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毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

東京湾大華火

2005年08月14日 09時45分54秒 | 観光


 8月13日
 東京湾大華火大会
 シャッターを開放にして、うちわでレンズを覆いながら撮ってみました。
 デフォルトの設定にしていたので、デジカメの「ノイズリダクション」が働いて、1枚撮るたびにかなり待たされることになりました。
 場所取りに失敗して、電線がうつり混んでしまったのも、失敗かな。
 夏休みの間のつなぎに、何枚かアップします。
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ホテイアオイ

2005年08月12日 15時03分02秒 | らくがき


 水鉢に入れたホテイアオイが咲きました。
 ホテイアオイって、春、水鉢に入れ、底に土を入れておけば、夏に根付いて花が咲くんです。金魚屋さんで春100円で1株買って、ほっておいたら増えて、花まで咲きました。
 花の下にはメダカが泳いでます。
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京都旅行11 八坂神社2

2005年08月11日 11時37分26秒 | 観光

 牛頭天王がわかりにくいのは、長い歴史の中、さまざまな要素が習合し、地域ごとに変化が見られること。さらに明治の廃仏毀釈でもともと仏式の儀礼を多く含んでいた牛頭天王の祭儀は禁止され、明治祭式に改められてしまったことによる。
 たとえば八坂神社に伝わる「祇園牛頭天王縁起」、花祭りで有名な東栄町に伝わる「牛頭天王島渡り」祭文、また「備後国風土記」逸文の蘇民将来伝説、すべてが異なる物語となっている。
 おおまかに整理すると、まず最初は渡来人系の水神信仰から始まったように思う。
 祇園祭と言うと山鉾巡行が有名だけれど、それに先立つ3基の神輿が大切なのだ。山鉾は後から加わった華やかな行事だが、もともとは3基の神輿が決められた井戸を巡り、その水を浴びることが儀礼の中心であった。
 祇園社は(ちなみに祇園という名はインドの祇園精舎にちなむ。牛頭天王は祇園精舎の守護神と言われていた)中の間で牛頭天王を、西の間で婆利女を、東の間で蛇毒気神を祀っていた。3基の神輿はそれぞれ、この3神をあらわしている。
 それぞれが実は水に関係する。
 蛇や龍は水神なのである。蛇毒気神(これは胎盤と血の池に関係するのだが、煩雑なので説明は省きます。詳しいことは山本ひろ子著「異神」を読まれることをお勧めします)は、蛇なので当然水神。牛頭天王を祀る本殿下には龍穴という泉があり、牛頭天王が龍であり、泉との関係を示している。最初はこの泉そのものが崇拝の対象であり、後、その泉の上に本殿を造ったのではないか、と思う。シャルトル大聖堂などキリスト教の建物でも同じだ。
 婆利女は、少将井と呼ばれ、その井戸が京都にある。やはり蛇神である。
 朝鮮では病気を治すために巫女に龍神を祀らせる風習があった。この風習が大陸からの渡来人とともに日本にやってきて、疫病流行の際に龍神を祀ったのであろう。
 やがてこれが大陸からの神牛頭天王と習合し、さらに、素戔嗚尊と習合する。

 この項続く
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ガクアジサイ

2005年08月11日 09時40分50秒 | らくがき


ちょっと季節は遅れてしまったけれど、ガクアジサイ。ガクアジサイって、子どもの頃あまり目にしなかったような気がする。
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京都旅行10 八坂神社1

2005年08月10日 17時10分42秒 | 観光


明治以前の日本人に「てんのう」って何? と尋ねれば、十中八九「牛頭天王」のことだと答えるだろう。その頃の人にとって「天皇」は、「ミカド」あるいは「主上」である。
 そんな牛頭天王であるから、祀る神社は日本中に広がっており、庶民の崇敬を集めていたこともわかる。「天王山」「天王町」「天王祭」など牛頭天王にちなむ言葉も多い(天王寺は違うよ)。
 鞍馬を降りて、次に訪れたのが、八坂神社だった。すでに時間は4時を回っていた。
 八坂神社の「本当の」祭神は牛頭天王である。なぜ、わざわざ「本当の」などという言葉をつけたか、というと、現在の祭神は素戔嗚尊ということになっているからだ。もともと「祇園牛頭天王社」(あるいは「祇園感神院」)として仏教とも神道ともつかぬ霊域を僧侶が管理していたのに、明治の神仏分離・廃仏毀釈で牛頭天王を廃し、仏教色を一掃し、社名も「八坂神社」と改めたのだ。なにしろ牛頭天王は記紀神話に出てこない外国の神であるから、明治政府にとことん憎まれたのであった。だからこの牛頭天王潰しはここだけにとどまらず、全国規模で行われた。牛頭天王のご神体が川に投げ込まれたようなところもあった。
 のちのち国家神道にぎゅうぎゅうに縛り上げられた結果、牛頭天王を祀っていた神社は自らの由緒を改ざんし、さも最初から素戔嗚尊を祀っていたかのように書き、素戔嗚尊を祀るついでに習合した牛頭天王を祀っている、と記す。
「素戔嗚尊こそが、日本神話の中で一番個性的で魅力的な神であるともいえます。それというのも、現に素戔嗚尊を祀る神社は全国に数多く存在するからです。天照大神よりも圧倒的に多いのではないでしょうか。その多くは、「祇園さん」、「天王さま」、「天王さん」と呼ばれて親しく信仰されています」(八坂神社公式webより)
 そりゃそうだ。素戔嗚尊を祀る神社の多くは、牛頭天王を祀っていたのだし、牛頭天王は広く崇敬を集めていたのだから。記紀を読んでも素戔嗚尊を「祇園さん」「天王さん」と呼んでいる例はなく、牛頭天王のことだとわかる。
 しかし牛頭天王とは一体なんなんだろう? 実はよくわからないのだけれど、ちょっと考えてみようかな、と思う。
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とんまつりJAPAN

2005年08月10日 12時57分26秒 | 読書

みうらじゅん著「とんまつりJAPAN」 集英社

 暑っ!
 ぐらぐら煮えたぎったお湯がびゅんびゅん飛んでくる。なんとなくSMのろうそくプレイというのはこんな感じなのかなあ、などと不謹慎な感想を抱きつつ見た、霜月祭。最後は味噌を塗られました。
 祭文などをテクストとして読むことのなかったその頃、この祭が牛頭天王と関係のあることも知らず、ただ目の前で行われていることの面白さ、不思議さに夢中になった。
 祭は面白い。学生時代サークルで民俗学をやっていたぼくは、仲間といろんなところの祭に出かけていったものだ。何ヶ月間ものバイト代をつぎこんで、祭を撮るために巨大なヴィデオカメラ(それもβ)を買った先輩もいた。
 みうらじゅんのこの本は、まさにそんなノリ。
 分析はしない(見仏でも、それはいとうせいこうの役割だ)。愛媛県の大山祗神社の一人相撲を見ても、「一人で相撲をとるのはどういう意味があるのだろうか。かつて巫女が辻で舞を舞うことがあり、それは、霊魂を呼び出すための所作であった。土俵は聖域なのであり、いわばすまい手は神主に相当する」(宮田登「妖怪の民俗学」)などということは一切言わない。
「一力山は勝ったにも拘わらず、表情一つ変えない。まぁ、そりゃ一人でやってんだから別にうれしかないよな…。でもそのポーカーフェイスが逆におもしろくて、オレもとうとう吹き出す。プーッ!」このノリでさまざまな不思議な祭を見て回るのだ。
 祭には過去を伝え続ける部分がある。それが現代においては不思議にうつる、という側面がある。その最大の例が「性」に対する儀礼だろう。明治以前、日本人の性は大らかであった。その明治以前の大らかな性が祭の中に保存され、「変な祭」を回るみうらじゅんの筆で全国的によみがえることになる。

川崎にある神社にて

 まあ、「とんまつりJAPAN」で繰り広げられる祭はこんな可愛いものではない。日本のある一面が見たい方、そして軽い脱力と笑いが欲しい方には是非お勧め。
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上野藪そば総本店

2005年08月10日 09時25分52秒 | 食べ物


 ご存じ鵜飼良平さんの名店。お店は上野アメ横奥、マルイシティ裏、上野ゴールデントライアングル(池之端藪、蓮玉庵2軒と合わせ勝手に命名させて頂きました)の一角。でも、実はそれほど回数行っているわけではない。上野に行くときにバスを使うので、どうしても停留所が近い池之端へ足が向いてしまうから。友だち数人と連れだって行くときは、事前に2階の座敷をお願いしておけば、こりゃ、うまいうまいの大宴会。
 でもこの日は京都でいまいちの蕎麦を食べ、そこのご主人が修行された上野藪そば総本店に行ってみようと思い立ったが吉日、浅草でもぶらつくついでに寄ってみた。
 時は午後3時半、昼下がり。お昼でもなく、夜ご飯でもない、蒸し暑い油が身体にまとわりつくような感じのけだるい日曜日。だのに、お店は満員に近い混雑。
 まずはエビスビールを注文。お通しは蕎麦味噌。ゆず七味を使っているらしく、ほのかなゆずの香りに、辛みがきいてる。うんうん、おいしい。天ぷら盛り合わせ(1600円)を注文。しそやししとうなどの名脇役の並ぶ中、どこまでもまっすぐ大きいエビが2本鎮座まします。いいねえ、おいしいねえ。
 つい、昼真っから菊正を注文してしまう。
 次々にやってくるお客さん。それを遅滞なくさばいていく数名のおばちゃんたち。蕎麦屋の名店に名おばちゃんは付きものだ。神田藪の歌うおばさんは別にしても、白金の利庵など、狭い店内に客あしらいのうまいおばちゃんがてんこ盛り。神田まつ屋のおばちゃんたちもすてきだ。
 時間が4時を過ぎるとさらに1名のおばちゃんを新規投入。夕方に向かっての戦力拡充と見た。
 ここで崩れず、このあと浅草を散歩する予定だから酒は切り上げ、せいろ大盛り(850円)を注文。いいね。大盛りがあるっていうのが嬉しい。
 そばはもっちり系。コシは充分。香りはしないが、蕎麦の味が口中に甘く広がる。ま、この時期香りうんぬんは野暮ってもんだ。つゆは蕎麦の味を充分に受け止める強い味。
 ああ、早く新蕎麦の季節が来ないかな。
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京都旅行9 鞍馬8

2005年08月09日 09時46分16秒 | 観光

 鞍馬寺本殿に到着。
 鞍馬は明治の廃仏毀釈、神仏分離令の影響でさびれてしまったが、信楽香雲管主のもと現在は鞍馬弘教総本山として天台宗から独立している。愛を月輪の精霊=千手観世音菩薩、光を太陽の精霊=毘沙門天王、力を大地=護法魔王尊の姿であらわし、この三身一体として「尊天」と称し、これが鞍馬寺の本尊である。
 そして「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く、尊天よ溢るる恵みを与えたまえ…」と祈る。
 「尊天」は宇宙すべてであり、すべてのいのちのもとであり、すべてのいのちそのものでもある。 霊宝殿に入ると、一階に鞍馬の山に息づく様々な「いのち」が展示してある。最初訪れたとき、きのこなどの展示に「南方熊楠好きな人でもいるのか」と思ったのだが、そうではない。博物趣味ではなく、さまざまな「いのち」を尊重しているのだ。
 「いのち」を大切に考える鞍馬の本堂掲示板には管主の文章が2つ書いてある。「テロはやめよう 戦争もやめよう/どちらも無慈悲で残酷だ/真の平和を願ってひたすら祈ろう」
 もう一つの文章は、戦うことのむなしさを説き、「戦争で悲しまないために/戦争で悲しませないために/平和の道を目指したのです/「日本国憲法」は平和の基盤/日本が世界に誇れる宝です」と結ぶ。最初来たときには違和感を抱いたのだが(お寺の本堂に書いてある文章として)、「いのち」というキーワードを考えるようになるとすんなり納得できる。
 ここに集うもの、鬼も、流刑の神も、人も、動物も、植物も、すべてのいのちを優しく包み込む鞍馬。次は五月の満月祭のときに訪れてみたい。
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京都旅行8 鞍馬7

2005年08月07日 01時22分06秒 | 観光

 鬼一法眼、由岐神社を感慨深く通ると、この像に出会った。「愛と光と力の像 いのち」である。
「互いに捧げ合い扶け合い/共に生きるいのちの環の中で/大きないのちの愛と光と力によって/私たちも生かされている」
「すべては尊天にてまします」
 鬼や流刑に処される神について安易なヒューマニズムに陥ることなく、鞍馬はすべてを命の光として考えてる、ということなのだろう。この多様な動植物のいのちで満ちあふれている鞍馬山、そのいのちの環の中に、人があり、鬼があり、神があり、動物があり、植物がある。それらすべてを含む宇宙のいのちが「尊天」なのであり、その「尊天」を鞍馬は信仰する。
 大きな命の環。孤立する生命でなく、大きな命と常につながっている「わたくし」の命。鞍馬に立つと何か気持ちがいいのは、そういう大きなものを感じることができるからかもしれない。
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京都旅行7 鞍馬6

2005年08月06日 08時07分15秒 | 観光

 桃の節句、端午の節句。子どもの頃から耳にした言葉である。節句とは中国で古くから伝わる季節の変わり目で、奇数月のぞろ目が相当する(1月1日は別格なので、1月だけは7日)。すなわち、人日1月7日、上巳3月3日、端午5月5日、七夕7月7日、重陽9月9日(上巳の説明は省きます)。
 上巳3月3日は穢れを流す日とされてきた。この日宮中で行われる「曲水の宴」はその儀礼を宮中化したものであることは想像に難くない。一般の人たちは写真のような人形(形代)に名前を書き、自分の身体をこすり、自分についた穢れを人形に移して海や川に流したのだ。これがひな祭りの起源であり、雛の原型、それが少彦名命であった。
 つまり疫病や世情不安など憂うべきことがあったとき、天皇は怒り(勅勘)、由岐神社、五条神社の少彦名命に穢れをぬりたくり、流刑に処したのだ。だからこそ由岐神社は世情不安の際、宮中から鞍馬に移されてきた。そしてそれからも何かあれば穢れを背負わされ、流刑に処される。
 遠藤周作は鞍馬からどうしても「暗間」「暗魔」を連想してしまう、と言っている。鬼一法眼、由岐神社。鬼とされた者、穢れを背負わされ流刑にされる者。
 鞍馬の抱える闇は、なかなか深い。
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京都旅行6 鞍馬5

2005年08月05日 09時20分53秒 | 観光

            由岐神社 拝殿

 少彦名命はうつろ舟に乗って出雲に流れてきた小さな神である(一寸法師の原型と考えられる)。
 大己貴命とともに国造りを行うが、あるとき粟島の粟に登って常世の国に旅立ってしまう。
 この少彦名命を祀る神社で有名なものが和歌山の淡島神社である。御祭神はもちろん少彦名命、それに大己貴命、息長足姫命。
 雛流しの神事で有名であり、神社のwebには「男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の男女一対のご神像であるとされています」とある。
 うつろ舟にのって流されてきた少彦名命は、雛として流される運命にあるのだ。ではひな祭り(雛流し)とは何だろうか。

 この項つづく
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京都旅行5 鞍馬4

2005年08月04日 17時55分50秒 | 観光

 鬼一法眼社を過ぎると、まもなく巨大な杉が目をひく。由岐神社である。
 由緒には「由岐大明神は御所にお祀りされておりましたが、天慶元年に都の大地震、天慶2年には平将門の乱(天慶の乱)と相次ぐ世情不安に、当時の朱雀天皇の詔により天慶3年(940年)の9月9日御所の北方にあたる鞍馬に地に天下泰平と万民幸福を祈念し御遷宮されたのであります」とある。
 なるほど。
 だけれど、なぜ世情が不安だと御所から鞍馬に移さないといけないのだろうか。御所で一生懸命祈っていればいいんじゃないだろうか。
 「徒然草」には「勅勘の所に靫懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。」の一節がある。
 勅勘(天皇の怒り)があると靫(ゆき、と読みます。矢の入れ物です)を由岐神社、五条神社にかけ、それがかけられている間は人の出入りが禁じられる、ということだ。
 五条の天神、由岐神社、どちらも祭神は大己貴命、少彦名命。ぼくはこの少彦名命にひっかかるものを感じるのだ。

 この項つづく。
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志らくのピンpartⅢ

2005年08月01日 22時35分38秒 | 読書
 「いっぱいのお運びで、とくに男性の方は数々の誘惑にもめげずにここまでたどり着いて下さって、ありがとうございました」という挨拶通り、池袋文芸座は風俗街のど真ん中にある。高校生の時、文芸座に映画を見に行った帰り、「遊ぼうよ」とおかまさんに思いっきり腕をつかまれたこともある。ル・ピリエで見た多くの映画がぼくの血肉だ。
 さて、そんなおセンチな昔話はさておきつ。
 志らくは池袋でシネマ落語を、新橋でネタおろしの古典落語を1ヶ月交互に行っており(9月は新橋で「浮世床」「千両みかん」「御神酒徳利」の3本の予定)、ほかの活動と合わせ、かなり精力的に動き回っているように思う。それだけやりたいことがたくさんある、今勢いを強く感じる落語家だ。
 今回は「野ざらし」「妾馬」と2つ古典をやって、シネマ落語「ダイ・ハード」。実はこれ字として読んでしまってたのだが、それでも面白かった。とくに前2つの噺とうまく関連させて3つを語っているところなど、ストーリーテーラーとしてもうならされた。
 もちろん爆笑の渦(なんだが、映画館って、反響がないから笑いの引きが早いんだ)。
 会場は男女比半々か、ちょい女性の方が多い感じで、全席満員。
 ちなみに次回のシネマ落語は「オーメン」。なんで、こんなに落語に向かないようなものにチャレンジしたがるのか。楽しみ。
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京都旅行4 鞍馬3

2005年08月01日 17時25分25秒 | 観光

 鬼には狼男と同じ面がある。共同体から排除され、その支配下にないもの(鉄輪の女のような鬼もあるし、それが日本語の「鬼」すべてを表すものでないことは十二分に理解した上で)。つまり士農工商に入らない人々。
 士農工商という言葉は江戸時代に作られた言葉ではない。謡曲「善知鳥」で、猟師は「士農工商の家にも生まれず、または琴棊書画をたしなむ身ともならず」、と、殺生をして地獄の苦しみを受ける理由を説明する。そして僧に蓑笠を手向けてくれ、と頼む。
 「日本書紀」で朝倉山から斉明天皇の葬儀を覗いた鬼が付けていたのが蓑笠。今でもなまはげに見られるように「蓑笠」は鬼(要するに共同体の外からはるばるやってくるマレビト)の象徴である。士農工商の家に生まれる、というのは苦しかろうがなんであろうが、とりあえずは支配体制の内側に存在することを意味する。この猟師はそこに生まれなかった。鬼である。だから蓑笠を手向けてくれ、と頼む。
 一方、鬼一法眼であるが、彼は一条戻橋近くに住む陰陽師集団の一人だと言う。「一条戻橋」「陰陽師」と言えば、安倍晴明。彼にこんな話がある。人形を作って働かせていたのだが(式神)、昼動き、夜うち倒れる姿を清明の妻が見つけ、気味悪がるようになってしまう。で、仕方なくこの人形を戻橋の下に捨てたところ、人間の気が残ったのか、宮中に通い、そこの女官をはらませてしまう。この名も姓もない子が捨てられ、となる、と。
 鬼一法眼は、まさにこの系列に属する。「彼ら都市の陰陽師たちが、鬼の末裔を称する山の修験者たちとちがって、川の近くに住んでいたからだとみる。異界としての山に住む鬼だけでなく、都市の境界、逢魔の場としての橋に鬼があらわれるようになったころ、「もの」は「おに」に転じたのであろう。そして、山人が畏怖以外に蔑視・差別の対象となったように、橋の下のも、一般人からは蔑視・差別の対象とみられ、「おに」といわれたのである」(大和岩雄「鬼と天皇」)
 蔑視され、鬼とされた下級の陰陽師集団の一員である、鬼一法眼。鞍馬の持つまた別の面がそこに現れているような気がした。

 (写真は魔王の滝)
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蕎麦吉里童心舎

2005年08月01日 12時41分41秒 | 食べ物


 お店は田町と西日暮里の間、冠新道のはずれにあります。
 せいろ(500円)を頼みました。十割そばと二八せいろ、両方あるんですが、ぼくは食感から二八の方が好み(決してケチってるわけでは…)。
 この時期にしてはちゃんと蕎麦独特の甘みが感じられるおいしい蕎麦でした。しなやかなコシがあり、ぷちぷちっいう感じよりも、もう少しもちっとした食感。これはこれで、なかなか。
 特筆すべきはそば湯。いや、たぶんなにかの関係で今回だけだったのかもしれないけれど(だって、何回か行ってるけど、こんなの初めて)、湯桶の中でそばがきができていました。濃厚きわまりなし(もしかしたら12時前口開けだったから、そば湯が薄いので、湯桶に直接打ち粉をいれたのかもしれない…)。
 結局せいろを2枚ずつ食べて、たっぷりのそばがきを楽しんで、満腹・満足いたしました。
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