飯盛山城
2014/1/5
大阪府四條畷市のお城めぐり
佐々目憲法が築城し、三好長慶が拡張整備した居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 飯盛山城
よみ: イイモリヤマ
別称: 飯盛城
所在地: 大阪府四條畷市南野・大東市北条
現状: 山
築城年代: 建武年間(1334-38)
築城者: 佐々目憲法
形式: 山城
遺構: 本丸高櫓郭・本丸千畳敷郭・南丸・本丸展望台郭・本丸倉屋敷郭・本丸三本松郭・二ノ丸御体塚郭・二ノ丸史蹟碑郭・腰郭・石垣・竪堀・堀切・虎口
規模: 400m×650m、標高315m、比高300m
文化財:
訪城日: 2014/1/5
≪ 訪城記 ≫
自宅から飯盛山城へ向かう。
第二京阪道路寝屋川南ICで降りて大平ポンプ場前信号を斜め左折、府道21号を南下、巣本複合交差点信号を左折、国道163号を東進、東中野交差点信号を右折、国道170号東高野街道を南西に進み、途中で道が斜め左に曲がり南下、四條畷神社前交差点信号を左折、約550m東進した突き当りに四條畷神社がある。神社の右側の急な坂を登り切った四條畷神社社殿前に参拝者用の駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。
まず最初に四條畷神社にお参りして駐車場南側の会館脇に飯盛山登山道の入口があり、途中、下からの登山道と合流する。登山道は非常に急な階段の坂道で、登ること約30分で二ノ丸史蹟碑郭にたどり着く。ここには名の通り、中央に史蹟碑が建てられている小さな削平地です。道を進むと土橋、堀切を越えたところが二ノ丸御体塚郭で中央に登山三百回記念の碑が建ってる。東側斜面の回り道沿いには三段の腰曲輪と石垣跡、さらに竪堀らしき溝が二条あります。次に進むと道の東側の盛り上がった上の二段の削平地が本丸三本松郭で南へ降りたところに楠公寺へ進む分かれ道があり、飯盛山山頂方向へ登ると南北に長い削平地の本丸倉屋敷郭、石段を登った先には展望台のある本丸展望台郭、一段高い南に本郭の本丸高櫓郭があり、楠木正行公像、説明板、飯盛山城趾碑がある。さらに南へ降りたNHKの電波塔がある広い場所が本丸千畳敷郭で、南と西に広がっている。南の一段下がったところに虎口、南丸があり、南丸の東側に土塁跡があるのですが、笹が繁茂していて隆起は確認できる程度です。
本郭の東側下に石垣跡、楠公寺への道沿いにも二か所石垣跡が見られます。
全体的に小振りな削平地が南北に連なった感じの城跡で、登るのには辛いですが眺めは絶景です。
≪ 歴 史 ≫
建武年間 (1334-38) 北条氏与党の佐々目憲法が南北朝時代に築いたようで、四条繩手合戦で高師直が攻め登った。また、南朝方の恩地左近太郎が飯盛山城に籠って細川頼之軍に防戦する。
畠山氏の臣木沢長政が飯盛山城を修築する。
享禄四年 (1531) 木沢長政が主君畠山義堯を裏切り、細川晴元に寝返ったため、義堯が飯盛山城を攻める。
享禄五年五月 (1532) 再び畠山義堯が飯盛山城に木沢長政を攻めたが、逆に細川晴元、三好元長に攻められ義堯が敗死する。
享禄五年六月 (1532) 三好元長と亀裂が生じ、木沢長政が三好元長を堺で攻め滅ぼす。
天文十一年 (1542) 細川晴元と三好元長の子長慶が結んで、木沢長政を河内太平寺に攻め滅ぼす。木沢氏滅亡後は、交野城の安見美作守直政が飯盛山城に入城する。安見直政が河内守護代となり、主君河内守護畠山高政を紀伊へ追放する。
永禄二年 (1559) 畠山高政が三好長慶の援けを受け、安見直政が大和に敗走する。しかし、高政は三好長慶を恐れ、安見直政をふたたび河内守護代として飯盛山城に置く。これに憤慨した三好長慶が畠山高政の居城高屋城を攻め、救援に駆け付けた安見直政を寝屋川付近で打ち、高政と直政は堺へ敗走した。
永禄三年十一月十三日 (1560) 三好長慶が飯盛山城に入城する。
永禄四年 (1561) 畠山高政が根来衆を率いて飯盛山城を攻める。
永禄五年四月 (1562) 畠山高政軍に飯盛山城を包囲され、三好長慶が籠り防戦する間に長慶の弟安宅冬康、松永久秀が救援に駆けつけ、挟撃によって高政軍を破る。
永禄六年 (1563) 三好長慶の嫡子義興が芥川城で病死する。
永禄七年 (1564) 流言で弟安宅冬康を飯盛山城で自殺させ、長慶自らも病に伏せり、同年七月二十四日、四十三歳で没する。跡を三好三人衆の後押しで三好義継が継ぐが松永久秀と意見があわず、飯盛山城を出て高屋城へ移る。
永禄十一年 (1568) 織田信長が入洛し、飯盛山城は畠山昭高の所有となる。
元亀年間 (1570-73) 畠山昭高の家老遊佐信教が飯盛山城の守備をする。
天正四年 (1576) 織田信長に攻められ落城し、廃城となった。
≪ 写 真 ≫
四條畷神社
四條畷神社南側の登山口
急な登山道
二ノ丸史蹟碑郭
二ノ丸史蹟碑郭南側の土橋
二ノ丸史蹟碑郭と二ノ丸御体塚郭の間の堀切
二ノ丸御体塚郭東側の三段腰曲輪
二ノ丸御体塚郭東側の石垣
二ノ丸御体塚郭
二ノ丸御体塚郭東側の竪堀
本丸三本松郭
本丸倉屋敷郭
本丸展望台郭
本丸高櫓郭
本丸高櫓郭にある飯盛城趾碑
本丸高櫓郭にある楠木正行公像
本丸高櫓郭南側の切岸
NHK電波受信塔のある本丸千畳敷郭
本丸千畳敷郭南側に広がる削平地
本丸千畳敷郭西側に広がる削平地
本丸千畳敷郭南側
南丸入口の土塁
南丸
南丸の南斜面の切岸
虎口
本丸高櫓郭の南斜面
楠公寺へ行く道沿いに残る石垣(北側)
楠公寺へ行く道沿いに残る石垣(南側)
楠公寺
現地飯盛城址案内マップ(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR片町線四條畷駅から徒歩約50分。
<車>
第二京阪道路寝屋川南ICで降りて大平ポンプ場前信号を斜め左折、府道21号を南下、巣本複合交差点信号を左折、国道163号を東進、東中野交差点信号を右折、国道170号東高野街道を南西に進み、途中で道が斜め左に曲がり南下、四條畷神社前交差点信号を左折、約550m東進した突き当りに四條畷神社がある。神社の右側の急な坂を登り切った四條畷神社社殿前に参拝者用の駐車場がある。付近にも有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
飯盛山城
四條畷神社からの登山口
紹介したお城の数 172城
2014/1/5
大阪府四條畷市のお城めぐり
佐々目憲法が築城し、三好長慶が拡張整備した居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 飯盛山城
よみ: イイモリヤマ
別称: 飯盛城
所在地: 大阪府四條畷市南野・大東市北条
現状: 山
築城年代: 建武年間(1334-38)
築城者: 佐々目憲法
形式: 山城
遺構: 本丸高櫓郭・本丸千畳敷郭・南丸・本丸展望台郭・本丸倉屋敷郭・本丸三本松郭・二ノ丸御体塚郭・二ノ丸史蹟碑郭・腰郭・石垣・竪堀・堀切・虎口
規模: 400m×650m、標高315m、比高300m
文化財:
訪城日: 2014/1/5
≪ 訪城記 ≫
自宅から飯盛山城へ向かう。
第二京阪道路寝屋川南ICで降りて大平ポンプ場前信号を斜め左折、府道21号を南下、巣本複合交差点信号を左折、国道163号を東進、東中野交差点信号を右折、国道170号東高野街道を南西に進み、途中で道が斜め左に曲がり南下、四條畷神社前交差点信号を左折、約550m東進した突き当りに四條畷神社がある。神社の右側の急な坂を登り切った四條畷神社社殿前に参拝者用の駐車場がある。ここに車を駐車させてもらう。
まず最初に四條畷神社にお参りして駐車場南側の会館脇に飯盛山登山道の入口があり、途中、下からの登山道と合流する。登山道は非常に急な階段の坂道で、登ること約30分で二ノ丸史蹟碑郭にたどり着く。ここには名の通り、中央に史蹟碑が建てられている小さな削平地です。道を進むと土橋、堀切を越えたところが二ノ丸御体塚郭で中央に登山三百回記念の碑が建ってる。東側斜面の回り道沿いには三段の腰曲輪と石垣跡、さらに竪堀らしき溝が二条あります。次に進むと道の東側の盛り上がった上の二段の削平地が本丸三本松郭で南へ降りたところに楠公寺へ進む分かれ道があり、飯盛山山頂方向へ登ると南北に長い削平地の本丸倉屋敷郭、石段を登った先には展望台のある本丸展望台郭、一段高い南に本郭の本丸高櫓郭があり、楠木正行公像、説明板、飯盛山城趾碑がある。さらに南へ降りたNHKの電波塔がある広い場所が本丸千畳敷郭で、南と西に広がっている。南の一段下がったところに虎口、南丸があり、南丸の東側に土塁跡があるのですが、笹が繁茂していて隆起は確認できる程度です。
本郭の東側下に石垣跡、楠公寺への道沿いにも二か所石垣跡が見られます。
全体的に小振りな削平地が南北に連なった感じの城跡で、登るのには辛いですが眺めは絶景です。
≪ 歴 史 ≫
建武年間 (1334-38) 北条氏与党の佐々目憲法が南北朝時代に築いたようで、四条繩手合戦で高師直が攻め登った。また、南朝方の恩地左近太郎が飯盛山城に籠って細川頼之軍に防戦する。
畠山氏の臣木沢長政が飯盛山城を修築する。
享禄四年 (1531) 木沢長政が主君畠山義堯を裏切り、細川晴元に寝返ったため、義堯が飯盛山城を攻める。
享禄五年五月 (1532) 再び畠山義堯が飯盛山城に木沢長政を攻めたが、逆に細川晴元、三好元長に攻められ義堯が敗死する。
享禄五年六月 (1532) 三好元長と亀裂が生じ、木沢長政が三好元長を堺で攻め滅ぼす。
天文十一年 (1542) 細川晴元と三好元長の子長慶が結んで、木沢長政を河内太平寺に攻め滅ぼす。木沢氏滅亡後は、交野城の安見美作守直政が飯盛山城に入城する。安見直政が河内守護代となり、主君河内守護畠山高政を紀伊へ追放する。
永禄二年 (1559) 畠山高政が三好長慶の援けを受け、安見直政が大和に敗走する。しかし、高政は三好長慶を恐れ、安見直政をふたたび河内守護代として飯盛山城に置く。これに憤慨した三好長慶が畠山高政の居城高屋城を攻め、救援に駆け付けた安見直政を寝屋川付近で打ち、高政と直政は堺へ敗走した。
永禄三年十一月十三日 (1560) 三好長慶が飯盛山城に入城する。
永禄四年 (1561) 畠山高政が根来衆を率いて飯盛山城を攻める。
永禄五年四月 (1562) 畠山高政軍に飯盛山城を包囲され、三好長慶が籠り防戦する間に長慶の弟安宅冬康、松永久秀が救援に駆けつけ、挟撃によって高政軍を破る。
永禄六年 (1563) 三好長慶の嫡子義興が芥川城で病死する。
永禄七年 (1564) 流言で弟安宅冬康を飯盛山城で自殺させ、長慶自らも病に伏せり、同年七月二十四日、四十三歳で没する。跡を三好三人衆の後押しで三好義継が継ぐが松永久秀と意見があわず、飯盛山城を出て高屋城へ移る。
永禄十一年 (1568) 織田信長が入洛し、飯盛山城は畠山昭高の所有となる。
元亀年間 (1570-73) 畠山昭高の家老遊佐信教が飯盛山城の守備をする。
天正四年 (1576) 織田信長に攻められ落城し、廃城となった。
≪ 写 真 ≫
四條畷神社
四條畷神社南側の登山口
急な登山道
二ノ丸史蹟碑郭
二ノ丸史蹟碑郭南側の土橋
二ノ丸史蹟碑郭と二ノ丸御体塚郭の間の堀切
二ノ丸御体塚郭東側の三段腰曲輪
二ノ丸御体塚郭東側の石垣
二ノ丸御体塚郭
二ノ丸御体塚郭東側の竪堀
本丸三本松郭
本丸倉屋敷郭
本丸展望台郭
本丸高櫓郭
本丸高櫓郭にある飯盛城趾碑
本丸高櫓郭にある楠木正行公像
本丸高櫓郭南側の切岸
NHK電波受信塔のある本丸千畳敷郭
本丸千畳敷郭南側に広がる削平地
本丸千畳敷郭西側に広がる削平地
本丸千畳敷郭南側
南丸入口の土塁
南丸
南丸の南斜面の切岸
虎口
本丸高櫓郭の南斜面
楠公寺へ行く道沿いに残る石垣(北側)
楠公寺へ行く道沿いに残る石垣(南側)
楠公寺
現地飯盛城址案内マップ(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR片町線四條畷駅から徒歩約50分。
<車>
第二京阪道路寝屋川南ICで降りて大平ポンプ場前信号を斜め左折、府道21号を南下、巣本複合交差点信号を左折、国道163号を東進、東中野交差点信号を右折、国道170号東高野街道を南西に進み、途中で道が斜め左に曲がり南下、四條畷神社前交差点信号を左折、約550m東進した突き当りに四條畷神社がある。神社の右側の急な坂を登り切った四條畷神社社殿前に参拝者用の駐車場がある。付近にも有料駐車場有。
≪ 位置図 ≫
飯盛山城
四條畷神社からの登山口
紹介したお城の数 172城
Nikon デジタル一眼レフカメラ D5300 ブラック 2400万画素 3.2型液晶 D5300BK | |
クリエーター情報なし | |
ニコン |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます