福井地震によって大きく崩れています。


≪ 歴 史 ≫

慶長五年十二月 (1600) 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、越前国の領主として次男結城秀康を封じる。
慶長六年九月 (1601) 福井城の築城を始め、六年をかけ、慶長十一年(1607)に完成する。
慶長九年 (1604) 結城秀康が徳川姓松平に復し、結城家は五男直基が継ぐ。
慶長十二年 (1608) 秀康が逝去、長子忠直が継ぐ。
寛永元年 (1624) 乱行の多かった忠直が豊後へ配流となり、忠直の弟忠昌が越後高田から三代藩主として入部する。
正保二年 (1645) 忠昌の嫡男光通が継ぐ。このとき庶兄昌勝は松岡、庶弟昌親は吉江に分封、支藩を起こす。光通の跡は、吉江から昌親が入り、五代藩主となるが、しばらくして家督を昌勝の子綱昌に譲る。
寛文九年四月十五日 (1669) 大火にみまわれ、城下の大半を焼き、天守を始め櫓等ほとんどが焼失、翌年、再建に着手、三年を要して復旧したが天守は再現されなかった。
貞享三年 (1686) 綱昌が大法に触れ、再び昌親が吉品と改称して七代藩主となり、吉品の跡は義子吉邦(昌勝の子)が継ぐ。
享保六年 (1721) 吉邦が逝去し、跡を松岡藩主宗昌が継ぐ。宗昌の跡は、直基の四世孫宗矩が継ぐ。
寛延二年 (1749) 宗矩の代で秀康の正系は絶え、徳川吉宗の子一橋宗尹の長子重昌が継ぎ十一代藩主となる。重昌の跡は、弟重富が継ぐ、治好、斉承と続く。
天保六年 (1835) 徳川家斉の子斉善が継ぐ。
天保十一年 (1840) 田安斉匡の子慶永が十六代藩主となる。
安政五年 (1858) 慶永は隠居を命じられ、春嶽と号する。越後糸魚川から松平直廉が名を茂昭と改め、最後の藩主となる。
明治五年 (1872) 天守代用であった巽櫓(三重櫓)が破却される。


≪ 写 真 ≫


福井城天守台石垣


天守台


控天守台


天守台と控天守台


福の井


山里口御門跡の桝形虎口


天守台西側の石垣


御廊下橋


大手門の石垣と御本城橋


西側内堀


南西の押櫓跡石垣


西側内堀と石垣


南側内堀


北東の艮櫓跡石垣


南東の巽櫓跡石垣


大手門の石垣


南側内堀と石垣


現地天守台跡案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を右折、国道8号福井バイパスを北上、米松交差点信号を左折、県道114号を西進、北陸本線を渡り、約600m西進すると福井県庁の北側に着く。付近に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

福井城


紹介したお城の数 204城




図説・日本名城集―決定版 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学研





図説・戦国地図帳―決定版 (歴史群像シリーズ)
久保田 昌希
学研

北ノ庄城

2014-04-19 06:27:13 | 福井県
 北ノ庄城

2014/4/12

福井県福井市のお城めぐり

 賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市の方と共に自害した柴田勝家の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 北ノ庄城
よみ: キタノショウ
別称: 北庄城・北の庄城
所在地: 福井県福井市中央1丁目
現状: 柴田神社・北の庄城址資料館・北の庄城址公園
築城年代: 天正三年(1575)
築城者: 柴田勝家
形式: 平城
遺構: 日向門跡・土居跡・堀跡・石垣跡
規模:
文化財:
訪城日: 2010/8/20・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

丸岡城から北ノ庄城へ向かう。

丸岡城の駐車場を出て、城の北側の道を西進、突き当りの一本田中第2三叉路信号を左折、国道8号福井バイパスを南下、九頭竜川に架かる福井大橋を渡り、新保交差点信号を右折、国道416号を西進、北陸本線を越え幾久交番前交差点信号を斜めに左折、県道30号を南下、足羽川手前の幸橋北詰信号を左折、県道5号を東進、道沿いの北ノ庄城址を通り越し、北陸本線高架下をくぐった次の信号を右折、約80m南下した道の西側に未舗装の北の庄城址公園駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場から徒歩で北へ歩き、県道5号沿いに西進、約200mで道の北側に柴田神社、北の庄城址資料館、北の庄城址公園があり、柴田勝家公像が迎えてくれる。
銅像の東側に北庄城復元模型か作成されている。その東側には柴田勝家の末裔である平山郁夫氏が制作した北ノ庄城址碑が設置されている。
柴田神社社殿北側には発掘によって見つかった石垣の遺構がある。他に堀跡、土居跡、日向門跡もある。
北の庄城址資料館奥には柴田勝家とお市の方の辞世の句の碑が建てられている。


≪ 歴 史 ≫

天正三年 (1575) 越前一向一揆を平定した功によって織田信長から越前一国を与えられ、北庄の地に北ノ庄城を築き居城とする。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家がお市の方と共に自害して北ノ庄城も落城する。その後、丹羽氏、堀氏、青木氏が短期間在城したようです。
慶長五年 (1600) 徳川家康の次男結城秀康が越前に入部し、福井城を築城して北ノ庄城は廃城となった。


≪ 写 真 ≫


柴田勝家公像


北庄城復元模型


平山郁夫氏作北ノ庄城址碑


土居跡


日向門跡


堀跡


堀跡の石垣


石垣跡


柴田神社三姉妹神社


北の庄城慰霊碑


お市の方像


三姉妹像


柴田神社


北の庄城址資料館


柴田勝家とお市の方の辞世の句の碑


現地案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から徒歩約5分。
<車>
北陸道福井ICを降りて国道158号美濃街道を北上、道が大きく左に曲がり西方交差点信号を直進して県道5号を西進、北陸本線高架手前の信号を左折、約80m南下した道の西側に未舗装の北の庄城址公園駐車場がある。
この駐車場から徒歩で北へ歩き、県道5号沿いに西進、約200mで道の北側に柴田神社、北の庄城址資料館、北の庄城址公園のある場所が北ノ庄城跡です。


≪ 位置図 ≫

北ノ庄城


北の庄城址公園駐車場


紹介したお城の数 203城




織田信長家臣人名辞典
谷口 克広
吉川弘文館





ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

丸岡城

2014-04-18 11:52:01 | 福井県
 丸岡城

2014/4/12

福井県坂井市のお城めぐり

 柴田勝家の甥勝豊が築いた現存最古の天守を持つお城  現存12天守  日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 丸岡城
よみ: マルオカ
別称: 霞ヶ城
所在地: 福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59
現状: 霞ヶ城公園
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 柴田勝豊
形式: 平山城
遺構: 現存天守閣・天守台・本丸・石垣・井戸
規模: 約890m×1,090m、標高約17m
文化財: 国指定重要文化財
訪城日: 2010/8/20・2011/11/29・2014/4/12


≪ 訪城記 ≫

自宅から丸岡城へ向かう。

北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前に駐車場がある。この駐車場は土日にはバス専用駐車場となり、乗用車は図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場に駐車可能。

一筆啓上茶屋西側の小高い丘が本丸跡で南側に現存天守がある。本丸へ登る道を上がると北に広がる本丸跡でちょうど桜まつりを行っていて人が多かったが、桜は満開で古い天守とよく合って華やかです。
天守閣入口で入場券を購入して入る。天守閣は二重三階の小さいが古風な姿は立派なものです。おもわずため息が出ます。
天守台石垣西面に一筆啓上の日本一短い手紙の碑、天守閣登口階段前に石でできた鯱があり、内部を見学、急な階段、破風を利用した狭い部屋、笏谷石の瓦を使った屋根に驚きました。入場料300円。
天守閣南側には雲の井竜神、井戸、東側には人柱になったお静慰霊碑がある。
南側の階段登り口に霞ヶ城趾碑、茶屋の南に歴史民俗資料館がある。


丸岡城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天正三年 (1575) 織田信長は越前の一向一揆を平定した功で、柴田勝家に越前を与え、甥で養子の柴田伊賀守勝豊に豊原を北庄城の支城として治めさせた。
天正四年 (1576) 城を丸岡の地に移し築城する。
天正十年 (1582) 清洲会議で勝豊が長浜城主となり、丸岡城には家臣安井家清が在番する。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家が滅び、丸岡城は丹羽長秀の臣青山伊賀守宗勝、修理大夫忠元父子の居城となる。
慶長六年 (1601) 越前に結城秀康が入り、丸岡城は秀康の臣今村掃部盛次の居城となる。
慶長十八年 (1613) 本多飛騨守成重が丸岡城主となる。以後、重能、重昭、重益と続く。
元禄八年 (1695) 御家騒動から領地没収となり、越後糸魚川から有馬清純が入る。以後、一準、孝純、允純、誉純、徳純、温純、道純と続き、明治維新を迎え土地、建物は民間に払い下げされる。
明治三十四年 (1901) 天守の所有者から丸岡町に寄付される。
昭和九年 (1934) 天守が国宝の指定を受ける。
昭和十六年 (1941) 天守の解体修理が行われる。
昭和二十三年 (1948) 福井地震によって倒壊する。
昭和二十九年 (1954) 復興修理が行われ、国指定重要文化財に指定される。


≪ 写 真 ≫


丸岡城現存天守閣


天守閣


登り口からの天守閣


南東側からの天守閣


お静慰霊碑


井戸


南面の石垣


南側からの天守閣


雲の井竜神


一筆啓上の碑


石製の鯱


本丸跡


西側通路の石垣


霞ヶ城趾碑


南面登り口


南からの丸岡城


歴史民俗資料館


北からの丸岡城

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から京福バスで丸岡城下車すぐ。
<車>
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前駐車場と図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

丸岡城(霞ヶ城公園)


紹介したお城の数 202城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




別冊歴史REAL 空撮で甦る現存天守12城 (洋泉社MOOK)
クリエーター情報なし
洋泉社

国吉城

2013-07-06 09:20:29 | 福井県
 国吉城

2013/5/31

福井県美浜町のお城めぐり

 若狭武田氏の重臣粟屋勝久が長年の籠城戦を戦った居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 国吉城
よみ: クニヨシ
別称: 粟屋勝久館・佐柿奉行所
所在地: 福井県三方郡美浜町佐柿
現状: 山・若狭国吉城歴史資料館
築城年代: 天文年間(1532-55)
築城者: 粟屋越中守勝久
形式: 山城
遺構: 本丸跡・伝二の丸跡・北西曲輪群・城主館跡・佐柿奉行所跡・准藩士屋敷跡・石垣・土塁・虎口・堀切
規模: 260m×220m、標高192.3m、比高67m
文化財: 町指定史跡
訪城日: 2013/5/31


≪ 訪城記 ≫

後瀬山城北麓の武田氏館から国吉城へ向かう。

空印寺駐車場から東へ八幡神社前を通り、誓願寺のT字路を右折、JR小浜線の踏切を渡って南東へ進み、後瀬山東信号を左折、国道27号を西進、上中駅前を通り、三宅信号を道なりに左に大きく曲り、倉見峠で北進、三方駅口を通り過ぎ、美方高校付近で道なりに右へ曲がり、美浜駅前を通り過ぎ、国吉城トンネルの手前、丹後街道と美浜東バイパスの分かれ道手前の「若狭国吉城歴史資料館」の案内板のある佐柿信号を斜め右に佐柿集落へ入って行く。500m程集落内を東進すると左側に見学者用の駐車場があり、ここに車を駐車する。さらに進むと歴史資料館前にも駐車場がある。

駐車場の東側に道を北に歩くと准藩士屋敷跡があり、屋敷跡の角を東に曲がると北の山が国吉城で麓に粟屋勝久館跡、東側に佐柿奉行所跡に「若狭国吉城歴史資料館」が建っている。
歴史資料館前のあぜ道を北へ行くと館跡で段々になった削平地や土塁、石組溝、礎石建物跡を見られる。館入口に説明板とパンフレットが置いてある。
館の段曲輪を左手に眺めながら登城道を登っていくと、途中に獣除けの柵が設けてあり、柵の扉を開けて中に入る。扉は必ず閉めてください。
つづら折れの道を登ること約20分で伝二の丸前に着く。案内板の脇を西側に少し降りると土塁跡が南面にあり、その奥、虎口を入るとこじんまりした削平地がある。ここが伝二の丸跡です。伝二の丸跡から15分程登ると本丸前の堀切に出る。この辺りは発掘作業中で、掘り出された石垣跡を見ることが出来る。
堀切を右に登っていくと虎口と分かりにくい低い段になった北西虎口を通って本丸へ、中央に説明板と小さな国吉城址碑、削平地の東側に土塁跡と東虎口跡がある。
北西側の堀切へ戻り、ここから北西に延びた北西曲輪群が五段続いている。各段には立派な切岸と削平地があり、特に3段目の北側には土塁と虎口が見られる。
麓まで降りて「若狭国吉城歴史資料館」に寄る、入館料は100円です。


≪ 歴 史 ≫

天文年間 (1532-55) 粟屋勝久が築城する。
永禄六年 (1563) 越前朝倉氏から攻められ永禄十二年(1569)までの七年間籠城戦を戦い抜きましたが、永禄十一年(1568)国吉城を攻め落とせず、朝倉勢は矛先を変えて小浜を攻め、後瀬山城の武田家当主武田元明を越前へ拉致しました。
元亀元年四月 (1570) 織田信長が越前朝倉氏を攻め、この時信長は国吉城へ入城し、国吉城を朝倉攻めの本陣として、手筒山城、金ヶ崎城を落しましたが近江浅井氏の裏切りにより挟撃を恐れた信長は京都へ退却しました。
天正元年八月 (1573) 織田信長軍は刀根坂合戦で朝倉勢を破り、一気に越前まで侵攻して越前朝倉氏を滅ぼしました。粟屋氏も活躍し、領地を安堵されています。
その後、粟屋氏は本能寺の変後、秀吉から所領を移され代わって木村常陸介重滋が城主となりましたが、文禄四年(1595)関白秀次事件に連座して木村重滋が自刃し、堀尾可晴、丹羽氏の江口三郎右衛門、浅野氏の浅野平右衛門、木下氏の松平三左衛門、京極氏の多賀越中と城主が代わり、酒井忠勝が小浜城主となり国吉城は廃城して佐柿に代官所が設置された。


≪ 写 真 ≫


登城口


登城道途中の准藩士屋敷跡


国吉城遠景


麓の粟屋勝久館跡


館跡の段曲輪


館跡の土塁


館跡の石組溝


獣除けの柵


二の丸付近の案内板


二の丸の土塁


二の丸虎口


二の丸


発掘中の本丸下の石垣跡


発掘中の本丸と北西曲輪群の間の堀切跡


本丸北西虎口


本丸


本丸中央の国吉城址碑


本丸東側の土塁跡


本丸東虎口


北西曲輪群1段目


北西曲輪群1段目の切岸


北西曲輪群2段目


北西曲輪群2段目の切岸


北西曲輪群3段目


北西曲輪群4段目


北西曲輪群5段目


若狭国吉城歴史資料館


登城口の国吉城散策絵図(リンク付サムネイル)


現地説明板縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR小浜線美浜駅から徒歩約25分。
<車>
北陸自動車道敦賀ICを降りて敦賀バイパスを南下、高架の分岐点を右に曲がり敦賀市内方面金山バイパスへ、JR北陸本線の下をくぐり、岡町町1丁目交差点信号を直進、国道27号金山バイパスを西進、そのまま国道27号を進み、国吉城トンネルを通り抜けてすぐの左側が佐柿の集落で「若狭国吉城歴史資料館」の案内板のある佐柿感応式信号機を大きく左に曲がり佐柿集落へ入って行く。500m程集落内を東進すると左側に見学者用の駐車場があり、さらに進むと歴史資料館前にも駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

国吉城


若狭国吉城歴史資料館


紹介したお城の数 91城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

武田氏館

2013-06-29 05:07:07 | 福井県
 武田氏館

2013/5/31

福井県小浜市のお城めぐり

 若狭守護武田氏の居館

≪ お城の概要 ≫

城名: 武田氏館
よみ: タケダシ
別称:
所在地: 福井県小浜市小浜男山2
現状: 空印寺・旧小浜小学校跡地
築城年代: 大永二年(1522)
築城者: 武田大膳大夫元光
形式: 館
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2013/5/31


≪ 訪城記 ≫

後瀬山城から麓の武田氏館へ向かう。

愛宕神社社務所横の空き地から東へ、大きな仏像のある交差点を左折、JR小浜線踏切を渡り、突き当りを左折、八幡神社の前を通り、次の突き当りが旧小浜小学校跡地で前の柵に説明板が設置されている。
この南側が若狭武田氏の居館跡の空印寺です。
遺構は何もありませんが、空印寺は人魚の肉を食べて不老不死となった八百比丘尼の伝説の地で、八百比丘尼が入定した祠があります。


≪ 歴 史 ≫

大永元年 1521 若狭守護武田元光は父元信の没後、家督を継ぎ、後瀬山城と麓の武田氏館を築城する。
若狭守護武田氏が滅亡後、豊臣秀吉の家臣丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊の居館、関ヶ原後には京極高次の居館として小浜城が築城されるまで使われた。


≪ 写 真 ≫


空印寺入口


旧小浜小学校跡地


空印寺山門


八百比丘尼の伝説の地


八百比丘尼の入定の祠


現地説明板(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR小浜線小浜駅から南西方向に徒歩約10分。
<車>
舞鶴若狭道小浜ICを降りて県道24号を西進、南側を渡り、小浜市役所前を通り過ぎ小浜市役所前交差点信号を左折、国道162号を南下、小浜駅前三叉路信号を右折、商店街通りを北西へ、信号を二つ過ぎ、次の交差点を左折して突き当りの八幡神社を右折したらすぐの突き当りが旧小浜小学校跡地と空印寺で、空印寺に駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

空印寺


紹介したお城の数 90城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版