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田中城

2014-06-15 06:54:56 | 静岡県
 田中城

2014/5/5

静岡県藤枝市のお城めぐり

 武田信玄の西上作戦で諏訪原城、小山城とともに中心的役割をした支城

≪ お城の概要 ≫

城名: 田中城
よみ: タナカ
別称: 亀甲城・亀井城・田中御殿・藤枝城
所在地: 静岡県藤枝市田中1丁目7-20
現状: 西益津小学校・西益津中学校・住宅街
築城年代: 永禄十三年(元亀元、1570)
築城者: 武田信玄
形式: 平城
遺構: 本丸跡・二之堀跡・三之堀跡・三日月堀跡・石垣跡・土塁跡
規模: 600m×600m、標高15m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/5/5


≪ 訪城記 ≫

徳之一色城(田中城下屋敷)から徒歩で田中城に向かう。

田中城下屋敷門を出て六間川沿いに南下すると、すぐに民家の敷地内に盛り上がった土塁跡があり、そのまま南下すると県道224号に出る。この道を西に向かうと、途中民家の脇に三日月堀跡があり、説明板もある。さらに進むと道の南側に西益津小学校があり、校門前に木製の田中城本丸跡標柱がある。この西益津小学校付近が本丸跡のようです。
さらに進むと橋のある水堀があり、ここが二之堀跡です。二之堀から北へ細い道を少し入ると土塁跡が残っています。
県道30号と県道224号がぶつかる三角地のファミリーマートの角に田中城趾碑がある。
二之堀跡の次の細い辻を入って行くと、西益津中学校の裏辺りに三之堀跡があり、道の南側に武家屋敷の石垣跡が残っている。
田中城はめずらしい円形式の城郭構造で路地を歩くと丸く曲がっているのがわかる。
徳川家康の晩年、この城で鷹狩をした際、鯛の天ぷらを食べて腹痛をおこし、これがもとで死去したとする逸話がある。


≪ 歴 史 ≫

永禄十三年正月 (1570) 武田信玄が今川氏の駿河国を攻略し、徳之一色城を馬場美濃守信房に増築させ田中城と改名する。
永禄十三年九月 (1570) 田中城の増築が完了し、山県昌景に在城させる。
元亀三年 (1572) 山県昌景に代わって、板垣左京亮信安が城主となる。
天正元年 (1573) 諏訪原城、小山城を築き、田中城とともに支城網を廻らして、徳川勢に圧力をかける。
天正三年 (1575) 武田勝頼が三河長篠で大敗を喫する。
天正三年八月二十四日 (1575) 諏訪原城が落城し、田中城も孤立する。
天正十年 (1582) 徳川軍が田中城を包囲、武田一門の江尻城主穴山梅雪が徳川方に寝返った段階で田中城は完全に孤立し、三月一日、城主依田信蕃・三枝虎吉は開城する。その後、徳川家康が駿府に拠点を移すと、鷹狩の際の宿舎として利用される。
天正十八年八月 (1590) 徳川家康の関東移封にともない、豊臣秀吉の家臣中村一氏が駿府城に入り、一氏の家老横田村詮が田中城に入る。
慶長六年 (1601) 酒井忠利が田中城に入城し、増築をする。以後、松平(桜井)忠重、水野忠善、松平(藤井)忠晴、北条氏重、西尾忠昭、忠成、酒井忠能、土屋政直、太田資直、資晴、内藤弌信、土岐頼殷、頼稔とめまぐるしく交替する。
享保十五年七月 (1730) 上野国沼田から本多正矩が入封、正珍、正供、正温、正意、正寛、正訥と継承する。
明治元年 (1868) 徳川家達が駿河・遠江を領したため、本多正訥は安房長尾に移封となる。


≪ 写 真 ≫


田中城本丸跡


田中城本丸跡の西益津小学校


三日月堀跡


民家内の土塁跡


二之堀跡の橋


二之堀跡


二之堀北側の土塁跡


外堀跡


田中城趾碑


三之堀跡


武家屋敷石垣跡


現地田中城復元図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線西焼津駅からバスで六間川バス停下車、徒歩すぐ。または西焼津駅から徒歩約25分。
<車>
東名高速焼津ICを降りて、焼津IC入口信号を左折、高架下をくぐり、県道81号を北西に進み、下当間交差点信号を斜め左折、道なりに南下したファミリーマートのある交差点信号を約100m南下した道の右側に田中城下屋敷駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

田中城(西益津小学校)


田中城下屋敷


紹介したお城の数 230城



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