現代童蒙養正教育的落實——二〇一七香港冬至祭祖法會談話(共一集)
現代における幼児を正しく育てる教育の実践――二〇一七年香港冬至祭祖法会談話
2017/12/18 香港國際機場亞洲國際博覽館 檔名:32-254-0001
尊敬的主法和尚、各位嘉賓、各位大德、各位同修,大家好!
尊敬する主法和尚、ご来賓の皆さま、大徳の皆さま、門徒の皆さま、こんにちは!
今天是二〇一七年香港冬至祭祖護國息災超薦繫念法會的第一天,很高興看到大家齊聚一堂,共襄盛舉!
本日は二〇一七年香港冬至祭祖護国息災超薦繋念法会の第一日目です。皆さまが一堂に会し、盛大に挙行できますことを嬉しく思います。
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【注】超薦=超度=済度(さいど):経を読み、その功徳によって死者を苦界から救う。(大辞泉)
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緬懷祖德、知恩報恩是中國人的傳統美德;超薦繫念法會是佛教徒以虔誠修行的功德,迴向亡靈離苦、災難消除、世界和平的一種祈福儀式。在今天法會開始之前,我們希望先談一個重要的主題,「現代童蒙養正教育的落實」。祭祖是緬懷過去的祖先,繼承他們的美德;法會是化解現前的戾氣,修積大家的福德;童蒙養正教育則是培養國家民族未來的棟梁,延續千秋萬代慧命的無量功德!童蒙養正教育的重要性無以復加,是當今最重要的一樁大事!
祖先の功徳に思いを馳せ、恩を知り、恩に報いることは中国人の伝統的な美徳です。超薦繋念法会は仏教徒が敬虔な修行の功徳をもって、亡くなられた霊が苦しみを離れ、災難を取り除き、世界平和に廻向(えこう:自分の修めた功徳を他者に向けること)する、一種の幸福を祈る儀式です。本日の法会を始める前に、私たちは先に重要なテーマ「現代における幼児を正しく育てる教育の実践」について話したいと思います。祭祖(=先祖に対する祭祀、先祖供養のこと)とは過去の祖先に思いを馳せ、彼らの美徳を継承することです。法会は現前の悪い気風を解消し、皆の福徳を積むことです。幼児を正しく育てる教育とは、国家民族の未来の棟梁(とうりょう:一国の重任を担って立つ人)を育成し、千秋万代(せんしゅうばんだい:永遠に)慧命(えみょう:悟りの智慧)を継続する無量の功徳です!幼児を正しく育てる教育の重要性は、この上なく今最も重要な大事です!
童蒙養正教育的基本理念
「幼児を正しく育てる教育」の基本理念
《易經.蒙卦》說:「蒙以養正,聖功也。」意思是,從童年開始就要施以正確的教育;童稚蒙昧之時最容易接受引導,此時應該用來導向正道,這就是造就聖賢的偉大功業!所以古人說「三歲看八十」,童年時扎下的善根,會影響他一生,到了八十歲也不會改變。
『易経』蒙卦には、「蒙もって正を養ふは、聖の功なり」(蒙以養正,聖功也)と説かれています。幼い頃から正しい教育を施すことです。幼く無知な時は最も導きを受け入れやすく、この時に正道に導くべきなのです。これこそが聖賢を育てる偉業です!ですから古人は「三歳で八十歳の姿が見える」(三つ子の魂百までと同義)と言っています。幼年期に植えられた善根はその人の一生に影響し、八十歳になっても変わりません。
過去我們注重講解中國古人對胎教的重視,以及出生之後一千天的保護:母親在懷孕期間,一切的行為、言語、思想都必須端正,讓胎兒稟受正氣。出生後的三年內,大人要保護小孩,讓小孩所看到、聽到、接觸到的,都是正面的言語與行為。這三年的根扎下去,小孩就具備判別是非善惡的能力,一輩子不會改變。現在我們要更進一步,探討三歲之後的童蒙教育。
以前私たちは、中国の古人が胎教と出生後の一千日の保護を重視していたことを重く見て解説しました。母親は妊娠している間、一切の行為、言葉、考えを正して、胎児に正気(せいき:公明正大な気概)を与えなければなりません。出生後の三年以内は、大人が子どもを保護して、子どもが見るもの、聞くもの、接触するものは、すべて良い言葉と行為にします。この三年に根を張ると、子どもは是非・善悪を判別する能力が備わり、一生涯変わることはありません。今私たちはさらに一歩進めて、三歳以降の幼児教育について検討します。
兒童時期記憶力強、理解力弱,所以應該帶著小孩背誦聖賢典籍,例如《聖學根之根》所收錄的二十三種童蒙書籍。也可以將自己所讀的聲音錄下來,然後反覆播放,同時跟著讀;這樣不但提高興趣與積極性,還能養成邊讀邊聽的好習慣。每次只讀一種教材,反覆熟讀,漸漸就能背誦;要背誦到滾瓜爛熟,通常是讀了幾百遍,甚至上千遍,就不容易忘記了,然後再讀下一本。《聖學根之根》背完之後,就可以背四書五經。背書的目的是讓小孩的心安定下來,培養定力,不胡思亂想,這對小孩日後智力、能力的發展至關重要!
幼児期は記憶力が強く、理解力は弱いものです。ですから子どもと共に聖賢の典籍を暗唱すべきです。例えば『聖学根之根』(聖賢の学問の根本の根本)に収録されている二十三種の児童書籍です。自分で読んで録音して、繰り返し流し、同時に読んでも良いでしょう。このように絶え間なく関心と積極性を高めるだけでなく、読みながら聞くという良い習慣を養います。毎回一つの教材だけを読み、繰り返し熟読すると、少しずつ暗唱できるようになります。すらすら読めるまで暗唱します。通常は数百遍、或いは千遍読めば、忘れることはありません。その後で次の書物を読みます。『聖学根之根』を覚えた後、四書五経を覚えることができます。書物を覚える目的は子どもの心を安定させ、落ち着きを養い、あれこれ妄想させないことにあり、これは子どもの将来の知力、能力の発展にとって非常に重要です!
現代童蒙養正教育的偏差
現代における幼児を正しく育てる教育のひずみ
過去為了推廣傳統文化,各地辦了很多論壇,也引起了社會各界人士的關注。然而真正要辦傳統文化教育,卻不能用論壇的那套方法來辦。辦論壇是為了達到宣傳的效果,會用種種方法來激勵人心,辦得很熱鬧。辦傳統文化教育,則必須把心安定下來,從培養日常生活點點滴滴的德行做起,並且將學問扎扎實實、系統化的做起來,這跟論壇的風格和方式不一樣,不能混為一談。
以前、伝統文化を推進するために、各地で多くの論壇を挙行しました。社会の各界の人々にも注目を浴びました。しかしながら真に伝統文化の教育を行うのは、論壇のような方法で行うことはできません。論壇を挙行したのは宣伝の効果を上げるためであり、様々な方法を用いて人の心を動かすことができ、とても賑やかなものでした。伝統教育を行うには、必ず心を安定させなければならず、日常生活の些細な徳行を養うことからはじまり、しっかりと学問を修め、体系的に行わなければなりません。これは論壇の特徴や方法とは異なります。十把一絡げにすることはできません。
傳統文化老師必須自身具有真正的道德與學問,才能把學生教好。不能把辦教育看得太簡單,做得太粗糙,否則就不是真正在辦傳統文化教育了。萬一教傳統文化的老師自身修養不足,未能真正落實倫理道德,甚至還時常在日常生活或教學當中流露出煩惱習氣,對學生產生負面影響,那反而是在糟踐傳統文化、抹黑傳統文化;這個過失是很嚴重的!
伝統文化の先生は必ず自分自身が真の道徳と学問を備えていなければなりません。それでこそ学生にきちんと教えることができるのです。教育を簡単だと思っていい加減にしてはなりません。さもなくば真の伝統文化教育ではなくなってしまいます。万が一伝統文化の先生自身の修養が足らず、倫理道徳を真に実践することができず、甚だしきに至っては日常生活や教学の中で煩悩の習気(じっけ:身にしみついた良くない習慣)が出てしまうのであれば、学生に対して良くない影響が生じます。それはかえって伝統文化を粗末にし、伝統文化に泥を塗ることです。その過失は重大です!
因此,對於從事童蒙養正教育的教師,要求是很嚴格的;必須是經過專業的訓練與嚴格的篩選。童蒙老師必須具有真誠的愛心、持恆的耐心、周全的細心,才能把小孩教好。正如古人所說,唯有聖賢君子的教師,才能教出聖賢君子的學生。童蒙老師站在教育的最前線,是在為國家民族、為全世界培養下一代的聖賢君子,責任非常重大,所以應該由最優秀的人才來擔任,社會也應該投入最好的資源來培養童蒙老師!無論什麼人從事這項工作,都應該深刻體認到肩上責任的重大,要堅守崗位,提升自身的道德與學問,努力把童蒙教育做到最好。希望有志、有德、有能之士,發心來承擔這項使命。
このことから、幼児を正しく育てる教育に従事する先生に対して、その要求はとても厳格です。必ず専門的な訓練を通して厳格に選出します。幼児の先生は必ず真誠(しんせい:まこと)の愛を備え、継続する忍耐があり、注意深さが行き届いていてこそ、子どもにしっかりと教えることができるのです。正に古人が言うところの、「聖賢君子の教師がいてこそ、聖賢君子の学生に育てることができる」というものです。幼児の先生は教育の最前線に立ち、国家民族のために、全世界のために次世代の聖賢君子を育成します。責任は非常に重大です。ですから最も優秀な人材に任せなければならず、社会もまた最も良い人材を投入して先生を育成しなければなりません!どの人がこの仕事に従事しても、肩の上の責任の重さを深く実感するはずです。職責をしっかり果たし、自身の道徳と学問を高めて、最高の幼児教育に努めなければなりません。志があり、徳があり、能力がある人材が、発心(ほっしん)してこの使命を担うことを願っています。
古代的童蒙養正教育,都是在家族民辦的學校(私塾)中進行。家族的族長會非常認真的挑選道德高尚、學問優良的教師,來教導自家私塾的學生;因為每個家長都了解,唯有把子弟教育好,家族才會出人才,才能持續興旺。所以整個社會都把童蒙養正教育看得最重要,最好的教師都被聘請來從事童蒙養正的教育,這才是正確的作法。兒童時期的基礎教育做好了,日後的各種教育就很容易進行。
古代の児童を正しく育てる教育は、すべて家族や民間の学校(私塾)の中で行われました。家族の族長は高尚な道徳と優れた学問のある教師を真剣に選び、(その教師に)私塾の学生を教え導かせました。どの家長も、子弟をしっかり教育してこそ家族に人材が出て、発展が継続することを知っていたからです。ですから全社会が児童を正しく育てる教育を最重要だと見なして、最高の先生を招聘して教育に従事させていました。これが正しいやり方です。幼児期の基礎教育が終わったら、その後の様々な教育は容易に行えるのです。
從這裡可以看出現代跟古代的不同:古代請最好的老師來教育兒童,現代對童蒙養正教育的重視程度不夠。這種做法上的差別,是為什麼古時候代代都能出大師級的人才,現在卻出不了大師的主要原因之一。
ここから現代と古代の違いが見て取れます。古代は最高の先生に児童教育を要請していたのですが、現代は幼児を正しく育てる教育をそれほど重視していません。このやり方の違いは、なぜ昔は代々大家クラスの人材が出たのに、今は出ないのかの主要な原因の一つです。
童蒙養正教師的要求
幼児を正しく育てる教師に対する要求
童蒙養正教師必須具備「仁德」;要順德而行,不能逆德而行。《漢書•高帝紀上》曰:「順德者昌,逆德者亡。」童蒙養正教育的成敗關鍵全在於此。所謂逆德,是指勇悍、鬥爭、好戰、瞋怒等違背慈善仁愛之事。所謂順德,則是平和、禮讓、和諧、仁慈等德行。
幼児を正しく育てる教師は必ず「仁徳」を備えていなければなりません。徳に順って行います。徳に逆らって行ってはなりません。『漢書』高帝紀上には、「徳に順(したが)ふ者は昌(さか)へ、徳に逆らふ者は亡ぶ」(順徳者昌,逆徳者亡)と説かれています。幼児を正しく育てる教育の成功と失敗の鍵はすべてここにあります。いわゆる逆徳(ぎゃくとく:徳に反すること)とは、勇悍(ゆうかん:勇ましくて強いこと)、闘争、好戦(こうせん:争いを好むこと)、瞋怒(しんど:怒ること=瞋恚)等、慈善・仁愛に背くことです。いわゆる順徳(じゅんとく:徳に順うこと)とは、平和、礼譲(れいじょう:礼儀正しく謙遜した態度をとること)、和諧(わかい:調和すること)、仁慈(じんじ:思いやりがあり情け深いこと)等の徳行です。
童蒙老師不能有逞強好勇的意氣,那是人格不成熟的表現,會把小孩帶壞了。古人說「學問深時意氣平」,真正有學問、有本事的人,都是很謙虛溫和的,不會逞能、炫耀。必定是具有平和修養的老師,才能把孩子帶向溫文爾雅、厚積薄發的正路。
幼児の先生は強がりで勇ましい感情があってはなりません。それは人格が未成熟な現われであり、子どもを悪くします。古人は「学問が深まれば心が平らかになる」(学問深時意気平)と言っています。本当に学問があり、実力がある人は、とても謙虚で温和なもので、実力を誇示したり、ひけらかしたりはしません。必ず穏やかで修養を備えた先生でなければなりません。それでこそ子どもに温和で上品な態度を教え、「厚積薄発」(地道に努力を重ね、蓄積した力を少しずつ発揮する)の正道に導くことができるのです。
童蒙老師不能有爭名奪利的機心,那是敗壞墮落的開始,會把小孩帶壞了。古人說:「爭名奪利幾時休?早起遲眠不自由!騎著驢騾思駿馬,官居宰相望王侯。只愁衣食耽勞碌,何怕閻君就取勾!繼子蔭孫圖富貴,更無一個肯回頭!」名利是身外之物,命裡有時終須有,命裡無時莫強求。唯有道德學問,才是真正的財富,能夠帶來幸福快樂的人生。必須是明白事理、淡泊名利的老師,才能培養學生正確的人生價值觀。
幼児の先生は名利を争う野心があってはなりません。それは腐敗と堕落の始まりであり、子どもを悪くします。古人は「名利を争いいつ休む 早起き遅寝の不自由さ 騾馬(らば)に乗りつつ駿馬を思い 宰相なっても王望み 衣食ばかりが心配で あくせく暇なく働いて 何をか恐れん閻魔の裁き 跡取り息子はいるけれど 富貴を求めてひたすらに 頭にあるのは金儲け 振り返る者誰もなし」(意訳。『西遊記』の一節)と言っています。名利は身体の外のものです。命(めい)には必ず限りがあり、命の中に無いなら無理に求めてはなりません。道徳と学問があることこそが、真の財産であり、幸福で豊かな人生をもたらします。必ず物事を良くわきまえていて、名利に淡泊な先生でなければならず、それでこそ正しい人生の価値観をもった学生を育成することができます。
童蒙老師不能有比較高下的分別心,那是短視偏頗的錯見,會把小孩帶壞。古人說:「三百六十行,行行出狀元。」每個小孩都有獨特的稟賦與才能,不能任意比較優劣。老師應該因材施教,細心觀察小孩的性向與喜好,發現每個小孩各自的閃光點,順著他們自己的稟賦去引導,那麼每個小孩都是可造之材。老師與老師之間更不應互比高下,那就沒能給學生做出身教的好榜樣。必須是尊重差異、平等對待的老師,才能讓孩子學習到互相欣賞、各展所長,避免落入互相攀比的誤區。
幼児の先生は優劣を比較する分別心があってはなりません。それは見識が浅く偏った偏見であり、子どもを悪くします。古人は「どの職業にも優れた人がいる」(三百六十行,行行出状元)と言っています。どの子どもにも独特の天賦の才能があり、気軽に優劣を比較してはなりません。先生は子どもに合わせて教えを施し、子どもの性向や好みを注意深く観察して、どの子にも光るところを見つけて、子どもたちの天賦によって教え導きます。そうすればどの子も見込みのある人材になります。先生と先生の間で互いに優劣を比較してはならないのは尚更のことです。それでは学生に良い手本を示すことはできません。必ず違いを尊重し、平等に接する先生でなければなりません。そうすれば子どもたちはお互いに気に入り、それぞれ進歩向上して、お互いに見栄を張って競い合う誤った考え方を避けることができます。
童蒙老師不能有浮躁易怒的脾氣,那是缺乏自制與耐性的表現,會把小孩帶壞。《易經.損卦.象》曰:「君子以懲忿窒欲。」君子要克制憤怒,節制情欲。人都難免有七情五欲,但是童蒙老師必須做到更嚴格的克制與掌控自己的情緒,正如《禮記•曲禮上》說:「傲不可長,欲不可縱,志不可滿,樂不可極。」童蒙老師絕不能在學生的身上宣洩自己的情緒,而要時時保持理智,能夠包容學生的錯誤,展現出充分的愛心與耐心,這才是為學生們做出良好道德修養的模範。
幼児の先生は軽率で怒りっぽい気性があってはなりません。それは自制と忍耐に欠けている現われであり、子どもを悪くします。『易経』損卦には「君子以て忿(いか)りを懲(こ)らし欲を窒(ふさ)ぐ」(君子以懲忿窒欲)と説かれています。君子は憤怒を抑え、情欲を節制しなければなりません。人は皆七情五欲を免れることはできません。しかし幼児を教える先生は更に厳格に自分の情緒を抑え、制御しなければなりません。正に『礼記』曲礼上に「傲(おご)りは長ずべからず。欲は縦(ほしいまま)にすべからず。志は満たすべからず。楽しみは極むべからず」(傲不可長,欲不可縦,志不可満,楽不可極)と説かれている通りです。幼児の先生は絶対に学生に対して自分の情緒を吐き出してはなりません。常に理性を保ち、学生の誤りを包容して、大きな愛と忍耐を発揮しなければなりません。それでこそ学生たちに道徳修養の良い模範を示すことができるのです。
童蒙養正教師的典範
幼児を正しく育てる教師の模範
我們舉民國初年的兒童教育家陳鶴琴老先生為例。他在南京高等師範學校教育科期間,建立教育實驗區,與陶行知、廖世承等人共同倡導優質教育。當年的南京,基本都是完全西化的教會幼稚園,沒有中國特色的幼稚園。陳先生創辦了第一所中國式的幼稚園,「東南大學教育科實驗幼稚園」。他與許多西方現代兒童教育家強調兒童本位與自由教育的主張不同,陳鶴琴先生並不認為兒童的自由與個性發展可以獨往獨來、放任或隨著年齡增長而逐漸發展。他相信,凡是兒童都可以教育成為有成就的人;兒童不僅要從小教起,還要注意從小教好。他的幼稚園為兒童提供很好的環境,使兒童的個性得以充分發揮;同時教導兒童做人的道德,提高兒童的智力與德性。
民国初年(1912年)の児童教育家・陳鶴琴先生を例に挙げてみます。彼が南京高等師範学校教育科にいた期間、教育実験区を設立し、陶行知・廖世承等の人と共に良質の教育を提唱しました。当時の南京は、基本的にすべて完全に西洋化した教会の幼稚園で、中国の特色のある幼稚園はありませんでした。陳先生は「東南大学教育科実験幼稚園」という最初の中国式の幼稚園を創設しました。彼は多くの西洋の現代児童教育科が強調する、子ども本位の自由教育の主張と同じではありません。彼は、およそ児童は成功する人を育てることができると信じていました。児童は小さい頃から教え始めるだけでなく、小さい頃からしっかりと教えるように注意しなければなりません。彼の幼稚園は児童のために素晴らしい環境を提供して、児童の個性を充分に発揮させていました。同時に児童に人としての道徳を教えて、児童の知力と徳性を伸ばします。
陳老指出:人的性情與情感是從兒童時期陶冶、培養的。在幼稚園,音樂、圖畫、文學和兒童的實際生活是培養兒童情感、道德的主要途徑。他特別提出在幼稚園開設公民訓練課程的重要性,「就是培養將來做公民的基礎,因此可以養成種種合作的精神,愛護團體、愛護國家的精神。同時又可以培養公民應有的知識與技能,砌成一個穩固的公民基礎。」
陳先生は「人の性情と情感とは子どもの頃に育まれ、養われる」と指摘しています。幼稚園では、音楽、図画、文学と児童の実際的な生活とは、児童の情感・道徳を養う大切な手段です。彼は特に幼稚園に公民訓練課程を開設する重要性を提起しました。「正に将来公民となる基礎を育成するのであり、そのことにより様々な協力的精神、集団を大切にし、国家を大切にする精神を養うことができるのである。また同時に公民として持つべき知識と技能を養うことができ、揺るがない公民の基礎を築き上げることができるのである」
陳老還將幼稚園的作用概括為十三個方面,這裡面就包括了古代教師所應傳授的保健、德行、能力三大部分。陳老將我國優秀的傳統教學理論和西方教學理論相結合,不但順應了當時國內教育發展的需要,而且在長期實踐中不斷調整和完善教學與管理的方式方法。
陳先生は幼稚園の効果を十三の面から総括しています。その中には古代の教師が伝授した保健、徳行、能力の三つが含まれます。陳先生は我が国の優れた伝統の教学理論と西洋の教学理論を融合し、当時の国内教育発展の需要に応えるだけでなく、長期的な実践の中で教学と管理の方法を絶え間なく調整、改善し続けました。
這些實例,都是兒童教育的創辦人應當虛心參考學習的。辦學,不是為了盈利,而是為了打造健康向上的教育生態環境;讓每個孩子都享有更好的、更公平的教育,從而有能力造福全人類。
これらの実例はすべて、児童教育の創設者が参考として謙虚に学ぶべきものです。学校の設立は利益の為ではなく、健康的に向上する教育環境を作ることです。どの子どもにもより良く、より公平な教育を受けさせ、これによって全人類を幸福にする能力を育てます。
現代童蒙養正教育的落實
現代における幼児を正しく育てる教育の実践
現代童蒙養正教育的落實,最重要的是師資。創辦人要一心為國、為世界,沒有絲毫私心;老師要具備優良的道德與學問。其次是親師之間必須密切配合,老師教導學生要孝順父母,父母教導孩子要尊師重道。親師配合無間,讓孩子深深扎下孝敬的根本。
現代における幼児を正しく育てる教育の実践で、最も重要なのは教師の資質です。創設者は国のため、世界のため、その一心でなければならず、僅かな私心もあってはなりません。教師は優れた道徳と学問を備えていなければなりません。次に、親と教師の間では、必ず密に協力しなければなりません。教師が学生を導くには親孝行が必要です。両親は子どもに「師を尊び道を重んずる」ことを教えなければなりません。親と教師の協力が途切れなければ、子どもに孝敬(こうけい:父母に孝行し、年長者を敬うこと)の根本は深く根を下ろします。
教材的選擇也很關鍵,除了上述的《聖學根之根》與四書五經之外,傳統與現代的結合也很重要:例如民國初年出版的一套優良教科書,《共和國教科書教授法》(新國文教授法上下、新修身教授法)。這套教材由上海商務印書館於一九一二年首次出版。它的內容既取材傳統文化的精華,又配合西方文化的精髓,並且將如何教授學生修身養性的方法詳細闡述出來,是非常難得的一套好教材!出版後的十年之間,共銷售七千萬至八千萬冊之多。這樣的老課本在今日而言,仍具有極高的實用價值。
教材の選択も鍵になります。上述の『聖学根之根』と四書五経の他に、伝統と現代を結合することも重要です。例えば民国初年に出版された優れた教科書『共和国教科書教授法』(新国文教授法上下、新修身教授法)があります。この教材は上海商務院書館が一九一二年に初回の出版をしています。その内容は伝統文化の精華を取材し、西洋文化の精髄とも歩調を合わせるものです。また如何にして学生に修身と精神の涵養を教授するかの方法が詳細にはっきりと述べられており、非常に得難い教材です!出版後の十年間に、七千万から八千万冊も売れました。このような昔の教科書は、今でも極めて高い実用的価値を持っています。
由於時間有限,今天只作簡單的分享報告。希望大家都能重視童蒙養正教育、辦好童蒙養正教育,那麼民族復興、國家富強、世界和平的遠大理想必能早日實現。
時間に限りがあるため、今日は簡単な報告に留めます。皆さんが幼児を正しく育てる教育を重視して、その教育を行うことを希望しております。そうなれば民族は復興し、国家は富強になり、世界平和の遠大な理想は早々に実現できるでしょう。
祝福在座的各位身心安康、六時吉祥!祝福童蒙養正教育愈辦愈好!祝福祖國國運昌隆、國泰民安!祝福世界安定和平、代代出聖賢!謝謝大家!
ご臨席の皆さまのご健康と吉祥を祝福致します!幼児教育が益々良くなることを祝福致します!祖国の国運の繁栄と民の平安を祝福致します!世界の安定と平和、代々聖賢が現れますよう祝福致します!皆さまありがとうございました!
祭祖與孝道對社會的正面作用 / 先祖祭祀と孝道の社会に対するプラスの効果 2016/7/2
英國威爾士三一聖大衛大學蘭彼得校區藝術樓 檔名:32-147-0001
@イギリス・ウェールズ大学トリニティ・セント・デイビッド(University of Wales Trinity Saint David)
尊敬的校長先生、尊敬的主法和尚、各位領導、各位老師、各位同學:大家好!
尊敬する校長先生、主法和尚、指導者の皆様、諸先生方、学生の皆様、こんにちは!
今天非常歡喜,能夠在威爾士三一聖大衛大學蘭彼得校區舉行三時繫念法會和祭祖大典。這在貴校而言是第一次;在我們而言,也是第一次在國外高等學府舉行這樣的活動。
本日は、ウェールズ大学トリニティ・セント・デイビッド(University of Wales Trinity Saint David)において三時繋念法会と祭祖大典(先祖祭祀の式典)を挙行することができ、非常に喜ばしく思います。これは貴校にとって初めてのことですが、私たちにとっても、国外の高等学府でこのような活動を挙行するのは初めてのことです。
這次祭祖的緣起,是因為去年八月貴校校長休斯教授訪問香港,參加我們舉行的中元祭祖大典,覺得這樣的活動很有意義,所以就邀請我們到威爾士來舉辦一次。
今回の先祖祭祀の縁起は、去年の八月に貴校のヒューズ校長が香港を訪問され、私たちが挙行した中元祭祖大典に参加されました。そしてこのような活動は意義があると思われ、私たちをウェールズに招待して挙行することになったのです。
在香港,我們每年這樣的活動是辦三次,分別在清明、中元、冬至,目的是提倡孝道。千百年前的祖宗,我們念念不忘、念念感恩,對於現前的父母、祖父母不可能有不感恩的道理,孝道從這個地方開始。接著師道,孝親尊師,這是東方文化的根本。孝是根,敬是本,把我們自性裡面的孝心、尊師重道喚醒,恢復起來,這個世界就會走向正面的、好的方向去發展。
香港では、私たちは毎年このような活動を三回行っています。清明、中元、冬至に分けられ、目的は孝道を提唱することです。千年以上前の先祖を、私たちは始終忘れず、始終感謝していれば、現前の父母、祖父母に対して感謝しないという道理はありません。孝道はここから始まるのです。続いて師道があり、親に孝行し師を尊ぶ(孝親尊師)こと、これは東方文化の根本です。孝は根であり、敬は本(もと)です。私たちの自性(じしょう)【注1】のなかの孝心、師を尊び道を重んじる(尊師重道)心が呼び覚まされ、回復すれば、この世界は正しい方向に向かい、良い方向に発展します。
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【注1】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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中文「孝」這個字是會意,上面一半是「老」字,下面一半是「子」字。我們得認識清楚,上一代跟下一代是一體,上一代還有上一代,過去無始;下一代還有下一代,未來無終,無始無終是一個整體。這就是我們應當要理解的,祖先跟我們是一體的,然後曉得為什麼要祭祖。
中国語の「孝」という字は会意(かいい)【注2】です。上の半分は「老」という字、下の半分は「子」という字です。私たちははっきりと認識しなければなりません。前の代と後の代とは一体です。前の代には更に前の代があり、過去に始まりはありません。後の代には更に後の代があり、未来に終わりはありません。始めも終わりも無いものは一つの全体です。これこそが私たちが理解しなければならないことです。祖先と私たちは一体なのです。なぜ先祖を祭らなければならないかがそれで分かるでしょう。
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【注2】 会意(かいい)・・・・二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするもの。(大辞泉)
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中國重視家庭,家文化對中國文化做出最偉大的貢獻。每一家都有家譜,家譜就是這一家人的歷史,從上面第一代是黃帝,距離我們現在四千多年了,這樣的一個歷史記載在外國很少,但是中國家家都有家譜。人看到這麼四千多年的歷史,能不愛他的祖先嗎?能不孝順祖先嗎?能不孝順父母嗎?這是不可能的。大概在這個世界還留下家庭歷史可能只有在中國能找到,其他國家已經很少見了。這是我們懷念祖先,恪盡孝道。每年祭祖至少是兩次,清明、冬至;我們把中元加上去,祭三次。原因是最近這一百年來,我們逐漸逐漸把自己的文化疏忽了,一味向外國學習。外國人父子是平等的,父輩以上的頂多只知道自己有祖父母,再往上去就不知道了,這跟中國社會不相同,中國社會世世代代都記載得很清楚。
中国は家庭を重視します。家の文化は中国文化に対して最も偉大な貢献をしました。どの家にも家譜(かふ:家系図)があります。家譜とはその家族の歴史です。最初の第一代は黄帝です。今から四千年以上の時間的距離があります。このような歴史の記載は外国では少ないものですが、中国ではどの家にも家譜があります。人はこの四千年余りの歴史を見て、その祖先を愛さないでいられるでしょうか?父母に不孝でいられるでしょうか?それは不可能です。おそらくこの世界で家庭の歴史が残っているのは中国だけでしょう。その他の国ではもうほとんど見られません。祖先を思い、孝道を尽くします。毎年の祭祀は少なくとも清明、冬至の二回です。私たちは中元を加えましたので、三回お祭りします。その原因はここ百年来、私たちは少しずつ自分の文化を疎かにして、ひたすらに外国に学んできました。外国人の父子は平等です。父親の代より前は知っていても祖父母までで、それより先は知りません。これは中国の社会とは異なります。中国の社会は代々はっきりと記載します。
《論語》上說:「慎終追遠,民德歸厚」,這兩句話說的是效果。我們看看現前的社會,就能體會到為什麼古時候風俗那麼好?它懂得慎終追遠。愛祖先、愛父母,再擴大,愛老師、愛鄰里鄉黨、愛親戚朋友,最後到「凡是人,皆須愛」。我們過去把傳統文化可以促進世界和平這個概念介紹給聯合國教科文組織,聯合國的大使們聽到之後也很歡喜,告訴我,他說這是理想,做不到。所以我們在十年前,在中國湯池小鎮做了一個實驗,看看傳統的東西還行不行。我們召集三十七位老師,辦一個文化活動中心,來實踐古人所傳的《弟子規》,儒家的;《感應篇》,道家的;《十善業》,佛家的,這儒釋道三家的基礎課程。我們想我們已經把它丟掉一百多年了,現在要恢復,大概總得三、四年才能做出效果來、做出成就來,沒想到三、四個月就做成功了,我們這些老師們也都被嚇呆了。我跟大家說,我們決定不能居功,我們沒有智慧、沒有德能,這個成績應該是當地政府協助我們,我們要感恩;小鎮人民四萬八千人聽話,願意跟我們合作,我們教他都能接受,都能落實到生活,所以才有這麼好的成就,我說感謝政府。證明兩樁事情,第一樁證明了古人所說的人性本善,《三字經》上頭一句,「人之初,性本善」;第二個證明人是很好教的。小鎮雖然是停課了,可是影響了中國,也影響了全世界,很有意義、很有價值。
『論語』には「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん」(慎終追遠、民徳帰厚)【注3】と説かれています。この二句が説いているのはその効果です。現前の社会を見れば、昔の風俗がなぜそれほど良かったのかが理解できるでしょう?昔は「亡くなった人を厚く悼み、遠い祖先を忘ない」ことを理解していたのです。祖先を愛し、父母を愛すること。更に拡大して先生を愛し、郷里の人々を愛し、親戚や友人を愛すること。最後には「凡(およ)そ是(これ)人、皆須(すべか)らく愛すべし」(凡是人,皆須愛)に至ります。私たちはかつて、伝統文化は世界平和を促進できるという概念をユネスコ(UNESCO:国連教育科学文化機関)に紹介しました。国連の大使たちはそれを聞いて喜ばれました。そして私に「これは理想です。実現できません」と言ったのです。ですから私は十年前、中国の湯池という小さな町で伝統のものは伝統のものが有効かどうかを試したのです。私たちは三十七名の先生を集め、文化活動センターを作って、古人が伝えた儒家の『弟子規』道家の『太上感応篇』仏家の『十善業道経』を実践しました。これは儒教・仏教・道教の基礎の課程です。私たちはこれらが失われて百年以上経つので、だいたい三、四年でようやく成果が出ると考えていましたが、思いがけず三、四ヶ月で成功しました。それらの先生方も驚いていました。私は皆に言いました。私たちは自分に功労があったと思ってはなりません。私たちには智慧も徳能もありません。この成果は現地政府の協力によるものであり、感謝しなければなりません。町の四万八千の住人が私たちに協力して下さり、私たちが教えるとすべて受け入れて下さり、生活の中で実践して下さいました。だからこそこれほどの成就を得たのです。私は政府に感謝しましょうと言いました。二つの事が証明されました。一つ目は、人の性(本性)はもともと善であること。『三字経』の最初の一句「人は生まれたばかりの頃、その本性はもともと善である」(人之初,性本善)です。二つ目は、人は教えやすいということです。町の授業は終わりましたが、中国に影響を与えました。全世界にも影響を与えました。意義があり、価値のあることです。
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【注3】 「慎終追遠、民徳帰厚」(『論語』学而より)
終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん。
亡くなった人を厚く悼み、遠い祖先を忘れることがなければ、民の徳も厚くなっていくものだ。
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現在中國國內也提倡傳統文化,這是好事情。我們對於國家、對政府、對習主席要有信心。我們在國外常常聽到,十九世紀是英國人的世紀,二十世紀是美國人的世紀,說二十一世紀是中國人的世紀,我們敢不敢相信?外國人相信,所以我們要有信心。中國人的世紀是中國文化的世紀,所以我告訴許多外國朋友,中國統一全世界不是政治統一,不是軍事統一,也不是科學技術,也不是經濟貿易,是什麼?是中國傳統文化的統一。這個文化是什麼?代表這個文化的就是唐太宗所編的《群書治要》,這部書是《四庫全書》的精華,精華當中的精華,能夠幫助我們這一生得到幸福快樂,這從個人講。它能夠幫助我們家庭和睦,幫助事業順利,幫助社會安定和諧,幫助國家富強,每個國家都富強,幫助世界和平,所以我們要有信心。今天從哪裡做起?從今天祭祖開始,祭祖就是孝道、師道,我們一定要把它落實在現實生活當中。
現在中国国内でも伝統文化を提唱しています。これは良い事です。私たちは国家に対して、政府に対して、習主席に対して自信を持たなければなりません。国外で私たちはよく聞きました。十九世紀はイギリス人の世紀であり、二十世紀はアメリカ人の世紀であり、二十一世紀は中国人の世紀であると。私たちは信じられるでしょうか?外国人は信じています。ですから私たちは自信を持たなければなりません。中国人の世紀は中国文化の世紀です。ですから私は多くの外国の友人に話しています。中国が全世界を統一するなら、政治の統一ではなく、軍事の統一ではなく、科学技術の統一ではなく、経済貿易の統一でもありません。何でしょうか?中国伝統文化による統一です。この文化とは何でしょうか?この文化を代表するものは唐太宗が編纂された『群書治要』です。この書物は『四庫全書』の精華であり、精華の中の精華です。私たちの一生を幸福円満にする助けとなり、家庭の調和の助けとなり、事業が順調にいく助けとなり、社会の安定と調和の助けとなり、国家を富強にする助けとなり、全世界の平和の助けとなります。ですから私たちは自信を持たなければなりません。今日どこから始めればよいのでしょうか?今日先祖を祭ることから始めることです。先祖を祭ることこそ孝道であり、師道です。私たちは必ずそれを現実生活の中で実行しなければなりません。
中國人非常幸運,老祖宗有智慧、有經驗,懂得教養後代。中國的教育是從胎教開始,所謂「教兒嬰孩」,不是小孩,是嬰兒,剛剛一出生就要開始教他。中國古諺語有所謂「三歲看八十,七歲看終生」,這是非常有道理的。所以中國在這個世界五千多年歷史,還能夠屹立在今天,就是得力於祖宗教誨,這是我們應當要知道感恩戴德。要把祖宗的教誨認真落實,再推廣到全世界,這個世界才能有真正的化解衝突,得到安定和諧,世界和平。
中国人は非常に幸運です。ご先祖様には智慧があり、経験があり、子孫を教え育てることを理解していました。中国の教育は胎教から始めます。いわゆる「教児嬰孩」(赤ん坊に教えること)【注4】です。子どもではありません。赤ん坊です。生まれたばかりの頃から教え始めるのです。中国の諺でいう、いわゆる「三歳で八十歳の姿が見え、七歳で一生が見える」(日本で言う、三つ子の魂百までと同義)これは非常に道理のあることです。中国はこの世界で五千年以上の歴史があり、今日まであり続けているのは、ご先祖様の教誨(きょうかい:教え)が役に立っているからです。これは感謝しなければなりません。ご先祖様の教誨を真面目に実行し、更に全世界に広めることで、この世界は本当に衝突が解消され、安定と調和、世界の平和がもたらされます。
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【注4】 教児嬰孩(きょうじえいがい)・・・・赤ん坊に(早期に)教えること。嬰孩(えいがい)は嬰児・赤ん坊のこと。この考え方は昔から日本に伝わっており、江戸時代の儒学者・貝原益軒なども「和俗童子訓」において日本人向けの解説をしている。
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在過去,我住在澳洲的時候,有一天昆士蘭大學校長派了兩位教授來找我,希望我幫助他們的和平學院,探討化解衝突真正原因。我是先聽學校的報告,他給我做了五十分鐘的報告,然後要我說話。我聽了之後,我告訴他們,觀念有偏差,總認為衝突是別人的事情,總是衝突雙方人的事情,沒有真正找到衝突的根。衝突的根在哪裡?我告訴他,在家庭、在自身。家庭,大家都能看得到,現在的離婚率太高了,這是什麼?夫婦不和。家庭的核心就是夫婦,夫婦不和肯定造成父子不和、兄弟不和。所以家庭成了問題,人他走進社會自然就跟別人發生衝突,這才是衝突真正的原因。如果更深一層,那是自我衝突,自性跟習性的衝突。這是我們老祖宗教訓我們本性本善,所以我們要肯定「人之初,性本善;性相近,習相遠」。本性相近,習性相遠,這告訴我們習性不善,本性是善的。這個善不是善惡的善,習性裡面有善惡,本性裡頭沒有善惡,那才叫真正的善,這是我們必須要知道的。於是教育的理念就興起來了,中國幾千年前的老祖宗就想到「苟不教,性乃遷」,如果我們不好好的把孩子教好,本性就會變成習性,本性漸慚就淡忘了,習性長成了,這個事情麻煩就大了。
以前私がオーストラリアに住んでいた時、ある日クイーンズランド大学の校長が二人の教授を私のところに派遣して来ました。彼らの和平学院を私に手伝って欲しい、衝突の真の原因を解消することを研究したいと言うのです。私は先ず学校の報告を聞きました。彼は私に50分報告をして、その後で私に意見を求めました。私は聞いた後で彼らに言いました。観念に偏りがあります。常に衝突は他人の事だと考え、常に双方の人の事だと考えているので、衝突の根本が本当には見つかっていません。衝突の根本はどこにあるのでしょうか?私は彼に言いました。家庭にあり、自分自身にあります。家庭については、誰もが見て取れます。今の離婚率は高すぎます。これは何でしょうか?夫婦の不和です。ですから家庭に問題が生じています。その人が社会に出れば自然に人と衝突します。これこそが衝突の本当の原因です。もし更に深く掘り下げるなら、それは自我の衝突であり、自性と習性の衝突です。これについてご先祖様は、本性はもともと善であると教えています。ですから「人は生まれたばかりの頃、その本性はもともと善である(人之初,性本善)、人の本性はもともと善であり似通っているが、習慣により遠く隔たってしまう(性相近,習相遠)」を肯定しなければなりません。本性は似通っていますが、習性には隔たりがあります。これは私たちに習性は不善であり、本性は善であることを教えています。この善は善悪の善ではありません。習性の中には善悪がありますが、本性の中に善悪はありません。それでこそ真の善です。このことは必ず知っておかなければなりません。そこで教育の理念が起こります。中国の数千年前のご先祖様は「苟(いやし)くも教へざれば、性乃ち遷(うつ)る」(苟不教,性乃遷)に思い至りました。子どもにしっかりと教えなければ、本性は習性に変わってしまいます。本性が少しずつ薄くなり、習性が根を張るようになります。これはとても面倒な事です。
從佛法裡來說,如果沒有習性就沒有六道輪迴,六道輪迴從哪裡來的?習性造成。習性不是真心;它是心,佛法叫它做妄心。所以心有兩個,一個真心、一個妄心。真心本善,習性是習慣,他修好了他很善,他修不好就變壞了。果報,六道輪迴的果報,三善道就是習性裡面的善造成的,三惡道是習性裡面的貪瞋痴造出來的,所以習性出不了六道輪迴,這樁事情佛講得很清楚、很明白。佛陀的教育主要的宗旨是幫助我們恢復本性,其實儒釋道在這三方面做得也很徹底。不但要出三惡道,還要出六道輪迴、出十法界,才能達到佛陀教育的究竟圓滿。
仏法で言えば、もし習性が無いなら六道輪廻はありません。六道輪廻はどこから来るのでしょうか?習性が作り出しています。習性は真心ではありません。それは心ですが、仏法ではそれを妄心と言います。ですから心には二つあります。一つは真心、一つは妄心です。真心はもともと善であり、習性は習慣です。人は良く修めていれば善であり、修めなければ悪くなってしまいます。果報は六道輪廻の果報です。三善道(天道、人道、修羅道)は習性の中の善が作り出したものです。三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)は習性の中の貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪り、怒り、無知、傲慢)が作り出したものです。ですから習性は六道輪廻を出られません。このことは仏様がはっきりと、明瞭に説かれています。仏陀の教育の主な宗旨は私たちの本性の回復を助けることです。実のところ儒釈道(儒教・仏教・道教)はどれも徹底しています。三悪道を出るだけでなく、六道輪廻、十法界を出てこそ、仏陀教育の究極的な円満に達することができます。
佛教裡面有佛這個稱號,有菩薩、有阿羅漢,這三個名稱是佛陀教育學位的名稱,最高的學位是佛陀。所以佛經上「一切眾生本來是佛」,成佛是我們每個人應該有的事情,佛把這個講得很清楚、很明白。菩薩是第二個學位,碩士學位;阿羅漢是第三個學位,就是本科畢業。這在佛教是三個學位的名稱,它不是神的名稱,跟一般宗教講的不一樣。所以佛教最接近教育,嚴格來說,它是教育,它不像是個宗教,這個我們都把它搞清楚、搞明白。
仏教の中には仏という称号があり、菩薩があり、阿羅漢があります。この三つの名称は仏陀教育の学位の名称であり、最高の学位は仏陀です。ですから仏経には「一切衆生本来是仏」(いっさいしゅじょうほんらいこれほとけ)とあり、仏に成ることは誰にでもあることなのです。仏様はこのことをはっきりと、明瞭に説かれています。菩薩は二番目の学位、修士の学位です。阿羅漢は三番目の学位、つまり本科卒業(学士)です。これは仏教では三つの学位の名称であり、神の名称ではありません。一般の宗教が説くものとは異なります。ですから仏教は最も身近な教育であり、厳格に言えばそれは教育であり、宗教のようではありません。このことははっきりと、明らかにしなければなりません。
我們回過頭來看看現在的社會,你就曉得問題出在哪裡,問題演變得多麼嚴重。我們看到現在的教育,家庭教育沒有了,父母不懂得教訓兒女,不能給兒女做好榜樣。這些年來我們提倡《弟子規》,《弟子規》實在不是教小孩念的,不是教小孩背的,小孩剛剛生下來,他怎麼會念?他怎麼會背?《弟子規》是父母做出榜樣來給小孩看。他出生,張開眼睛他會看,豎起耳朵他會聽,他已經開始學習了。所以這一千天是最重要的,就是從出生到三歲,這叫扎根教育。完全是父母做榜樣,不能讓小孩看到的不可以讓他看到,不能讓他聽到的不可以讓他聽到,不能讓他接觸到的決定不許可他接觸。他看到、聽到、接觸到的都是正能量,中國人講倫理道德、聖賢教誨,這個讓他看見;負面不是的,不可以讓他看到,不能讓他聽到,不能讓他接觸到。所以母親是小孩第一任的老師,她要做出最好的榜樣,她的孩子就學會了。這一千天是他一生做人的基礎、做人的根本,所以才說「三歲看八十」,三歲養成的習慣到八十歲不會改變,不會受外面不良的誘惑,他不會受誘惑,他有能力辨別是非,有能力辨別善惡,習慣成自然,少成若天性,他根深蒂固。
私たちは今の社会を振り返ってみますと、問題がどこから出ているのかが分かります。問題は変化してこれほど深刻になりました。私たちは今の教育を見ますと、家庭の教育がなくなりました。父母は子どもを教えることを知りません。子どもに良い手本を示すことができません。ここ数年来私たちは『弟子規』を提唱しています。『弟子規』は実のところ子どもに教えるものではありません。子どもに覚えさせるものではありません。子どもが生まれたばかりであれば、どうして読むことができるでしょうか?どうして覚えることができるでしょうか?『弟子規』は父母が子どもに手本を見せるものです。子どもは生まれたら目を見開いてみています。耳をそばだてて聞いています。すでに学び始めているのです。ですからその一千日は最も重要です。生まれてから三歳までです。これを「根を張る教育」と言います。完全に父母が手本を示すのもので、子どもに見せてはならないものは見せません。聞かせてはならないものは聞かせません。接触してはならないものには絶対に接触させてはなりません。子どもが見るもの、聞くもの、接触するものはすべて正のエネルギーです。中国人は倫理道徳、聖賢の教育を重んじます。これを子どもに見せるのです。良くないものは見せてはなりません。聞かせてはなりません。接触させてはなりません。ですから母親は子どもの第一の先生です。母親が最も良い手本を見せれば、その子どもは学び取ります。この一千日はその子の一生の人としての基礎、人としての根本です。だからこそ「三歳で八十歳の様子が見える」(三歳看八十:「三つ子の魂百まで」と同義)と言うのです。三歳まで養った習慣は八十歳になっても変わりません。外の良くない誘惑を受けることがありません。その子には是非を判断する能力があります。善悪を判断する力があります。習慣になれば自然になるもので、子供の頃に培った習慣は天性のようなものです。その子には(良い習慣が)根を下ろしています。
到六、七歲上學了,上學,以前是私塾,私塾先生代替父母,把教育的責任承當過來了,同樣的他也是把聖賢教育演出來給學生看,就是要做出來。聖賢書不止是讀的,不是的,它要變成生活,你能受用到,要能夠變成你的工作,變成你處事待人接物,所以叫聖賢教育。中國人的聖也是最高的學位,賢是第二個學位,君子是第三個學位,儒家的三個學位,跟佛法裡面佛、菩薩、羅漢是一個意思,學位的名稱,這個我們要搞懂。所以聖賢東西能夠背出來是他念的遍數多,目的不是這個。多念,讀書千遍,念一千遍,他不是教你記誦,不是教你背書,不是的,能背是自然的,它的副作用;真正的目的是教你修定,把你的妄想念掉,把你的雜念念掉,把你分別執著念掉,你就得到真正的大定,這個定能夠幫助你成聖成賢,能夠幫助你成菩薩、成佛。
六、七歳で学校にあがります。以前は私塾でした。私塾の先生は父母の代わりに、教育の責任を負うのです。同じように私塾の先生もまた聖賢の教育を演じて学生に見せます。行わなければなりません。聖賢の書は読むだけのものではありません。違います。それが生活に変われば、あなたは役に立てることができます。あなたの仕事に活かし、人間関係に活かすこと。それこそが聖賢の教育です。中国人の「聖」は最高の学位です。「賢」は二番目の学位です。「君子」は三番目の学位です。仏法の中の「仏」「菩薩」「羅漢」と同じ意味であり、学位の名称です。これを私たちは理解しなければなりません。聖賢のものは、覚えて何度も読むことが目的ではありません。多く読み、千回読み、千回念じる。それは覚えたり、暗記したりするものではありません。暗記するのは自然なことであり、その副次的な作用です。真の目的は定(じょう:禅定)を修めることであり、あなたの妄想を断ち、雑念を断ち、分別や執著を断つことなのです。あなたは真の大定を得るのです。この定はあなたが聖賢と成る助けとなり、菩薩と成り、仏と成るのを助けます。
現代的教學沒人教了,那小孩從哪裡學?電視代替了,他從小睜開眼睛就看著電視。電視教他什麼?教他殺盜淫妄,完全教負面的,這還得了!今天整個社會的責任,電視關係很大。我們沒有辦法來制止它,只有消極的,你放你的,我可以不看你的。我有五十年沒看電視了,電視廣播、報紙雜誌我斷絕了五十年,沒有接觸過,所以心地比較清淨,不受污染,這個我有權,我有權能保護自己。所以我們在現在這一代要解決社會問題,就是要解決教育問題,教育一定要從三個根做起,剛才我說的,儒家的《弟子規》、道家的《感應篇》、佛家的《十善業道》。然後專攻傳統文化,鑄造今天的聖賢君子,成就今天的佛菩薩,和諧社會決定可以落實,落實和諧世界也不會落空,我們紀念先祖真正的意義就在此地。希望在這次法會上大家都能明瞭,我們用真誠心來做這次法會;更重要的,把法會的精神、法會的理念放在心上,孕育在胸中,落實在生活。我們對人、對事、對物要遵從祖宗的教誨、佛菩薩的教導,做三教聖賢的傳人,真正落實「繼絕學,開太平」的使命,認真努力去做,這是我們今天祭祖法會真正真實的義趣,願跟我們同學們、朋友們共同勉勵。
現代の教学では教える人がいません。子どもはどこから学ぶのでしょうか?テレビが代わりに教えます。子どもは幼い頃から目を見開いてテレビを見ています。テレビは何を教えているでしょうか?殺生・窃盗・邪淫・妄想(殺盗淫妄)を教えています。完全に良くないものです。これは大変なことです!今、全社会の責任は、テレビとの関係が大きいです。私たちはそれを阻止することはできません。ただ消極的に、放送していても見ないというだけです。私は五十年テレビを見ていません。テレビやラジオ、新聞や雑誌は五十年断っています。触れたことがありません。ですから心は比較的清浄(しょうじょう)です。汚染されません。私には自分を守る権利があります。ですから私たちは現在この世代で社会問題を解決しようとするなら、つまり教育の問題を解決しようとするなら、教育は必ず三つの根から始めなければなりません。先ほどお話ししたように、儒家の『弟子規』、道家の『太上感応篇』、仏家の『十善業道経』です。そして伝統文化を専攻し、現代の聖賢君子を育て、現代の仏菩薩を成就することです。調和のとれた社会は必ず実現できます。調和の社会の実現も水泡に帰すことはありません。私たちが先祖を祭る真の意義は正にここにあるのです。この法会で皆様が理解されることを願い、私たちは真誠の心でこの法会を執り行います。更に重要なことは、法会の精神、法会の理念を心の中に留め、胸の中に育てて、生活において実践することです。私たちは人や物事に対して、先祖の教誨、仏菩薩の教えに従い、三教(儒教・仏教・道教)の聖人の継承者にならなければなりません。正に「途絶えた学問を継承し、平和を築く」【注5】使命を担い、真摯に努力しなければなりません。これが今日の祭祖法会の真実の意義です。学生の皆様、友人の皆様が共に励まし合われることを願っております。
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【注】「為往聖継絶学、為万世開太平」
往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。
昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く。(意訳)
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最後,祝福大家身心健康、光壽無量!祝福貴校學術興隆,辦學成功!祝福貴國國運昌隆,國泰民安!祝福世界安定和平,盛世大同!謝謝大家!
最後に、皆様のご健康と無量の光寿を祝福致します!貴校の学術が栄え、学校が発展することを祝福致します!貴国の国運の繁栄、貴国の安定と民の平安を祝福致します!皆様ありがとうございました!
為什麼要祭祖 / なぜ先祖を祭らなければならないのか
2016/6/26 英國倫敦展覽中心N2館 檔名:21-768-0001
諸位大德、諸位領導、諸位嘉賓,大家好!今天是二O一六年英國祭祖大典的第二天,來自世界各地的朋友在此共聚一堂,以中國古禮來祭祀中華民族暨世界各族的萬姓祖先。這次祭祖大典的緣起,是去年八月份威爾斯大學校長休斯教授訪問香港,參加我們在香港舉行的中元祭祖大典,看到莊嚴肅穆的儀式,以及全場八千多人參加,整齊寂靜,很受感動,校長希望我們能夠來英國辦一次祭祖活動。我們接受他的邀請,所以成就了今年在英國舉辦祭祖大典的因緣。這個難得稀有的機緣裡,我想簡單的向大家匯報為什麼要祭祖。
大徳の皆様、指導者の皆様、ご来賓の皆様、こんにちは!今日は2016年イギリス祭祖大典の二日目です。世界各国から友人が一堂に会し、中国の古礼をもって中華民族及び世界の民族の先祖を祭祀(さいし:神や先祖をお祭りすること)致します。今回の先祖祭祀の縁起は、去年の八月にウェールズ大学のヒューズ校長が香港を訪問され、私たちが香港で挙行した中元祭祖大典【注】に参加されたことでした。荘厳な儀式、そして会場には八千人余りが参加され、整然と静まっている様子に感動され、校長はイギリスで先祖祭祀を行いたいと希望されました。私たちは校長のお招きを受けました。それで今年イギリスで祭祖大典を挙行することになった因縁が成就したのです。この稀有で得難い機縁をお借りして、私は皆さまに「なぜ先祖を祭らなければならないか」を簡単に報告したいと思います。
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【注】中元祭祖大典
「中元」は旧暦7月15日の節句。仏教ではこの日に盂蘭盆会(うらぼんえ)を開き、各家庭ではお供え物をして祖先のお祭りをする。(中日大辞典)
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第一個,祭祖是為了報本反始,緬懷祖德。中國傳統文化根就是孝道,另一個就是悌道,敬,孝、敬這兩個字是我們傳統文化的大根大本。孝這個字是會意,上面一半是老字,下面一半是子。我們得認識清楚,上一代跟下一代是一體,上一代還有上一代,過去無始;下一代還有下一代,未來無終,無始無終是一個整體。這就是我們應當要理解的,然後曉得這為什麼要祭祖。
一つには、先祖を祭ることは、根本に立ち返り感謝すること(報本反始)、祖先の遺徳に思いを馳せることです。中国伝統文化の根は孝道(こうどう:両親を敬う道)であり、もう一つは悌道(ていどう:年長者を敬う道)です。孝、敬、この二文字は伝統文化の大根本です。孝という字は会意(かいい)【注】であり、上の半分は「老」という字で、下の半分は「子」です。私たちははっきりと認識しなければなりません。前の代と後の代は一体です。前の代には更に前の代があり、過去に初めはありません。後の代には更に後の代があり、未来に終わりはありません。初めが無く終わりが無いものは一つの全体です。これこそが私たちが理解すべき事であり、その後なぜ先祖を祭らなければならないかが理解できるのです。
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【注】会意(かいい)・・・・二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするもの。(大辞泉)
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中國重視家庭,家文化對於中國文化做出最偉大的貢獻。每一家都有家譜,家譜就是這一家人的歷史。我的家譜,從上面第一個人是黃帝,我們這供的牌位有黃帝,黃帝傳到我這一代一百三十六代。這樣的一個歷史記載在外國很少,中國家家都有家譜。我俗家姓徐,徐氏是黃帝第二個兒子昌意的後代,所以這一百三十六代都有詳細記載。人看到這麼四千多年的歷史,能不愛他的祖先嗎?能不孝順父母嗎?這不可能的。大概這個世界上還留下有家庭歷史可能只有中國,其他的國家已經很少見了。這是我們懷念祖先,恪盡孝道。每年祭祖至少是兩次,清明、冬至。我們今天這是屬於冬至祭祖。
中国は家庭を重視します。家の文化は中国文化に対して最も偉大な貢献をしました。どの家にも家譜(かふ:家系図)があります。家譜とはその家族の歴史です。私の家譜は一番上の人は黄帝(中国古代の帝王)です。私たちが供える位牌には黄帝があります。黄帝から私の代まで百三十六代です。このような歴史の記載は外国では少ないものですが、中国ではどの家にも家譜があります。私の生家は姓を徐と言います。徐氏は黄帝の第二子・昌意の末裔です。ですからこの百三十六代はすべて詳細な記載があります。人はこの四千年余りの歴史を見て、その祖先を愛さないでいられるでしょうか?父母に不孝でいられるでしょうか?それは不可能です。おそらくこの世界で家庭の歴史が残っているのは中国だけでしょう。その他の国ではもうほとんど見られません。祖先を思い、孝道を尽くします。毎年の祭祀は少なくとも清明、冬至の二回です。今日は冬至の祭祀にあたります。
這些年我住在香港,我們提倡孝道。為什麼?如果這個根我們對它沒有概念,不能夠發起來,中國傳統文化就沒根了,那只做一個形式,得不到效果。所以我覺得兩次不夠,再加一次,加個中元祭祖。所以去年我們在香港中元祭祖當中,見到我們威爾斯大學校長休斯教授,他看到非常感動。那一天參加的人有八千多人,秩序非常好,真的,一根針掉到地上都能聽到聲音。所以祭祀祖先。
ここ数年私は香港に住んでいます。私たちは孝道を提唱しています。なぜでしょうか?もし私たちにこの根に対する概念がなく、発揚することができなければ、中国の伝統文化は根がなくなります。それはただの形式となり、効果は得られません。ですから私たちは二回では足りないと考えています。もう一回中元の祭祀を加えます。ですから去年私たちは香港での中元の祭祀の中で、ウェールズ大学のヒューズ校長とお会いしました。彼は非常に感動されていました。あの日に参加した人は八千人余りですが、秩序が良く保たれ、本当に針が床に落ちても音が聞こえるほどでした。そのように祖先をお祭りしました。
另外一個中國文化重要的支柱就是對老師的尊重,孝親尊師是中國文化的根。一個人念念不忘父母、不忘祖先,念念不忘老師,這是從前的中國人。現在這兩樁事情很淡薄了,什麼原因?教育出了問題。我們打開中國的歷史,《二十五史》,就是二十五個朝代,每個朝代政權穩定之後,不超過五年,頒布禮樂,社會就恢復正常。
もう一つ中国文化の重要な支柱は先生(老師)を尊重することです。親に孝行し師を尊ぶこと(孝親尊師)は中国文化の根です。始終父母を忘れず、祖先を忘れず、先生を忘れない。これが昔の中国人です。今ではこの二つの事が薄らいでいます。原因は何でしょうか?教育に問題があります。中国の歴史『二十五史』を紐解くと、正に二十五の王朝です。どの王朝政権も安定した後、五年しないうちに礼楽(れいがく)【注】を公布します。すると社会は正常になります。
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【注】礼楽(れいがく)・・・・社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽。礼節と音楽。(大辞泉)
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怎麼樣能恢復和平?這個話十年前印尼前總統瓦希德問過我,馬來西亞老首相馬哈迪問過我,這個世界還有沒有和平?我的回答說,只要你把四樁事情辦好,世界和平出現。他問我哪四樁事情?我說第一個,國家與國家平等對待、和睦相處;第二個,政黨與政黨;第三個,族群跟族群;第四個,宗教與宗教,這四個都能做到平等對待、和睦相處,這個世界可以恢復安定和諧。馬哈迪長老聽了我的話,答不出來,表情非常嚴肅。五、六分鐘之後,我再告訴他,這個事情是難,是非常艱難,但是從宗教團結、從文化著手是可以做得到的。那就是中國古聖先賢教導我們,「建國君民,教學為先」。無論哪一樁事情發生問題了,怎麼辦?你沒有教好,你把他教好了,問題就解決。
どうすれば平和を取り戻せるのでしょうか?この話は十年前にインドネシアのワヒド前総統が私に質問したことがあります。マレーシアのマハティール元首相が私に質問したことがあります。この世界にまだ平和があるのでしょうか?私は四つの事ができれば平和が訪れると答えました。四つの事とは何でしょうか?一つ目は、国家と国家が平等に接し、仲睦まじくすることです。二つ目は、政党と政党。三つ目は、民族と民族。四つ目は、宗教と宗教。この四つがすべて平等に接し、仲睦まじくすれば、この世界は安定と調和がもたらされます。マハティール元首相は私の話を聞いて、答えられませんでした。表情は非常に厳粛です。五、六分後に、私は彼に言いました。この事は難しいことです。非常に困難です。しかし宗教の団結、文化から着手すればできることです。それは正に中国の古聖先賢が教え導かれている「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」(建国君民,教学為先)です。どのような問題が発生しようと、どうすれば良いのかと言えば、きちんと教えていなかったのですから、きちんと教えさえすれば問題は解決するのです。
我們過去把這個概念介紹給聯合國,聯合國的大使們聽到之後也很歡喜,告訴我,這是理想,做不到。所以我們曾經在中國,在湯池小鎮做了一個實驗,看看傳統的東西還行不行。我們召集三十七位老師,辦一個文化活動中心,來實踐古人所傳的《弟子規》、《感應篇》、《十善業》,這是儒釋道三個基礎的課程。我們想丟掉已經一百多年了,大概總得三、四年才能夠做出成就出來,沒有想到三、四個月就做成功了,我們這些老師們都嚇呆了。我跟大家說,我們不能居功,我們沒有智慧,我們沒有德能,這個成績應該是當地政府協助我們,我們要感恩;小鎮的人民四萬八千人願意跟我們合作,我們教他都能接受,都能落實在生活,所以有這麼好的成就,我說感謝政府。證明兩樁事情,第一個證明了人性本善,第二個證明了人是很好教的。小鎮雖然是停課了,可是影響了中國,也影響了全世界,很有意義、很有價值。
私は以前この概念を国連に紹介しました。国連の大使たちはこれを聞いて喜ばれました。そして私に「これは理想です。できないでしょう」と言いました。ですから私はかつて中国の湯池という小さな町で実験をしたことがあります。伝統のものが有効かどうかを試したのです。私たちは三十七名の先生を集め、文化活動センターを作って、古人が伝えた『弟子規』『太上感応篇』『十善業道経』を実践しました。これは儒教・仏教・道教の三つの基礎の課程です。私たちはこれらが失われて百年以上経つので、だいたい三、四年でようやく成果が出ると考えていましたが、思いがけず三、四ヶ月で成功しました。それらの先生方も驚いていました。私は皆に言いました。私たちは自分に功労があったと思ってはなりません。私たちには智慧も徳能もありません。この成果は現地政府の協力によるものであり、感謝しなければなりません。町の四万八千の住人が私たちに協力して下さり、私たちが教えるとすべて受け入れて下さり、生活の中で実践して下さいました。だからこそこれほどの成就を得たのです。私は政府に感謝しましょうと言いました。二つの事が証明されました。一つ目は、人の性(本性)はもともと善であること。二つ目は、人は教えやすいということです。町の授業は終わりましたが、中国に影響を与えました。全世界にも影響を与えました。意義があり、価値のあることです。
現在中國國內也提倡傳統文化,這是好事情。我們對於國家、對於政府、對於習主席要有信心。在國外我們常常聽到的,十九世紀是英國人的世紀,二十世紀是美國人的世紀,二十一世紀是中國人的世紀。我們敢不敢相信?外國人相信。所以我們要有信心,中國人的世紀是中國文化的世紀。所以我告訴許多外國朋友,中國人統一全世界,不是政治統一,不是軍事統一,不是科學技術統一,也不是經濟貿易統一,是什麼?是中國傳統文化統一。這文化是什麼?代表這個文化的就是唐太宗所編的《群書治要》。這部書是《四庫全書》的精華,精華當中的精華,能夠幫助我們這一生當中得到幸福美滿,能夠幫助我們家庭和諧,幫助事業順利,幫助社會安定和諧,幫助國家富強,幫助全世界和平,所以我們要有信心。今天從哪裡做起?從今天祭祖開始。祭祖就是孝道、師道,我們一定要把它落實在現實生活當中。
現在中国国内でも伝統文化を提唱しています。これは良い事です。私たちは国家に対して、政府に対して、習主席に対して自信を持たなければなりません。国外で私たちはよく聞きました。十九世紀はイギリス人の世紀であり、二十世紀はアメリカ人の世紀であり、二十一世紀は中国人の世紀であると。私たちは信じられるでしょうか?外国人は信じています。ですから私たちは自信を持たなければなりません。中国人の世紀は中国文化の世紀です。ですから私は多くの外国の友人に話しています。中国が全世界を統一するなら、政治の統一ではなく、軍事の統一ではなく、科学技術の統一ではなく、経済貿易の統一でもありません。何でしょうか?中国伝統文化による統一です。この文化とは何でしょうか?この文化を代表するものは唐太宗が編纂された『群書治要』です。この書物は『四庫全書』の精華であり、精華の中の精華です。私たちの一生を幸福円満にする助けとなり、家庭の調和の助けとなり、事業が順調にいく助けとなり、社会の安定と調和の助けとなり、国家を富強にする助けとなり、全世界の平和の助けとなります。ですから私たちは自信を持たなければなりません。今日どこから始めればよいのでしょうか?今日先祖を祭ることから始めることです。先祖を祭ることこそ孝道であり、師道です。私たちは必ずそれを現実生活の中で実行しなければなりません。
我的報告就到此地,謝謝大家。
私のご報告はここまでとします。皆さまありがとうございました。
2016「英國威爾士三一聖大衛大學慎終追遠民德歸厚祭祖大典」致辭 2016/7/3
@イギリス・ウェールズ大学トリニティ・セント・デイビッド(University of Wales Trinity Saint David)
英國威爾士三一聖大衛大學蘭彼得校區藝術樓 檔名:32-149-0001
尊敬的休斯校長伉儷、尊敬的諸位老師、諸位同學,大家早!
今天,不但我們歡喜,我相信眾神歡喜、佛菩薩歡喜,全球各族群的祖先都歡喜。我們有這種殊勝的緣分,在威爾士大學舉辦第一次全球祭祖的大典,由我們校長來擔任主祭官,這是一個稀有難逢,而且是歷史上新的一章的開始。
我們連帶會想到,往後每一年我們都會有這麼一個節日紀念祖先。紀念祖先這個歷史在中國有五千年了,所以中國人念念不忘祖先,每年至少是兩次祭典,清明、冬至;也有三次的,三次就是加上中元。這樣密切的祭典,最重要的意思是喚醒我們對父母的孝敬,中國人孝道是根本。孝就讓我們體會到,看到這個字,體會到祖宗跟我們是一體。這個孝,上面是「老」,下面是「子」,過去無始、未來無終,無始無終是一個生命共同體,所以這個意義很深。中國傳統文化就建立在這個基礎上,實際上就這一個孝敬把它擴大,發揚光大到對一切人,《弟子規》裡頭所說的「凡是人,皆須愛」。不但要愛人,還要愛動物,還要愛植物,還要愛山河大地,可以說是愛全宇宙過去、現在、未來。為什麼?它是一個、一體。這個一體在中國稱為本性,在佛教稱為自性,在其他各個宗教裡面稱之為神、稱之為上帝、稱之為天堂,實際都是一個意思。從這一個整體,世界有和諧,社會會有安定,人民會有最完美的、最善良的、幸福快樂的一生,這一生會影響我們家庭,帶給家庭和睦,帶給事業成功。
近幾年,在中國福建省福州有一個「阿彌陀佛大飯店」,主人吳總今天也來參加我們的祭典。這個表示什麼?表示整個宇宙不但是一家,是一體,多親切!這種精神表現出來,我們很歡喜看到了,希望將來全世界人都能夠接受祖宗傳統的文化薰習。全世界人不但是一家,是一體,一體哪有不愛護的道理?哪有不同情的道理?牙齒咬破舌頭了,舌頭還能報仇嗎?它為什麼不報仇?一體,牙齒跟舌頭是一體,所以吃再大的虧、受再大的傷害,也沒有絲毫怨恨的念頭。這是真理,這是事實真相,佛經上的「諸法實相」。這個實相明白之後,然後擴展到家族,擴展到社會,擴展到族群、到國家、到地球,再擴展到整個宇宙是一體,這個事就從孝道這裡開始。
我們漢學院成立了,這個功勞應該是我們校長休斯教授的。他比我熱心,我雖然有這個意思,沒有他熱心,我被他感動,我不能不來做,全心全力協助他。希望我們有共同的理想、共同的願望、共同的目標,我們認真努力來完成。這是繼承往聖的絕學,這是為萬世開太平的大事業,我們遇到了,我們落實了,這一次生命是最有意義、最有價值的。所以我希望我們真正有志一同的人,在校長領導之下,我們完成這個偉大的事業,從今天開始。謝謝大家!
浄空老法師2017年元旦談話——恒順衆生 随喜功徳 2017/01/01
香港佛陀教育協會 檔名:32-207-0001
諸位法師,諸位大德,諸位同學,大家新年好。時間過得很快,昨天我問一個同學,我說我二十六歲接觸到佛法,三十三歲出家,出家那一天就開始教學、就開始講經,講經到今年二O一七年,好像是五十八年了。他們跟我說的是,我學佛,從學佛算起,到今年六十六年,講到六六大順。
「恆順眾生,隨喜功德」,我跟大家談談這兩句話。一個人來到這個社會上,最重要的一樁大事情,如何讓我這一生,生活得快快樂樂,過一個真正幸福快樂的人生。能不能做到?能。怎麼做到的?方老師教給我,章嘉大師教給我。方老師給我指路,我跟他學哲學,他把佛經哲學告訴我,跟我說,「釋迦牟尼是世界上最偉大的哲學家,大乘經典是全世界哲學的最高峰,學佛是人生最高的享受」,我從這個入門,特別是喜歡人生最高的享受。以後接觸佛法,學習經教,才恍然大悟,這個最高的享受原來就是孔顏之樂。孔夫子會經營自己,一生生活快樂幸福。弟子當中,夫子最讚歎的顏回。顏回家境清寒,真的一天三餐飯都成問題,但是你看到顏回,夫子讚歎說,「回也不改其樂」,無論在什麼場所,無論在什麼時候,你看到他都是滿面笑容,歡歡喜喜、快快樂樂。他這種快樂從哪來的?孔子為我們解答了,《論語》裡頭第一句話,「學而時習之,不亦說乎」。這句話就是方先生所說的人生最高的享受,是把從聖賢那裡學來的做到了,快樂!
佛教導我們「恆順眾生,隨喜功德」,這兩句話是普賢大士說的;普賢菩薩,華嚴三聖。佛法在中國,以四大菩薩代表。地藏菩薩,九華山地藏,「地」是心地,「藏」是寶藏。心裡面的寶藏才是真的,不是假的,與外面不相干,是什麼?孝道,地藏菩薩代表孝道。孝是中國傳統文化的根,敬是中國傳統文化的本,孝敬。從什麼時候開始教?母親懷孕,胎教。母親起心動念端正,真誠、端正,沒有邪念,這十個月。為什麼?怕影響胎兒。言語柔和、動作緩慢,把孝、敬都表演出來了,讓嬰兒在胎裡面感受。出來之後,母親是嬰兒第一任的老師,小孩睜開眼睛會看,豎起耳朵他會聽,他已經開始學習了,所以母親在他面前的表現他全學會了。母親要表演多久?三年,一千天,到小孩滿三歲。這一千天當中,凡是負面的,不能讓小孩看到,不能讓小孩聽到,不能讓小孩接觸到;小孩能夠看到、聽到、接觸到的全是倫理道德,全是善心、善意、善行、善語,這叫扎根教育。中國文化承傳五千年靠什麼?靠這個!
非常可惜的,民國初年,我這個年齡還感受到、還看到;戰爭爆發,中日戰爭,七七事變爆發,八年抗戰當中,鄉下還有這個風氣,城市沒有了;抗戰勝利之後,鄉下也看不到了,也沒有了。換句話說,八十歲的人他做錯了事情,我們能不能責怪他?不可以。為什麼?他沒見到過。九十以上,我這個年齡,今天是二O一七年的元旦,要從這裡算一個階段的話,我走進九十一歲了,我這個年齡以上的,再做錯事情不能原諒。為什麼?你見過,你有過感染,沒有從前那麼深刻的教育。我看到人,社會大眾,在家裡看到父母,看到尊長、長輩,看到堂兄弟姐妹,因為還是一個大家庭。這倫理道德是大家庭的骨幹,他見到了,流傳了五千年。民國是因為日本侵略戰爭把我們的文化打垮了,勝利之後,可以說從民國建立之後,這些留學生到國外去之後,對國外嚮往、羨慕,回國來說中國一無是處,被人家欺負,要學外國人,全盤西化,把中國東西統統丟棄了,造成今天社會動亂,造成今天的天災人禍,連續不斷。
怎樣挽救?現在西方人比我們清楚,我接觸歐洲一些漢學家,他們說,拯救今天的地球,「只有中國孔孟學說跟大乘佛法」,歐洲漢學家他們說出來。中國崛起,他們看到了歡喜,他看到跟別人看法不一樣,中國要是崛起之後,帶領全世界,會帶給全世界人幸福、快樂,不會帶來災難。有證明,唐太宗編的《群書治要》就是證明。現在有很多不同文字的版本,在各個地方流通,讀到這本書的人沒有不生歡喜心。希望中國強大之後,帶領全世界走向永續的安定和諧,好!很難得。這個跟隨喜功德有什麼關係?有關係。我們要恆順眾生,隨喜功德,沒有一個人喜歡戰爭,沒有一個人歡迎災難。要避免戰爭,那就像湯恩比博士所說的,希望世界變成一個國家,心量拓開。我們肯定我們是地球人,地球人愛地球,地球人愛地球上的人民,愛地球上的動物,愛地球上的植物,愛地球這一片淨土,這就對了。
怎麼樣才能辦到?教學;教什麼?宗教教育,能做得到,我非常相信。我在一九九九年,一九九八年、一九九九年,我住在新加坡,將新加坡的九個宗教團結在一起,像兄弟姐妹一樣,一直到現在。宗教有潛力,那是它的信徒,但是宗教不能迷信,宗教一定要教學。我們仔細觀察,每個宗教創始人都是最偉大的社會教育家,他們到處講經教學,有一股人追隨他,向他學習,變成信徒,他的信徒也是講經教學。講經教學什麼時候丟掉的?我的老師告訴我,大概兩百年;換句話說,兩百年前的中國寺院庵堂,無論都市鄉村,沒有不講經教學的。釋迦牟尼佛一生,講經教學四十九年。我還有一點印象的是冬天,冬天農夫不工作了,冬天太冷,氣候不好,所以冬天這段時期是什麼?上廟裡去聽經,接受佛陀教育。雖然講經天天有,但是冬天這三個月是一年最重要的教學的機緣。隨順,中國是以農立國,隨順農夫的休假。所謂秋收冬藏,農耕開始,播種在春天,冬天這一季是完全休息,所以教學就從這開始,這是有系列的教學,講一部經、講一部論。還有很多讀書人在寺廟裡面掛單,就是這三個月他要住在寺院,他要非常認真的學一部經、學一部論。民國初年還有,抗戰之前有,不多了,還能看到、還聽說,之後沒有了,勝利之後完全沒有了。
老一代講經這些法師過世了,現在接班人成問題,這是大事,不是小事。漢學院的興起也就是因為這個原因,如何去培養儒釋道繼承的人才,讓一些年輕人,不要多,三十到五十個就夠了,幫助他們學好漢字、學好文言文,有能力讀中國古書,讓他們來繼承古聖先賢的大事業,把「教學為先」發揚光大,再培養底下一代人才。我們能想到,再有五十年到一百年,中國文化可以復興,可以傳遍到全世界。這是我們一個願望,希望我們同學們共同努力,發現人才,鼓勵他、幫助他,盡量找機會,讓他學習不能中斷。最好是能夠辦一條龍的學校,就是從前私塾的家學,很值得提倡,真正培養聖賢。受教育為什麼?學聖學賢,聖賢教育。佛教是做什麼?學佛學菩薩。我們學佛,要學跟阿彌陀佛一樣,跟釋迦牟尼佛一樣。佛的大弟子,菩薩們,地藏菩薩表孝,觀音菩薩表慈悲,文殊表智慧,普賢表真幹。一定要把所學的變成生活、變成事業,變成處事待人接物,不能缺少的倫常道德。
現在社會動亂不怕,我們記住《易經》所說的,「積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃」。中國五千年老祖宗,歷史有記載,斷惡修善、積功累德,一直到民國初年,我們還看到這種遺風。我們深深相信,中國有老祖宗庇護,有三寶加持、眾神讚歎。恢復中國傳統文化是我們的責任,我們一定要把它再傳下去,不能在我們這一代消失掉,這是我們這一生中國人頭等大事。不但中國人認為頭等,外國人現在也認為這是頭等大事,所以找到我要合作,我非常歡喜,緣成熟了。我們努力帶頭,把這個世界帶回太平盛世。希望往後,全世界的人都讀中國書,都學《群書治要》,這個地球可能會出現千年盛世。所以我希望同學們認真努力扎根,不會被外面財色名利迷惑,不會受外緣的干擾,我們自己能做得了主,依靠聖賢教誨,依靠佛法的三皈、五戒、十善。
我以這個恆順大家,隨喜功德。謝謝諸位,祝福大家新年如意。過去我常講,「諸惡莫作,歲歲平安;眾善奉行,年年如意」。斷惡修善,我們彼此互相勉勵,不受外面不好的環境影響,我們要給它斷絕。從哪裡開始?我建議大家從手機開始。我有五十多年沒看電視,這大家都知道,我沒有手機。這些東西不善,天天看它,怎麼能夠有健康抵抗力?只有把這些東西隔絕,養成我們健康的智慧,有能力抗拒,不受感染,你自然幸福快樂就現前。好,謝謝大家!祝福大家光壽無量,諸事吉祥如意,謝謝!
因果教育挽救人心――二O一六年清明祭祖法會談話
因果教育は人心を救う――二〇一六年清明祭祖法会談話
2016/4/1 香港機場亞洲博覽館 檔名:61-234-0003
尊敬的主法和尚、諸位法師、諸位大德同修,大家好!今天是我們二O一六年清明祭祖法會的第一天。來自海內外的同胞齊聚一堂,共同誦經念佛懺悔,超薦歷代祖先,緬懷祖德,祭祀祖宗。我們祭祖的意義是弘揚孝敬的精神,孝敬是中華文化的根本。有了孝敬,萬善才有根本。我們對老祖宗孝敬的最佳表現就是承傳古聖先賢的教誨,自利利人,所謂「為往聖繼絕學,為萬世開太平」。
尊敬する主法和尚、法師各位、大徳各位、皆さまこんにちは!今日は二〇一六年清明祭祖法会の一日目です。国内外の同胞が一堂に会して、共に読経・念仏・懺悔して、歴代のご先祖様を済度し、遺徳に思いを馳せ、お祭り致しましょう。私たちがご先祖様をお祭りする意義は、孝行(孝敬)の精神を発揚することであり、孝行は中華文化の根本です。孝行があってこそ、あらゆる善に根本が備わるのです。私たちのご先祖様に対する一番の孝行は、古聖先賢の教誨(きょうかい:教え)を継承して、自他ともに利をもたらすこと、いわゆる「昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く」【注】です。
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【注】「為往聖継絶学、為万世開太平」
往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。
昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く。(意訳)
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古聖先賢の絶学は倫理教育、道徳教育、因果教育と聖賢の教育に帰納することができます。特にその中の「因果教育」は、世道・人心を正すのに絶大な効果があり、今の社会に切迫して必要なものです。ですから印光大師が一生涯力の限り因果教育を提唱されたのは道理があることなのです。正に清初期の名士・周安士先生が説かれたように、「人々が因果を信ずれば、天下大治(天下が大いに治まる)の道である。人々が因果を信じなければ、天下大乱の道である」というものです。この言葉は天下の治乱を一言で喝破しているのであり、特に注意するに値します!
不信因果是社會動亂的根源
因果を信じないことは社会動乱の根源である
現代社会はなぜこれほど乱れているのでしょうか?主な原因は誰も因果応報を信じないからです。封建的な迷信だと考えています。そのため様々な悪業を働いて、少しも憚ることがありません。私利私欲の欲望を満足させる為に良心に背くことを厭わず、人を損ない自分の利益を得て、天理に背く様々な事をしています。人心が悪くなったから社会が乱れているのです。
『書経』に説かれています。「善を作(な)せば、之に百祥を降す。不善を作せば、之に百殃を降す。」(作善,降之百祥;作不善,降之百殃。)。いつも善を行う人に、天は様々な福報を与えます。いつも悪を行う人に、天は様々な災難を降らせます。また「迪(みち)に惠(したが)へば吉、逆に從へば凶。惟れ影響なり。」(惠迪吉,從逆凶,惟影響。)。正道に沿って行えば吉祥であり、正道に背いて行えば凶険です。これはまるで影が形に随い、音がこだまするようなもので、寸分の違いもありません。『太上感応篇』には「禍福に門無し、惟だ人の自ら招くのみ。善悪の報、影の形に随ふが如し。」と説かれています。人の禍福には本来定まった方法はありません。すべて自分が招いたことなのです。あなたが一つ善念・善言・善行をすれば、招くのは福報です。あなたが一つ悪念・悪言・悪行をすれば、招くのは悪報です。善悪の果報は影が身体について来るのと同じように、人がどこに行こうと影はそこについて行き、永遠に離れることはありません!果報はあなたについて行き、逃れる場所はありません。悪報を受けたくなければ悪業を作ってはなりません。
このような「善に善報あり、悪に悪報あり」の因果教育は、昔から中国人は広く受け入れていました。古人は因果応報を信じて、悪いことをすれば悪報があることを知っていました。ですから大多数の人は良心を欺いて悪事を働くことはできませんでした。例えば食品を製造する人は、必ず食品の衛生と安全を保証して、健康に害のないように安心して食べさせます。自分の家族が食べる物は、品質が少々悪くても構いません。お客さんに売るものは、必ず品質の良さを保証しなければなりません。これは商売上の信用を守るためだけでなく、自分の良心に背かないためであり、因果をごまかすことはできません。
残念なことに最近百年余り、中国伝統の因果教育は放棄されてしまい、もっぱら私利をはかる人々は、自分の家の食物は良い品質にして、客に売る食物は何でもお構いなしで、ただ儲かれば良いと、良くない物まで売りつけて、人の健康や生命の安全のことはまったく眼中にありません。本当に「財を謀りて命を害す」(謀財害命)というものです!その人はあなたに物を売り、あなたのお金を取り、更に命まで取ります。恐ろしいことではありませんか!これは重たい悪業を作ります。誰もが人を害して自分の利益を貪り、お互いに騙し合うようになれば、この社会は非常に危険です!
食品の安全の問題は、現代人が因果を信じていない一つの例に過ぎません。因果を信じないことで、現代人は様々な悪事を働いており、誰もが行っています。その中で最も恐ろしいのはメディアです。色情・暴力等の良くない内容を宣伝して、大人から子供まで、すべての人に悪いことを教えています。現代人はインターネットに耽溺(たんでき:夢中になって他を顧みないこと)しています。ゲームに耽溺しています。スマートフォンに耽溺しています。自分の心身を著しく傷つけるだけでなく、家庭や仕事にも大きな障害になっています。ある人々は愚かにも武器を持って人を殺害するほどです!この問題の元凶は、それらの良くないネットサイト、ゲーム、携帯電話の情報を制作した人々です。彼らは自分がお金を稼ぐために、社会の道徳を顧みません。人を耽溺させるものに発展するという後の結果を考えません。その結果社会に大きな問題をもたらしており、殺人よりもなお深刻です!殺人の害は短く限定されますが、人を迷わせる害は長く広範囲です。これらの人は社会の大衆にこれほど大きな害を与えたので、そのすべての苦しみが彼らの身の上で起こり、彼らの家庭や事業等に影響します。将来の災いは尽きることがありません!しかも苦しみの程度は数倍も重いものです!今彼らは信じませんが、将来悪報を受ける時に後悔しても遅いのです。
明瞭因果法則
因果法則を明瞭にする
どうすればこれらの悪事を働く人を救い、この動乱の社会を救うことができるのでしょうか?最も効果のある方法は因果教育に勝るものはありません。因果教育を提唱するには、基本的な因果の法則を理解しなければなりません。
一.因果は同時ではなく、因から果に至るまで一定の時間の経過を要する
この道理は作物に見ることができます。昨日ウリの苗を植えたら、数ヶ月の時間を経てようやく熟します。数日で収穫することは不可能です。同じ道理で、あなたが今善事を行うなら、すぐに善果を得ることはできません。一定の時間の経過を経て、ようやくその善果は熟すのです。もしあなたが善事を行ってすぐに善報(善い報い)を得たなら、それは今行った善業の果報ではなく、あなたが過去に行った善業が今の善業の助けを得て得られた善果です。過去の善業は「因」であり、今の善業は「縁」を助け、今の善果は過去の善因の「果」なのです。
反対に、もしあなたが今善事を行って善報を得られず、かえって悪報を得ているなら、それはあなたの善業に善果が無いのではありません。それはあなたが過去に行った悪業が今になって熟したのであり、先に悪報が生じたのです。過去の悪業について言えば、あなたが今行っている善業が障縁となり、悪因が悪果に変わるのを阻止する力は無くても、必ず悪因の力を弱めることができます。ですから悪報は軽減します。もし今あなたが善事を行っていなければ、この悪報は更に重くなっていたのです!これが因、縁、果の錯綜した複雑な関係です。
多くの人が因果を信じないのは、正にこの法則を理解していないからです。特に悪事を働いている人が悪報を得ることなく依然としてのうのうと過ごし、権勢を笠に着て威張り散らすのを見たり、善を行う人が善報を得ることなく、依然として意気消沈して苦しんでいるのを見ると、因果応報を否定して悪事を働いても悪報は無く、善を行っても善報は無いのではないかと思ってしまいます。それなら誰が馬鹿正直に善事を行うのでしょうか?今の社会では大多数の人が私利私欲は正常だと思い、善事を行うのは馬鹿なことだと考えています。これは彼らがあまりにも目先が利かないためであり、「報いがないのではなく、時がまだ来ていない」という道理を理解していないのです。その人が過去生の中で大きな福報を修めていたら、この一生で行った悪業が多くても、今享受するのは福報です。まだ享受し終わっておらず、引き続きそこで享受するのです。十年、二十年と過ぎて、その人が福報を享受し尽くしたその時、恐ろしい悪報が現前します。ですから因果に間違いはありません。
二.因果は三世に通じる
三世(さんぜ)とは過去世、現在世、未来世です。現代の科学者は、人には前世と今生の輪廻が存在することを少しずつ実証しています。前世と今生とは因果関係があります。いわゆる「前世の因を知らんと欲すれば、今生受くるがこれなり」です。もし自分が過去にどのような因を作ったのか知りたいのであれば、あなたがこの一生で受けるものがどのような果報であるかを見れば分かります。因果は相応しています。この一生で貧窮と多病の果報を受けているなら、過去生であなたは物惜しみと殺生の悪業を作っています。同じ道理で、今生と未来生にも因果関係があります。いわゆる「来世の果を知らんと欲すれば、今生作るがこれなり」です。もし来生でどのような果報を得るのかを知りたいのであれば、この一生で行ったのはどのような業なのかを見れば分かります。この一生で財施(ざいせ:金銭で他人を助けること)、法施(ほうせ:自分の学問や技術を他人に伝えること)、無畏施(むいせ:他人の病気等の憂いや恐れを取り除くこと)を行えば、来生では財産、聡明な智慧、健康長寿の果報を得ます。
報いが生じる時間により、果報は四つの種類に分けられる
(一)現報:今生で業を作り、今生で報いを受けることで、現世報とも言います。善悪の業が重い、或いは多ければ、今生で果報が生じます。ですからその人の運命は自分の努力で変化します。『了凡四訓』の中でこのような状況がたくさん説かれています。もともと貧賤・短命の人が、大きな善業を作った後で富貴・長者に変わります。もともと富貴・長者の人が、大きな悪業を作った後で貧賤・短命に変わります。私たちが知っておかなければならないのは、現世の報いは一種の花報(わずかな報い)に過ぎません。ちょうど果実を結ぶ前に花を咲かせるようなものです。本当の果報は来世にあり、果報の程度は花報よりも更に重くなります。
(二)生報:今生で業を作り、来生で報いを受けます。これは最も普通の現象です。
(三)後報:今生で業を作り、次の次の生でようやく報いを受けます。この一生で業を作り、現報を受けず、次の一生で生報も受けることなく、第三世、第四世、甚だしきに至っては更にあとでようやく報いを受けます。
(四)不定報:今生で業を作り、どの一生で報いを受けるか分かりません。どのような縁に遭遇するかで決まります。もし現世で縁があれば、現世で報いを受けます。もし後世で縁があれば、後世でようやく報いを受けます。
三.因小果大(因は小さく果は大きい)
小さな因でも大きな果となります。これはちょうど小さな西瓜の種を土の中に埋めて、将来大きな西瓜になり、西瓜の中には更に多くの西瓜の種があるのと同じです。いわゆる「一を捨て万報を得る」とは真実です。
このことに関して、仏経ではあるお話で説明されています。仏陀がご在世の頃、あるバラモン長者の年寄りの召使いが、部屋の中から腐った食物を運び出して、捨てようとしました。彼女は門を出て仏陀の威儀荘厳な様子を目にすると、恭敬の心がわき起こりました。彼女は仏陀を供養したいと思いましたが、手に持っているのは腐った食べ物です。どうして尊い仏陀に供養することができるでしょうか?彼女が迷っているその時、仏陀は微笑んで光を放ち、喜んで鉢の中に老婦人が持っている腐ったご飯を入れ、そして振り返って阿難に言いました。「この老婦人の心は敬虔です。彼女は敬虔に仏を供養した功徳で、この後十五劫もの長い間天国で幸せを享受します。十五劫の後人間界に生まれて、出家修行する因縁を具えるでしょう。」 この時ちょうど老婦人の主人であるバラモンの長者は部屋から出てきて、仏陀の話が聞こえたので、非常に不可思議なことだと思いました。
仏陀はこのバラモンの長者に聞きました。「あなたは今まで他に不可思議なことを見たことがありますか?」
長者は答えます。「あります。ある時五百両の馬車で遊歴していて、天気が蒸し暑かったので、大樹の下で涼をとりました。この大樹は五百両の馬車を覆い隠すほどで、更に木陰が余るほどでした。その樹木の大きなことは本当に不可思議でした!」
仏陀は続けて聞きました。「その大樹の種はどのくらいの大きさだか知っていますか?」
長者は「カラシナほどの小さいものです。」
仏陀は言いました。「そうなのです!これこそが因は小さく果は大きいという道理です。」
老婦人が仏にした布施は小さなものですが、それほど大きな果報になるのです!
因小果大(因は小さく果は大きい)の原因は、心の念の速度が非常に速いからです。弥勒菩薩は「指を弾く間に、三十二億百千もの念が生じ、どの念も形を成し、形にはすべて識(意識の働き)がある」と説かれています。一弾指(指を一度弾くこと)には三十二億百千もの念があります。単位は百千です。百千とは十万です。三十二億掛ける十万は、三百二十兆ですから、一弾指には三百二十兆の念があります。一秒間に七回弾けるとすれば、三百二十兆に七を掛けて、二千二百四十兆ということになります。一秒間に二千二百四十兆個の念があり、どの念もすべて独立しています。このような微細な念は振動数が高すぎます。弥勒菩薩は意念は極めて微細であることを説きましたが、それを捉えることはできません。速すぎるのです!心の念の速度はこれほどまでに速いのです。ですから短時間のうちに多くの種を蒔いてしまうので、将来それらの種が果報となる時間もまた長いのです。
経には目犍連(もくけんれん)尊者の因果の故事が記載されています。目犍連尊者は過去の一生で父母の殺害を企んだことがありました。その時、彼の父母は両目を失明していて、彼の妻は失明した姑の世話をしたくありませんでした。そこで夫に父母に対する恨みを持たせ、良くない話をたくさんして、親子の感情を引き裂き、最後には夫に父母を殺害するように唆(そそのか)しました。夫は妻の愚かな言葉を受けて、挙句の果てに本当に父母を謀殺しようとする悪心を起こしました!計画通りに、ある日、彼は父母を連れて外出して、森林を通りました。森林の中で彼は強盗が来たと装って、木の棒で容赦なく父母を打ち殺そうとしました。しかし思いがけないことに、彼が父母を棒で叩いている時、彼の父母は息子に助けて欲しいとは言わず、息子に早く逃げるようにと叫んだのです。強盗に殺されないようにです。彼は父母の慈愛に感動しました。最後に彼の良心が発露して、ひざまずいて自分の過ちを父母に話しました。
父母を殺害しようとした悪念によって、彼の一生は短命でした。死後は地獄に堕ちて、長く苦しみを味わいました。地獄を離れた後、畜生、餓鬼道の苦しみを受けました。その後人間に転生すると、五百世の中では、どの一生でも骨を打ち砕かれて死にました。ひいては目犍連としての一生でも例外ではありません。彼は仏陀に従って出家・修行して阿羅漢果を証得し、仏陀の門下で神通第一の大弟子となりました。しかし業力が熟した時、強大な業力によって彼は入定できず、神通は使えなくなりました。これがいわゆる「神通は業力に敵わず」です。結果として彼は外道たちに打ちのめされて、全身の骨を打ち砕かれ、それによって涅槃に入りました。
この故事は因小果大(因は小さく果は大きい)の現象が明らかに示されています。彼が父母を謀殺しようとしたのは一度だけですが、なぜこれほど多くの生涯で大きな苦しみの報いを生んだのでしょうか?原因は正に心の念の速度があまりにも速いからで、たった一度業を作っただけでも、作られる業因は非常に多いのです。例えば過去生で父母を打った時間が三十分なら、弥勒菩薩の説法に基づけば、一秒間に指を七回弾くとすると、父母を殺害しようとする極めて重い悪業が一秒間に二千二百四十兆個生じるのであり、三十分であれば更にその千八百倍です。ですから彼が作った重大な悪業の数は非常に驚くべきものなのです!これらの極めて重い悪業は、彼のその一生が多病で短命になる現世報(花報でもあります)となるだけでなく、死後には地獄に堕ちて長い苦しみの果報となり、地獄を離れた後では畜生道、餓鬼道で余報があり、その後、人となった時には五百世も繰り返し骨を打ち砕かれたのです。それも過去生の中の、その時の悪業の余報なのです。私たちはこの中に見ることができます。重大な業は当世の「現報」、来世の「果報」、未来世の「余報」を生じるのです。本当に波は休まることなく、切りがありません!悪事の果報がこれほどまでに凄惨なのを見て、あなたはそれでも親不孝ができるでしょうか?その他の悪業ができるでしょうか?
『易経』「繋辞伝」には「積善の家に必ず余慶(よけい)あり。積不善の家に必ず余殃(よおう)あり。」と説かれています。その意味は、善行を積み重ねた家族には、有り余るほどの恩恵があり、後代まで福報(幸せの果報)がもたらされる。悪行を積み重ねた家族には、有り余るほどの罪悪があり、後代まで災難がもたらされる。この言葉こそ因小果大の明らかな証拠です。印光大師は説かれています。余慶、余殃があるのですから、必ず本慶、本殃があるのです。本慶は善を積み重ねた本人が享受する善業の果報であり、余慶はその人の善業が子孫の福となったものです。これがその人の善業の余報です。本殃は悪を積み重ねた本人が受ける悪業の果報であり、余殃はその人の悪業が子孫にまで苦しみをもたらすものです。これがその人の悪業の余報です。
私たちは更に理解しておかなければなりません。因小果大(因は小さく果は大きい)ということだけでなく、果報が来る時間が延びれば延びるほど、その程度は重くなります。これはちょうど債務の返済を延ばせば延ばすほど、利息が高くなるのと同じです。ですから悪業を作ったら、すぐに懺悔して、善業を修めなければなりません。悪業の重さの程度を弱めるのです。或いは早めに報いを受けることです(重い罪の報いが軽くなる)。それでようやく将来深刻な苦報に遭わずに済みます。
仏門には「菩薩は因を畏れ、凡夫は果を畏れる」という言葉があります。菩薩は理解した人です。因小果大の道理を理解して、悪因を作れば未来の果報は恐ろしいことを知っています!ですから非常に注意深くして、悪因を作りません。悪報については、それが自分の過去生の中で作った悪業によって生じたものだと菩薩は知っています。受けることで報いが終わるのであり、怖がることはありません。ですから菩薩は安んじて果報を受け入れることができます。それによって煩悩を起こすことはありません。これが「随縁にして旧業を消し、更に新殃(しんおう:新たなわざわい)を造らず」です。隨縁(ずいえん:縁に随うこと)により古い悪業の報いを消し、新しい悪業を作らなければ、それ以後は新たな悪報に遭わなくなります。
凡夫は迷いうろたえます。悪報の恐ろしさを知ると、努力して悪報を免れようとします。そして悪行をやめることが真に悪報を避けることになることを知りません。悪報を受ける時、心の中に煩悩が起こります。悪報を免れる為に、人を害して己を利する行いをいとわず、様々な悪業を作ります。今悪業を作っても、すぐに良くない結果に遭遇しないので、悪業を作っても平気です。今引き続き悪業を作っていれば、その後その人の末路は恐ろしいことになります!これが仏菩薩(ほとけぼさつ)の説かれる「可憐憫者」です。因果について明らかでないために、凡夫は絶えず煩悩を起こし、業を作り、苦しみを受けます。苦しみを受けた後、また煩悩を起こし、また業を作り・・・・・・・このように生死の苦海の中を巡り巡って、切りがありません!
四.善悪は相殺できない
世間で言われる「功罪が相つぐなう」は、因果法則の中では成立しません。善を作れば自分の心の中に善の種を植え(善因)、悪を作れば心の中に悪の種を植え(悪因)、善の種と悪の種は相殺することはできません。それらの因縁が熟した時、それぞれ果報として実を結び、相互に入り混ざることはありません。
相殺することはできなくても、善悪は相互に影響し合います。今善業を作れば、以前の善の種に対する縁を助け、それらの影響力を高めます。以前の悪の種は障碍となりますが、それらの影響力を弱めることができます。ですから善事を行った後、引き続き善を行っていると、あなたの以前の善の種子は益々多くの縁を得て、力は益々強くなり、将来更に強い善報となります。正に『易経』「繋辞伝」に説かれている「善積まざれば、以て名を成すに足らず」です。善行を絶えず積み重ねてこそ素晴らしい名声となるのです。反対に、あなたは悪事をなした後、努力して善を行えば、あなたの悪の種子の力は弱くなり、将来の悪報は軽減されます。これが重罪軽報(重い罪の報いが軽くなること)です。ちょうど玄奘大師が円寂(えんじゃく:僧が亡くなること)された時、重い病に侵されました。彼は自分が訳した仏典に問題があったのではないかと疑いました。しかし夜になって菩薩が夢枕に立ち、これは重い罪の報いが軽くなったのだと告げました。彼の翻訳の功徳はとても大きいので、彼の過去生の数多くの重大な悪業はその病によって清算されたのです。
逆に言えば、今悪業を作っていれば、以前の悪の種に対する縁を助け、それらの影響力が強くなり、以前の善の種子に障碍が生じて影響力が弱くなります。ですから悪業を作った後、もし引き続き悪業を作り続けていれば、以前の悪の種子は益々多くの助けを得て、力は益々強くなります。いわゆる「悪の限りを尽くす」と、将来は更に強い悪報となります。ちょうど『易経』「繋辞伝」に「悪積まざれば、以て身を滅ぼすに足らず。」と説かれているように、絶えず悪行を積み重ねていれば自分の身を滅ぼします。反対に、善事を行った後で多くの悪業を作れば、あなたの善の種子は力が弱まり、将来結ばれる善報は弱くなります。『歴史感応統記』の中の多くの人物は、前世では大修行者でしたが、今回の転生では前世には及びません。ですから向上するのは難しく、堕落するのは容易なのです。ここから六道輪廻の恐ろしさが見て取れます。
以上は善悪の業因が相互に影響する状況を簡単に説明したに過ぎません。実際には因縁果報における相互の影響は非常に複雑で、二言三言で明瞭に講じられるものではありません。菩薩や阿羅漢でさえ完全に理解してはいません。仏陀(の境地に達した者)だけが完全に明瞭なのです。
五.因果不空(業果は壊れることはない)
経に説かれています。「假使(たとひ)百千劫といへども、所作の業は亡ぜじ。因縁会遇せん時、果報還(ま)た自ら受く」。私たちが作った善悪業習の種子は阿頼耶識の中にあります。阿頼耶は大きな倉庫のようなもので、業の種子はこの中に保存されて永遠に失われません。永遠に変質しません。この事はとても面倒です!これは因、業因です。たとえ百千劫もの長い時間が過ぎても、一たび適当な縁に遭遇すれば、それらの業因は果報となり、あなたはその果報を絶対に受けなければなりません。必ず(業因が)果報になるまで待たなければならず、(果報を受けて)ようやく業因は消えるのです。まだ六道輪廻の中にいるなら、あなたは因果応報から逃れることはできません。ですから愚かに迷う人が業を作るのであり、覚っている菩薩は絶対に業を作りません。
因果応報は少しも違うことはありません。仏に成ったとしても、やはり必ず悪業の果報を受けなければなりません。釈迦牟尼仏は晩年に重い腰痛になりました。原因は遠い過去生の中の、ある一生でレスリングの選手だったことがあり、相手に二度も騙されたので憎悪の心を持ち、試合の時に相手の腰骨を折って死に至らしめました。この猛烈な悪業は彼のその一生を短命にし、死後は地獄に堕ちて極限の苦しみの果報を受けました。地獄を出た後は、その他の悪道で苦痛の余報をつぶさに味わいました。再び母胎に入り人として生を受けた時、生まれ変わるたびに腰痛の余報に見舞われました。遠く遥かな劫を経た後、仏に成ったその一生でも余報は尽きておらず、また腰痛の苦報を生んだのです。
仏陀はその他の悪報も示現されました。ある時仏陀の足に木片が刺さって怪我をしました。それは過去生の中で人の足を刺した余報でした。
ある時仏陀は三ヶ月の夏安居の中で食糧を断たれ、馬のえさの飼料しか食べられませんでした。それは過去生の中で毘婆尸 (びばし) 仏の時代に、彼は外道の頭目になったことがあります。毘婆尸 (びばし) 仏が衆生の供養を受けたことをねたんで、仏は馬が食べる飼料しか食べられないと批判しました。これは口業(くごう)の余報です。釈迦牟尼仏の一生では三ヶ月もの間馬のえさを食べることになりました。
憍薩羅(コーサラ)国の琉璃(ルリ)王が釈迦族を攻撃した時、仏陀は三度阻止しましたが、それでも釈迦族の災難は避けられませんでした。その時仏陀は三日間頭痛に見舞われました。それは過去生の中で、彼が大きな魚の頭を棒で三度叩いたことによります。
このことからも因果は偽りではなく、仏に成った後でも避けることはできません。それでは浄土法門を修行して極楽世界に往生した人はどうなのでしょうか?浄土に往生した後では、以前に人を殺していても命を償わなくて良いのでしょうか?お金を借りた人は返さなくても良いのでしょうか?そうではありません!重い罪の報いは軽くなりますが、報いがないということはあり得ません。極楽世界は私たちに提供される素晴らしい修行の環境です。私たちに無限の時間を与え、仏に成るまで修行するのです。阿弥陀仏は一時的に悪業の償いを不要としますが、悪業を消し去るとは説かれていません。それは不可能です。将来私たちが極楽世界で仏に成った後、他方世界で衆生を救い、過去に作った悪業が熟した時、やはり悪業のもたらす悪報を受けなければなりません。ただその時あなたは仏に成っていますから、これらの因果応報は心の中ではっきりと理解しています。ですから心の中は動かすことなく、解脱して自在であり、それによる憂いや苦しみは感じません。ですから浄土を修行する人も悪を断ち善を修める努力をしなければなりません。極楽世界の阿弥陀仏に頼って、恐いものは無いと思ってはなりません。気ままに業を作っていれば、後になって大損をすることになります!
因果法則は真理であり、世間に運行する事実の真相です。これらの事実の真相は遠くにあるのではなく、私たちの身辺に生じるものです。因果を信じない人は、身辺に生じている因果の現象が見えません。一たび因果法則が明瞭になれば、その人は、因果応報は自分の周辺の一切の人間関係の中に生じていることに気がつきます。すべて因果を離れない、と言うことができます。
結語:因果教育挽救人心
結論:因果教育は人心を救う
因果応報の道理は非常に深くて広いものです。以上のことは簡単な紹介に過ぎません。皆さんに基本的な認識を持って頂くためです。もしもう一歩深く理解したいのであれば、『太上感応篇』、『文昌帝君陰騭文』、『了凡四訓』、『俞浄意公遇灶神記』、『歴史感応統紀』、『安士全書』を学習することをお勧めします。これらはすべて印光大師が当時力の限り提唱されたものです。その中の『歴史感応統紀』の二十四史の中には、因果応報の実例を集められ、すべて史書における事実が記載されており、私たちが参考にするに値するものです。『安士全書』は印光大師が最も推賞された書物で、印祖はこの書物を「善世第一の奇書」と讃嘆されました。『安士全書』ではすべて因果が説かれています。
道教の『玉歴宝鈔』もまた因果の教材です。江逸子居士は『玉歴宝鈔』をもとに「地獄変相図」を描きました。世の中に警鐘を鳴らす良い作用があります。私たちは数年前、『大蔵経』の中から仏陀が地獄の因果に言及された経文を集めて、『諸経仏説地獄集要』を編成しました。『玉歴宝鈔』よりも更に詳細で、読めば人を驚かせ、悪いことはできなくなります。最近私たちは印光大師がかつて提唱された『道徳叢書』を一万セット印刷しました。この書物は簡単な文語文で書かれていて、多くの歴史人物の事跡を収集して、因果応報の道理をはっきり述べ明らかにしており、素晴らしい文語文の読み物です。この書物の電子版はインターネットでダウンロードすることができます。
最近では、道徳セミナーがとても成功していて、七日の間に悪人が善人に転じて、賄賂を貪る役人が清廉潔白に変わり、親不孝者が孝行息子に変わり、離婚した人が復縁し、中毒患者がそこから脱け出し、成功率は90%以上に達しています。なぜこのように成功しているのでしょうか?主な理由は因果教育を強調しているからです。人は死んだ後でも輪廻があり、行ったことのすべてに報いがあるのだということを人々に理解させます。この道理を理解した人は、自分で注意して、悪を断って善を修める努力をします。倫理道徳教育は人に悪いことをしにくくします。因果教育は人に悪いことをしにくくします。後者は前者よりも効果が明らかに速いです。
ご先祖様が私たちに残された因果教育は本当に素晴らしいものです!今この時代における、命を救う処方箋です。本当に今の落ちぶれた社会と人心を救おうとするなら、因果教育に頼るほかはありません。これよりも良い方法はありません。ですから私たちは各人が因果教育を学習して、因果法則を明瞭にしなければなりません。深く因果を信じ、悪を改め善に向かい、邪を改めて正に帰ること、これを自分自身から始めることです。そして縁のある人に勧めて、一緒に因果教育を受け入れることです。彼らも「迷いを転じて悟りと為し、苦を離れて楽を得る」ことができるようにします。このようであれば私たちの社会は益々安定し、世界は益々平和になります。
最後に、皆様の「六時吉祥、道業增上、浄満圓成、光壽無量」を祝福致します!聖教が復興して輝き、全世界に発揚され、永遠にご利益をもたらしますように祝福致します!祖国の安泰と民の平安、国運の繁栄を祝福致します!世界の安定と平和が永遠に続きますよう祝福致します!皆さまありがとうございました!
一切法從真實心中作—丙申年賀年語 / すべてを真実心で行う――丙申(ひのえさる)、新年のお祝いの言葉
2016/2/8 香港佛陀教育協會 檔名:32-118-0001
諸位法師、諸位同修,大家好!時間過得很快,轉眼之間一年又過去了。
法師各位、学生各位、皆さまこんにちは!時が過ぎるのは早いもので、またたく間に一年がまた過ぎ去りました。
在這新的一年開始之際,希望以善導大師的教誨,與大家一起共勉。善導大師在《觀經四帖疏》裡面說,「經云:『一者至誠心』,至者真,誠者實。欲明一切眾生身口意業所修解行,必須真實心中作」。佛門弟子要發菩提心,菩提心的本體就是至誠心,善導大師告訴我們,至誠心就是真實心。所以我們身口意的一切造作,都必須從真實心中作,才是真修行。
この新しい一年の始まりに際しまして、善導大師の教誨をもって、皆さまと共に励まし合いたいと思っております。善導大師は『観経四帖疏』の中で説かれています。「経に云う。一つには至誠心。至は真である。誠は実である。一切衆生が身口意を用いて修める修行は、必ず真実心の中において行わなければならないことを明らかにしようと思う」【注】。仏門の弟子は菩提心を発しなければなりません。菩提心の本体は至誠心です。善道大師は私たちに説かれています。至誠心とは真実心です。ですから私たちの身口意(しんくい)の一切の行いは、すべて必ず真実心の中において行わなければなりません。それこそが真の修行です。
現在社會一年比一年混亂,佛門弟子處在這樣一個亂世的共業當中,如果隨波逐流,行為跟一般造惡的人一樣,不孝父母、不敬長輩等等,這樣的人雖然學佛,只是學在表面,而沒有實際的內容,得不到佛法的真實利益,也就很難從這個共業當中倖免,造惡的人將來如何遭難,這些學佛的人一樣也如何遭難。學佛沒有給他們帶來實質的改變,這是因為他們沒有從真實心中作的緣故。真正佛門弟子,必須依照佛菩薩與祖師大的教誨,一切法都從真實心中作。用真誠心、清淨心、恭敬心來修行菩提正道,認真落實,痛改前非,革除過去不良的習氣,例如貪欲、嫉妒、怨恨、不能包容別人等等。
現在の社会は一年ごとに混乱しており、仏門の弟子はこのような乱世の共業(ぐうごう)の中に身を置いています。もし波に流されるままであれば、その行為は一般の悪い行いをする人と同じです。親不孝であったり、年長者を敬わない等です。このような人はたとえ仏法を学んでいても、ただ表面を学んでいるに過ぎず、実質的な中身はありません。仏法の真実のご利益は得られません。またこの共業の中で運よく難を免れることは難しいでしょう。悪い行いをした人は将来何らかの災難に遭います。それらの仏法を学ぶ人も同じように何らかの災難に遭うのです。仏法を学んで彼らに実質的な変化がもたらされないのは、彼らが真実心で行っていないことが原因なのです。真の仏門の弟子は、必ず仏菩薩(ほとけぼさつ)と祖師大徳の教誨に照らして、すべてを真実心で行います。真誠(しんせい)心、清浄(しょうじょう)心、恭敬(きょうけい)心を用いて菩提の正道を修行します。真剣に実行します。徹底的に前非(ぜんひ:過去の過ち)を改めます。過去の良くない習気(じっけ)を取り除きます。例えば、貪欲、嫉妬、怨恨、人を包容できない等です。
在這新的一年當中,一切修行都要從自心開始,做到心正、言正、行正。要老實、聽話、真幹,把佛的教誨真正落實在生活中,把佛教給我們的三皈、五戒、十善、三福、六和、三學、六度、十願變成實際生活。無論出家、在家,道場都要煥然一新。佛弟子要興起帶頭作用,帶動周邊的人斷惡修善,修清淨平等心。這樣認真落實,才能真正理解經論的教誨,念佛才能往生極樂世界。
この新しい一年にあたり、一切の修行は自分の心から始めなければなりません。心を正し、言葉を正し、行いを正すことです。老実(ろうじつ:真面目で誠実であること)、従順、真の実行。仏の教誨を本当に生活の中で実行することです。仏が私たちに教えている三帰依、五戒、十善、三福、六和、三学、六度、十願を実際の生活に変えることです。出家であろうと在家であろうと、道場はすべて一新しなければなりません。仏弟子は先頭に立つ役割を担い、周囲の人が悪を断ち、善を修め、清浄心・平等心を修めるよう導かなければなりません。そのように真剣に実行してこそ、経論の教誨を真に理解することができ、念仏して極楽世界に往生することができるのです。
希望大家拓開心量,包容全球苦難眾生,落實「愛心遍環宇,善意滿人間」。盡我們最大的努力,讓一切眾生真正平等對待,和睦相處。如果人人都能如此認真落實,世界和平、大同之治是可以達到的。祝福大家新年如意,光壽無量!祝福祖國國運昌隆,國泰民安!祝福世界安定和平,永續大同!謝謝大家!
皆さまが心を開き、全地球の苦難の衆生を包容して、「愛は世界中を巡り、善意は人間界に満ちる」(愛心遍環宇,善意満人間)を実現することを願っています。私たちは最大の努力を尽くして、一切衆生に本当に平等に接し、お互いに仲良くさせなければなりません。もし誰もがこのように真剣に実践するなら、世界の平和、理想社会は実現できるでしょう。皆さまの新年をお祝い申し上げます!祖国の国運が盛んになりますよう、国の泰平と民の安寧を祝福致します!世界の安定と平和、理想社会の永続を祝福致します!皆さまありがとうございました!
<注>
訳は筆者の意訳。以下、原文。
「経云:『一者至誠心』,至者真,誠者実。欲明一切衆生身口意業所修解行,必須真実心中作」
迷人口說 智者心行―――乙未年除夕談話
迷人口説、智者心行
迷いの人は口先だけで説き、智者は心の中で実行する
――乙未(きのとひつじ)大晦日(旧暦)の談話
2016/2/7 講於香港佛陀教育協會
諸位法師、諸位同學,大家好!今天是乙未年的除夕,除夕在提醒我們,在大家的生命當中又過去了一年。在這個辭舊迎新之際,我們每個人都應該自我反省,在過去這一年裡,我自己進步了多少?甚至要捫心自問,我是進步了還是退步了?諺語說得好,「不進則退」,如果沒有進步那就是退步。在今天這個社會大染缸裡,人的煩惱習氣不斷在長,你不可能保持不變,如果你沒有進步那就是退步。你不斷在被社會染污,被眾緣所轉,你不是在度眾生,而是被眾生度走了,你是處在退轉的狀態!這個不能不警覺啊!
法師各位、学生各位、皆さまこんにちは!本日は乙未(きのとひつじ)の(旧暦の)大晦日です。大晦日は私たちに注意を与えてくれます。皆さまの生命の中において、また一年が過ぎ去りました。旧年を送り新年を迎えるに際して、私たちは各々自分自身を反省すべきです。過ぎ去ったこの一年に、自分はどれほど進歩したのでしょうか?自分は進歩したのか、或いは退歩したのか、自ら反省しなければなりません。諺はよく言ったものです。「進まざれば則ち退く」(不進則退)。もし進歩がないのであれば、それは退歩しているのです。今日のこの乱れた社会の中で、人の煩悩の習気(じっけ)は絶えず増長し、あなたは不変を保つことはできません。もしあなたに進歩がなければ、それは退歩です。あなたは絶えず社会に染汚(せんお:穢れること)され、人々の縁(衆縁)に流されています。あなたは衆生を救うどころか、衆生に流されているのです。あなたは退転の状態にあるのです!これは警戒しない訳にはいきません!
怎樣才是進步?你不斷地把所學習的在生活當中做到,你就是在進步。佛法裡面講學佛有四個步驟:信、解、行證,其中最重要的是行,如果沒有行,你所信的,你所解的終究會落空,不能產生真實利益,你也就不可能證悟佛法;所以六祖惠能大師在《壇經》裡面告訴我們,「迷人口說,智者心行」。
どうすれば進歩するのでしょうか?学んだことを絶えず生活の中で実行していれば、あなたは進歩しています。仏法の中では四つの順序があります。信(信じる)、解(理解する)、行(修行する)、証(証得する)。その中で最も重要なのは行(ぎょう)です。もし行(ぎょう)がなければ、あなたの信じること、理解したことは結局何にもなりません。真実のご利益は生じません。また仏法を証悟するのは不可能です。ですから(禅宗の)六祖・慧能(えのう)大師は『六祖壇経』の中で説かれています。「迷いの人は口先だけで説き、智者は心の中で実行する」(迷人口説、智者心行)。
學佛決不能光靠口說,嘴巴上講得很好,理論講得頭頭是道,還能夠教導別人,但是如果自己的煩惱習氣一點也沒有減少,起心動念、言語造作還是每天在造惡業,那麼你這個佛豈不是白學了嗎!就是像修無法師所說的,「能說不能行,不是真智慧」,你只是懂得一點皮毛,根本沒有把佛法融入自己的生活當中,這樣做是糊塗人,是迷惑顛倒的人,不是真正的學佛人。如果是真正有智慧的人,嘴巴裡不用多說,心裡頭努力去實行,把佛法真正做出來,改過遷善,轉化自己的煩惱、轉化自己的氣質,這樣才能得到佛法真實的利益,才是真正的佛弟子,彌陀弟子!
仏法を学ぶには決して口先だけで説いてはなりません。口で上手に説き、理論もすべて道に適い、他人を教え導くことができても、自分の煩悩の習気が少しも減らず、心で思うことや、言葉や行為が毎日悪業を作っているなら、あなたは無駄に学んでしまったのです!ちょうど修無法師が「語れても実行できなければ、真の智慧ではない」と説かれたように、上っ面を少し理解しただけなのです。まったく仏法を自分の生活の中に溶け込ませていないのです。このようにするのは愚かな人、迷惑顛倒の人です。真に仏に学ぶ人ではありません。もし本当に智慧のある人であれば、口で多くを語らずとも、心の中で努力して実行します。仏法を真に実行します。過ちを改めて善に立ち返り、自分の煩悩、自分の気質を転化させます。このようであってこそ仏法の真実のご利益を得ることができます。それでこそ真の仏弟子です。弥陀の弟子です!
二00七年清華大學的錢遜教授,代表北京大學的湯一介教授和北京師範大學的郭齊家教授到香港來看我,問我:為什麼要提倡《弟子規》?那個時候我到處介紹《弟子規》,他們不了解為什麼不從《四書》、《五經》、《十三經》下手,要搞這個小東西?當時我舉了一個比喻,我說這裡擺個天平,這一邊放的是《四書》、《五經》、《十三經》,乃至《四庫全書》;另一邊只放一本《弟子規》,我說這個天平是平的,兩邊重量相等。錢先生說這怎麼能相等?我就說了,這邊這一大堆是博學、審問、慎思、明辨,在另外這一邊是《弟子規》,《弟子規》是篤行,如果沒有篤行,那些只是知識不起作用,還不如這部《弟子規》,《弟子規》學好了,他還懂得做人的規矩,比那個有很多學問卻做不到的人還是要高一些,這樣說了他們就明白了。
2007年、清華大学の銭遜教授は、北京大学の湯一介教授と北京師範大学の郭齋家教授の代理で、香港まで私に会いに来ました。私に、「どうして『弟子規』を提唱するのですか?」と聞きました。その頃私は行く先々で『弟子規』を紹介していました。彼らはなぜ四書・五経・十三経から着手せず、小さなものを紹介するのか理解できませんでした。その時私はある比喩を挙げました。ここに天秤を置いて、一方に四書・五経・十三経、更には四庫全書を置き、もう一方には一冊の『弟子規』だけを置きます。私は、「この天秤は平らであり、双方の重さは等しい」と言いました。銭先生は、「これがどうして等しいのですか」と言いました。私は、「こちらの山ほどのものは博学、審問、慎思、明辨です。もう一方は『弟子規』です。『弟子規』は篤行(とっこう:誠実な行い)です。もし篤行がなければ、それらはただの知識に過ぎず、役には立ちません。この『弟子規』にも及びません。『弟子規』に学べば、その人は人としての規範を理解します。多くの学問を学んで実行できない人に比べれば、よほど優れています」と言いました。このように話すと、彼らは理解しました。
《論語》開篇孔老夫子說,「學而時習之,不亦說乎!」習是將所學的應用在生活工作上,變成自己的生活習慣,就是真幹。這裡面就有法喜,人家那個學習裡面有快樂,世間什麼樣的快樂都比不上學習的快樂,所以才能一直保持下去。現在學校裡都是學而不習,學了之後不去做,所學習的跟平常生活不相干,那樣當然學得很辛苦,得不到快樂。所以無論學佛也好、學習傳統文化也好,學了之後一定要落實,一定要在生活當中做到才行,這樣我們就是真正的智者,也就是做到我每年跟大家拜年時所說的,「諸惡莫作,歲歲平安;眾善奉行,年年如意」。
『論語』の冒頭で孔夫子は説いています。「学びて時に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや」。習うとは、学んだことを生活や仕事の中で応用することです。自分の生活習慣に変えることです。つまり本当に実行することです。この中に法喜(天地自然の道理に適う喜び)があります。彼のその学びの中には喜びがあり、世間の如何なる喜びも学ぶことの喜びには及びません。ですから継続し続けることができました。今の学校では、学ぶだけで習いません。学んだ後で行いません。学んだことは普段の生活と関係がないのです。それでは当然学ぶことは苦しくなり、喜びは得られません。ですから仏法を学ぶことにしろ、伝統文化を学ぶにしろ、学んだ後は必ず実行しなければなりません。必ず生活の中で実行しなければなりません。このようであれば私たちは真の智者であり、また私が新年の挨拶で毎年皆さんに話しているように「悪い行いをしなければ、ますます平安になり、善い行いをすれば、年々思い通りになる」(諸悪莫作,歳歳平安;衆善奉行,年年如意)というものです。
所以我們一定要老實、聽話、真幹、真誠、清淨、恭敬,才會年年進步、月月進步,最後是日日進步,那就能達到法喜充滿,常生歡喜心!希望以此與大家共同勉勵。
ですから私たちは必ず老実(真面目で誠実であること)、従順、真の実行、真誠(まことの心)、清浄(清らかな心)、恭敬(うやまいの心)があってこそ、毎年進歩があり、毎月進歩があり、最後には毎日進歩するのです。そうなれば法喜充満(ほうきじゅうまん:仏法を学ぶ喜びに満ち溢れること)に達して、常に歓喜心が生じるようになります!ここで皆さんが共に励まし合うことを願っています。
最後祝福大家新春愉快、六時吉祥、淨滿圓成、光壽無量!祝福佛教與傳統文化復興光大、全球弘揚、千秋萬世、廣度有情!祝福祖國國泰民安、國運昌隆!祝福世界安定和平、永續大同!謝謝大家!
最後に皆さんに、新春のお慶びを申し上げます。六時吉祥、浄満円成、光寿無量!仏教と伝統文化が輝かしい復興を遂げ、全世界に発揚され、末永く(千秋万世)、広く有情(うじょう)を済度しますことを祝福致します!祖国が泰平で民の暮らしが平安でありますように、国運が盛んになりますよう祝福致します!世界の安定と平和、理想社会が永続しますよう祝福致します!皆さま、ありがとうございました!
兄弟之邦 情義永固——祝賀「二○一六中國節」
兄弟之邦 情義(じょうぎ)永(とこしえ)に固し――2016年チャイナ・フェスティバルを祝して
2016.1.22 啟講於 香港佛陀教育協會
(原文はないようですので、Youtubeの字幕と音声をもとに翻訳のみ記載します)
尊敬する大使閣下、東京都知事、指導者各位、顔会長、大徳各位、皆さまこんにちは!
本日は2016年チャイナ・フェスティバル(中国節)【注1】の除幕式の良き日を迎えました。大使閣下、顔会長のお招きには非常に感謝しております!浄空はこの盛会に参加したいと思っておりましたが、やはり「歳月人を待たず」、九十年の身体は疲労に耐えられません。加えて年の瀬(旧正月)もせまり法務が忙しいために、盛会に赴くことができません。とても残念です!これから謹んでお祝いの言葉を申し上げ、それをもって私の衷心からの感謝と祝福を表したいと思います。
日本と中国は、二千年以上、深い情義で結ばれた兄弟の邦(くに:国)です。古くは戦国時代(前403-前221)には往来がありました。唐朝になると、両国の往来は更に密接になり、日本はたくさんの遣唐使を派遣して、唐朝の文化を学びに来ました。彼らの大多数は中国で十年以上学んで日本に帰りました。帰った後、彼らは中国の漢字をもとに日本の文字を作り、また同時に日本の服飾、建築、農業などもすべて唐朝から学んで来たものです。中国の伝統文化は日本に伝わると、大いに発揚されました。二千年以上に渡り、日中両国には友好的な往来の歴史がたくさんあり、日本はしっかりと中国古代の文化を保存しているのです。中国ですでに失伝してしまった多くの重要な典籍は、―――『群書治要』や様々な仏経を含めて―――後に日本から再び中国に伝わりました。中国の伝統文化の復興にとって、重要な貢献になっています!日本の農村には今でも中国の昔の伝統が残っていて、本当に「道に落ちているものを拾わず、夜も戸じまりをしない」(路不拾遺,夜不閉戸:世の中が良く治まっていること)というように、昔の礼節がまだ存在しています。人々はおとなしく、規則を守り、また人情味に厚いのです。非常に得難いことです!私たちはそこに身を置いてみますと、まるで古代の中国に戻ったかのようです。日本と中国の伝統文化は、すべて「和を貴しと為す」【注2】、孝(孝行)と敬(敬い)の文化です。両国の人民は、皆平和を愛する民族です。もしこのような平和の文化を発揚することができれば、お互いに助け合い、お互いに補い合って発展し、必ずや全世界に安定と平和をもたらすことができるでしょう。
正に二十世紀のイギリスの著名な歴史哲学者トインビー博士が提起されたように、日本と中国は手を取り合って協力し、共に全人類の衝突を解消する導き手となり、人類の幸福と調和を促進すべきなのです。これは日中両国が全世界にもたらすことのできる最高の贈り物であり、貢献です。
今日行われる2016年チャイナフェスティバルのイベントの趣旨は、文芸の演出、文化の展示等を通して、日本の方々に中国を理解・認識していただき、日中の民間交流を促進し、両国の民衆の友好的な気持ちを増進することにあります。この寓意(ぐうい:直接には表さず、別の物事に託して表すこと)はとても良いものです!
この新しい一年、年の始まりにあたり、このイベントの挙行を通して、両国の人々が引き続き努力して、両国の情義を絶えず深め、共に東アジアの調和を促進し、世界の安定と平和を促すことを願っています。功徳は計り知れません!この度のイベントが順調に、円満に取り行われますよう、また皆さまが健康で幸せでありますよう祝福いたします!日中両国の情義が永遠に堅固でありますよう、理想社会に共に進みますよう祝福いたします!全地球人類の調和と繁栄、平和の永続を祝福いたします!皆さまありがとうございました!
<注>
1.チャイナ・フェスティバル(中国節)・・・・2016年1月29日から31日まで、六本木ヒルズで行われた中国文化のイベント。
http://www.infochina.jp/jp/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=16&id=9196
2.和を貴しと為す・・・・『論語』学而12が典拠(以下抜粋)
有子曰、礼之用和為貴。
有子(ゆうし)曰く、礼の用は和を貴しと為す。
有子は言った。礼節を用いるには和の心を大切にしなければならない。
二O一六年元旦談話 / 二〇一六年元旦の談話
2016/1/1 香港佛陀教育協會 檔名:32-110-0001
諸位法師、諸位大、諸位同修,大家好!今天是公元二O一六年的元旦,在這個新年一年開始,祝福大家新年快樂,吉祥如意,道業精進,福慧長!
法師各位、大徳の皆さま、同門の皆さま、こんにちは!今日は西暦2016年の元旦です。この新しい一年の始まりにあたりまして、新しい年が良い年でありますように、何事も順調に進みますように、仏道修行に精進されますように、福と智慧が増しますように、皆さまを祝福いたします。
昨天齊老菩薩帶來了楊紅梅居士念佛往生的錄像,我看了,她是我們修行淨土的人最好的榜樣。海賢老和尚為我們表法,楊居士也是做給我們看的,告訴我們極樂世界真有,阿彌陀佛也真有,絕對不是假的。
昨日斎さんが楊紅梅居士が念仏往生した映像を持って来ました。私はそれを見ました。彼女は私たち浄土宗を修行する人の最も良いお手本です。海賢和尚は私たちの為に法を演じて下さいましたが、楊居士もまた私たちに見せて下さったのです。極楽世界は本当にあり、阿弥陀仏は本当にいると私たちに話されています。決して偽りではありません。
有信、有解、有行、有證,這就是正法住世,佛在大乘經上講得很好。如果只有前面三個,有信、有解、有行,沒有證的,這就是像法時期。如果只有信、只有解,行都沒有了,那叫末法時期。信、解都沒有了,那叫滅法時期。大乘經上講得好!我們冷靜的觀察,大乘正法在中國。這是非常可喜的現象。我們希望正法能夠再恢復,發揚光大,普度全球一切苦難眾生。
信じる人、理解できる人、実行する人、証得する人がいれば、これは正に正法(しょうぼう)がこの世に留まっているのです。仏は大乗の経で説かれています。もし先の三つだけであれば、信じる人、理解できる人、実行する人がいて、証得する人がいなければ、それは像法(ぞうほう)の時期です。もし信じる人、理解する人がいて、実行する人もいなくなれば、それは末法の時期です。信じる人も、理解する人もいなくなれば滅法の時期です。大乗の経はよく言ったものです!私たちは冷静に観察して見ると、大乗の正法は中国にあります。これは非常に喜ばしい現象です。私たちは正法が再び復興し、大いに発揚され、全地球の苦難の衆生が救われることを願っています。
這個光碟,我勸同學們多看、多學習。因為今天這個時代,社會動亂,確確實實不僅是讓我個人,讓所有的大眾都沒有安全感。戰爭有沒有化解?沒有。恐怖戰爭,不定在什麼時候出現,不定在什麼地點出現。這就是叫人無法躲避,完全喪失安全感。
このDVDを何度も見て、よく学ぶことを皆さんにお勧めします。今日この時代は、社会が乱れているので、私個人に限らず、すべての大衆は皆安心感がありません。戦争は回避されたでしょうか?されていません。テロの戦争は、いつ、どこで起こるか分かりません。これでは人は避けようがなくなり、完全に安心感を喪失しています。
我們生在這個時代,好不好?對念佛的人來講有好處,讓我們信心、願心格外的懇切。往生到極樂世界就安全了,那個地方沒有災難,沒有天災、沒有人禍。什麼原因?阿彌陀佛天天在講經教學,沒有一天空過。那個地方人跟我們這人不一樣,體質不相同,我們這個身體肉體是物質,它需要營養,天天要補充;極樂世界的人是法性體,不是這個物質現象,人是法性體,一切萬物也是法性體,法性體沒有生滅。我們這邊講法相,法相不一樣,阿耶的相分,阿耶的境界相剎那生滅,生滅不住,這是娑婆世界的現象,特別是娑婆世界十法界的現象、六道輪迴的現象。
私たちがこの時代に生まれたのは、良いことでしょうか?念仏する人にとっては良い所があります。私たちの信心、願う心を格別に懇切(こんせつ:強く願い求めること)にします。極楽世界に往生すれば安全です。そこに災難はありません。天災、人災はありません。何が原因なのでしょうか?阿弥陀仏が毎日講経(こうきょう:経を講じること)教学しているからです。一日も無駄に過ごしません。その場所の人は私たちとは違います。体質が違います。私たちの身体の肉体は物質です。それには栄養が必要で、毎日補充しなければなりません。極楽世界の人は法性体です。物質の現象ではありません。人は法性体です。一切万物は法性体です。法性体に生滅はありません。私たちのこの世間は法相です。法相は違います。阿頼耶識の相、阿頼耶識の境界相には刹那の生滅があり、消滅してとどまりません。これは娑婆世界、十法界の現象であり、六道輪廻の現象です。
極樂世界雖然也有三輩九品,但是全都是法性體,連凡聖同居土裡面往生的都是法性體。這是得到阿彌陀佛四十八願的加持。往生到那裡,同居土下下品往生,享受什麼待遇?最高的待遇,享受是法身菩薩的待遇,阿惟越致菩薩,法身菩薩,這個待遇高,幾乎跟阿彌陀佛差不多;換句話說,你的神通、你的智慧、你的道力幾乎跟阿彌陀佛是平等的。一生證得,一生成就,這是我們不能忘掉的。我們真正能接受,搞清楚、搞明白了,我相信生在這個環境裡面(現在的環境),你還是法喜充滿,你還是常生歡喜心。這就對了,這就是得到佛法現前真實的受用。
極楽世界には三輩九品がありますが、すべて法性体です。凡聖同居土に往生した人でさえすべて法性体です。これは阿弥陀仏四十八願の加持を得ているのです。そこに往生して、同居土の下下品(げげぼん)の往生であれば、どのような待遇を享受するでしょうか?最高の待遇です。享受するのは法身菩薩の待遇であり、阿惟越致菩薩、法身菩薩です。この待遇は高く、ほとんど阿弥陀仏と変わりません。言い換えれば、あなたの神通力、あなたの智慧、あなたの道力はほとんど阿弥陀仏と平等になります。一生で証得し、一生で成就します。これを私たちは忘れてはなりません。私たちは本当に受け入れ、明らかにし、理解することができます。今のこの環境に生まれながら、あなたは仏法の喜びに満ち溢れ(法喜充満)、常に歓喜心が生じることでしょう。これこそが仏法の現前における真実のご利益です。
所以淨宗教導我們信願持名,念佛往生是真的,信願是信解,持名是修行,往生就是證果。在末法時期,可以說唯有這一法是相似的正法,具足信解行證。如果教裡面具有信解行證的,就是佛在大乘經上講的正法。
ですから浄土宗は信、願、持名を教えています。念仏往生は真実です。「信」「願」は信じて理解すること。「持名」は修行です。往生はその証果です。末法の時期にあって、この一つの法だけが、相似の正法と言って良いでしょう。信、解、行、証がそろっています。もし教えの中に信、解、行、証があるなら、それは仏が大乗経の中で説かれている正法です。
黃念祖老居士晚年最後留下來的開示,是《淨修捷要報恩談》。《淨修捷要》,是他老師夏蓮公為我們現在大眾所編的早晚課誦本,簡明扼要,很難得。《報恩談》裡面的內容,把整個佛教全包括在裡頭,釋迦牟尼佛一生教學四十九年,大乘小乘、顯教密教、宗門教下,全在裡頭,等於是一部佛學概論,樣樣齊全,而且文字非常簡單,好!老人在晚年,將這個《淨修捷要》給我們做一個詳細的說明、講解,講解是很輕鬆愉快,不是升座講經的,是坐在他沙發上,手端著茶,跟大家有說有笑,非常活潑生動,像他聊天一樣。我們把它寫成文字本,因為他老人家說的是北京話,年歲大了,身體不太好,有時候說話我們聽不清楚,我找了很多人,找了在北京長住的人,能聽得懂他的話,也很難得,要聽幾十遍,有些語調比較輕、比較模糊,要聽一百多遍才把它聽清楚。這個本子出現在世間,無量功!人家問你什麼是佛教,你只學這一本東西就夠了,就能應付了,太難得了。我從頭到尾聽了好幾十遍,愈聽愈歡喜,感覺到是我們當前佛門裡頭第一本好書。
黄念祖居士が晩年、最後に残された開示は、『浄修捷要報恩談』です。『浄修捷要』は、彼の老師である夏蓮公が私たち現在の大衆の為に編纂された朝晩課の誦本(となえる本)です。簡潔明瞭で要領を得ており、得難いものです。『報恩談』の内容は、仏教のすべてが含まれています。釈迦牟尼仏が一生、四十九年教学された、大乗、小乗、顕教、密教、宗門、教下、すべてが含まれています。それは仏教学概論に等しく、何もかも揃っていて、しかも文章はとても簡単です。良いものです!黄老人は晩年、この『浄修捷要』において詳細な説明、解説をされています。解説は気楽で楽しいものです。高座に上がって講経(こうきょう:経を講じること)したのではなく、ソファーの上に座って、手にお茶を持ちながら皆と話したり笑ったり、非常に生き生きとしていて、まるで彼と世間話をしているかのようです。私たちはそれを活字の本にしました。ご老人の言葉は北京語で、ご高齢で、身体も良くなかったので、時にははっきりと聞こえません。私は北京に長く住んでいる人、話を聞き取れる人をたくさん探しました。得難いことです。何十回も聞かなければなりません。ある語気はとても弱く、とても曖昧で、百回以上聞いてようやく聞き取れました。この本を世に出したことは、無量の功徳です!仏教とは何かと人が尋ねるなら、あなたはこの一冊を学べば十分です。間に合わせることができます。とても得難いことです。私は最初から最後まで数十回も聞きましたが、聞けば聞くほど喜ばしくなり、さしあたり仏門の中では第一級の良書だと感じています。
有光碟的導讀,確實能夠接引許許多多眾生,特別是學佛的眾生選擇信願持名這個法門。這個法門保證你在一生當中成就而不空過,這真難得。如果我們學佛,在這一輩子當中具足信解行,後面一個不能往生,那就太可惜了,所以我們要把往生看得最重要。尤其老人,像我今年九十歲了,還能不放下嗎?不是世間事務放下了,世尊所傳的一切法門這個時候要放下了。「法門平等,無有高下」,但是學習,要重視「一門深入,長時修」。所以我在八十五歲的時候,回頭了,徹底回頭了。你看這麼多年來,經只讀一本《無量壽經》,只講這一本,只學習這一本,帶領著大眾,我們共同就是一部經書,一個法門,信願持名,絕不拐彎,絕不退轉,希望一生圓滿成就。
DVDの語りがあり、多くの衆生を導いています。特に仏法を学ぶ衆生に心願持名のこの(浄土)法門を選択させています。この法門はあなたを一生で成就させ、空しく過ごさせることはないことを保証します。これは本当に得難いことです。もし私たちが仏法を学び、この一生で信、解、行(信心、理解、修行)が具足しながら、往生できないなら、それはあまりにも残念なことです。ですから私たちは往生することを最も重要なことと見なしています。特にお年寄りは、―――私は今年で九十歳(数え年)になるのですが―――放下しないでいられるでしょうか?世間の仕事を放下するのではありません。世尊が伝えた一切の法門をこの時に放下しなければなりません。「法門は平等であり、優劣はない」(法門平等,無有高下)。しかし学習においては、「一門に深く入り、長期に渡って薫修(くんじゅ)する」(一門深入、長時修)【注1】を重視しなければなりません。ですから私は八十五歳の時に、改心しました。徹底して改心しました。ここ数年来、経は『無量寿経』だけを読み、この一冊だけを講じ、一冊だけを学び、大衆を指導しています。私たちは共に一つの経書、一つの法門を学び、信、願、持名して、決して脇道にそれることなく、退転することなく、一生で円満に成就することを願っています。
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【注1】 薫修(くんじゅ)・・・・香の薫りが衣服に染みつくように、修行に精進すること。
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依照這個簡單的功課,《淨修捷要》,個個人都能往生淨土。佛門弟子一定要把這樁事情看作我們這一生頭等的大事,其餘都不足為道,這才不辜負我們這一次到人間來作人。自己成就了,是真正的報父母恩、報祖宗恩,報佛恩,報國家恩,報眾生恩,四恩總報。如果繼續還搞六道輪迴,那真叫大錯特錯了。特別是年歲大的同學,六十歲以後,都要一心專念阿彌陀佛,時時刻刻不要中斷,對於佛學的這些知識可以不必再去深入;要想不忘記,能講個大概,多聽黃念老的《報恩談》,就夠了,這份材料就可以滿足你自行化他。
この『浄修捷要報恩談』の簡単な勤行に照らして行えば、どの人も皆浄土に往生することができます。仏門の弟子はこの事を一生で最も大事なことと見なさなければなりません。その他の事は道とするに足りません。それでこそ今回人間界に来て人になったことが無駄にならないというものです。自分を成就させることは、真に父母の恩に報い、先祖の恩に報い、仏の恩に報い、国家の恩に報い、衆生の恩に報いることなのです。四恩【注2】のすべてに報いることです。もしまた六道輪廻を続けるようなら、それは本当に大間違いです。特に年齢の高い方々、六十歳以降は、一心に阿弥陀仏(の名号)を専念しなければなりません。四六時中中断してはなりません。仏教学などの知識は更に深く学ぶ必要はありません。忘れないようにする、または概要を説くのであれば、黄念祖老人の『報恩談』をたくさん聞けば十分です。この教材はあなたの自行化他(じぎょうけた)【注3】を満足させてくれます。
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【注2】 四恩(しおん)・・・・人がこの世で受ける父母、衆生、国王、三宝の恩。
【注3】 自行化他(じぎょうけた)・・・・みずからのために仏道修行し、さらにその得たところをもって他を教化すること。(大辞泉)
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新的這一年要有新的建樹,無比殊勝的建樹無過於往生淨土!往生淨土所得到的是究竟圓滿,得生淨土才是真正圓滿的報恩。得到彌陀本願的加持,確實能夠幫助十法界眾生離苦得樂。願我們同修共同勉勵,共同警策,萬緣放下。連科學家都告訴我們,物質現象是假的,精神現象也不是真的,所以要徹底放下。要徹底放下,就是放下三界六道,決定要求自己在一生當中親證彌陀四土,極樂世界的同居土、方便土、實報土、常寂光淨土。深深明瞭中國聖人所說的,莊子講的,「天地與我同根,萬物與我一體」,這不是真正明心見性的人說不出來。莊子是什麼人?能說出這個話,他的境界跟釋迦牟尼佛平等,在中國稱聖人,如果是在印度的話,稱他作佛陀了。大乘經裡佛說「一切法從心想生」,惠能大師告訴我們「何期自性,能生萬法」,這都是跟佛陀同等的境界,明心見性,見性就成佛了,老子、莊子見性了,孔子、孟子也見性了,你細心去觀察,名稱不一樣,在印度人稱為佛、稱菩薩,中國人稱聖人、稱賢人,聖人就是佛,菩薩就是賢人,是一不是二。我們明白這個事實真相,你才真正肯放下。人為什麼不肯放下?沒搞清楚,把假的當作真的,真的當作假的,這顛倒了。這個樣子,一句佛號回歸淨土,做真正阿彌陀佛的弟子。祝福大家信願總持,解行相應,法喜充滿,這在新年我跟大家共同勉勵。
新しいこの一年には新しい功績がなければなりません。この上なく殊勝な功績は浄土に往生する以上のことはありません!浄土に往生して得られる所は究極の円満であり、浄土に生まれることこそが真に円満に恩に報いることなのです。弥陀の本願の加持を得て、間違いなく十法界の衆生が苦しみを離れて安らぎを得る(離苦得楽)のを助けることができるのです。門徒の方々が共に励まし合い、注意し合って、万縁を放下することを願います。科学者でさえ私たちに説いています。物質の現象は偽りです。精神の現象も本当ではありません。ですから徹底して放下しなければなりません。徹底して放下するとは、三界・六道を放下することです。必ずこの一生で弥陀の四土、極楽世界の凡聖同居土、方便有余土、常寂光浄土を自ら内証すると自分に要求することです。深く理解していた中国の聖人は説かれています。荘子は、「天地は我と同根、万物は我と一体なり」(天地與我同根,萬物與我一體)と説かれています。これは本当に明心見性した人でなければ話すことはできません。荘子はどのような人でしょうか?この話ができるのであれば、彼の境界(きょうがい:境地)は釈迦牟尼仏と平等です。中国では聖人と言います。インドであれば、その人を仏陀と言います。大乗経の中で仏は説かれています。「すべては心から生じる」。慧能(えのう)大師は私たちに説かれています。「何をか期せん、自性よく万法を生ずることを」(何期自性,能生萬法)【注4】。これは仏陀と同等の境界、明心見性です。見性すれば仏に成ります。老子、荘子は見性していました。孔子、孟子も見性していました。注意深く観察してみれば、名称が異なるだけです。インド人は仏と言い、菩薩と言いました。中国人は聖人と言い、賢人と言いました。聖人とは仏であり、菩薩とは賢人です。一つの事であり、二つの事ではありません。私たちはこの事実の真相が明らかになれば、ようやく本当に自ら放下します。人はなぜ放下しようとしないのでしょうか?不明瞭だからです。偽物を本当だと思い、本物を偽物だと思っているのです。これでは逆さまです。このようであっても、一句の仏号で浄土に回帰して、本当に阿弥陀仏の弟子になることができます。皆さんが信じ、願い、総持(そうじ:悪法を捨てて善法を持する)し、解行相応(理解と行いが相応する)して、法の歓びに満ち溢れますよう祝福いたします。この新年にあたり、皆さん共に励まし合って参りましょう。
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【注4】 慧能大師が大悟した際、自性について語った感嘆の言葉の一つ。
何期自性,能生万法
なんと自性は宇宙万物を生み出すことができるとは
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末後我們記住,這一生當中,不跟一切人對立,不跟一切事物對立,不跟一切人結怨。要曉得無量劫來,冤親債主,善惡報應,生生世世沒完沒了,這苦不堪言,那就是一念錯了,不知道自他不二。所以我特別用莊子這句話,我們來勉勵自己,「天地與我同根,萬物與我一體」。牙齒咬了舌頭,舌頭還能說報仇嗎?不會。為什麼?一體。毀謗我、陷害我、侮辱我,我都能原諒他,為什麼?一體,不是外人,真的是一體,一切眾生本來是佛,《華嚴經》上說的。我們用這種心態生活、處事待人接物,你說你多快樂。他跟我對立,我不跟他對立,他怨恨我,我喜歡他,學佛得學到家,這就到家了。
最後に、私たちは覚えておかなければなりません。この一生の中で、一切の人と対立せず、一切の事物と対立せず、一切の人と怨みの縁を結ばないことです。無量劫に渡り、恨みを持つ衆生がいて、善悪の報いがあり、生まれ変わり死に変わりして切りがないのです。この苦しみは言うに堪えません。それは正に一念の誤りであり、自他不二(自分と他人は一つであること)を知らないからなのです。ですから特に荘子のこの言葉をもって、私たちは自分を励まして参りましょう。「天地は我と同根、万物は我と一体なり」(天地與我同根,萬物與我一體)。歯で舌を噛んだら、舌は復讐しようとするでしょうか?できません。なぜでしょうか?一体だからです。誹謗され、陥れられ、侮辱されても、自分はすべてその人を許します。なぜでしょうか?一体だからです。外の人ではありません。本当に一体なのです。一切衆生本来是佛、これは『華厳経』に説かれていることです。私たちはこのような心の態度で生活し、人や物事に接すれば、どれだけ喜ばしいことでしょうか。人が自分と対立しても、自分はその人と対立しません。人が自分を恨んでいても、自分はその人を好みます。仏法を学んで通じるとは、これこそが通じているということです。
所以這一句聖號,什麼情結全都化解了,持名功不可思議。末後兩句老話,做我們的總結:「諸惡莫作,歲歲平安;眾善奉行,年年如意」。這千百年來,老祖宗世世代代傳給我們,我們要記在心上,諸惡莫作,眾善奉行。祝福大家新年快樂,法喜充滿。謝謝大家。
ですからこの一句の聖号は、どのような深層意識もすべて解消します。持名の功徳は不可思議です。最後に昔ながらの言葉で、総括と致します。
諸悪莫作 悪い行いをしなければ
歳歳平安 ますます平安になり
衆善奉行 善い行いをすれば
年年如意 年々思い通りになる
この数千年来、ご先祖様が子々孫々私たちに伝えてきたことを、私たちは心に刻まなければなりません。悪い行いをせず、善い行いをすることです(諸惡莫作,衆善奉行)。新年明けましておめでとうございます。皆さまが法の喜びに満ち溢れますよう祝福いたします。ありがとうございました。
四維
傳統文化裡五倫五常是根,四維八是從五倫五常衍生出來的。五倫是道,五常是。四維是禮、義、廉、恥,是性的目,管仲說這四個字是「國之四維」,是國家的四根支柱。「四維不張,國乃滅亡」,房子沒有四根柱子支撐一定會倒塌,如果一個國家的國民不知道禮,不知道義,不知道廉,不知道恥,這個國家就很危險,離滅亡也就不遠了。
伝統文化の中の五倫・五常【注1】は根であり、四維・八徳は五倫・五常から派生したものです。五倫は道、五常は徳です。四維は礼、義、廉、恥であり、性徳【注2】の徳目です。管仲【注3】が説いたこの四字は「国之四維」であり、国家の四本の支柱です。「四維張らざれば、国乃ち滅亡す」(四維不張,国乃滅亡)。家に四本の支柱がなければ、必ず倒壊します。もし一国の国民が礼を知らず、義を知らず、廉を知らず、恥を知らなければ、その国家は危険です。滅亡までそう遠くはありません。
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【注1】 五倫・・・・人間関係における五つの綱領。
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/b7f30775ee46f9683691ce9da2a761c4
五常・・・・仁、義、礼、智、信。人が修めるべき五つの徳目。
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/daeed54678d44baaefee80e87d83612a
【注2】 性徳(しょうとく)・・・・衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
【注3】 管仲(かんちゅう/前?-前645)・・・・春秋時代の政治家。鮑叔牙(ほうしゅくが)の推挙で桓公の宰相となる。敬称は管子(かんし)。
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現在的世界是亂世,地球的災變很多,這不外乎是人心的感應,如果我們能知恥知錯,把禮、義、廉、恥、孝、悌、忠、信、仁愛、和平,這些目都找回來,發憤勇猛精進改過,社會就能安定,地球災難就能化解,所以倫理道對現在的大眾太重要了!
今の世界は乱世です。地球の天変地異がたくさん起こっています。これは人心の感応に他なりません。もし私たちが恥を知り、誤りを知り、礼、義、廉、恥、孝、悌、忠、信、仁愛、和平、これらの徳目をすべて取り戻し、発奮し、勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)して悔い改めるのであれば、社会を安定させ、地球の災難を解消することができます。ですから倫理道徳は今の大衆にとって非常に重要です!
礼
禮是什麼?「禮」是約束身體行為的標準。一舉一動,一言一笑要合禮。佛門講「不犯威儀」,威儀就是禮貌、禮節,處事待人接物有分寸就是明禮。孔子說:「不知禮無以立。」在過去的社會,如果不懂禮就無法立足,中國自古以來被稱為禮義之邦,就是因為人人都知禮守禮。
礼とは何でしょうか?礼は身体の行為を制約する基準です。一挙一動、一言一笑が礼に適っていなければなりません。仏門では、「威儀を犯さず」と言われます。威儀とは礼儀、礼節のことです。事に対処し、人と接するのに尺度があること、礼を明らかにすることです。孔子は、「礼を知らざれば、以て立つこと無きなり」と言っています。昔の社会では、礼を知らなければ(社会生活で)自立することはできません。中国は古来より「礼義の邦」と言われていました。それは誰もが礼を知り、礼を守っていたからです。
我們跟人往來,不管是第一次見面,或者是老朋友,都要準備一點禮物。一定要懂得跟我往來的人,他是什麼樣的身份、地位,跟我什麼樣的關係,我應該送什麼樣的禮物,都有講究。懂禮、守禮、持戒的人,哪個不歡喜?所以要有智慧省察時節因緣,該行什麼樣的禮節。這都是我們要學習的。
私たちは人との往来は、初対面か古い友人かに関わらず、少し贈り物を準備します。必ず自分と交わる人の身分や地位、自分との関係を理解しなければなりません。自分はどのような贈り物をすべきか、すべて気配りがあります。礼を理解し、礼を守り、持戒する人であれば、気に入らない人がいるでしょうか?ですから智慧をもって時節の因縁を省察(せいさつ)し、どのような礼節を行うべきか。これはすべて学んでおかなければなりません。
早年我在台中跟李老師求學,請李老師給我們講《禮記》。儒家有《周禮》、《儀禮》,《周禮》是國家的典章制度,像現在的憲法,國家的法律規章;《儀禮》是生活的儀規,處事待人接物應當要遵守的禮節。而《禮記》是雜記,如現代的雜誌,有許多是解釋《周禮》跟《儀禮》的文章,說明這些禮節的理論依據,為什麼要制訂,在生活當中應當如何來學習。古時候稱之為三禮。
昔私は台中で李老師【注4】に学んでいて、李老師に『礼記』を講じて欲しいとお願いしました。儒家には『周礼』、『儀礼』があります。『周礼』は国家の法令制度です。今の憲法のようなものです。国家の法律です。『儀礼』は生活の規範です。事に対処し、人と接するには礼節を遵守しなければなりません。『礼記』は雑記であり、現代の雑誌のようなもので、多くは『周礼』と『儀礼』の文章の解釈です。それらの礼節の理論の根拠や、なぜ制定しなければならないのか、生活の中でどのように学ぶべきかを説明しています。昔はこれを三礼と言いました。
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【注4】 李炳南老師(1889-1986)・・・・山東省済南の人。下記。
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《禮記》是很長的一部典籍,李老師選講的是《曲禮》,《曲禮》是生活教育。第一天開講時,老師就說:「儒家的禮、佛家的戒,現在是最不受人歡迎的。」他說:「我們講這個做什麼?希望大家將來與一切人交往,不要讓人討厭,我們這個課的目的就達到了。」這個話說得很有道理,一個人要做到跟一切人接觸時,別人不討厭你,歡喜你,你做人就成功了。
『礼記』はとても長い典籍です。李老師が選んで講じて下さったのは『曲礼』です。『曲礼』は生活教育です。一日目、講義を始める際、老師は「儒家の礼、仏家の戒は、今最も歓迎されないものです」と仰いました。老師は言いました。「私たちはこれを講義してどうするのでしょうか?皆さんが将来どのような人と交流しても人に嫌われないなら、私たちのこの講義の目的は達成されたということです」。このお話はとても道理があります。人は一切の人と接触して、他人に嫌われることなく、好かれるようなら、あなたの人としての身の処し方は成功なのです。
如果你做人處處讓別人討厭,你自己一定要檢點、要反省,要把這個因素找出來,消除這個因素,然後就能得到大眾的歡迎,這在佛家叫「懺悔」,儒家叫「改過」,改過跟懺悔在儒、佛是回歸自性的重要修行手段。
もしどこに行っても人から嫌われるようなら、あなたは自分で必ず検討し、反省しなければなりません。その要素を探し出して、それを無くさなければなりません。そうすれば大衆から歓迎されるでしょう。これを仏家では「懺悔」(さんげ:罪悪を人に告白して改めること)と言い、儒家では「改過」(かいか:過ちを悔い改めること)と言います。改過と懺悔は、儒家・仏家においては自性(じしょう)【注5】に回帰する重要な修行の手段です。
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【注5】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)、真心のこと。本来具えている性質。
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李老師編了本《常禮舉要》,那是禮的最低限度。我們每個同修都應該發一本,好好學習。懂禮,在社會上,無論在中國外國,不會被人討厭。我們沒有希望別人歡喜、讚歎我們的念頭,只求跟大眾相處,別人不嫌棄我。
李老師は『常礼挙要』という本を編纂されました。それは礼の最低限度です。私たちはどの学生にも一冊配って、しっかりと学習すべきです。礼を理解していれば、社会において、中国・外国に関わらず、人から嫌われることはありません。他人に喜ばれたり、称賛されることを望むのではなく、ただ人々と接して、人から嫌がられないということです。
李老師開宗明義,第一堂課就把這個目的說出來。有禮才有往來,禮是有節度的,換言之,禮是社會的秩序、規矩,今天的法律也包括在這裡面,它的範圍非常廣大,人人能守規矩、守禮、守法,大家就可以和睦相處。譬如人與人相見,相見有禮,最恭敬的禮是三鞠躬。
李老師は冒頭で主旨を明らかにされました。最初の講義で目的を話されました。礼があってこそ交流があるのです。礼には節度があります。言い換えれば、礼は社会の秩序、規則です。今日の法律もこの中に含まれます。その範囲は非常に広大で、各人が規則を守り、礼を守り、法を守れば、誰もが仲良くすることができます。例えば、人と人とが顔を合わせます。顔を合わせれば礼があり、最も敬った礼は三度お辞儀をすることです。
我們是現代人,要學現代的禮。學佛的人,我們只有對佛像才行跪拜禮;對人,從我們不提倡行跪拜禮,合掌三問訊是最敬的禮。佛法要現代化、本土化,大家要真幹。走上現代化、本土化,佛法才容易推廣,大家都願意入佛門來學佛法。有很多人看到學佛的人見到法師都要跪拜,他不學了。你看,這就是我們對禮的把握不能恰到好處,把許許多多人擋在佛門之外!如果是合掌三問訊,他說「這個我也可以」,你就帶許多人入佛門了。
私たちは現代人ですから、現代の礼を学ばなければなりません。仏法を学ぶ人は、仏像に対してのみ跪いて礼拝します。人に対して跪いて礼拝することは、私たちから提唱しません。合掌三拝が最敬礼です。仏法は現代化、本土化してこそ、皆が本当に行うようになるのです。現代化、本土化してこそ、仏法を広めやすくなり、人々が仏門で仏法を学びに来たくなるのです。多くの人は、仏法を学ぶ人が法師に跪いて礼拝するのを見て、学びたくなくなります。これこそ私たちが適切な礼を把握していないということで、多くの人を仏門の外で遮っているのです!もし合掌三拝であれば、人も「これなら自分にもできる」と思い、多くの人を仏門に連れて来られます。
所以禮不能不到,也不能過分,要恰到好處。如果超過節度,就是諂媚巴結,也不合禮;如果不及,顯得自己傲慢,所以一定要符合節度。我們現在跟一切善友往來,我們要行什麼禮?如果是出家的大,用「頂禮雙足」是可以的。但老和尚一定跟你說「一拜」,老和尚叫你一拜你就一拜,你如果拜兩拜就顯得巴結了,就不合禮。老和尚不說「一拜」,你也拜一拜,這是合禮的,為什麼?我們只有拜佛像才三拜,拜人只一拜。
ですから礼は至らなくてもいけないし、度を越してもいけません。ちょうど良くなければなりません。節度を超えれば、それはご機嫌取りになり、礼に適いません。及ばなければ、自分が傲慢であるかのように見られます。ですから必ず節度に適わなければなりません。私たちは今一切の善友と往来するのに、どのような礼を行っているでしょうか?もし出家の大徳であれば、頂礼双足(ちょうらいそうそく:頭を地につけて両足を礼拝すること)を用いても良いです。しかし老和尚は必ずあなたに「一拝で」と言うでしょう。老和尚が一拝と言うなら、あなたは一拝します。もし二拝すれば、ご機嫌取りのようになり礼に適いません。老和尚が「一拝で」と言わなくても、一拝すれば礼に適います。なぜでしょう?私たちは仏像にだけ三拝しています。人に拝するのは一拝だけです。
行接足禮也要看在什麼處所、在什麼時間,一定要觀察清楚。譬如老和尚在吃飯,這時決定不拜;他在休息、睡覺也不拜;他在忙事務的時候,不拜。有時節因緣的,錯了都是失禮。不在佛門的其他的場合,見到老和尚,只問訊,不拜。絕對不要以為這是對老和尚不尊重,否則你就錯了。可見得「懂禮」這兩個字相當不容易!
接足礼(せっそくらい)を行うのも、どのような場所なのか、どのような時間なのかを見て、必ず見極めなければなりません。例えば、老和尚が食事をしているなら、その時には絶対に拝しません。休憩されている時、眠っている時も拝しません。忙しくされている時も拝しません。時節の因縁があり、誤れば失礼になります。仏門ではない他の場面では、老和尚に会っても挨拶だけして、拝しません。これでは老和尚を尊重していないなどと、絶対に思ってはなりません。さもなくばあなたは誤ります。このことから、礼を解することは相当に容易ではないことが分かります!
現代社會,包括我們自己,與一切大眾往來的時候,常常把禮節疏忽了,殊不知禮節是性的自然流露。民國初年,有不少人寫文章批評禮對人的約束太多了,比不上西方人的自由開放,對於西方的文化非常慕,認為禮教是吃人的,所以極力廢除禮教、打倒禮教、揚棄禮教,果然禮教被社會大眾遺棄了。遺棄的結果怎麼樣?現在社會狀況我們見到了,大亂之世,人沒有禮。我們讀到經典上這些禮節,非常感慨。雖然這個世間不講禮了,可是我們以禮對人,人家都歡喜。由此可知,好禮是天性,絕對不是孔子、孟子想出來的一套辦法,它是從自性流露出來的,自性本具的行。
現代社会では、私たち自身を含めて、一切大衆と往来する時、往々にして礼節が疎かになるものです。礼節は性徳(しょうとく)が自然に流露したものであることを知りません。民国初年(1912年)、多くの人が、礼は人に対する束縛が多過ぎると文章で批判しました。自由で開放的な西洋人には及ばないと、西洋の文化を非常に羨みました。礼教は人を食うものとして、極力礼教を排除し、打倒し、放棄しようとしました。案の定、礼教は社会の大衆に捨てられました。捨てられた結果どうなったでしょうか?現在の社会状況を私たちは見ています。大乱の世です。人に礼がありません。私たちは経典の中の礼節を読むと、非常に感慨を覚えます。たとえこの世間が礼を重んじなくても、私たちが礼をもって人に接すれば、人は喜びます。ここからも、良い礼は天性だということが分かります。絶対に孔子や孟子が考え出した方法ではありません。それは自性(じしょう)から流露したものであり、自性が本来具えている徳行なのです。
「性」到底在哪裡?從禮上顯示出來。在佛家,從戒上顯示出來。禮與戒都不是聖賢們制定的,而是古聖先賢心行自然的流露。所以明心見性的人,對人、對事、對物,自然具足禮貌。如果對人、對事沒有禮貌,這個人是凡夫,沒有見性,聖人哪有對人無禮的道理!這是我們要明瞭、要學習的。我們凡夫,念念希望超凡入聖,無禮就是將自己的本性迷失了,所以表現在外面就與禮法相違背了。
「性徳」はどこにあるのでしょうか?礼において現れます。仏家では戒において現れます。礼と戒とは聖賢たちが制定したものではありません。古の聖賢の心行に、自然に流露したものです。ですから明心見性した人は、人に対して、物事に対して、自然に礼節を具えています。人や物事に対する礼節がないなら、その人は凡夫です。見性していません。聖人が人に対して無礼だという道理がどこにあるのでしょうか!これは私たちがはっきりさせ、学ぶべきことです。私たち凡夫は、凡夫を超越して聖人の境涯に入ることを願いますが、無礼であれば自己の本性を見失っています。だから礼法に反することが外に現れるのです。
人與人相往來第一個就要懂得禮,人跟人才能和睦相處,才能化解衝突,才能達到社會安定,世界和平。你要問從哪裡做起?從知禮、守禮、行禮做起。禮節最基本的是《弟子規》。《弟子規》是最基本的禮教,《感應篇》是最基本的因果教育,在佛法是《十善業道經》。《十善業道經》在行持上跟《弟子規》、《感應篇》差不多。禮的精神是恭敬,對人事物平等的恭敬心,用恭敬心落實在穿衣吃飯、待人接物的日常生活當中,這是真正有用的學問,是每個人必須要學習的。
人と人との往来は、第一に礼を知らなければなりません。それでこそ人と人とがお互いに仲良くなり、衝突を解消でき、社会の安定と世界の平和に到達するのです。どこから始めれば良いのでしょうか?礼を知り、礼を守り、礼を行うことから始めます。礼節で最も基本的なものは『弟子規』【注6】です。『弟子規』は最も基本的な礼教です。『太上感応篇』は最も基本的な因果教育です。仏法では『十善業道経』です。『十善業道経』は行持においては『弟子規』、『太上感応篇』とほぼ同じです。礼の精神は恭敬(きょうけい)です。人や物事に対する平等な恭敬心です。人と接する日常生活の中で、恭敬心を用いて過ごします。これは本当に有用な学問であり、各人が必ず学ばなければならないことです。
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【注6】 『弟子規』(でしき)・・・・儒家の生活規範をまとめたもの。
『弟子規』日本語訳:
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/c/a722958c71e3a93383e029ee8a788c84
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義
仁義是儒家的核心,孔子代表仁,孟子代表義。義是什麼?無論是為自己,或者是為別人,思想言行合情合理合法,不違背道理這叫義。義者循理,遵循正理,遵循大自然的規則。「義」是義務,是要盡義務,決不講報酬,也不接受權力。幫助別人,為社會大眾服務,不求報償,這叫做義務。如果做多少事情,需要多少報酬,這就不是義而是禮,禮尚往來,送禮是要回報、回禮的,義務是不要人家回報。
仁義は儒家の核心です。孔子は仁に代表され、孟子は義に代表されます。義とは何でしょうか?自分の為であろうと他人の為であろうと、考えや、言葉、行為が情に適い、理に適い、法に適って、道理に背かないことを義と言います。「義者は理に循(したが)ふ」。正しい道理に従い、大自然の規則に従います。「義」とは義務であり、義務を果たすことです。絶対に報酬を求めません。また権力を受け入れません。他人を助け、社会の大衆のために奉仕して、報償を求めません。これが義務というものです。もし何かをして相応の報酬が要るなら、それは義ではなく、礼です。礼は往来を重んじて、贈り物にはお返しをします。返礼します。義務は人からの報酬は要りません。
現在講做義工,義工就是不要報酬,義務為社會、為國家、為一切眾生服務,這就是我們講的道義。在社會上以什麼身份、什麼地位跟一切人往來,我們就有什麼樣的義務。哪些事情是應該做的?幫助眾生的事情是應該做的。現在幫助眾生的事很多,在眾多項目中,要看我們處在什麼樣的地位、什麼樣的身份。或者是用財力,或者是用勞力,或者是用智慧,或者三個都用,盡心盡力、全心全意地為一切苦難眾生工作,幫助他解除苦難,幫助他離苦得樂。不要去計較報酬,也不要去計較工作環境,這就是義。情理法面面都照顧到,這才圓滿。
今はボランティアと言いますが、ボランティアには報酬は要りません。社会の為、国家の為、一切衆生の為の奉仕です。これが私たちが講じている道義です。社会のどのような身分、どのような地位の人と交わるかによって、私たちには相応の義務があります。どのような事をすべきでしょうか?衆生を助けることは、当然すべきことです。今、衆生を助けることはたくさんあります。多くの項目の中で、私たちはどのような地位、どのような身分の人に対処するのかを見なければなりません。或いは財力を用い、或いは労力を用い、或いは智慧を用い、或いは三つすべてを用いて、全力を尽くし、全身全霊で一切の苦難の衆生の為に働きます。人の苦難を取り除く助けをします。人が苦しみを離れて安らぎを得る助けをします。報酬の勘定をしてはなりません。また仕事の環境にこだわってはなりません。これこそが義です。情、理、法、どの面にも配慮してこそ円満になります。
現在的公司行號,上有老闆、下有員工。老闆是領導,員工是被領導,公司不是親情的組織團體,因此必須要靠道義來集合才行。把父子有親的這種愛表現在上級跟下級的關係之中,這是義。彼此互相憐愛,互相包容,互相關懷,互相照顧,互助合作,共存共榮。
今の会社や商店には、上には経営者がいて、下には社員がいます。経営者は指導し、社員は指導されます。会社は親しい人の組織集団ではないので、必ず道義によって集まるのでなければなりません。「父子に親あり」(親子の親愛)というような愛を上司と部下の関係の中で表現します。これが義です。お互いに愛し合い、包容し合い、配慮し合い、助け合い、協力し合って、共存共栄します。
團體的人一定要尊重團體、愛團體,決定不能夠毀謗團體、傷害團體,這就是有道義。現在有一些公司不懂得這個道理,公司集合依的是利害。利害的集合不容易維持,一旦利害出了狀況,公司馬上就破產。現在的員工,如果遇到老闆經濟有了困難,周轉不靈,一個月、兩個月沒有發工資,員工馬上就要包圍工廠、包圍老闆,公司馬上就垮掉了。
組織集団の人は必ず団結を尊重し、団結を愛し、絶対に団結を誹謗したり、傷つけてはなりません。これが道義があるということです。今はこの道理を知らない会社があります。会社の集まりが利害に頼っています。利害の集まりでは、維持するのは容易ではありません。一たび利害に問題が生じれば、会社はすぐに破産します。今の社員は、経営者が経営困難になり、立ち行かなくなり、一ヶ月、二ヶ月給料が止まると、すぐに工場を包囲し、経営者を包囲します。会社はすぐに倒産します。
日本人的工商業得到西方人尊重,他們公司上下團結,他們有抗議不罷工。如果員工對老闆不滿,在頭上紮一個白帶子,照常工作,老闆一看到員工有很多頭上紮布條了,馬上開會解決,彼此非常尊重,這就是有義。罷工,道義就沒有了,沒有相憐,都是互相對立,利害衝突。我們要明白這個道理,我們起心動念、言語造作,都能守住重義輕利的原則,就是能盡義務的現代聖賢君子,這樣就能有義且有利,否則有利未必有義。
日本人の商工業は西洋人の尊重を得ています。彼らの会社は上司と部下が団結して、抗議はあってもストは起こしません。社員が経営者に不満であれば、頭に白い鉢巻きをして、通常通りの業務をします。経営者は社員が頭に鉢巻きをしているのを見ると、すぐに会議を開いて解決します。相互に非常に尊重しています。これは義があるということです。ストを起こせば、道義はなくなります。お互いの憐みがありません。相互に対立します。利害の衝突です。この道理を明らかにして、心の使い方、言葉や行為、すべて「義を重んじて利を軽んず」の原則を守ることができれば、それは義務を果たす現代の聖人君子です。このようであれば義がある上に、利も得ることができるでしょう。そうでなければ利を得たとしても、義があるとは限りません。
經典裡稱諸佛菩薩是大,他們知道盡義務,做最好的樣子給我們看。自己生活需要非常簡單,三衣一缽,過最簡單的生活,對社會卻作最圓滿的貢獻,他們是義務教育工作者。不求報酬,不求果報,這樣才值得社會大眾尊敬,才成為社會大眾的好榜樣。無論釋迦牟尼佛,還是孔子,他們對社會、對眾生、對現前、對後代都盡了義務。
経典の中に言われる諸仏菩薩は大徳です。彼らは義務を果たすことを知っていて、最高の手本を見せてくれます。自分の生活は簡素にして、三衣一鉢、最も簡素な生活をして、社会に最も円満な貢献をします。彼らは奉仕教育の仕事をする人です。報酬を求めません。果報を求めません。それでこそ社会の大衆に尊敬される価値があり、大衆の良い手本となれるのです。釈迦牟尼仏であろうと孔子であろうと、彼らは社会に対して、衆生に対して、目の前の事に対して、後世の人に対して義務を果たしたのです。
釋迦牟尼佛是多元文化社會教育義務工作者。孔子也是這樣的示現。我們今天發願學釋迦牟尼佛、學孔子,就要像佛、像孔子一樣,在這一生當中,在社會大舞臺上,好好的表演,把佛法的三福六和、四攝六度、十大願王表演出來,把儒家的倫理道表演出來。能把這台戲唱好,我們就是真正儒、佛的弟子,是真正儒、佛的傳人。
釈迦牟尼仏は多元文化の社会教育の奉仕活動家です。孔子もそのような示現です。私たちは今日釈迦牟尼仏に学び、孔子に学ぶことを発願して、仏や孔子と同じように、この一生で社会の大舞台でしっかりと演じなければなりません。仏法の三福、六和、四摂、六度、十大願王を演じ、儒家の倫理道徳を演じなければなりません。この芝居を好演できれば、私たちは真の儒家・仏家の弟子であり、真の儒家・仏家の継承者です。
經不是念的、不是講的,是要去做的。做起來不認真努力,當然就與自己的煩惱習氣產生衝突。所以,化解衝突,從哪裡做起?從化解我們內心衝突做起。我們的煩惱習氣肯定跟儒佛的教誨產生衝突,怎麼樣把自己的衝突化解,這就叫功夫。
経は念じるものではなく、講じるものでもなく、行うものです。行って真剣に努力しなければ、当然自分の煩悩の習気(じっけ)と衝突します。衝突を解消するには、どこから始めれば良いでしょうか?私たちの心の中の衝突を解消することから始めます。私たちの煩悩の習気は必ず儒家や仏家の教誨と衝突します。如何にして自分の衝突を解消するか、それが技量というものです。
修行的功夫,一定要做得徹底,真正捨棄自己的煩惱習氣,完全隨順孔孟的教誨。孔孟教誨的書就是劇本,我們上臺表演,要依劇本,不能愛怎麼表演就怎麼表演,那就不成體統了。按照佛經來表演,那你就是佛菩薩;按照儒書來表演,那你就是孔孟;這就是真正的道義!
修行の技量は、必ず徹底しなければなりません。本当に自分の煩悩の習気を捨て、完全に孔孟の教誨に従うことです。孔孟の教誨の書は正に脚本です。私たちが舞台に上がって演じるには、脚本に依拠しなければなりません。演じたいように勝手に演じることはできません。それでは体裁を成しません。仏経に照らして演じれば、あなたは仏菩薩です。儒家の書に照らして演じれば、あなたは孔孟です。これこそが真の道義です!
<注>
李炳南老師(1889-1986)・・・・山東省済南の人。名を艶、字を炳南、号を雪庐という。衍聖公孔奉祀官府の秘書長。最初に唯識を梅光羲に学び、禅宗・浄宗・密宗などを学んだ。後に印光大師に帰依して浄土宗を修めた。その他に中医(漢方医学)にも精通していた。抗日戦争期間は、孔徳成について重慶に行き、太虚大師の布教活動を補佐した。その後住居を台中に定めた。孔奉祀官府に勤めた他、中国医薬学院、中興大学教授を兼任し、余暇は仏法の普及に尽力した。台中にて経典の説法を数十年に渡って行い、“李老師”の名は台湾仏教界で著名であった。台中仏教蓮社、菩提樹雑誌社、慈光図書館、菩提医院、菩提救済院など布教活動を行いつつ慈善機関を設立した。(百度より抜粋して翻訳)
>>>四維 2/2 につづく・・・。
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c32704e2c242b66135eb1e581d8c8ca8
廉
廉是什麼?廉是廉潔。不取分外之財,不占別人一點便宜,廉潔就是不貪污。中國從漢朝以來,兩千多年中國帝王選拔官員就這兩個條件——孝、廉,叫「舉孝廉」。如果政黨吸收黨員用這兩個條件做第一標準,不孝順父母、不廉潔的人不讓他參加政黨,這個政黨就是最優秀的。
廉とは何でしょうか?廉とは廉潔(れんけつ:清廉潔白)です。本分以外の財を取らず、他人の甘い汁を吸いません。廉潔とは汚職をしないことです。中国は漢朝以来二千年余り、帝王が官吏を選抜する二つの条件は、孝、廉【注7】です。「挙孝廉」と言います。もし政党が党員を集めるのにこの二つの条件を第一の基準にして、親不孝者や、廉潔でない人を政党に参加させなければ、その政党は最も優秀です。
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【注7】 孝廉(こうれん)・・・・親孝行(孝)で清廉潔白(廉)であること。官吏として推挙する基準とされた。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BB%89
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廉潔從哪裡表現?知道節儉就是廉潔美在生活中的落實。日常生活中,我們要守本分,一飲一啄,決不浪費。我們過一般社會最低的生活水準,遠離奢華;要常常想到世界上,還有許許多多的人在饑餓的邊緣,他們沒有食物吃,沒有衣服穿,沒有房子住。我們喝一杯水,吃一碗飯,有沒有想到他們?世界上每年還有很多人餓死,所以要珍惜這個緣分,拓開心量,常常想到這些苦難的眾生,要盡心盡力去幫助他們。出家人有多餘的供養,應當用來照顧社會苦難眾生,不能只顧自己享受!粗茶淡飯足以維持這個身體,只要我們身心清淨,體力自然充沛。
廉潔はどこに現れるでしょうか?節約を理解すること、それが廉潔の美徳を生活で実践することです。日常生活の中で、私たちは本分を守り、少しの飲食でも決して浪費しません。私たちは一般社会の最も低い生活基準で過ごし、贅沢から遠ざかります。この世界にはまだまだ多くの人が飢餓の瀬戸際にあるということを、常に思わなければなりません。彼らには食べる物がありません。着る服がありません。住む家がありません。私たちは一杯の水を飲み、一膳のご飯を食べる時、彼らの事を思うでしょうか?世界には毎年多くの人が餓死しています。ですからこの縁を大切にして、心を開いて、いつも苦難の衆生を思い、力を尽くして彼らを助けなければなりません。出家の人は、余った供養は社会の苦難の衆生を助ける為に用いるべきです。自分が享受する為だけではいけません。この身体を維持するには質素な食事で十分です。私たちは心が清浄でありさえすれば、体力は自然に満ちて来ます。
如果我們的修不能夠與日長,恐怕物質供養的享受消化不了,消化不了就要生病。你吃東西不消化,怎麼能不生病?病的後面就是死亡,死亡的後面三途六道,非常可怕!何況出家人,「施主一粒米,大如須彌山,今生不了道,披毛戴角還」,往生西方極樂世界,才叫做了道,如果在這一生不能往生,我們欠施主的債務,到哪一輩子才能還得清?
私たちは徳を修め、日一日と高めていなければ、おそらく物質的な享受を消化できないでしょう。消化できなければ病気になります。食べたものを消化しなければ、病気にならないことがあるでしょうか?病気の後は死です。死んだ後は三途、六道です。恐ろしい事です!ましてや出家の人は、「施主(せしゅ)一粒の米、大なること須弥山(しゅみせん)の如し。今生了道せざれば、披毛戴角(ひもうたいかく)して還すべし」(一粒の米の施しは、須弥山のように大きく貴いものであり、今生で悟りを得られなければ、来世では家畜となってそのご恩に報いなければならない)と言われます。西方極楽世界に往生してこそ、了道(りょうどう:道を明らかにする)と言えるのであり、この一生で往生できないなら、私たちは施主からの借りを、どの一生になれば清算できるのでしょうか?
所以,常住物品要懂得節省。一張衛生紙都不能夠隨意丟棄,用了還可以再用,用到不能用了,才丟掉。物力艱難,來之不易。我用一張衛生紙,絕對不是用一次就丟掉,一次用一半,把它疊起來裝在口袋裡,那一半還可以用,我用到不能用才丟棄。決不是說,這一張衛生紙拿來擦個臉就丟掉,浪費!過份!這是舉一個小小的例子,我們決定不能夠貪圖享受。
ですから日用品は節約を心掛けなければなりません。一枚のティッシュペーパーも無駄にせず、使えればまた使い、使えなくなったら捨てます。物に困れば、得るのは容易ではありません。私は一枚のティッシュペーパーを使うのも、絶対に一回では捨てません。一回で半分使い、折りたたんでポケットに入れておきます。その半分はまた使えます。私は使えなくなるまで使ってから捨てます。一枚のティッシュペーパーで、顔を拭いて捨てることは絶対にしません。浪費です!贅沢です!これは些細な例を挙げたに過ぎません。私たちは絶対に欲張って享受してはなりません。
釋迦牟尼佛一生沒化過緣,沒有募捐過。建道場錢從哪裡來?自自然然來的。如果化緣募捐,錯了。有一些護法檀越主動要求:「法師,我們給你建個小道場。」那我們也是量力而為,看到他們有這個力量,沒有加他的負擔,我們可以點頭。如果他的力量不夠,布施供養加他的困難,不能接受!
釈迦牟尼仏は一生化縁(けえん:衆生教化の機縁)を求めたり、募金をしたことはありません。道場を建てるお金はどこから来たのでしょうか?自然に集まったのです。化縁や募金をするのは間違いです。護法の檀家が主体的に、「法師、私たちが小さな道場を建てましょう」と要求するなら、私たちも出来るだけの事はします。彼らにその力があり、負担が増えないようなら、私たちは同意します。その人に力がなければ、布施や供養はその人の困難を増やすので、受け入れることはできません!
我在台中求學十年,不會讓台中人對我有一分錢的供養,我所奉行的「於人無爭,於世無求」。我生活來源從哪裡來?甘老太太在臺北的同參道友十五個人,每一個人一個月供養十塊錢,她每一個月給我寄一百五十塊錢,我的生活夠用了。我在這個地方不用大家供養,大家對我有信心。這些做人做事、弘法利生的原則,一定要懂。當地人的供養,一定歸還給當地。
私は台中で十年求学して、台中の人には一分のお金も供養させていません。私の行いは「人と争うこと無く、世に求むること無し」です。私の生活費はどこから来たのでしょうか?甘おばさんや台北の道友十五人が、一ヶ月にそれぞれ十元供養して下さり、毎月百五十元を送って下さったのです。私の生活はそれで足ります。皆さんに私に対する信心があっても、私はここで皆さんの供養は要りません。これらの人としての行い、弘法利生の原則は、必ず理解しなければなりません。現地の方の供養は、必ず現地に返します。
我在台中,也有同修供養,我都供養慈光圖書館、供養台中蓮社,我一文不取。只有給我買的衣服,這個可以接受。到一個地方,如果拉信徒、接受皈依、收紅包,這是給人很不好的印象,我們自己覺得難為情,怎麼能做這種事情?
私は台中では、門徒の方の供養もあります。私はすべて慈光図書館や台中蓮社に供養して、一文も取りません。ただ私に買って下さった服は受け取ります。ある地方に行って、もし信徒を引き抜いたり、帰依を受けたり、謝礼を受け取れば、人に悪い印象を与え、私たち自身申し訳なく思います。どうしてそのような事ができるでしょうか?
生活清苦一點好,心裡頭沒有貪瞋痴慢,心裡頭沒有病毒,對外面的感染我們有抵抗力。現在醫生講免疫的能力,免疫能力是什麼?沒有貪瞋痴慢,沒有自私自利,身心健康!年歲雖然大了,還一樣有體力、有精神辦事。
生活は少し清貧で良いのです。心の中に貪瞋痴慢の病がなければ、外からの感染に対する抵抗力が生まれます。今の医者は免疫力と言います。免疫力とは何でしょうか?貪瞋痴慢がないことです。私利私欲がないことです。身心は健康になります!年をとっても、まだ体力があり、働く元気があります。
佛法在行不在說,真正做到了,那就真正在教化眾生,真正在弘揚佛法。一切要做出來,要表演給大家看,廉潔!對名聞利養、五欲六塵不沾染,默默地去做,古人所謂「只問耕耘,不問收穫」,自自然然有收穫。人家看到你廉潔,他深受感動,回頭向你學習,這個效果就現前。當然,這個影響不是人人都能接受,佛度有緣人。只要自己默默去做,自自然然就會產生這個效應。
仏法は行(ぎょう)にあり、言葉にはありません。本当に実践できれば、本当に衆生を教化して、仏法を発揚することができます。一切を行って、皆に演じて見せなければなりません。廉潔です!名聞利養、五欲六塵に染まることなく、黙々と行うことです。古人の言うところの、「只だ耕耘(こううん)を問ひ、収穫を問はず」(やるべきことをしっかりして、結果にはこだわらない)です。自然に収穫は得られます。人があなたの廉潔さを見れば、深く感動して、改心してあなたに学ぶようになります。この効果が現れます。当然この影響は誰もが受けるものではありません。仏は縁ある人を済度します。ただ自分が黙々と行っていれば、自然にこのような効果が生まれます。
恥
「恥」,就是知恥,有羞恥心、慚愧心。就是起心動念、言語造作問心無愧。慚就是良心,是對自己;起心動念、言語造作問問自己,能否對得起自己的良心?愧是外面輿論的批評。內不違背良心,外面自然就不會有輿論的批評指責,這就是知恥。由此可知,知恥是規範自己的行為。所以自己起心動念、言語造作一定要想想如不如法,反省這樣做能否對得起父母、對得起祖宗、對得起自己的天良?能否不讓別人批評我、指責我?用內外的力量約束著自己。
恥(ち)とは、恥を知ることです。羞恥心、慚愧(ざんき:心に深く恥じて反省すること)心を持つことです。つまり心の使い方、言葉や行為が、良心に恥じるところがないことです。「慚」とは良心です。自分に対するものです。心の使い方、言葉や行為を自分に問うて、自分の良心に申し訳が立つでしょうか?このことから、恥を知ることは、自分の行為の規範となることが分かります。ですから自分の心の使い方、言葉や行為は法に適っているかどうか、よく考えなければなりません。それで両親に申し訳が立つかどうか、ご先祖様に申し訳が立つがどうか、自分の良心に申し訳が立つかどうか、人に批判されたり非難されたりしないかを反省することです。内と外の力を用いて自分を制約します。
孔子作《春秋》,《春秋》有讚歎、有批評。善的寫出來讚歎,惡的也寫出來批評。讓現前後世的人看到,具足慚恥者就不敢為非作歹,這是《春秋》所起的作用。《春秋》是中國歷史的開端,其立意在此。如果是無慚無恥的人,孔子的《春秋》對他也不起作用,他做惡事不在乎別人批評,只顧自己的貪婪欲望,他根本不理會什麼倫理、道,那就是無慚無恥。所以我們如果要善護諸根,要靠慚愧,要靠知恥的心。
孔子は『春秋』を書きました。『春秋』には称讃があり、批判があります。善いことを書いて称讃し、悪いことも書き出して批判しています。当世、後世の人に見せることで、恥を知る人は悪い事ができなくなります。これが『春秋』の効果です。『春秋』は中国の歴史(書)の始まりであり、その意図はここにあります。恥知らずの人であれば、孔子の『春秋』もその人には効きません。その人は悪事を行って平気で他人を批判します。自分の貪婪(どんらん)の欲望を満たすばかりで、倫理・道徳にはまったく構いません。それこそ恥知らずです。ですから私たちが諸根を善護するには、慚愧に頼り、恥を知る心に頼らなければなりません。
在佛法講,本性具足無量智慧、無量能,純淨純善,所有一切不善,本性沒有。不善從哪裡來的?不善是從迷失本性來的。迷失本性,是不是不知恥?是。什麼人是知恥、什麼人具足慚愧?我們墮落在六道,怎麼對得起自己的良心?怎麼對得起自己的本善?本性是本善,怎麼會跑到六道裡搞輪迴?怎麼會變成這個樣子?所以嚴格來講,阿羅漢以上才算是具足慚愧,真正知恥。人墮落在六道就是恥辱,為什麼?因為本性具足慚愧,慚愧是性,知恥是性。
仏法で言えば、本性は無量の智慧、無量の徳能を具えており、純浄純善です。あらゆる一切の不善は、本性にはありません。不善はどこから来るのでしょうか?不善は本性を見失ったことから生じるものです。本性を見失うと恥知らずになるでしょうか?なります。どのような人が恥を知り、どのような人が慚愧を具えているのでしょうか?私たちは六道に堕落していて、どうして自分の良心に申し訳が立つのでしょうか?どうして自分の本善(本来具えている善)に申し訳が立つのでしょうか?本性は本善なのです。どうして六道に駆け込んで輪廻をするのでしょうか?どうしてこのように変わってしまったのでしょうか?ですから厳密に言えば、阿羅漢以上の境地でようやく慚愧を具え、本当に恥を知るのです。人が六道に堕落しているのは恥辱です。なぜでしょう?本性は慚愧を具えています。慚愧は性徳であり、恥を知ることは性徳です。
中國古人說得好——「知恥近乎勇」。人,為什麼能勇猛精進,發憤圖強?這個力量不外乎知恥,這是精進的動力。菩薩的善根只有──「精進」。世間善根有三個,「無貪、無瞋、無痴」叫三善根,世間一切善法的根就是「不貪、不瞋、不痴」。佛法修行當然要具足世間的三善根,沒有世間三善根不能修行。
中国の古人はよく言ったものです。―――「恥を知るは勇に近し」(知恥近乎勇/『中庸』)。人はなぜ勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)し、発奮して良くなろうとするのでしょうか?この力は恥を知るからに他なりません。これが精進の原動力です。菩薩の善根には、精進しかありません。世間の善根には三つあります。「無貪、無瞋、無痴」(貪らない、怒らない、迷わない)、これを三善根と言います。世間一切の善法は「不貪、不瞋、不痴」(貪らず、怒らず、迷わず)です。仏法の修行は当然世間の三善根を具えていなければなりません。世間の三善根がなければ修行はできません。
在三善根當中還要有一個特殊的善根──「精進不懈」。精進使一個人從初發心到如來地,成佛之後不休息,依舊勇猛精進應化在十法界普度眾生。到那時看到還有一個眾生沒有覺悟、沒有成佛,覺得那是我的恥辱。這就是見性的人跟不見性的人不一樣的地方。沒有見性的人在迷,不知道宇宙萬事萬物的真相,所以他的思惟是侷限的,不是圓滿的;見性之後,才知道宇宙萬事萬物的真相。真相是什麼?是一體。
三善根の中には、もう一つ特殊な善根―――「精進不懈」(しょうじんふけ:精進して懈(おこた)らないこと)があります。精進は人が初発心(しょほっしん)から如来地(にょらいじ)に至り、仏に成った後でも休みません。変わることなく勇猛精進し、十法界に応化(おうげ)して衆生を済度します。その時に至れば、あと一人の衆生が悟らず、仏に成っていないのを見れば、それは自分の恥辱だと思います。これが見性した人と見性していない人の違うところです。見性していない人は迷っています。宇宙の万事万物の真相を知りません。ですからその人の思考には限界があり、円満ではありません。見性した後で、ようやく宇宙の万事万物の真相を知ることができるのです。真相とは何でしょうか?一体だということです。
《華嚴經》所說的「情與無情,同圓種智」、「十方三世佛,共同一法身」。我常舉比喻,把宇宙整體比作一個人身,十法界就好比身體不同的器官,一切眾生好比身上組成器官的細胞。身上任何一個細胞出了毛病,我們都希望把它治好,要沒有治好,怎麼對得起它?從這個比喻細心體會,就曉得佛菩薩的觀察跟我們不一樣。
『華厳経』には、「情與無情,同円種智」、「十方三世仏,共同一法身」と説かれています。私がよく挙げる比喩ですが、全宇宙を人体になぞらえると、十法界はちょうど身体の各器官のようなものです。一切衆生はちょうど身体を組織する器官の細胞のようなものです。身体のどの細胞が病気になっても、私たちはそれが治ることを願います。もし治らなければ、どうしてそれに申し訳が立つでしょうか?この比喩から注意深く考えてみると、仏菩薩の観察は私たちとは異なることが分かります。
一個眾生沒有成佛,性就不圓滿,性不圓滿這就是恥,然後你才曉得這些諸佛跟法身菩薩為什麼跟十法界眾生感應道交。眾生有感,他就有應,不辭辛勞、不怕辛苦,哪裡有求,哪裡就有應。不僅是我們這個地球,在太空當中無量無邊世界、無量無邊眾生,只要眾生有感,佛菩薩就有應。
一人の衆生は仏に成らなければ、性徳は円満ではありません。性徳が円満ではないこと、それが恥なのです。そしてあなたは、これらの諸仏や法身菩薩は、なぜ十法界の衆生と感応道交するのかを理解します。衆生が「感」ずれば、彼は「応」じます。労をいといません。苦労を恐れません。どこかで求めがあれば、そこで応じるのです。私たちの地球だけでなく、宇宙の無量無辺の世界において、無量無辺の衆生たちが「感」ずれば、仏菩薩は「応」じるのです。
感應的事情不難體會,在大乘經教能夠稍稍契入少分,就能夠看出諸佛菩薩應化在世間,就在此時此處,真的是無時無處不在。這才真正懂得我們應該依教修行,感激佛菩薩的恩,感激老師的恩,感激一切善友的恩,所謂「上報四重恩,下濟三途苦」。誰叫你做?不需要人叫;誰督促你?不需要人督促,自動自發,在這裡面得法喜充滿。現在有人講,在這個地方得到不同維次空間的訊息,得到許許多多的能量;在佛法講,是得到了諸佛菩薩的加持。
感応の事を理解するのは難しくはありません。大乗の教経に少しでも深く入れば、諸仏菩薩が世間に応化(おうげ)するのを見て取ることができます。この時、この場において、本当にいない時はなく、いない場所はありません。そうして私たちは、教えに沿って修行すべきだということを、本当に理解するようになります。仏菩薩の恩徳に感謝し、老師の恩徳に感謝し、一切の善友の恩徳に感謝します。いわゆる、「上は四つの重恩【注8】に報ひ、下は三途の苦を済(すく)ふ」(上報四重恩,下濟三途苦)です。誰があなたにさせるのでしょうか?人にさせられる必要はありません。誰が催促するのでしょうか?人が催促する必要はありません。自分から自発的にします。その中に法喜充満【注9】が得られます。ある人は、この場で異次元空間の情報が得られ、多くのエネルギーを得ることができると言います。仏法で言えば、それは諸仏菩薩の加持を得られるということです。
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【注8】 四つの重恩(じゅうおん)・・・・上師(老師)、父母、国土、衆生からの深い恩義。
【注9】 法喜充満(ほうきじゅうまん)・・・・法の喜びに満ち溢れること。
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我們自己本性本善,現在卻受到嚴重的污染,別人都成佛了,我還在當凡夫,奇恥大辱!所以我們應該知恥,好好懺悔改過,否則怎麼能對得起自己的本性本善?怎麼能對得起自己本來是佛?怎麼能對得起父母老師,怎麼能對得起佛菩薩,怎麼能對得起一切苦難眾生?我修成才能幫助他,我修得不好、修不成,他天天在期望著我,我怎麼能心安?所以人要知道恥辱,就有救。佛家講「勇猛精進」,儒家講「日新又新」,誰能做得到?知恥的人能做到。能知恥,當然就能夠發憤、勇猛精進。所以知恥是修行目當中非常重要的一條,能成就自己的道仁義。
私たちの本性はもともと善ですが、今は深刻な染汚(せんお:穢れ)を受けているので、他人は皆仏に成っても、自分はまだ凡夫なのです。この上もない恥辱です!ですから私たちは恥を知り、しっかりと懺悔して心を入れかえなければなりません。そうしなければ自分の本性本善にどうして申し訳が立つでしょうか?自分が本来仏であることに、どうして申し訳が立つでしょうか?両親や老師にどうして申し訳が立つでしょうか?仏菩薩にどうして申し訳が立つでしょうか?一切の苦難の衆生にどうして申し訳が立つでしょうか?自分の修行が成就してこそ人を救うことができるのです。自分の修行ができず、成就しなければ、彼らは毎日自分に期待をかけて下さるのに、自分はどうして落ち着いていることができるでしょうか?ですから人は恥辱を知っていれば、救いがあります。仏家では「勇猛精進」(ゆうみょうしょうじん)を重んじ、儒家では「日新又新」(日々精進し続けること)【注10】を重んじます。それを実践できるのは誰でしょうか?恥を知る人は実践できます。恥を知ることができれば、当然発奮することができ、勇猛精進します。ですから恥を知ることは修行の徳目の中で非常に重要な一条であり、(恥を知ることによって)自分の仁義道徳を成就することができるのです。
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【注10】 日新又新・・・・下記、『大学』の一節からできた成語。
苟日新、日日新、又日新。
苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ。
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對於不知恥不如法沒有慚愧心的人,怎樣幫助他把煩惱習氣改過來?如何幫助他恢復性?這個要有信心,為什麼?慚愧知恥是性,自性本來人人有,馬鳴菩薩講:「本覺本有,不覺本無。」也就是無慚無愧不知恥本來沒有,自私自利本來沒有,貪瞋痴慢本來沒有,本來沒有的可以斷,本來有的可以恢復。護法的人,修行的人,對這點要有堅定的認知,幫助自己、幫助別人恢復性。
恥を知らず、法に適わず、慚愧心のない人に対して、彼らが煩悩の習気を改めるのを、どのように助ければ良いのでしょうか?その人が性徳を回復させるのを、どのように助ければ良いのでしょうか?これには信心がなければなりません。なぜでしょう?慚愧し、恥を知ることは性徳であり、自性は本来誰にでもあるものです。馬鳴菩薩は、「本覚本有,不覚本無」と説かれています。つまり慚愧心や恥を知らないことは、本来無いということです。私利私欲は本来ありません。貪瞋痴慢は本来ありません。本来無いものは断つことができます。本来あるものは回復することができます。護法の人、修行の人は、この点をしっかりと認識して、自分を助け、人が性徳を回復するのを助けることです。
現在這個社會,「恥」字沒有了,胡作妄為。要挽救現在的社會,最重要的是要提倡知恥。人只要有慚愧羞恥心,自然會守禮,自然能夠盡義務,自然能夠廉潔,自然會從迷回頭皈依覺。「恥」的確是一個中心問題,如果希望社會和平,化解災難,把知恥心找回來就真有效了。
今のこの社会には、「恥」の字がなくなりました。出鱈目なことをしています。今の社会を救おうとするなら、最も重要なのは恥を知ることを提唱することです。人は慚愧(ざんき:深く恥じ入ること)の念、羞恥心さえあれば、自然に礼を守り、自然に義務を果たすようになり、自然に清廉潔白になり、自然に迷いから立ち帰り、仏の智慧(覚)に帰依するものです。「恥」は間違いなく中心となる問題です。もし社会の平和、災難の解消を願うなら、恥を知る心を取り戻してこそ、真に効果があるのです。
――四維(完)――