五倫
中國文化的根本是倫常,中國的民族是五倫的民族。五倫是什麼?五倫就是整個民族一家人。倫理是人與人之間的關係,是「父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信」,這五個綱領就是我們常說的五倫。
中国文化の根本は倫常であり、中国の民族は五倫の民族です。五倫とは何でしょうか?五倫とはすべての民族が家族であることです。倫理は人と人との関係です。「父子に親あり。君臣に義あり。夫婦に別あり。長幼に序あり。朋友に信あり」。この五つの綱領が、私たちが言うところの五倫です。
五倫存於心就是道,是性,是天性;五倫是最基本、最堅固的團結。在世界四大文明古國中,中國所以沒有滅亡,就是靠儒家傳統教育的落實。從家人、朋友、鄰居一擴展就是國家,國家民族是一個五倫的社會整體。「四海之內皆兄弟」,整個國家民族要團結得像一個人,這是儒家將近兩千年來的教育。
五倫が心に存することは道であり、性徳(しょうとく)【注1】であり、天性です。五倫は最も基本的で、最も堅固な団結です。世界の四大文明の古い国の中で、中国が滅亡しなかったのは、正に儒家の伝統教育の実践によるものです。家族、友人、隣近所を拡大すれば国家になります。国家民族は五倫社会の全体です。「世界全体みな兄弟」(四海之内皆兄弟)。全国家民族が一人の人のように団結すること。これが儒家の二千年来の教育です。
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【注1】 性徳(しょうとく)・・・・衆生が本性として具えている生まれつきの能力。
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夫婦に別あり(夫婦の異なる役割)
五倫是從夫婦開始,「大道肇端乎夫婦」。夫婦人道有,畜生道也有,餓鬼道也有,欲界天也有。夫婦同處一室,室外就是家庭。家庭中有父子、兄弟。家外面就是社會、國家,有君臣、有朋友。不同身份的人,要盡不同的義務,父慈子孝,兄友弟恭,君仁臣忠,大家建立這樣的共識,社會才祥和,天下才太平。
五倫は夫婦から始まります。「大道の発端は夫婦にあり」(大道肇端乎夫婦)。夫婦は人道にあり、畜生道にもあり、餓鬼道にもあり、欲界天にもあります。夫婦は一室に同居します。室外は家族です。家庭の中には親子、兄弟がいます。家の外は社会、国家であり、君臣、朋友がいます。異なる身分の人が、異なる義務を果たします。「父は子を慈しみ、子は父に孝行する。兄は弟を可愛がり、弟は兄を敬う。君主は臣下に仁を施し、臣下は君主に忠義を尽くす」(父慈子孝,兄友弟恭,君仁臣忠)。誰もがこのような共有の認識を持っていてこそ、社会は穏やかになり、天下は太平になるものです。
古時候男女結婚婚禮非常隆重,也非常繁瑣。為什麼?因為兩個人的結合,對於整個社會國家都有密切的關係,草率不得。結婚不是兩個人的事情,要慎重其事。結婚,在家庭要對祖宗、對後裔負責任;在外界要對社會、對國家負責任。社會的安定,國家的興衰,與結婚有關係。一對夫妻就像大樹上的一片樹葉,樹葉長得好,這棵樹才能壯大;樹葉壞掉了,對於整棵樹的生存就是一分傷害。所以婚姻是道義,要懂得大道,懂得義務。
昔の男女の婚姻は非常に厳粛で、また非常に煩雑でした。なぜでしょうか?なぜなら二人の結びつきは、全国家社会に対して密接な関係があるからです。いい加減には扱えません。結婚は二人の事ではないので、慎重にしなければなりません。結婚は、家庭における先祖・子孫に責任を負わなければなりません。外においては社会、国家に責任を負わなければなりません。社会の安定、国家の盛衰は、結婚と関係があります。夫婦はちょうど大樹の葉のようなものです。葉が生い茂っていてこそ、大樹は大きくなります。葉が枯れることは、大樹の生存を少しだけ傷つけます。ですから婚姻は道義であり、大道、義務を理解しなければなりません。
現在的婚姻是亂愛,把倫理道全都破壞了。基礎動搖,社會哪有不動亂的道理?尤其現在,男女婚姻觀念非常淡薄,離婚率高。離婚之後,兒女所受的傷害很大,身心發育不正常,將來危害社會、危害國家。換言之,離婚就害了國家、害了社會。離婚把倫常道破壞了,把性的根破壞了,這個因果責任比什麼都重!社會的安定,世界的和平,根在夫婦,所以說現在人不懂得自愛,自己愛自己都不懂,哪裡能夠愛別人?
今の婚姻は乱れた愛です。倫理道徳を破壊しています。基礎が揺らげば、社会に動乱が起こらない道理がどこにあるのでしょうか?特に今は、男女の婚姻の観念が非常に希薄で、離婚率が高くなっています。離婚した後、子どもたちが受ける傷は大きなものです。身心の発育が不正常になり、将来社会を損ない、国家を損ないます。言い換えれば、離婚は国家を害し、社会を害します。離婚は倫理道徳を破壊します。性徳の根を破壊します。この因果の責任は何よりも重いものです!社会の安定、世界の平和は、夫婦がその根本です。ですから今の人は自愛することを知りません。自分で自分を愛することを知らずに、どうして他人を愛せるのでしょうか?
今天的社會,人與人的往來是利害,利害維持不長,專門看別人的過失缺點,天下就沒有一個好人。善人是專看別人的好處,不看別人的缺點,天下人都是好人。夫妻要懂得這個道理,彼此多看對方的善處好處,婚姻就不會破碎。
今日の社会は、人と人との往来は利害です。利害では長続きしません。他人の過失や欠点ばかりを見ていれば、天下に良い人は一人もいなくなります。善人は他人の長所だけを見て、他人の欠点は見ないので、天下には良い人ばかりになります。夫婦はこの道理を理解して、お互いに相手の長所を見ていれば、婚姻が破たんすることはないでしょう。
印光大師對這個事情講了很多,責備得也很重。現代婦女離開家庭,要做「職業婦女」,在社會上跟男人爭,要做女強人。在社會上去爭權、爭地位,就跟「火烘牡丹」一樣,雖然花開得很大、很美,只能榮耀一時,但沒有時間去教兒女,妳的後代就完了。所以,社會的安危,印光大師說,女人負一大半的責任。
印光大師はこの事に対してたくさん話され、厳しく咎めています。現代の婦女子は家庭を離れ、キャリアウーマンになります。社会で男性と競い、強い女性になろうとします。社会で権力を争い、地位を争い、真っ赤な牡丹のように、たとえ大きな花を咲かせ、美しく一時輝いても、子どもを教える時間はありません。彼女の子孫はお仕舞いです。ですから社会の安危は、印光大師が言うには、女性が半分の責任を負っているのです。
女人的職責,只要把丈夫、小孩管好,為國家社會培這育人才,總統由丈夫、兒子去做,這便是大功大。如果把自己本分職責丟掉,去做一些分外的事情,社會怎麼會不亂?這些大道理,從前人都能聽、能接受,現代人卻說我們頭腦太古董,不適合二十一世紀。可是我們冷靜思惟,覺得還是古人的大道理正確,能帶給社會長治久安。
女性の職責は、夫、子どもの世話をして、国家社会のために人材を育成することです。夫や子どもを総統にすることです。これは本当に大きな功徳です。自分の本分である職責を捨てて、本分以外の事をしていれば、社会が乱れないことがあるでしょうか?これらの大道理は、昔の人は誰でも聞くことができました。受け入れることができました。現代人は逆に、私たちの頭は固すぎると言い、二十一世紀には適さないと言うでしょう。しかし冷静に考えてみれば、やはり古人の大道理は正しいと思います。社会に長期的な安定をもたらすことができます。
男女結成夫婦,組成一個家庭,這是社會基層的細胞,兩人各有各的任務。家庭有兩樁大事,第一、經濟生活,賺錢養家,這是男子的本份。第二、「不孝有三,無後為大」,相夫教子,教育下一代,這是女人本份的工作,這比男人工作要重、要偉大。為什麼?傳宗接代要靠婦女。沒有婦女,千萬年前老祖宗一代一代相傳到這一代就完了,你能對得起祖宗?因此,婦女在古人心目當中有非常崇高的地位,她要生育、養育後代,是家庭命脈的主持人。
男女は夫婦になり、一つの家庭を築きます。これは社会の末端の細胞であり、二人にはそれぞれ任務があります。家庭には二つの大事があります。一つ目は、経済生活です。お金を稼いで家を養うことです。これは男性の本分です。二つ目は、「不孝有三,無後為大」(不孝には三つあり、跡継ぎがいないことが最も大きい)。夫を助け、子どもを教えることです。次世代を教育します。これは女性の本分の仕事です。これは男性の仕事よりも重く、偉大なことです。なぜでしょうか?代々継承することは女性にかかっているからです。女性がいなければ、千万年前からご先祖様が代々伝えてきたものが、この世代で終わります。あなたはご先祖様に申し訳が立つでしょうか?このことから、古人の心の中では女性は非常に崇高な地位にありました。女性は出産して、子孫を養い育てます。家庭の命脈を取り仕切る人です。
聖賢從哪裡來的?母親教的。所以中國古時候的教育,教女特別嚴格,比教兒子要嚴格好多倍。女孩子教好了,有賢女必賢母,有賢母家就好,家族就好,國家就好。過去有很多母親不認識字,卻很會教孩子做人,教孝親尊師、友愛兄弟。人從小就教好了,一輩子都不會做壞事,都不會有惡念對人,這個社會多祥和!
聖賢はどこから来るのでしょうか?母親が教えたのです。ですから中国の昔の教育では、女子を特に厳格に教えました。男子を教えるより何倍も厳格でした。女子をしっかり教えれば、賢い女性は必ず賢い母親になり、賢い母親がいれば家は良くなります。家族は良くなり、国家は良くなります。昔の多くの母親は文盲でしたが、かえって人としての行いを子どもに教えることができました。親に孝行し、教師を尊び、兄弟を愛することを教えました。人は子どもの頃からしっかり教えれば、一生悪い事はしません。悪い考えを持って人と接することはできません。このような社会はどれほど穏やかなことでしょうか!
母親是孩子的第一任老師,紮根教育全靠母親。古人重視胎教,懷孕的時候,母親起心動念、言語造作都會影響胎兒。所以懷胎十月,心平氣和,舉止安詳,希望小孩能受到好的影響,生下來好教、聽話。現在西方的催眠術發現,胎兒在母親子宮裡面,頭腦很清楚,證明中國古人講的胎教是大有道理。
母親は子どもの最初の先生です。基礎教育はすべて母親にかかっています。古人は胎教を重視しました。妊娠した時、母親の心の動きや、言葉や行為はすべて胎児に影響します。ですから妊娠十ヶ月では、心を平静に保ち、振る舞いを穏やかにして、子どもが良い影響を受けることを願います。生まれて来ると教えやすく、話をよく聞きます。今では西洋の催眠術で発見されています。胎児は母親の子宮の中で、意識ははっきりしています。中国の古人の説かれた胎教は大いに道理があることの証明です。
小孩一出生,眼睛張開,耳朵豎起來,他就會看、會聽,父母跟大人的言談舉止都要守禮、端莊,讓他看到、聽到、接觸到的,全是正面的。小孩從出生就開始教,誰教?父母。他雖然很小,出世才二、三天,他眼睛會看,耳朵會聽,大人在他面前的言行舉止,他已經落了印象,「少成若天性,習慣成自然」,這就是他的根,這個根會起很大的作用。這個根要紮得深、要紮得牢,這是母親的責任。
子どもは生まれると、目を見開き、耳をそばだてます。見ることができ、聞くことができます。両親や大人の言葉や行為はすべて礼節を守り、正さなければなりません。子どもが見るもの、聞くもの、接触するものは、すべて良いものにします。子どもが生まれてから教え始めます。誰が教えるのでしょうか?両親です。子どもはたとえ小さくても、生まれて二、三日すれば、目で見て、耳で聞くことができます。子どもの前での大人の言葉や行為は、子どもの印象に残ります。「幼い頃に身についたことは天性のようであり、慣れれば自然になるものである」(少成若天性,習慣成自然)。それがその子の基礎になり、その基礎は大きな作用をもたらします。この基礎は深く、丈夫にしなければなりません。これは母親の責任です。
中國古諺說「三歲看八十」,三歲這個基礎打下來,八十歲不會變。可是現在這個教育完全沒有了,不但看不到,講的人都沒有了。實際上小孩教育從三、四歲開始已經遲了。我遇到很多同修談到家庭,都說小孩不好教,很多老師也說學生不好教。當然不好教,根沒有了怎麼教?紮根教育比什麼都重要,這是母親的事情,所以母親偉大!聖賢是教出來的,佛菩薩也是教出來的,關鍵都在母親。
中国の諺では「三歳で八十歳の様子が見える」(三歳看八十)【注2】と言い、三歳で基礎が培われれば、八十歳になっても変わることはありません。しかし今ではこの教育は完全になくなりました。見られなくなったというだけでなく、語る人さえいません。実際に子どもの教育は三、四歳から始めるのでは遅いのです。私はたくさん見ています。門徒の方が家庭のことを話されると、子どもは教えにくいと言い、多くの教師も学生は教えにくいと言います。教えにくいのは当然です。基礎がなければどのように教えるのでしょうか?基礎の教育は何よりも重要です。これは母親の事です。だからこそ母親は偉大なのです!聖賢は育成されたのであり、仏菩薩(ほとけぼさつ)もまた育成されたのです。その鍵はすべて母親にあります。
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【注2】 「三歳看八十,七歳看終生」
三歳で八十歳の様子が見え、七歳で一生の様子が見える。(意訳)
日本でいう “三つ子の魂百まで” と同義。
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父子に親あり(親子の親愛)
五倫第一條「父子有親」,父子的親愛不是從哪裡學來的,而是自性本有的。從哪裡看?最明顯的嬰兒三、四個月,他會笑了,你細心觀察,父母對他的愛沒有任何條件,全心全意真愛他。小孩雖然不會說話,你看他的眼神、表情,那個愛顯露出來了,這是天性!所以「人之初,性本善」,本善透出來的。這是性裡面的第一,從這個第一引申出來,「夫婦有別、君臣有義、長幼有序、朋友有信」,這是從這個點演變出來,全是愛,不同的層次那個愛的等級就不一樣。
五倫の第一条は「父子に親あり」です。親子の親愛はどこかで学んだことではなく、自性(じしょう)【注3】にもともとあるものです。どこから見て取れるでしょうか?最も明らかなのは三、四ヶ月の赤ん坊です。赤ん坊は微笑みます。よく観察してみると、両親の赤ん坊に対する愛は何の条件もありません。全身全霊で愛します。赤ん坊はたとえ話せなくても、その眼差し、表情を見ると、明らかに愛が現れています。これは天性です!ですから「人の本性はもともと善である」(人之初,性本善)であり、本善が現れたものです。これは性徳の中の第一の徳です。この第一の徳から派生したのが、「君臣に義あり。夫婦に別あり。長幼に序あり。朋友に信あり」です。これはこの一点から変化したもので、すべて愛なのです。異なる立場では愛の等級は異なります。
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【注3】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)、真心のこと。本来具えている性質。
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「本性出生五倫、五常人類文明源頭」,所有的族群、宗教都是從一個原始點爆發出來的。這個原點就是自性裡面的愛心,那叫神之愛,就是我們的真心。所以在佛的世界裡頭,整個極樂世界是個親愛的團體、是個親愛的世界,你說多美好,十方世界找不到!這完全得力於教學。
本性は、五倫・五常という人類文明の根源を生み出しました。あらゆる民族、宗教はすべて一つの原点から爆発して出来たものです。この原点とは自性の中の愛です。それを神の愛と言います。つまり私たちの真心です。ですから仏の世界の中では、極楽世界全体は親愛の団体、親愛の世界です。どれほど素晴らしいことでしょうか。十方世界では見つかりません!これは完全に教学の力によるものです。
父子有親連畜生都具有。細心觀察小狗生出來,牠母親多愛牠。小鳥在鳥窩裡頭,老鳥照顧得很周到,怕牠的兒女受到傷害,連犧牲生命也在所不惜,沒人教他,這叫性。這不是學來的,是屬於自然的。
「父子に親あり」は畜生でさえ具えています。よく観察して見れば、子犬が産まれると、母犬は子犬を可愛がります。巣の中の小鳥は、親鳥が周到に面倒を見ます。小鳥が傷つかないように心配し、命の犠牲さえ惜しみません。誰も教えてはいません。これを性徳と言います。これは学んだ事ではありません。自然に属するものです。
我們老祖宗能夠看得出父子有親,真有智慧!所以湯恩比博士讚歎說:古時候中國人最懂得教育,有教育的智慧,有教育的方法,有教育的經驗,全世界其他的國家族群都比不上。
私たちのご先祖様は「父子に親あり」を見て取りました。本当に智慧があります!ですからトインビー博士は称賛して、昔の中国人は最も教育を理解していたと言っています。教育の智慧があり、教育の方法があり、教育の経験があります。全世界の他の国家民族はすべて及びません。
中國的教育從父子有親開始,是親愛的教育。教育第一個目的是如何保持這種親愛一生不變。第二個目的是把這個愛發揚光大。從父母之愛推行到愛兄弟、愛家族、愛鄰居、愛鄉黨,愛社會,愛國家,到最後「凡是人,皆須愛」。所以,中國傳統教育是愛的教育,愛的原點就是父子有親。有這樣的教育,社會能不好嗎?人生能不幸福美滿嗎?當然,佛法的愛更大更廣,擴大到遍法界虛空界,對一切眾生沒有不愛的,所以佛法的愛最究竟圓滿。愛心遍法界,善意遍法界,只有大乘佛法肯定了遍法界虛空界跟自己是一體,愛一切眾生原來是愛自己,害一切眾生原來是害自己,自他是一不是二。
中国の教育は「父子に親あり」から始まります。親愛の教育です。教育の第一の目的は、如何にしてこの親愛を一生保って変えないかということです。第二の目的は、この愛をいっそう発揚し輝かせることです。両親への愛から兄弟への愛に移行し、家族を愛し、隣近所の人を愛し、郷里を愛し、社会を愛し、国家を愛し、最後にはすべての人を愛すること(凡是人,皆須愛)に至ります。ですから中国伝統の教育は愛の教育であり、愛の原点は「父子に親あり」(親子の親愛)です。このような教育があれば、社会が悪くなることがあるでしょうか?人生が不幸になることがあるでしょうか?もちろん仏法の愛は更に広大です。遍法界虚空界(全宇宙)まで拡大して、一切の衆生に対して愛さないものはありません。ですから仏法の愛は究極円満です。愛は法界を遍く行き渡ります。善意は法界を遍く行き渡ります。大乗仏法だけが遍法界虚空界(全宇宙)が自分と一体であることを肯定しています。一切衆生を愛することは、もともと自分を愛することであり、一切衆生を害することは、もともと自分を害することなのです。自他は一であって二ではありません。【注4】
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【注4】 「二ではない」・・・・万物の根源は一体であり、分離して存在するものは一切ないということ。
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長幼に序あり(年長者と年少者の秩序)
「長幼有序」,序是、是秩序、是愛。教人什麼?是教大眾在一起相敬相愛,敬老尊賢。懂得年歲比我大的,一定要尊敬,兄友弟恭,一團和睦。一半家人、一半外人,家人是兄弟姐妹,按照老大、老二排行,有秩序,不能亂。對外面人有年歲大的,我們把他當作兄長看待;年歲小的,把他當作弟弟看待;年老的,把他當作父母看待;年幼的,把他當作兒女看待,這就是長幼有序。
「長幼に序あり」。序は徳であり、秩序であり、愛です。何を人に教えているのでしょうか?大衆がお互いに敬愛し合うことです。年長者や賢人を敬い尊ぶことです。自分より年上の人を尊敬することです。兄は弟を友愛し、弟は兄を敬愛して、仲睦まじくすることです。半分は家族、半分は外の人です。家族は兄弟姉妹、長男、次男の順にして、秩序を持ち、乱してはなりません。外の人に年長者がいれば、私たちはその人を兄と見なします。若い人がいれば、その人を弟と見なします。お年寄りがいれば、その人を両親と見なします。幼い子がいれば、その子を自分の子と見なします。これが「長幼に序あり」です。
在家裡面兄弟姊妹的秩序也是天然的,不能改變,不能競爭,老大就是老大,老二就是老二。兄弟之間,年齡大小不一,弟弟要尊敬哥哥,哥哥要友愛弟弟;哥哥要做弟妹的好榜樣,弟妹要尊敬長兄。父母不在了,長兄如父,長嫂如母,家裡秩序井然不亂,一團和睦。長輩和晚輩的之間的秩序,晚輩對長輩一定要尊敬,年幼的要跟年長的行禮,年長對年幼的一定有慈愛。還有,老師跟父母的恩是同等的,對老師的子女跟自己親兄弟沒有兩樣,一生都要照顧。人人懂得謙卑,尊重別人,知道尊老愛幼基本的禮節。
家の中の兄弟姉妹の秩序も自然なことです。変えてはなりません。競ってはなりません。長男は長男です。二男は二男です。兄弟間では、年齢の大小が異なります。弟は兄を敬い、兄は弟を可愛がります。兄は弟や妹の良い手本にならなければなりません。弟や妹は長兄を尊敬します。両親がなくなれば、長兄は父親のように、長女は母親のようにして、家の秩序を乱すことなく、仲睦まじくします。先輩後輩間の秩序は、後輩は必ず先輩を敬わなければなりません。年の若い人は年長者に礼を尽くし、年長者は年の若い人に対して慈愛を持たねばなりません。それから、教師と両親の恩は同等です。教師の子どもに対しては、自分の親兄弟と同じです。一生配慮しなければなりません。誰もが謙(へりくだ)ることを理解し、他人を尊敬します。年長者を敬い、年少者を可愛がるという基本の礼節を理解します。
中國古代,女子十六歲行笄禮,男子二十歲行冠禮,表示成年。這一天,他的長輩、同輩、兄弟姊妹要送他一個「字」,從這一天起大家都稱「字」不稱「名」。誰能稱「名」?只有父母和老師,既使祖父母、伯伯、叔叔都只能稱「字」不稱名。祖父母因為和孫子隔了一代,所以也稱「字」,以示尊重,這就是長幼有序。
中国の古代では、女子は十六歳で笄礼(けいれい:女子の成人式)を行い、男子は二十歳で冠礼(かんれい:男子の元服式)を行いました。成人を表します。この日、先輩、同輩、兄弟姉妹はその人に「字」(あざな)を贈ります。この日からは皆が「字」を呼んで、「名」を呼ばなくなります。「名」を呼んでも良いのは誰でしょう?両親と教師だけです。祖父母、叔父、叔母でさえ「字」を呼び、「名」を呼んではなりません。祖父母は孫と一世代隔てているので、「字」を呼んで尊敬を表します。これが「長幼に序あり」です。
過去,兒女不能稱父母的名諱。現在的人,兒女直接稱呼父母的名字,不但稱名,連姓也叫出來,我們聽到很悲哀。可是你還不能說他,「外國人不都是這麼叫嗎!」這在我們中國人講是沒大沒小,長幼有序的秩序沒有了,家亂了社會怎麼不亂?
昔は、子どもは両親の諱(いみな:生前の実名)を呼ぶことはできませんでした。今の人は、子どもが直接両親の名前を呼びます。名前を呼ぶだけでなく、名字さえ呼んでしまいます。私たちはそれを聞くと悲しくなります。しかしその人を咎めることはできません。私たち中国人は大人も子どもも「外国人はそのように呼んでいるではないか!」と言うようになり、「長幼に序あり」はなくなってしまいました。家が乱れれば、どうして社会が乱れないことがあるでしょうか?
釋迦牟尼佛當年在世時,他的僧團學生很多,學長學弟之間也有秩序,不需要人指揮安排,不需要分大班小班,沒有什麼大隊長小隊長,全部都是自自然然平等遵守秩序,絲毫不紊亂。從這裡我們多少都能體會到長幼有序是道,遵求這個倫理,社會才能安定,如果我們大家把秩序丟掉,家就不像家,社會就不像社會。
釈迦牟尼仏がご在世の頃、彼の僧団には学生がたくさんいました。先輩後輩の間には秩序があり、誰かが指揮する必要はありませんでした。大きな班や小さな班に分ける必要もありません。大隊長や小隊長などはいません。すべて極自然に同じように秩序を遵守して、少しも混乱することはありません。この中から「長幼に序あり」は道であることが理解できます。この倫理を遵守してこそ、社会を安定させることができるのです。秩序を捨てれば、家は家らしくなくなり、社会は社会らしくなくなってしまいます。
君臣に義あり(上司と部下の信義)
「君臣有義」,君是領導者,臣是被領導者,今天講領導與被領導的關係,領導要仁,被領導的要忠義。君臣之道也是自然的,君仁臣忠也是。現在的社會,「君」不一定指帝王,是指老闆跟員工、長官跟部屬的關係,老闆、長官是君,員工、部屬是臣。君仁,就是領導者對被領導者要慈愛;臣忠,就是被領導者對領導者要忠誠。現代社會君臣關係雖有,但精神已喪失了。
「君臣に義あり」。君は指導者、臣は指導される人です。今日でいうなら指導する人と指導される人との関係です。指導者には仁がなければならず、指導される人には忠義がなければなりません。君臣の道も自然なことです。君主は臣下に仁を施し、臣下は君主に忠義を尽くす(君仁臣忠)、これも徳です。今の社会では、「君」は帝王を指すとは限りません。経営者と従業員、上司と部下の関係を指します。経営者や上司は君、従業員や部下は臣です。「君仁」とは指導者が指導される人に慈愛を持つことです。「臣忠」とは指導される人が指導者に忠誠を尽くすことです。現代社会では君臣の関係はあっても、その精神は失われています。
如今的社會只講法,沒有情、理,自以為聰明的人鑽法律漏洞,這就是沒有義;做多少工作都要計算代價,是商業行為,這也沒有義。中國古人講義氣,「受人滴水之恩,常思湧泉為報」,現在這個社會有這種觀念的人很難找到了,都講利,人情焉能不冷漠?世界焉能不亂?現在很多公司都是利害的集合,上有老闆、下有員工,不是親情的組織團體,之間利害要是出了狀況,老闆經濟有了困難,周轉不靈,一個月、兩個月工資沒有發,員工馬上包圍工廠,公司就垮掉了。這是道義沒有了,沒有相憐,都是互相對立,都是利害的關係。
今のような社会では、ただ法を講じるだけで、情も理もありません。自分を賢いと思い込む者は法律の隙間を潜ります。これこそ義がないということです。少しばかり仕事をして代価を計算するのは、商業行為です。これも義がありません。中国の古人は義気を重んじます。「人から受けたわずかな恩にも、何倍にもして報いようと思う」(受人滴水之恩, 常思湧泉為報)。今の社会にはこのような観念を持った人はなかなか見つかりません。利を求めるばかりです。人情が薄くならないことがあるでしょうか?世界が乱れないことがあるでしょうか?今では多くの会社は利害関係の集まりになり、上は経営者から下は従業員まで、人情の通う組織集団ではありません。利害に問題が生じて、経営者の経営が困難になり、やり繰りが立ち行かなくなり、一、二ヶ月も給料が止まると、従業員はすぐに工場を包囲して、会社は壊されてしまいます。これは道義がなくなり、相互の憐みもありません。すべて相互に対立して、利害の関係になっています。
如果公司所有人都能明白義理,能守住重義輕利的原理原則,能把父子有親的這種愛表現在上級跟下級的關係之中,彼此互相憐愛、包容、關懷、照顧,互助合作,共存共榮。團體的每一個人,尊重團體、愛團體,不毀謗、不傷害團體,這就是有道義的團體!這樣的公司就能有義且有利,就能給世人做個講義、行義的好榜樣。心裡存義,做出道義、仁義、情義、恩義的形象來影響社會,廣度眾生,讓眾生回歸道義。都能把它做到,就是現代能盡義務的聖賢君子。
もし会社のすべての人が義理を理解して、義を重んじて利を軽んずる原理原則を守ることができて、「父子に親あり」のような親愛が上司と部下の間にあれば、相互に愛し合い、包容し、思いやり、配慮し、助け合い、共存共栄になるはずです。組織のどの人も、組織を愛し、誹謗したり傷つけたりしません。これが道義の組織です!このような会社には義があり、尚且つ利があります。義を重んじ、義を踏み行う世の人のお手本になります。心に義を留め、道義、仁義、情義の形をもって社会に影響を与え、広く衆生を救います。衆生を道義に回帰させます。それがすべてできれば、正に現代において義務を果たすことができる聖人君子です。
朋友に信あり(友人同士の信頼)
「朋友有信」,就是對朋友要守信,言而有信,朋友相互照顧,互相關懷、互相愛護、互助合作,決定沒有欺騙的念頭。但是今天的社會「信」很淡薄了,這一倫維繫也很勉強,現在只有把對兒子、學生乃至對所有人的態度都轉變為對朋友的態度,以朋友身份彼此禮尚往來,才能勉強相處。所以現在五倫所有一切關係都沒有了,連夫妻的關係都沒有了,丈夫把太太看作朋友,太太把丈夫看作朋友,能夠維持好朋友的關係,就算很不錯了。如果連朋友這一倫都沒有了,那以後純粹是利害關係。有利就相處,沒利就分開,就成對頭冤家,這個世界就大亂了。
「朋友に信あり」。友人に対して信用を守らなければなりません。言った約束を守ります。友人はお互いに配慮し合い、思いやり、いたわり、助け合います。決して騙すような考えは持ちません。今日お社会では「信」の心が希薄になりました。この人倫を保つのも無理矢理になり、今では子どもや学生、あらゆる人に対する関係は、友人に対する態度に変わってしまいました。友人の身分でお互いに交流して、なんとか対処しています。ですから今では五倫のあらゆる一切の関係はなくなりました。夫婦の関係さえなくなってしまい、夫が妻を友人と見なし、妻が夫を友人と見なし、仲の良い友人関係を維持できれば、まだましなほうなのです。もしも友人という人倫もなくなれば、その後は純粋な利害関係だけです。利があれば交わり、利がなければ分かれます。腐れ縁のようになり、この世界は大きく乱れます。
要集五倫十義在自己一身!在家同學,對你太太而言是先生的身份;對兒女是父親的身份;對自己父母是兒子的身份;對兄弟姐妹是兄長的身份;對待鄰里鄉黨是朋友的身份;在工作當中,你對上級是被領導的身份,對下屬又是領導的身份。盡自己應該盡的義務、責任。
五倫、十義【注5】を自分の一身に集めなければなりません!在家の学生は、妻に対しては夫の立場、子どもに対しては父親の立場、自分の両親に対しては息子の立場、兄弟姉妹に対しては兄の立場、郷里の人に対しては友人の関係です。仕事においては、上司に対しては部下の立場、部下に対しては上司の身分です。自分が尽くすべき義務、責任を果たすことです。
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【注5】 十義(じゅうぎ)・・・・父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟(てい:年長者に従うこと)、夫の義、婦の聴(話を聞き入れること)、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠。(『礼記』「礼運」)
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人,從早到晚十種身份都具足,丈夫盡到丈夫的責任,妻子盡到做妻子的責任,做父親的要像父親,做兒子像兒子。兄友弟恭,朋友有信,君仁臣忠,兄弟、君臣、朋友,各人都守住各人的本分,盡個人的義務,家庭會美滿,社會會和諧,國家會強盛,世界則大同。
人は朝から晩まで十の身分を具えています。夫は夫の責任を果たし、妻は妻の責任を果たし、父親たる者は父親らしく、子どもは子どもらしくします。兄は弟を可愛がり、弟は兄を敬い、朋友に信あり、兄弟、君臣、朋友、各人が各人の本分を守り、個人の義務を果たせば、家庭は円満になり、社会は調和が保たれ、国家は盛んになり、世界は理想郷になります。
現在五倫關係亂了,家不像家,國不像國,社會就亂了。以父子關係而論,父尊子卑,尊卑有序;兒子跟父親要平等,沒上沒下,這個家就出問題。五倫的秩序是道,就跟大自然的春夏秋冬一樣,不能亂,一亂氣候就反常了,影響到所有一切生物自然的生長。所以亂倫是一個很可怕的事情,根本亂了,那一切都完了。社會動亂、地球災難這麼多,從哪來的?根本沒有了。所以中國古人非常重視根本,對根本的經營是一生當中頭一樁大事,首先要把家治好。
今は五倫の関係が乱れています。家は家らしくなく、国は国らしくなく、社会は乱れています。親子関係で言えば、親は尊び子は謙り、尊卑に秩序があります。子どもと父親が平等で、上も下もなければ、その家には問題が起こります。五倫の秩序は道であり、大自然の春夏秋冬と同じです。乱してはなりません。気候が乱れれば異常になります。あらゆる一切の生物の自然な成長に影響します。人倫の乱れは恐ろしい事です。根本が乱れれば、何もかもお仕舞いです。社会の動乱、地球の災難がこれほど多いのは、どこから来たのでしょうか?根本がなくなったからです。ですから中国の古人は非常に根本を重視しました。根本を一生の一大事として扱いました。まず家をしっかり治めなければなりません。
要是把父子有親、夫婦有別、君臣有義、長幼有序、朋友有信,這五句要做到了,這個世界就大同。用什麼方法能夠達到大同之治?和諧世界?一定從和諧家庭做起,家要不和,社會、世界和不了,家和萬事興。
「父子に親あり。君臣に義あり。夫婦に別あり。長幼に序あり。朋友に信あり」。この五句を実践できれば、この世界は理想郷になります。どのような方法で大同の治、調和の世界に到達するのでしょうか?必ず家族の調和から始めることです。家族が不仲であれば、社会、世界は仲良くなりません。「家族が仲睦まじければ、何事も繁栄する」(家和万事興)というものです。
五倫是道,是中國傳統的大道,人人都能夠遵守,人人身心健康,家庭幸福美滿,社會安定和諧,國家富強,天下太平,這個效果就出來了。
五倫は道であり、中国伝統の大道です。誰もが遵守することができれば、誰もが心身共に健康になり、家庭は幸福に満たされ、社会は安定して調和し、国家は盛んになり、天下太平になります。この効果が出て来ます。
五倫關係正常,社會安定、和諧、圓滿。中國社會千萬年來,是五倫的社會,五倫是圓滿的人道!中國文化要是斷掉了,人類活在這個地球上毫無意義。人道是天道的基礎、是聖道的基礎、是佛道的基礎,無此基礎,所有都不能夠建立。五倫確實是圓明具,能幫助人成聖成賢,能幫助人作佛作聖。
五倫の関係が正常であれば、社会は安定し、調和し、円満になります。中国社会は千万年来、五倫の社会です。五倫は円満な人道です!中国文化がもし断たれれば、人類がこの地球上に生きる意義はなくなります。人道は天道の基礎、聖道の基礎であり、仏道の基礎です。この基礎がなければ、すべてが成り立ちません。五倫は間違いなく円明(えんみょう:円満な悟り)の徳を具えています。人が聖賢に成るのを助け、人が仏に成り、聖人に成る助けとなります。
倫理的第二層道理,是教我們認識人與自然萬物的關係,這個關係搞清楚,就能夠維繫整個地球上自然生態的平衡。今天地球生態失去平衡,這是我們不瞭解人與生活環境的關係,不知道要怎樣愛惜環境,保護環境,培養環境。五倫維繫著虛空法界的秩序,比國家社會範圍大得多。誰懂這個道理?佛菩薩懂,孔夫子懂。
倫理のもう一つの道理は、私たちに人と自然万物との関係を認識させることです。この関係を明らかにすれば、地球全体の自然の生態バランスを維持することができます。今日の地球の生態はバランスを失っています。これは私たちが、人と生活環境との関係が不明瞭で、環境を大切にし、守り、育てることを知らないためです。五倫は虚空法界(こくうほっかい)【注6】の秩序を維持しています。国家社会の範囲よりも遥かに大きいものです。この道理を知っているのは誰でしょう?仏菩薩は知っています。孔夫子は知っています。
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【注6】 虚空法界(こくうほっかい)・・・・因果を超越した根源的な真如の世界。仏菩薩の境界。
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中國古聖先賢,這四千多年來教什麼?就是教倫理。我們只要照這些目來學習,真的可以化解衝突,消除災難,世界的和平、社會的安定真的可以落實。希望我們同發大慈悲心,天天學習,天天習,每天改過自新,斷惡修善,這才是釋迦牟尼佛的好學生。
中国の古の聖賢は、この四千年来何を教えたのでしょうか?正に倫理を教えたのです。私たちはこれらの徳目に学びさえすれば、本当に衝突を解消し、災難を除き、世界の平和と社会の安定を本当に実現することができるのです。私たちは心を合わせて大慈大悲を発し、毎日学び、毎日薫習(くんしゅう:教義の香りが移ること)し、毎日悔い改め、悪を断ち、善を修めなければなりません。それでこそ釈迦牟尼仏の良い学生といえるのです。
――五倫(完)――
五常
「五倫存於心曰道,五常行於事曰」。五倫說盡人與了人的關係,這是道,是性。行事遵守性,就叫。的條目列了五條──五常。「常」是永恆不變,超越時間,超越空間,不能違背,一違背就亂了,現在人稱之為真理。
「五倫存於心曰道,五常行於事曰徳」(五倫が心に存することを道と言い、五常を事において実践することを徳と言う)。五倫は人と人との関係を説き尽くしています。これは道であり、性徳(しょうとく:生まれながらに具えている能力)です。事を行うのに性徳を遵守すること、これを徳と言います。徳の項目は五ヶ条あり、それが五常です。「常」は永久不変です。時間を超越し、空間を超越します。背くことはできません。一たび背けば乱れます。今の人はこれを真理と称しています。
五常就是中國人做人的道標準:「仁、義、禮、智、信」。在佛法裡講就是五戒,不殺生是仁,不偷盜是義,不邪行(不邪淫)是禮,不飲酒是智慧,不妄語是信。五戒、五常,這是做人基本的行。
五常は正に中国人の人としての道徳的基準です。「仁、義、礼、智、信」。仏法の中で説かれている五戒です。不殺生は仁、不偸盗は義、不邪淫は礼、不飲酒は智慧、不妄語は信。五戒、五常、これは人としての基本的な徳行です。
仁
「仁」,是會意字,仁者愛人,推己及人,己所不欲勿施於人,孔子一生教學教什麼?就教這個。如果說用一個字來代表,就是「仁」。仁,就是推己及人,想到自己就要想到別人,自己不願意做的就不可以叫別人做,愛人如愛己,仁慈博愛,這叫仁。
「仁」は会意文字【注1】です。「仁者は人を愛す」。「己を推して人に及ぼす」(自分を顧みて人のことを推し量る)。「己の欲せざる所人に施す勿れ」(自分がされたくない事は人にしてはならない)。孔子一生の教学は何を教えたのでしょうか?正にこれを教えたのです。もし一字を用いて代表とするなら、それは「仁」です。仁とは自分を顧みて他者を推し量ることです。自分の事を考えて、他者の事を考えます。自分がしたいと思わないことは、人にさせてはなりません。自分を愛するように人を愛すること、仁慈博愛、これを仁と言います。
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【注1】 会意文字(かいいもじ)・・・・二つ以上の漢字を組み合わせ、意味を合成して作られた文字のこと。「仁」は「二」+「人」。人と人との間に通う親しみの意味を表す。(『新漢語林』を参照した)
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仁,不可以不愛人,愛人就不會怨恨人,愛人就能夠原諒人,愛人就能夠饒恕人。像阿彌陀佛一樣,造作五逆十惡、毀謗大乘的人都不捨棄,還是那樣的愛他。他為什麼會造這麼重的罪業?無知迷惑,所謂一時糊塗,做錯了事情,只要他回頭改過,好好的教,他還是善人。
仁。人を愛さなければなりません。人を愛せば人を恨みません。人を愛せば人を許すことができます。人を愛せば人を許すことができます。阿弥陀仏のように、五逆十悪を犯し、大乗を誹謗した人も見捨てることなく、やはりそのように人を愛します。その人はなぜそれほど重い罪業を犯すのでしょうか?無知迷妄です。いわゆる一時の迷いです。間違った事をしても、その人が善に立ち帰り、しっかりと教えれば、その人はやはり善人なのです。
現在人可憐,不知道愛自己,更不會愛人!不知道守住自己的本善,這是不自愛。人不自愛,就不會愛人,自愛才會愛人,人懂得愛人就不會害人。愛人從愛父母、妻子、兒女、家親眷屬開始,慢慢再擴大,擴大到最後「凡是人,皆須愛」。
今の人は気の毒なことに、自分を愛することを知りません。尚更人を愛することはできません!自分本来の善を守ることを知らなければ、自分を愛していません。人は自分を愛せなければ、人を愛することはできません。自分を愛せてこそ人を愛することができるのです。人を愛することを知る人は、人を害することはできません。人を愛することは父母、妻、子ども、家族親戚を愛することから始まり、少しずつ広げて、最後には「凡是人,皆須愛」(およそ人たる者は、皆須らく愛し合わなければならない)まで広げます。
在佛法講,不但愛人,還要愛樹木花草、愛山河大地,對待萬物,用真誠心、清淨心、平等心、正覺心、慈悲心。像天、地一樣沒有一絲毫私心,沒有一絲毫分別、執著,平等地照顧一切眾生。在佛法裡面稱作慈悲,大慈大悲對待一切眾生。社會才會祥和安定,問題、衝突才能化解。
仏法で言えば、人を愛するだけでなく、更に樹木や草花、山河や大地を愛す、万物に対して真誠心(しんせいしん:真心、至誠の心)、清浄心(しょうじょうしん:清らかな心)、平等心、正覚心、慈悲心を用います。天地のように僅かな私心も無く、僅かな分別・執着も無く、平等に一切衆生を助けます。仏法の中では慈悲と言います。大慈大悲で一切衆生に接します。社会はそうして順調に安定し、問題や衝突は解消していきます。
義
什麼是義?義是循理,遵循道理,今天講起心動念、言語造作合情、合理、合法。處世,生活、工作、待人接物,除了「仁」,還要用「義」去輔佐,才能做到圓滿。中國自古以來,法定得很嚴,為什麼?希望你不要犯法,目的在此地。執法的時候要恕。這裡就有情、有義。法不能不嚴,不嚴人不怕;執法的時候,不能用殘忍的心,不能用殘酷的手段,還是用愛心來處理。所以,盡量從,讓他生起感恩心、慚愧心,讓他回頭。這是義。
義とは何でしょうか?義は道理に従うことです。今日で言えば、心の働きや言葉や行為が、情に適い、理に適い、法に適うことです。処世、生活、仕事、人間関係は、「仁」の他に「義」を用いて補います。それでこそ円満にすることができるのです。中国では昔から、法律は厳しいものでした。なぜでしょうか?法を犯して欲しくないからです。目的はここにあります。法を執行する時は寛大に許します。この中には情があり、義があります。法は厳しくなければなりません。厳しくなければ人は恐れません。法を執行する時は、残忍な心を用いてはなりません。残酷な手段を用いることなく、愛の心をもって処理します。ですからできるだけ寛容にして、人に感謝の心、慚愧の心を起こさせ、人を改心させます。これが義です。
「義」是盡義務,為一切眾生服務,不求果報,不求回報,不講權利。無論在什麼地位、什麼身分,應當做哪些事情,都要把事情盡心盡力做好;處事待人接物循規蹈矩,利益眾生,不傷害眾生,這就叫義。有義走遍全世界,沒義就走不通。
「義」はなすべき務めを果たすことです。一切衆生の為に奉仕して、果報を求めず、見返りを求めず、権利を重んじません。どのような地位・身分であろうと、すべきことを全力を尽くして行うことです。人間関係はよく規律を守り、衆生を利益して害さないこと。これを義と言います。義があれば全世界を歩き回れます。義がなければ歩けません。
中國自古以來教學是義務,束脩是學生對老師的供養,老師決定不會訂標準,有訂價那是生意買賣。教學是義務,這是師道。若訂價碼,貧窮人受教育的機會就沒有了。所以中國的師道是多麼值得尊敬。
中国では昔から教学は奉仕でした。束脩(そくしゅう:束にした干し肉)は学生の老師に対する供養(謝礼)でした。老師は絶対に基準を定めません。価格を定めれば、それは商売です。教学は奉仕です。これが師道(しどう)です。もし価格を定めれば、貧しい人は教育を受ける機会がなくなります。中国の師道はこれほど尊敬する価値のあるものです。
孔子教學,有教無類,對學生決定沒有分別,學生對老師的供養是隨意的,富有的多供養一點,貧窮的少供養一點,沒有也行。所以老師都很清貧,但是他在社會上有崇高的地位,受到大眾普遍的尊敬。
孔子の教学は、どのような人にも等しく教育しました。学生に対して分別することは絶対にありません。学生の老師に対する供養は自由です。裕福な人は多く供養し、貧しい人は少なく供養します。しなくても良いのです。ですから老師は清貧でした。しかし社会的に崇高な地位があり、大衆から広く尊敬を受けていました。
所以要講求義務,人人都能夠對社會、對大眾願意盡義務,不講求報酬,這個社會才真正有進步。報酬裡有偷工減料的,有偷懶、欺騙的,義務裡頭沒有。
ですから奉仕を重んじること、人々が皆社会に対して、大衆に対して奉仕することを願い、報酬を求めなければ、その社会は本当に進歩します。報酬を受ける者の中には手を抜いたり、ずるをしたり、騙したりする者がいますが、奉仕する者のなかにはいません。
我們要給眾生做個講義、行義的好榜樣。幫助眾生的項目眾多,那要看我們是在什麼樣的地位,什麼樣的身分。或者是用財力,或者是用勞力,或者是用智慧,或者三個都用,盡心盡力,全心全力,為一切苦難眾生工作;幫助他解除苦難,離苦得樂。不要計較報酬,也不要計較工作環境。心裡存義,做出道義、仁義、情義、恩義的形象來幫助社會,廣度眾生,讓眾生回歸道義。
私たちは衆生に義を説き、義を行う良い手本にならなければなりません。衆生を助ける項目はたくさんあります。それは私たちがどのような地位なのか、どのような身分なのかによります。財力を用い、労働力を用い、智慧を用い、或いはその三つを用いて、力の及ぶ限り全力で、一切の苦難の衆生の為に仕事をします。人の苦難を取り除き、苦しみを離れ、安らぎを得るのを助けます。報酬にこだわってはなりません。また仕事の環境にこだわってはなりません。心に義を留めて、道義、仁義、情義、恩義の姿を見せて社会を助けます。衆生を広く済度し、衆生を道義に回帰させます。
礼
禮是生活規範,是社會秩序,禮是有節度的,不能夠超過也不能不及,也不能不到。儒家講的禮,是古聖先賢、祖宗傳下來的教誨。禮的本質(內在精神)就是恭敬、謙卑,表現在外的身口意(三業),自然就現出尊重恭敬別人的相,這就是禮。所以禮是以心為根本。古人講「誠於中而形於外」,內心有誠敬,外在身體自然表現出禮。禮之本——恭敬心,恭敬心是我們本性,是自性中的性,本有的。學禮的目的就是恢復恭敬心,「禮者,敬而已矣」。
礼は生活規範であり、社会秩序です。礼には節度があり、度を越しても、及ばなくても、至らなくてもいけません。儒家の説く礼は、古の先賢、ご先祖様が伝えた教誨です。礼の本質(内在する精神)は恭敬(きょうけい)、謙卑(けんひ:謙遜)であり、外においては身口意(しんくい)に現れ、自然に他人を尊敬し、恭敬する相が現れます。これが礼です。ですから礼は「心を以て根本と為す」のです。古人は「誠於中而形於外」(中(うち)に誠あらば外に形(あらわ)る)と説かれています。心に誠敬(せいけい:真心から敬うこと)があれば、外の身体には自然に礼が現れます。礼の根本は、恭敬心です。恭敬心は私たちの本性であり、自性(じしょう)【注2】の中の性徳です。もともとあるものです。礼を学ぶ目的は恭敬心を取り戻すことです。「礼者,敬而已矣」(礼は、敬のみ)。
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【注2】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)、真心のこと。本来具えている性質。
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在佛教到中國來之前,中國古聖先賢把禮敬擺在第一條,謙卑是基礎,沒有謙卑什麼都不能建立。所以從謙卑開始奠定基礎,然後學敬愛別人,從內心真正敬愛、尊重、關懷、照顧、幫助眾生。
仏教が中国に伝わる前、中国の古の先賢は礼敬を第一条に置いていました。謙卑(けんひ:謙遜)が基礎です。謙卑がなければ何も建てられません。謙卑から基礎を建て始め、その後で人を敬愛することを学びます。心の中から本当に衆生を敬愛し、尊重し、思いやり、配慮し、助けます。
《曲禮》第一句就講「毋不敬」;在佛法講整個宇宙跟自己是一體,所以禮敬要遍法界虛空界,就如普賢菩薩「禮敬諸佛」一樣地謙卑恭敬。對一切人、事、物都不能夠失禮、失敬,這是成佛成聖賢的大根大本。中國聖人跟佛菩薩的觀點一樣,真正有學問、有行的人沒有驕傲,沒有別人不如我的想法,只要有人請教,無論是什麼身分的人,上自國王大臣,下至販夫走卒,他們都親切教導。可見聖賢們平等的恭敬心。
『礼記』「曲礼」の第一句は「毋不敬」(敬わざることなかれ)です。仏法では全宇宙は自分と一体であると説かれています。ですから礼敬は法界虚空界(全宇宙)に遍く広がり、正に普賢菩薩の「礼敬諸仏」(らいきょうしょぶつ:諸仏を礼敬す)と同じように謙卑(けんひ:謙遜)し、恭敬します。一切の人、事、物、すべてに礼と敬いを失してはなりません。これは仏に成り、聖賢に成る大根本です。中国の聖人と仏菩薩の観点は同じです。本当に学問があり、徳行がある人に傲慢さはありません。人は自分に及ばないという考えはありません。ただ教えを請う人がいれば、どのような身分の人であろうと、上は国王大臣から下は物売りや使い走りまで、彼らは親切に教え導きました。聖賢たちの平等な恭敬心が分かります。
「禮」,是有節度的,不超過也不能不及;它給的水準,是剛剛好的,可以欣賞,可以享受,不至於氾濫。佛法講「十善業道、三皈五戒」,其中有淺有深,最淺的人天法就是節制,不至於造成災難!中品十善就保人身,上品十善生欲界天。
「礼」は節度があることです。度を越しても及ばなくてもいけません。その基準は、ちょうど良いということです。楽しんだり、享受したりしても、行き過ぎてはなりません。仏法では「十善業道、三帰依、五戒」を重んじます。その中には浅いものも深いものもあり、最も浅いものは人天(人道、天道)の法、つまり節度です。災難をもたらすには至りません!中品(ちゅうぼん)の十善は人身を保ち、上品(じょうぼん)の十善は欲界天に生まれます。
往大處、往深處講,它是無上菩提的基礎,所以有這些基礎,能深明因果,雖有習氣,煩惱沒斷,但能控制,能止得住,不會太過分,這就是合禮,是名符其實的賢人君子。沒有節度,基礎不能向上提升,人都做不好,怎麼能作佛、作菩薩?
大きなところ、深いところから言えば、それは無上菩提の基礎です。ですからこの基礎があれば、因果を深く理解して、たとえ煩悩の習気(じっけ)を断てなくても、制御することができ、とどめることができ、度を越すことはありません。これが礼に適うことです。名実相伴う聖人君子です。節度がなければ、基礎を高めることはできません。人として良い行いができなくて、どうして仏や菩薩に成れるでしょうか?
作為弟子,想成就學問,無論是世間法、出世間法,先學規矩。所謂「不依規矩,不成方圓」!規矩在佛就是戒律,在儒就是禮;禮是社會大眾生活的規範,人人都要遵守。禮的條文是隨著時代而修訂的,適合時代。
弟子として、学問を成就させようとするなら、世間の法(処世の法)、出世間の法(仏菩薩の法)に関わらず、まず規則を学ばなければなりません。いわゆる「規則に依らねば基準を成さず」です!規則は仏法では戒律です。儒学では礼です。礼は社会大衆の規範です。誰もが遵守しなければなりません。礼の条文は時代に合わせて改正されるものです。時代に合わせます。
古禮,每個朝代,日常生活的禮節,祭祀祖先的禮節,賓主相見的禮節,婚喪喜慶的禮節,都訂得很清楚,一定要照著做才不失禮,不照做就不懂禮。譬如人跟人相見面,在古禮行最敬禮,就是三跪九叩首,這是最恭敬的禮節;現在最恭敬的禮節是三鞠躬,不一樣了。
古礼はどの王朝時代においても、日常生活の礼節、先祖祭祀の礼節、主客面会の礼節、冠婚葬祭の礼節、すべて明確に定められていました。礼に照らして行えば礼を失することはありません。礼に照らさずに行えば礼儀知らずになります。人と人が面会する時、古礼における最敬礼を行うなら、それは三跪九叩首(さんききゅうこうしゅ)【注3】です。これは最も恭敬を尽くした礼節です。現在の最も恭敬を尽くした礼節は、三度の鞠躬(きっきゅう:立ったままのお辞儀)です。同じではありません。
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【注3】 三跪九叩首(さんききゅうこうしゅ)・・・・跪いて三拝して立ち上がる動作を三度繰り返す最敬礼。三跪九叩、三跪九叩の礼、三跪九叩頭とも言われる。「叩首」と「叩頭」は同義で、いずれも地に頭をつけること。日本では土下座というと非を認めて謝罪するものとしての意味ばかりが強調されるが、本来は相手に敬意を表す、礼節の作法であった。
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從滿清亡國之後,一直到現在,將近一百年沒有禮樂。比如父母過去了,喪禮怎麼辦?披麻帶孝,那是滿清的禮。國家沒有制禮作樂,怎麼做都對。這在將來史學講這叫亂世,沒有規矩。從前朝代,歷史上有他的史,那什麼原因?他制禮作樂,就是說他的政治上軌道。沒有禮樂,就是始終還沒有上軌道,還在摸索。
清朝が滅んだ後、今に至るまでずっと、百年近く礼楽(れいがく)【注4】はありません。例えば両親が亡くなったら、葬礼はどうするのでしょうか?「披麻帯孝」(白の麻布をかぶって喪に服すこと)です。それが清朝の礼です。国家が礼楽を定めなければ、どのようでも良くなってしまいます。それは将来の史学で乱世と呼ばれます。規則がありません。昔の王朝時代、歴史上その「史」(歴史書)がありました。その原因は何でしょうか?礼楽を定めていたからです。つまり政治に軌道がありました。礼楽がなければ、始終軌道に乗ることはなく、模索し続けることになります。
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【注4】 礼楽(れいがく)・・・・社会秩序を定める「礼」と、人心を感化する「楽」。秩序ある社会を作るための礼節と音楽。
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中國這一次的亂,在歷史上來講時間是最長的。我們讀中國歷史,知道中國這兩千多年當中,任何一個朝代建立,帝王都要重新制禮作樂來教化人民,一般頂多是五年,國家一定就公佈禮樂,全國必須要推行,人人都知道守規矩,所以中國古時候是禮治,不是法治;法治是強迫性的,禮治是從內心裡的服。
中国の今回の乱れは、歴史的にも最も長いものです。私たちは中国の歴史を読みますと、中国のこの二千年の中で、如何なる王朝が築かれても、帝王は皆新たに礼楽を定めて人民を教化しました。一般には多くて五年です。国家は必ず礼楽を公布して、全国に普及させなければなりません。誰もが規則を守ることを知っていました。ですから中国は昔は「礼治」でした。「法治」ではありません。法治は強迫的です。礼治は心の中から敬服させるものです。
中國自古以來的標準:道、、仁、義、禮,禮是底線。有禮社會就有秩序,大家心理都安,都能委曲求全。「全」是圓滿,是社會安定、世界和平、人民幸福。自己受一點委屈,得到圓滿,值得!不肯委屈,圓滿就得不到了。所以一定要有禮,禮能安心。如果沒有禮,就沒有規矩,社會不會安定,人民不知道怎樣做對,怎樣做不對。就像車行走有軌道,有軌道很舒暢。軌道沒有了,車輛衝直撞,局面就亂了。
中国の古くからの基準は、道、徳、仁、義、礼です。礼は最低ラインです。礼のある社会には秩序があり、人々の心は安心し、不満があってもまるく収めようとします。まるは円満であり、社会の安定、世界の平和、人民の幸福です。自分に少々不満があっても、円満になるならその価値はあります!不満を受け入れられなければ、円満は得られません。ですから必ず礼がなければなりません。礼は心を安んじます。もし礼がなければ規則がなくなります。社会は安定しません。人民はどうすれば正しく、どうすれば間違いなのか分かりません。ちょうど車の通行に車道があるようなものです。車道があれば快適に走れます。車道がなければ車両は縦横に衝突して、場が乱れてしまいます。
禮是人類區別於禽獸的標誌,禮是文明的象徵。古人曰:「凡人之所以為人者,禮義也」。如今,人和動物的區別,就在於人有禮,禮是我們做人最低的標準。禮是起到預防、防禦的作用,是治未病,法律是手術開刀,是治已病;禮是讓我們自覺的維護道,到了法律,是已經完全違背了道、道義,所受到的制裁。
礼は人類と鳥獣とを区別する目印です。礼は文明の象徴です。古人曰く、「凡人之所以為人者,礼義也」(凡そ人の人たる所以(ゆえん)は、礼義なり)。今でも人と動物の区別は、人に礼があることです。礼は人としての最低ラインの基準です。礼には予防、防御の作用があり、未病を治します。法律はメスを入れる手術です。患った病気を治します。礼は私たちに道徳を守ることを自覚させるものです。法律とは、完全に道徳・道義に背いてから受ける制裁です。
所以學禮,不是約束、要求我們,而是在成就我們做人的美,成就我們的行和學問。禮沒有了,完全是爭利。現在這個社會沒有禮,都在爭利,天下大亂了,防線都沒有了。內三毒,外誘惑,人失去了人的軌道,那跟餓鬼、地獄、畜生就沒有兩樣。
ですから礼を学ぶことは、束縛を要求するものではありません。私たちに人としての美徳を成就させ、徳行と学問を成就させるものです。礼がなくなれば、完全に利を争うばかりになります。今のこの社会には礼はありません。すべて利を争い、天下は乱れています。予防線さえなくなっています。内の三毒(貪瞋痴)、外の誘惑、人は人としての軌道を失っています。それでは餓鬼、地獄、畜生と何も変わりがありません。
沒有禮,儒就沒有了,學儒就變成儒學。秩序沒有了,規範沒有了,所以現在學禮很難,只有找古禮,《弟子規》、《感應篇》、《十善業》是最淺顯的禮節,是基礎。禮治的基礎是教學,人人能夠懂得忠孝節義,從這裡下手,能自度度他,禮治就可以落實,這樣,才能夠幫助社會安定,幫助世界走向和平。
礼がなければ儒はありません。儒に学ぶのではなく、儒の学術に変わってしまいます。秩序がなくなっています。規範がなくなっています。ですから今は礼を学ぶのは難しく、古礼に求める他はありません。『弟子規』、『太上感応篇』、『十善業道経』は最も簡明で分かりやすい礼節であり、基礎です。礼治の基礎は教学です。誰もが忠孝の礼節を理解すること。ここから着手します。自分を救い、人を救うことができます。それで礼治は実行できます。そうなれば社会の安定を助け、世界が平和に向かうのを助けることができます。
智
「智」是理智,處事待人接物要理智,不能感情用事,就不會犯過失。「智」跟佛法所主張的完全相同,這是屬於性。現在人多半感情衝動,頭腦不夠冷靜。頭腦冷靜就有理智,才能真正判斷正邪、是非、真妄。感情衝動的人不辨是非,不曉得好歹,一切都順著情欲。佛是順理智,理智是覺,感情是迷。
「智」は理智です。物事の対処や人間関係には理智が要ります。感情で事に対処しなければ、過失を犯すことはありません。「智」は仏法の主張するところと完全に同じです。これは性徳(しょうとく:生まれながらに具えている能力)に属します。今の人は多くの人が感情の衝動に駆られて、頭脳の冷静さが足りません。頭脳が冷静であれば理智があり、本当に正邪、是非、真妄を判断することができます。感情の衝動に駆られている人に是非の区別はつきません。良し悪しは分かりません。すべて情欲に従っています。仏は理智に従います。理智は悟りであり、感情は迷いです。
信
「信」是言而有信,講信用。中國人講相信自己,相信自己本來是聖賢,相信自己本性本善,相信自己本來是佛,相信自己只要努力,能恢復到自己的本位。學佛要相信自己本來是佛菩薩,能成佛菩薩,不相信自己是佛菩薩,永遠不會成佛菩薩。不相信自己的心是本善,永遠做不到善人。我們就是因為無始劫以來不相信自己本來有圓常的覺性,所以一直在迷。
「信」は約束を守ること、信用を重んじることです。中国人は自分を信じることを重んじます。自分は本来聖賢であると信じ、自分の本性は善であると信じ、自分は本来仏であると信じ、自分は努力しさえすれば自己の能力を取り戻せると信じることです。仏法を学ぶには、自分は本来仏菩薩(ほとけぼさつ)であり、仏菩薩に成れると信じなければなりません。自分が仏菩薩であると信じられなければ、永遠に仏菩薩には成れません。自分の心は本来善であると信じられなければ、永遠に善人にはなれません。私たちは正に無始劫(むしごう:果てしなく長い時間)以来、自分には本来円常の覚性があることを信じられないために、迷い続けているのです。
「信」是基本的道,稱為信。這是做人最基本的道理;是做事情負責任,說到做到,絕不欺騙別人。孔子講「人無信不立」,老祖宗把信放在道的最底限,五常:仁義禮智信,信是最後一個行,如果信沒有了,前面四個全部都是假的。
「信」は基本の道徳で、信徳と言います。これは人としての最も基本的な道理です。事に当たっては責任を持ち、言うこと為すこと、絶対に人を騙してはなりません。孔子は「人無信不立」(人信無くば立たず:人は信頼がなければ成り立たない)と説いています。ご先祖様は「信」を道徳の一番下に置きました。五常は、仁義礼智信です。信は最後の徳行です。もし信がないなら、前の四つはすべて偽りです。
信好比是第一層樓,理智是第二層,禮是第三層,義是第四層,仁是第五層,第一層沒有,前面四個全都沒有,信是道的根基,人要不講信用,所有道都毀掉了。中國自古以來把信擺在做人第一個條件,人無信則不能立足於社會。信是傳統文化的最後的一個底限,如果信心失掉,中國傳統文化就滅了。
信はちょうど建物の一階のようなものです。理智は二階、礼は三階、義は四階、仁は五階です。一階がなければ上の四つは全部ありません。信は道徳の基盤です。人が信用を重んじなくなれば、あらゆる道徳は崩壊します。中国は昔から「信」を人としての第一条件に置いていました。人は信用がなければ社会に立つことはできません。信は伝統文化の最後の一線です。自信を失えば中国の伝統文化は滅びます。
方東美先生曾經跟我說過,古時候中國人有信心,現在沒有了。你去調查一下,你能相信自己嗎?你能相信父母嗎?你能相信老師嗎?你能相信家親眷屬嗎?能相信你的朋友嗎?答案全是否定的,這個日子怎麼過!這真正叫信心危機。
方東美先生はかつて私に言いました。昔の中国人には信じる心がありました。今はなくなりました。調査してみて下さい。あなたは自分を信じられますか?両親を信じられますか?家族親戚を信じられますか?あなたの友人を信じられますか?答えはすべて否定的なものです。どのように暮らしていくのでしょうか!これは本当に信じる心の危機というものです。
今天社會為什麼這麼亂?地球災難為什麼這麼多?第一個因素就是我們把信心失掉了,造成社會動亂,災難頻繁。如何拯救社會?如何化解地球上的災難?那就是建立信心。信心怎麼建立?讀聖賢書。英國歷史哲學家湯恩比博士教人,「解決二十一世紀世界的社會問題,只有中國孔孟學說跟大乘佛法」。從孔孟學說、大乘佛法建立信心。
今の社会はなぜこれほど乱れているのでしょうか?地球の災難はなぜこれほど多いのでしょうか?第一の要素は私たちが信じる心を失ったことです。そのために社会の動乱を招き、災難が頻繁に起きているのです。どうすれば社会を救えるのでしょうか?どうすれば地球上の災難を解消できるのでしょうか?それは信じる心を打ち立てることです。信じる心はどのように打ち立てるのでしょうか?聖賢の書を読むことです。イギリスの歴史哲学者・トインビー博士は、「二十一世紀の社会問題を解決するのは、中国の孔孟学説と大乗仏法しかない」と言っています。孔孟学説、大乗仏法から信じる心を打ち立てることです。
仁義禮智信,五種基本的道,這是做人的基礎,起心動念、言語造作都不能違背。《左傳》上有句話說,「人棄常則妖興」,意思是說人要把五常仁義禮智信丟掉,就不是人了,是妖魔鬼怪,因為妖魔鬼怪不講仁義禮智信。
仁義礼智信は、五つの基本の道徳です。これは人としての基礎であり、心の働きや、言葉や行為において背いてはなりません。『春秋左氏伝』には、「人棄常則妖興」(人常を棄つれば則ち妖興る:人が常識を失えば妖怪が栄える)と説かれています。その意味は、もし人が仁義礼智信の五常を失えば、人ではないということです。妖怪です。妖怪は仁義礼智信を重んじません。
我們現在講人格,人格就是做人的資格,就是這五條。要想來世還得人身,那得好好把這個人格保持住,一生當中起心動念、言語造作都能守住這五,來生才能得人身。要生天,這五個條件要加強,要修十善業道才能生天,天的資格比人要高。可見五常太重要了。古今中外永遠不能變更的,人人需要遵守的,決定不能夠失掉。
私たちは今人格を重んじます。人格は人としての資格であり、正にこの五ヶ条です。来世でも人身を得たいと思うなら、しっかりと人格を保持して、一生涯心の働きや、言葉や行為、すべてこの五徳を守ることです。来世は人身を得られます。天に生まれたければ、この五ヶ条をより強化しなければなりません。十善業道を修めてこそ天に生まれます。天の資格は人よりも高いのです。五常はどれほど重要なことでしょうか。古今東西永遠に変更することはできません。誰もが遵守しなければなりません。絶対に失ってはなりません。
要拯救災難,要端正社會風氣,傳統倫理道必須提倡,仁義禮智信這五個字是總綱領。
災難を救おうと思うなら、社会の気風を正さなければなりません。伝統の倫理道徳を必ず提唱しなければなりません。仁義礼智信、この五字はすべての綱領です。
生活在感恩的世界 / 感謝の世界を生きる
香港佛陀教育協會 2010/12/26 檔名:21-622-0001
諸位法師,諸位同修,大家好!歡迎諸位到香港這個小道場來參學,我們這個道場也希望做一個帶頭的作用,把佛教回歸到教學。我們想到世尊在當年,照中國人歷史的記載,釋迦牟尼佛滅度到今年是三千零三十七年,跟外國人的算法不一樣,外國人是二千五百多年,相差六百年。到底哪個對哪個不對,不要去計較,都有依據。
法師各位、皆様方、皆様こんにちは。皆様が香港のこの小さな道場に参学にいらしたことを歓迎いたします。私たちの道場が先頭に立つ役割を担い、仏教を教学に回帰させることを願っています。私たちは世尊在世の頃を思いますと、中国人の歴史の記載に照らせば、釈迦牟尼仏が滅度されてから今年で三千三十七年になります。外国人の数え方とは異なります。外国人は二千五百年余りで、六百年の差異があります。どちらが正しいのかを問題にすることはありません。どれにも根拠があります。
這個事情曾經有人問我,佛滅度幾年的事情,我就告訴大家,我說這個是沒法子解答的。不要問佛,問我們自己,我們自己小時候,二、三歲的事情,六、七歲的事情,你能曉得到底是哪一天,哪一月哪一日?搞不清楚,連自己出生的時辰都搞不清楚,一個時辰是兩個小時。你說是三千年前的事情,找誰?只有找釋迦牟尼佛,釋迦牟尼佛來了問他,他曉得,除他之外,沒人知道這個事實真相。所以不必在這上打妄想,佛法叫我們學的是清淨心,不要去計較這些事情。但是我們中國老一代的法師,像我們熟悉的虛雲老和尚、印光老法師、諦閑老法師,他們都用中國的紀年,都是用三千零三十七年,都用這個紀年。世尊成道之後,三十歲成道之後,一生都在教學,這是我們從經典裡面都能看得出來的,每一天講經教學,沒有中斷過。所以佛法是教育,佛法不是宗教,這一點一定要認識清楚。
この事はかつてある人が私に質問しました。仏が滅度されたのは何年なのか。私は皆に、これは解答しようがないものだと言いました。仏に問うのではなく、私たち自身に問うべきです。私たちは子どもの頃、二、三歳の頃の事、六、七歳の頃の事を、いったい何月何日などと覚えているでしょうか?はっきりしません。自分の生まれた時辰(時間)さえはっきりしません。一つの時辰は二時間のことです。三千年前の事は、誰に聞いたら良いのでしょう?釈迦牟尼仏に聞く他はありません。釈迦牟尼仏がいらっしゃれば聞けますが、彼の他にこの事実の真相を知る人はいません。(笑) ですからこのことを妄想する必要はありません。仏法が私たちに学ばせるのは清浄心(しょうじょうしん=清らかな心)です。これらの事を問題にすることはありません。しかし中国の一世代前の法師、私たちが良く知る虚雲老和尚、印光老法師、諦閑老法師たちは皆中国の年を使って、三千三十七年としていました。皆この年を使っていました。世尊は三十歳で成道された後、一生教学されました。これは経典の中に見て取ることができます。毎日講経、教学して、中断したことはありません。ですから仏法は教育です。仏法は宗教ではありません。この点は必ずはっきりと認識しなければなりません。
可是佛法變成宗教,被人誤以為是宗教,而且以為是低級宗教,給我們的印象很深。我在沒有遇到方東美先生之前,我也認為佛教是宗教、是迷信,所以從來不接觸宗教,不願意接觸。自己以為自己是個知識分子,不願意跟宗教為伍,你說這個毛病犯得多大!我二十六歲跟方東美先生學哲學,方老師非常難得,特別給我開的課程,給我講一部《哲學概論》。《哲學概論》是從西方講起,講到中國,最後講到印度,從印度哲學裡頭,最後一個單元他跟我講的是「佛經哲學」。我那個時候感到很驚訝,我說佛教是宗教,是多神教,它什麼神都拜,是多神教,多神教在宗教裡頭是屬於低級宗教,高級宗教只有一個真神,沒那麼複雜。佛教裡面你看看佛菩薩,不知道,都以為是神,所以就很輕視它。
しかし仏法は宗教に変わりました。人に誤って宗教だと思われ、しかも低級な宗教だと思われています。私たちの印象はとても深いものです。私は方東美先生にお会いする前、仏教は宗教であり、迷信だと思っていました。ですからそれまで宗教に接触したことはなく、接触しようとは思いませんでした。自分で自分のことを知識分子(インテリ)だと思い込み、宗教の仲間にはなりたくないと思っていました。この誤りはどれほど深刻なことでしょうか!私は二十六歳で方東美先生に哲学を学びました。方老師は非常に有り難いことに、特別私の為に『哲学概論』を講義して下さいました。『哲学概論』は西洋から講じ始め、中国を講じ、最後にインドを講じました。インド哲学の中の、最後の一単元で方老師が講じて下さったのが「仏経哲学」でした。私はその当時とても驚きました。仏教は宗教で、多神教なので、何でも拝みます。多神教は宗教の中では低級の宗教に属し、高級な宗教はただ一つの神様なので、それほど複雑ではありません。仏教の中には仏菩薩がいて、分からないので、すべて神様だと思っていました。それをとても軽視していました。
老師告訴我,他說你還年輕,你不知道,釋迦牟尼佛是世界上最偉大的哲學家;我們學哲學,找哲學家學,他是哲學家。說「佛經哲學是全世界哲學的最高峰」,這我們從來沒有聽人說過,「學佛是人生最高的享受」。我從這個課程裡面,才把從前那些誤會洗刷乾淨,接受佛教是偉大的教育,這才開始接觸佛經。老師告訴我(那些話都很重要),他說你要真正修學佛經哲學,佛經哲學不在寺廟。我問在哪裡?過去的出家人真正都是有學問、有行,真的是大哲學家,這是過去的。他說現代出家人他們不學,不研究經典了,經典在,沒有人去研究它,所以現在佛經哲學在經典裡頭。他叫我從經典上下手,這條路指得非常正確,所以以後我們就進入寺院,也參加些活動,主要的目的是找經書。
老師は私に、「あなたはまだ若いから知らないのです。釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な哲学者です。私たちは哲学を学びます。哲学者に学びます。彼は哲学者です」と言いました。「仏経哲学は全世界の哲学の最高峰である」と言われました。これは、これまで誰にも聞いたことがありません。「仏法を学ぶことは人生最高の享受である」。私はこの講義の中で、ようやく以前の誤解をきれいに洗い流し、仏教は偉大な教育なのだと受け入れました。そしてようやく仏経に触れ始めました。老師は私に言いました(それらの話はとても重要です)。老師は言いました。あなたが本当に仏経哲学を修学したいなら、仏経哲学は寺の中にはありません。私はどこにあるのかと質問しました。昔の出家僧は本当に学問があり、徳行があり、本当に大哲学者でした。それは過去のことです。老師は言いました。現代の出家僧たちは学んでいません。経典を研究していません。経典はあっても、それを研究する人はいません。ですから現在仏経哲学は経典の中にあります。老師は私に経典から着手させました。この道はまったく正しいものです。ですからそれ以後私たちは寺院に出入りして、活動にも参加しました。主な目的は経書を探すことでした。
在我那個時代,就是六十年前,經書非常稀少,一般書店沒有得買。那時候我住在台灣,台灣印經書只有三家,台北有個佛經流通處,是居士們辦的,種類少,數量也很少。第二個就是台中瑞成書局,第三個是台南有個慶芳書局,這兩個書局印一點佛書,數量、種類都非常稀少,都是一般寺廟裡讀誦的,像《彌陀經》、《金剛經》、《地藏經》,這些類普遍,他們印這些東西。我們所要學習的典籍、經論幾乎都找不到,所以必須要找《大藏經》。寺廟裡頭有藏經樓,有圖書館,我們到寺廟裡面去借經書。《藏經》是借不出來的,因為它整套的,他怕散失,多半我們帶筆記本,一整天在裡頭抄經,所以學東西都非常辛苦。我還抄過十幾部經典,這在那個環境之下,才真正認識了這個東西。
あの時代、六十年前、経書は非常に少なく、普通の書店では買えませんでした。あの頃私は台湾に住んでいました。台湾で経書を印刷していたのは三社だけでした。台北に仏経の流通所があり、(在家の)居士たちがやっていたのですが、種類も数も少量でした。二つ目は台中の瑞成書局、三つ目は台南の慶芳書局です。この二つの書局は仏教書を少し印刷していました。数量、種類は非常に少なく、すべて一般の寺院で読誦する『阿弥陀経』、『金剛経』、『地蔵経』などです。これらの広く流通しているものを印刷していました。私たちが学びたい典籍、経論はほとんど見つかりません。ですから『大蔵経』を探さなければなりません。寺院の中には蔵経楼(経を保管する建物)があり、図書館があります。私たちは寺院に経書を借りに行きました。『大蔵経』は借りられません。それは全部揃っているものなので、散失するのを心配するからです。大半はノートを持って行き、一日中経を書き写しました。ですから学ぶのは非常に苦労しました。私は十数部の経典を書き写しました。あの環境だったからこそ、本当にこれ(経典の価値)を認識できたのです。
以後我認識章嘉大師,這是藏傳的四大喇嘛之一。很多人都曉得達、班禪,其實還有兩個,他們是四兄弟,宗喀巴大師的弟子。前藏達,後藏班禪,內蒙章嘉,外蒙哲布尊丹巴,這四大活佛,從元朝時候就開始受帝王的封號。章嘉是內蒙古的。我認識他之後,我的佛學基礎是他老人家奠定的,這位大師非常開明,真的一點迷信都沒有,跟方東美先生一樣。他告訴我,你要學佛,首先要認識釋迦牟尼佛;你要不認識釋迦牟尼佛,你可能就會走向歧途,在我們國內人講的,你要走彎路了。教我看什麼?這書都他指點的,我第一部正式看的佛經是《釋迦譜》、《釋迦方志》。這是唐朝時候人編的釋迦牟尼佛的傳記,才認識釋迦牟尼佛,從這兒開始。才知道世尊一生的行誼,曉得他是王子,聰明好學,代表我們現前的所謂知識分子,他代表知識分子。我們也是知識分子,所以就很投緣,好學,廣學多聞!他十九歲離開家庭,離開宮廷的生活,榮華富貴的生活,出去參學。
その後私は章嘉大師と出会いました。この方はチベット仏教の四大ラマの一人です。多くの人はダライ、パンチェンを知っていますが、実はあと二人います。彼らは四兄弟で、ツォンカパ(宗喀巴)大師の弟子です。前蔵のダライ(達頼)、後蔵のパンチェン(班禅)、内蒙古のチャンジャ(章嘉)、外蒙古のジェプツンダンバ(哲布尊丹巴)、これは四大活仏です。元朝の頃から帝王の封号(ほうごう=中国の皇帝が授ける称号)を受け始めました。章嘉は内モンゴルのものです。私は章嘉大師とお会いした後、私の仏法を学ぶ基礎は確立されました。この大師は非常に考えが開けていて、本当に一点の迷いさえありません。方東美先生と同じです。章嘉大師は私に、「仏法を学ぶなら、まず釈迦牟尼仏を知らなければならない。釈迦牟尼仏を知らなければ、君は誤った道(歧途)に進むかもしれない」と仰いました。私たち国内(中国大陸)の人が言う、回り道(彎路)のことです。私に何を学ばせたのでしょう?書物はすべて大師が指示したものです。私が正式に学んだ最初の仏経は『釈迦譜』、『釈迦方志』です。これは唐朝の頃の人が編纂した釈迦牟尼仏の伝記です。(これを読むことで)ようやく釈迦牟尼仏を知りました。そこから始まったのです。ようやく世尊一生の行誼(こうぎ=正しい行い)を知りました。彼は王子でした。聡明で学問を好みました。私たちが今言うところの知識人です。彼は知識人の代表です。私たちも知識人です。ですからとても気が合います。学問が好きで、博学多聞です!彼は十九歳で家を離れました。宮廷の生活、栄華を極めた生活を離れて、参学に出ました。
印度在那個時候,我們學哲學知道,印度對於哲學的造詣都非常之高深,印度的學派他都學過,印度的宗教他也都學過。在古印度,不論是宗教還是哲學,他們都非常重視禪定,所以六道輪迴不是佛說的,是婆羅門教講的。婆羅門教的歷史至少有一萬三千年,我們能信得過,他是世代相傳,他不重視歷史,不像中國人,中國人對歷史是記載得很詳細,他們不重視歷史,重視禪定。禪定裡面的境界突破了時空,他能看到過去,能看到未來;六道裡面,他上面能夠看到非想非非想處天,下面能看到阿鼻地獄,他有這種能力。所以對於六道就講得很清楚、很明白。四禪八定,學佛的人也要修,四禪八定是婆羅門教的,那叫世間禪定,你有這個禪定,你就能夠突破六道的空間維次,你就都知道了。修這種禪定的人很多,不是一個、二個,所以這個事是事實真相,他跟我們說出來。可是這裡頭有問題,六道的真相明白了,六道從哪裡來的?為什麼會有六道?六道之外還有沒有世界?像這些問題,你想想看,一個聰明的年輕人肯定打破沙鍋問到底。我年輕時候就是這樣的,就要追根究柢,沒人能解答。這就是釋迦牟尼佛教學的一種方式,真正是了不起,跟我們走的一條路,讓我們完全心誠服,你不能不服他。
私たちは哲学を学んで知っているように、インドはその頃、哲学に対する造詣が非常に深く、彼はインドの学派をすべて学び、インドの宗教もすべて学びました。昔のインドでは、宗教や哲学に限らず、禅定を非常に重視していました。ですから六道輪廻は釈尊が説いたのではなく、バラモン教で説かれたものです。バラモン教の歴史は少なくとも一万三千年はあります。そう信じることができます。バラモン教は代々受け継がれながら、歴史を重視しません。中国人とは異なります。中国人は歴史に対する記載がとても詳細です。彼らは歴史を重視せず、禅定を重視します。禅定の中の境界で時空を突破すれば、その人は過去を見ることができ、未来を見ることができます。六道の中では、上には非想非非想処天が見え、下には阿鼻地獄を見ることができます。その人にはこのような能力があります。ですから六道について、はっきりと明確に説かれています。四禅八定は、仏法を学ぶ人も修めなければなりません。四禅八定はバラモン教のもので、それを世間の禅定と言います。あなたにこの禅定があれば、六道の次元空間を突破することができるのです。六道はどこから来るのでしょうか?なぜ六道があるのでしょうか?六道の他に世界があるのでしょうか?このような問題は、若者であれば間違いなくとことんまで突き詰めることでしょう。私が若い頃は正にそのようでした。徹底的に追究して、解答できる人は誰もいません。これこそが釈迦牟尼仏の教学の一つの方式です。本当に素晴らしいものです。私たちと歩む一筋の道、私たちを心の底から承服させます。承服しない訳にはいきません。
在這個狀況之下,佛學了十二年,三十歲,到三十歲了,大概值得去學習的地方他都去過,也就算圓滿了。這答案沒解決,而且一般學術界跟宗教界的解釋不能滿意,他就到恆河邊大樹底下入定,入更深的禪定,把十二年所學的東西統統放下。要不放下,那是障礙,叫所知障。所以,佛跟我們講,煩惱障他放下了,他很早就放下了,這個時候把所知障放下。兩種障礙放下之後,他開悟了,畢缽羅樹現在我們叫它做菩提樹,他在這棵樹底下開悟。夜睹明星,大徹大悟,明心見性,我們一般講成佛了,問題全部解決,完全了解了。
この状況の下、釈尊は十二年学び、三十歳になりました。だいたい学ぶ価値のある所にはすべて行きました。それなりに円満と言えました。この問題は解決しませんでした。その上一般の学術界や宗教界の解釈では納得がいきませんでした。彼はガンジス川の畔に行き、大樹の下で入定しました。更に深い禅定に入り、十二年学んだものをすべて放下しました。放下しなければ、それは障碍であり、所知障と言います。ですから、仏は説かれています。煩悩障はとうの昔に放下していました。この時に所知障を放下しました。二つの障碍を放下した後、彼は悟りを開きました。畢鉢羅樹(ピッパラ)は今では菩提樹と言います。彼はその樹の下で悟りを開きました。夜の明星を見て、大徹大悟、明心見性しました。私たちは一般に仏に成ると言います。問題はすべて解決しました。完全に理解しました。
了解之後,他把他所見到的境界全都說出來,用了多少時間?經典上講二七日,二個星期,也有經上講三七日,都有根據的,那就是二十一天,換句話說,不超過二十一天。在哪裡講?定中講的。我們看到釋迦牟尼佛是在菩提樹下打坐,在那裡入定,誰知道他在那裡講經。這是什麼經?《大方廣佛華嚴經》,《大方廣佛華嚴經》就是佛開悟的時候,看到整個宇宙的境界,他把它說出來。這定中,我們人看不到,誰參加他這一次的講演、報告?這經上說,四十一位法身大士,他們有這個能力參與釋迦牟尼佛這個大會的報告,那都是明心見性,見性成佛的這些菩薩們。
理解した後、彼は自分か見た境界をすべて話しました。どのくらい時間を用いたでしょうか?経典には十四日、二週間講じたとあり、またある経典には二十一日講じたとあります。どちらも根拠があります。言い換えるなら、二十一日は越えていません。どこで講じたのでしょう?定の中で講じました。釈迦牟尼仏は菩提樹の下に座り、そこで入定しました。彼がそこで講経するのを誰が知っているのでしょうか。これは何の経でしょう?『大方広仏華厳経』です。『大方広仏華厳経』こそ仏が悟りを開いた時に見た全宇宙の境界です。彼はそれを話しました。これは定の中においてです。私たち人間には見えません。誰がこの講演に参加したのでしょう?これは経には、四十一位法身大士と説かれています。彼らは釈迦牟尼仏のこの会の講演に参与する能力があります。それは明心見性、見性成仏した菩薩たちです。
>>> 感謝の世界を生きる 2/5 につづく・・・。
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這個經講完之後,大龍菩薩,這也是一位等覺菩薩,把這個經典就收到龍宮裡面去收藏,我們世間人不知道。是佛出定之後,看看這些世間人水平都不高,都像小學生一樣,得從頭來起。從頭來起講什麼?講阿含,阿含是什麼?人天法。就等於是辦學,從小學辦起,慢慢再培養他,所以阿含是小學,十二年,基礎教育,教你怎麼做人。你知道有天上,婆羅門都講天,諸天,二十八層天他都知道,佛教你怎麼樣生天,你想到天上去,怎麼個修法,滿大家的願,這是小乘法。小乘講完之後,等於說小學畢業了,再向上提升,這就好比是中學,就是方等,方等八年;八年之後再接著講般若,般若二十二年。這我們就知道,他老人家一生講經是四十九年,般若佔二十二年,幾乎是一半,換句話說,我們就知道這是主要的、最重要的,般若好比是大學。最後的八年《法華》,《法華》就又回到了《華嚴》,跟《華嚴》是同樣的境界。這八年像是研究所一樣,這是最高的,成佛的《法華》,開智慧的《楞嚴》,古大常常說的。所以,釋迦牟尼佛一生,你看他的循序,小學、中學、大學、研究所,他確實是這樣辦的,一生沒休息。
この経を講じ終えた後、大龍菩薩という等覚の菩薩は、この経典を龍宮の中に収蔵しました。世間の人は知りません。仏が定を出た後、見ると世間の人の水準は高くありません。まるで小学生と同じです。初めから教えなければなりません。初めから教えるのに何を講じたのでしょう?阿含(あごん)です。阿含とは何でしょう?人天の法(人道、天道の境界を対象とする法)です。ちょうど学校のように、小学から始めて、少しずつ育成します。ですから阿含は小学です。十二年の基礎教育です。あなたに人としての身の処し方を教えます。あなたは天上界があることを知っています。バラモン教でさえ天を講じます。諸天二十八層の天を知っています。仏はどうすれば天に生まれるのかを教えました。あなたが天上に行きたいなら、どう修めれば良いか、人々の願いを満たします。これは小乗の法です。小乗を講じ終わると、小学校を卒業したのと同じです。更に向上すると、ちょうど中学と同じで、それが方等(ほうどう)です。方等は八年です。八年後に更に続けて般若(はんにゃ)を講じました。般若は二十二年です。ここで私たちは理解します。仏が生涯講経した四十九年のうち、般若は二十二年を占めており、ほぼ半分です。言い換えるなら、私たちはこれが主要なもの、最も重要なものと理解することができます。般若は大学のようなものです。最後の八年は『法華経』です。『法華経』はまた『華厳経』に戻ります。『華厳経』と同じ境界です。この八年は研究所と同じです。これが最も高いものです。仏に成る『法華』、智慧を開く『楞厳』。これは昔の大徳が言ったものです。ですから、釈迦牟尼仏の一生は、順を追って見ると、小学、中学、大学、研究所と、確かにこのように講じて、一生休んでいません。
他常隨弟子,我們現在經裡面所看到的,一千二百五十五人,這是他的常隨弟子,臨時來的,經上就不提了。我們估計他老人家教學,應該聽眾人數不少過三千人,這很正常的,臨時來的很多。所以說非常非常殊勝。你真正了解之後你才曉得,他老人家是教育家,它不是迷信、不是宗教,跟宗教掛不上號的,確確實實是教育家,一生搞教學。印度人稱佛、菩薩、阿羅漢,都是學位的名稱,就像現在大學裡頭學士、碩士、博士三個學位。所以佛經裡頭,人人可以成佛,這個學位人人可以拿得到,你只要好好修學,學位可以拿到。菩薩也是學位,阿羅漢也是學位,都是平等的。佛、菩薩、阿羅漢他不是神,他也不是仙,他是人,這個要搞清楚。
彼に付き従っていた弟子は、経の中に見られる所によると、千二百五十五人です。これは彼のお供の弟子です。臨時で来た者については、経には書かれていません。私たちは彼の教学の聴衆の人数は、三千人は下らないと考えています。これは正常な見方です。臨時で来る人がたくさんいます。ですから非常に殊勝なことです。本当に理解すれば明らかになります。彼は教育家です。それは迷信ではなく、宗教でもありません。宗教のレッテルを貼ることはできないものです。間違いなく教育家であり、一生教学していました。インド人は仏、菩薩、阿羅漢と言い、すべて学位の名称と同じです。ちょうど今の大学に学士、修士、博士の三つの学位があるようなものです。ですから仏経の中には、誰でも仏に成ることができ、この学位は誰でも取得できるとあり、あなたがしっかり修学しさえすれば、学位を得ることができるのです。菩薩も学位です。阿羅漢も学位です。すべて平等です。ですから仏、菩薩、阿羅漢は神ではなく、仙人でもなく、人間です。これをはっきりさせなければなりません。
什麼樣的資格才能拿到這個學位?有的。佛法所追求的終極目標,梵語稱為阿耨多羅三藐三菩提,這我們在經上常常念的。這句話可以翻,但是不翻,為什麼不翻?尊重不翻。這是佛法修學的總目標,學佛人就求這個,不是求升官發財,不是求名聞利養,是求阿耨多羅三藐三菩提。翻成中國意思叫無上正等正覺,換句話說,這是智慧!佛告訴我們,真正能夠把見思煩惱斷了,阿羅漢就拿到了,見思煩惱斷了,你證得了正覺,這是第一個學位,你拿到了;再向上提升,你就學第二個學位,第二個學位是正等正覺,等是等於佛,不是佛,比佛還差一級,等於佛,叫正等正覺,這是菩薩;再向上提升,在上加個無上,無上正等正覺,那就是佛,這是最高的學位,這個一定要知道。
どのような資格があればこの学位を取得できるのでしょうか?あります。仏法の追求する究極の目標は、サンスクリット語で阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と言われるものです。これは私たちが経の中でいつも念じているものです。この言葉は訳すことはできますが、訳しません。どうして訳さないのでしょうか?尊重して訳しません。これは仏法修学の全ての目標であり、仏法を学ぶ人はこれを求めます。昇給して財を得たり、名聞利養を求めるのではありません。阿耨多羅三藐三菩提を求めるのです。中国の意味に翻訳すると、無上正等正覚と言います。言い換えれば、これは智慧ということです!仏は私たちに言います。本当に見思煩悩を断てば、阿羅漢(の果位)が得られます。見思煩悩を断てば、あなたは正覚を証得します。これは一つ目の学位です。あなたはそれを得ます。更に向上すると、あなたは二つ目の学位を学びます。二つ目の学位は正等正覚です。「等」とは仏に等しいということですが、仏ではありません。仏とは一段劣っています。仏に等しいこと、これを正等正覚と言います。これは菩薩です。更に向上すると、前に無上を加えて、無上正等正覚です。それこそが仏です。これは最高の学位です。これは必ず知っておかなければなりません。
我們佛教徒平常大家口裡稱,但是都忘掉了,意思忘掉了。你看我們稱佛為本師,老師,我們根本的老師,創辦這個教育的創始人,我們稱他為本師,自稱為弟子。中國古時候,這是學校的稱呼,稱老師是本師,弟子是學生,我們跟佛的關係是師生關係;我們跟菩薩、阿羅漢的關係,是同學的關係,他是我們的學長,前期同學,我們是後學的。我們同一個老師,同樣學一部經典,他已經畢業了,我現在才開始,關係搞清楚。但是這些阿羅漢、菩薩都有資格教我們,所以是老學長,也是老師,但是根本老師是一個。從根本老師說,我們都是同學,觀音、勢至都是同學,都是老學長。對學長就會比較放逸一點,對老師就很尊重、很嚴肅,對同學就可以隨便一點。所以,菩薩對我們就特別親切,不像規矩要求那麼嚴格;但對老師我們一定要予以尊重,為什麼?尊師重道。關係要搞清楚。
私たち仏教徒は皆、いつも口で唱えています。しかしすべて忘れています。意味を忘れています。私たちは仏のことを本師と言います。私たちの根本の老師です。この教育を始めた創始者です。私たちは本師と言い、自らを弟子と言います。中国では昔、これは学校の呼び方でした。老師のことを本師と言い、弟子は学生です。私たちと仏の関係は師弟関係です。私たちと菩薩、阿羅漢との関係は同窓生です。彼は私たちの学長であり、前期の学生です。私たちは後学の学生です。私たちは同じ老師に同じように経典を学び、彼はすでに卒業しているのです。自分は今始めたばかりです。関係をはっきりさせなければなりません。しかしこれらの阿羅漢、菩薩には私たちを教える資格があります。ですから学長であり、老師でもあります。しかし根本老師は一人です。根本老師から言えば、私たちは皆学生です。観音、勢至は皆学生です。皆先達の学長です。学長に対しては少しばかり気楽ですが、老師に対しては尊重し、とても厳粛です。同級生に対しては少し自由にすることができます。ですから菩薩は私たちに対して本当に親切で、規則の要求はそれほど厳格ではありません。しかし老師に対して私たちは必ず尊重しなければなりません。なぜでしょう?師を尊び、道を重んじるからです。関係をはっきりさせなければなりません。
佛一生搞教育,一生教學,沒有間斷過。在經裡,沒有聽說他哪一天放假,沒有,也沒有過年,也沒有過節,天天講經教學,沒中斷,他給我們做了老師第一等的示範,模範老師。你不讀這些東西,你不知道。以前你看我們多大的誤會,認為這些菩薩、羅漢、佛都是神,都把他神化了,不知道事實真相。所以我們這一生要是沒有遇到方老師,永遠不會進佛門,永遠不會去碰這個邊,這一生真的就錯過了,沒想到這裡頭這麼大的學問。
仏は一生教育されました。一生教学されました。中断したことはありません。経の中には、いつ休んでいたとは書かれていません。年越しも、祝祭日もありません。毎日講経、教学して、中断しません。彼は私たちに、老師として第一級の手本を示されました。模範教師です。これらは読まなければ分かりません。以前私たちはどれほど大きな誤解をしていたことでしょうか。菩薩、羅漢、仏はすべて神様だと思い、神格化していました。事実の真相を知らないのです。ですから私たちはこの一生で、もし方老師と出会わなければ、永遠に仏門に入ることはなく、永遠にこの縁に触れることはなく、この一生を誤って過ごしていたことでしょう。この中に大きな学問があるとは思いもよりません。
我學了六十年,一個甲子,你看,不但真正證實它是最高的哲學,同時現在我們也真正證實它是最高的科學。近代的科學家,他們的研究向兩個方向,一個是無限大,宏觀宇宙,太空物理;一個是無限的小,量子力學,研究原子、電子、粒子,現在達到了光子,這個東西就是佛經上講的微塵。微塵在佛法裡面,大乘佛法講,它有七個等級,第一個叫牛毛塵。牛毛很粗,牛毛尖端上有一粒塵土,那就很小。它能夠在這個尖端上不會丟掉,我們知道這是什麼?吸力,叫地心吸力,它能夠吸住它,很小的一粒塵。把牛毛塵分為七分,七分之一叫羊毛塵,羊毛就細了,愈分愈小;羊毛塵再分七分之一,叫兔毛塵,兔毛就更細了;兔毛塵再分成七分之一叫水塵,在水裡面,水有空隙,它在那個空隙裡面可以走來走去沒有障礙,我們今天叫分子;水塵再分七分之一叫金塵,金屬密度就很大,還是有空隙,它在裡面還可以跑來跑去,沒有障礙;金塵再分為七分之一才叫微塵。微塵再分為七分之一,名字叫色聚極微。色聚極微再分為七分,那叫極微之微,那就不能再分了。你看現在量子力學他們就搞這個,搞原子,這都是我們肉眼看不見的,原子再來就是電子、核子、粒子,到基本粒子夸克,現在講到小光子。小光子他說不能再分了,不能再分那就是極微之微,科學家能看到這個,這個不簡單!所以他跟佛法講的是一樣。
私は六十年学びました。甲子(きのえね)一つです【注1】。どうでしょうか、それが最高の哲学であることを本当に実証するだけでなく、同時に今私たちはそれが最高の科学であることも実証しています。近代の科学者たちの研究は二つの方向を向いています。一つは無限大の大宇宙、宇宙物理です。もう一つは無限の小ささ、量子力学です。原子、電子、粒子を研究して、今は光子(こうし=フォトン)【注2】に到達しています。これこそが仏経に説かれている微塵(みじん)です。微塵は仏法の中では、大乗仏法では七つの等級があると説かれており、一つ目は牛毛塵です。牛の毛は粗く、牛の毛の先端には一粒の塵があり、それはとても小さいものです。それは毛先の先端から落ちません。私たちはこれが何かを知っています。引力です。地球の引力です。それが小さな塵を引きつけています。牛毛塵を七つに分けた、七分の一のことを羊毛塵と言います。羊毛はとても細いものです。分ければ分けるほど小さくなり、羊毛塵を更に七分の一に分けると、兎毛塵と言います。兎の毛は更に細いものです。兎毛塵を更に七分の一に分けたものを水塵と言います。水の中には隙間があり、水塵はその隙間を行ったり来たりして障碍がありません。私たちは今日それを分子と言います。水塵を更に七分の一に分けたものを金塵と言います。金属の密度は大きいですが、まだ隙間があります。金塵はその中で行ったり来たりすることができ、障碍がありません。金属を更に七分の一に分けたものを微塵と言います。微塵を更に七分の一に分けたものは、名前を色聚極微と言います。色聚極微を更に七分の一に分けると、それを極微之微と言います。それはもう分けることはできません。どうでしょうか、現在の量子力学者たちはこれを研究しているのです。原子を研究しています。これはすべて私たちの肉眼では見えないものです。原子、更には電子、核子、粒子、基本粒子のクォークに至り、現在は光子(こうし)を説いています。光子はもう分けることはできないと言います。もう分けることができないなら、それは極微之微です。科学者はこれを見ることができるのです。これは簡単なことではありません!ですから仏法の説くところと同じです。
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【注1】 中国語の「甲子」には、干支(えと)を一周したという意味で六十年という意味がある。
【注2】 光子(こうし=フォトン)・・・・(ウィキペディア→)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%90
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物質怎麼來的?現在科學家發現,他說宇宙之間根本就沒有物質這個東西,物質的本質是什麼?是意識累積連續產生的幻相。這個說法跟彌勒菩薩在《菩薩處胎經》裡面講的是完全相同。彌勒菩薩講,「一彈指三十二億百千念,念念成形」,你看,形就是物質,物質從哪裡來?從念頭來的,念念成形,「形皆有識」。所以任何一個物質裡頭,就這小光子,我們講極微之微,它都圓滿具足五蘊,就是色受想行識。色是物質,受想行識是精神,它是受想行識變現出來的,累積變現出來,產生的幻相。所以科學,我相信再有二十年到三十年,佛教不是宗教,是什麼?科學家承認,是高等科學。佛經裡所說的,通常有很多人問,佛經到底講什麼?有些專家學者我們常常碰頭的時候,問我那是講什麼?我說佛經總的來說,不外乎它講五樣東西,倫理、道、因果、哲學、科學,這幾個科目它都講到究竟圓滿,確實是世間大學問。
物質はどのように出来たのでしょうか?現在の科学者は発見しています。科学者は、宇宙には根本的に物質というものはないと説いています。物質の本質は何でしょうか?意識の累積が連続して生じた幻相です。この言い方は弥勒菩薩が『菩薩處胎経』の中で説くところと完全に同じです。弥勒菩薩は、「一弾指三十二億百千念,念念成形」【注】と説いています。「形」というのは物質のことです。物質はどこから来たのでしょうか?念から起こったものです。どの念も形を形成します。「形皆有識」(形皆識有り)。ですから如何なる物質の中にも、この光子、私たちが言う極微之微があり、五蘊にはそれが円満に具足しています。つまり受・想・行・識です。色(しき)は物質です。受・想・行・識は精神です。それ(色)は受・想・行・識が変化して現れ、生じた幻相です。ですから科学によって、あと二十年から三十年のうちに、仏教は宗教ではなくなると私は信じています。それは何でしょう?科学者は高等科学であると承認します。仏経には何が説かれているのかと、いつも多くの人が質問します。仏経はいったい何を説いているのでしょう?私たちは専門家や学者と顔を合わせる時、そのように質問されます。私は言います。仏経は総じて言えば、他でもなく倫理、道徳、因果、哲学、科学の五つのことを説いています。それらの科目を究極円満に説いています。間違いなく世間の大学問なのです。
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【注】 「一弾指三十二億百千念,念念成形,形皆有識」。(『法苑珠林』第八巻)
指を弾く一瞬の間に三十二億百千もの念が起こり、すべての念は形を形成し、形にはすべて識(心の働き)がある。
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我們中國人有福,兩千年前,中國的帝王派特使把佛法請到中國來,不是他自己來的,是請到中國來的。這些帝王拜這些高僧大為老師,接受了佛陀教育,佛陀教育豐富了中國傳統文化,相得益彰。今天大乘佛法是中國的佛教,印度已經沒有了,在中國生根、開花、結果。今天講佛法,那是講中國傳統文化,佛法跟傳統文化已經分不開了。儒釋道在中國唐朝時候就變成一家人,大家都學,外表有儒釋道的形相,學習,統統都學。儒學佛經,也學道;道也學佛,也學儒;佛門弟子也讀儒書,也看老莊,統統都學,互相來解釋。我們有很多地方是用儒、用道來解釋佛的經典;他們那個地方,像講四書五經的時候,他引用佛學來解釋他們的經典,來詮釋,這個是很普遍的現象。所以你嚴格的說,純粹的儒釋道找不到,都是混在一起的,早就成一家人。這個歷史我們要知道,知道之後,我們才曉得我們學佛學的是什麼。你想想看,倫理、道、因果是做人的基本,科學、哲學是世間所有學術總的根源,都離不開這些東西。
私たち中国人には福があります。二千年前、中国の帝王は特使を派遣して仏法を中国に招きました。自然に伝わって来たのではありません。中国に来て頂いたのです。帝王たちは高僧大徳を老師として拝し、仏陀の教育を受け入れました。仏陀の教育は中国の伝統文化を豊富にしました。相互に補完し合って増々良くなりました。今日の大乗仏法は中国の仏教であり、インドにはすでにありません。中国に根付き、花を咲かせ、実を結んでいます。今日仏法を講ずれば、それは中国の伝統文化を講ずることになり、仏法は伝統文化と切り離せないものとなっています。儒教・仏教・道教は中国の唐朝の頃に家族になりました。皆が学びました。表面上は儒教・仏教・道教の形相がありますが、学習としてすべて学びました。儒学者が仏経を学び、道教も学びました。道士も仏法を学び、儒学も学びました。仏門の弟子も儒学の書を読み、老荘も学びました。すべて学び、相互に解釈し合いました。私たちは多くの部分で儒教や道教を用いて仏の経典を解釈しています。四書五経を講じる時、仏教学を引用して彼らの経典を解釈し、詮議していました。これは普遍的な現象です。ですから厳格に言えば、純粋な儒教・仏教・道教は見つかりません。すべて混ざり合っています。すでに一つの家族になっています。この歴史を知っておかなければなりません。知った後、私たちが仏法に何を学ぶのかがようやく理解できます。考えてみて下さい。倫理、道徳、因果は人としての基本です。科学、哲学は世間のあらゆる学術の根源です。すべてこれらと切り離せません。
學佛要學智慧,阿耨多羅三藐三菩提,無上正等正覺,了解宇宙人生的真相。宇宙究竟是什麼一回事情、從哪裡來、為什麼會有它、它有什麼作用,統統搞得清清楚楚,明明白白,這個人就叫做佛,就叫做佛陀。誰能做到?人人都能做到,只怕你不肯學,肯學,統統做得到。學了佛之後,無論在什麼境界裡,心是定的。我昨天說了幾句話是無意的,沒有想到今天全世界各地同修都來打電話,都覺得很緊張,這有什麼好緊張?學佛學這麼多年,沒學個名堂出來,考試就不及格,昨天好像出了個考題,統統不及格。應對應該用智慧,怎麼可以用煩惱?所以今天我跟大家講一個老題目。
仏法を学ぶには智慧を学ばなければなりません。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、無上正等正覚、宇宙・人生の真相を理解します。宇宙はいったいどのような事であり、それはどこから来たのか、なぜそれはあるのか、それはどのような作用があるのか。すべてがはっきりと、明らかになります。このような人を仏と言い、仏陀と言います。誰ができるのでしょうか?誰にでもできます。学ぼうとしないことだけが問題であり、学べばすべてできることです。仏に学んだ後は、どのような境界にあっても、心は定まります。私が昨日話した言葉に意図はありません。今日世界各地の門徒たちが電話を掛けてくるとは思いもよりませんでした。皆とても大変なことのように思っています。一体何が大変なのでしょうか?仏法を長年学んでいて、学んでいない内容が出て来ると試験に合格できません。昨日は問題を出されて、全員不合格だったようなものです。応対するには智慧を用いるべきです。煩悩を用いて良いことがあるでしょうか?ですから今日は皆さんに、いつもの題目を講じます。
我離開台灣,我一生遭遇實在講,一般人看都是非常艱難困苦,在我講我感恩,一切人事物都幫助我提升,對我來講都是好的,沒有壞的。我離開台灣那個時候到新加坡,在新加坡住了三年半,我移民到澳洲。澳洲過了年就十週年了,十年,這是正式移民過去的。沒有移民澳洲之前,前十年,我每年到澳洲去講經一個月,每年去一個月,在那裡有十年。移民到那邊去,現在也是十年了,時間過得非常快。我們在那邊成立了一個淨宗學院,現在淨宗學院範圍擴大了,不僅是學佛,我們學其他宗教,我們來牽頭,希望世界宗教是一家,正式開課。我們請伊斯蘭的長老,是他們教會推薦的這位長老,來教我們《古蘭經》;我們在澳洲當地的基督教,他們為我們推薦一個也是基督教的長老,教我們《新舊約》,《聖經》,我們正式開課來學習。所以澳洲的宗教能夠互相在一起學習,共同在一起生活,希望宗教的團結,宗教相互學習,能給社會帶來安定和平,化解一切衝突。
私は台湾を離れて、この一生で遭遇したのは、本当に一般の人が見ればすべて大変な苦難でした。私は感謝していると言っています。一切の人や物事はすべて私の向上を助けるものであり、私に言わせればすべて良いものです。悪いものはありません。私は台湾を離れて、あの頃シンガポールに行きました。シンガポールに三年半滞在して、オーストラリアに移住しました。オーストラリアは年を越せば十周年です。正式に移民しています。オーストラリアに移住する前の十年は、毎年オーストラリアで一か月講経していました。毎年一か月、そこで十年行いました。移住してからもう十年になります。時間の過ぎるのは早いものです。私たちはそこで浄宗学院を立ち上げました。現在浄宗学院の範囲は拡大して、仏教だけでなく、その他の宗教も学んでいます。私たちが先頭に立って、世界の宗教が家族になることを願い、正式に授業を始めています。私たちはイスラムの長老を招聘しました。彼らの教会がその長老を推薦して下さり、私たちに『コーラン』を教えています。オーストラリアの現地のキリスト教も、キリスト教の長老を推薦して下さり、私たちに『聖書』(新約、旧約)を教えています。私たちは正式に授業を始めて学習しています。ですからオーストラリアの宗教は相互に一緒に学習しています。共に一緒に生活しています。宗教の団結、宗教が相互に学び合い、社会に安定と平和をもたらし、一切の衝突を解消すること願っています。
市長,新當選的市長,我跟他見過三次面。頭一次見面,很年輕,年輕有為,告訴我,他很想在他這個任期裡頭,把這個城市變成澳洲第一個和諧示範城市,就像我們以前在湯池做的實驗。我相信他真發心,他真會做得成功,我在那裡十年,基礎給他奠定了。這個基礎就是,第一個,這個小城居民只有十萬人,這十年當中,我們跟這個十萬居民結的緣結得太好了。我們是新移民到那邊的,這十萬居民把我們看作一家人,所以居民團結了。第二個,宗教團結了。在以前以為宗教是不可能團結的,我們這十年默默的耕耘,把宗教團結了。怎麼個做法?真誠心對待所有的宗教,關懷他們、幫助他們,他們有困難,不必他來找我,我們主動去幫助他。我們居住在一個城市,希望這個城市安定、繁榮、興旺,人民的生活都能過得很幸福、很快樂,我們全心全力付出。這兩個基礎有了,市長再做的時候就不困難。有沒有必要?有必要,因為今天整個世界混亂。
新しく選ばれた市長とは、私は三度お会いしました。始めてお会いした時、若くて有能な様子でしたが、彼は任期中にこの都市をオーストラリア第一の模範調和都市にしたいと私に言いました。ちょうど私たちが以前湯池で行った実験のようにです。私は彼が本当に発心すれば、本当に成功すると確信しました。私はそこに十年いて、基礎を確立しました。この基礎とは、一つ目には、この小都市の住民は十万人しかいませんが、この十年の間、私たちは十万の住民と素晴らしいご縁を結びました。私たちは新しくそこに移民したものです。この十万の住民は私たちを家族と見なしてくれました。ですから住民は団結しています。二つ目は、宗教が団結しました。以前は宗教は団結するのは不可能だと思われていましたが、私たちはこの十年黙々と努力して、宗教が団結しました。どのようにしたのでしょう?真誠(しんせい)の心(=真心)ですべての宗教に接し、彼らを思いやり、彼らを助け、彼らが困っていれば、助けを求めて来る前に、私たちは自ら助けに行きました。私たちは同じ都市に住んでいます。この都市が安定し、繁栄し、盛んになり、人々が幸せに楽しく暮らすことを願って、一生懸命に尽力しました。この二つの基礎があれば、市長が再び行う時も困難ではありません。必要があるでしょうか?必要です。今日全世界は混乱しているからです。
我們讀中國古歷史,三千八百年前,湯王,那個時候是商湯的時代,中國那個時候沒有統一,周朝都沒有統一。就是諸侯國,一個小國就是我們現代的一個村,一個小鎮,那就是一個國家。湯也是個小國,這國多大?歷史上記載七十里。不是七十公里,這個諸位要曉得,古時候他們的度量衡很短,沒有這麼長,七十里大概合現在三十公里的樣子。你看,就這麼大的一個小地方。他治理得好,把倫理、道、因果教育統統落實,人民都教好,所以就變成一個示範點。周圍的這些小國,幾十個小國,都向他學習,尊他為王,尊他為天子。那時候天子、王都是尊稱的,並沒有實際的政權,都向他學習,都聽他的話,就好像成為共主一樣。周朝,成就是最可觀的,比湯進步多了,周距離我們三千二百年。文王他那個小國,史書上記載一百里,大概合我們現在不到五十公里。這樣一個國家也是治理得好,成為,那個時候講世界叫天下,天下第一個模範的城市,模範的地區,所以尊稱它為京師。京是什麼?是都會,師是示範,這個都市可以給我們所有城市做榜樣。你看中國人在古時候三千多年前,是拿實際的東西給人看,不是空口說白話。空口說沒人不相信,真的要做出來,你看到,人服了。
中国の古い歴史を読みますと、三千八百年前、湯王(とうおう)の時代は商湯の時代ですが、中国はあの時代には統一されていません。周朝でさえ統一されていません。正に諸侯の国、一つの小国、つまり現代で言う一つの村、一つの鎮(中国で、県の下の行政単位)、それが一つの国でした。湯もまた小国です。この国はどのくらいの大きさでしょうか?歴史上では七十里(35㎞)【注】と記載されています。七十キロではありません。ここは皆さん理解しておかなければなりません。昔の度量はとても短いもので、長くはありません。七十里はだいた現在の三十キロというところです。どうでしょうか、この大きさの小さい地域です。彼はよく治め、倫理、道徳、因果教育を実施して、人民をよく教育しました。ですからモデル地区に変わります。周囲の数十の小国は、すべて彼に学び、彼を尊んで王としました。彼を尊んで天子としました。あの時代天子、王はすべて尊称であり、実際の政権はありません。皆が彼に学び、彼の話を聞いたのです。盟主と同じようなものです。周朝の成就は最も価値あるもので、湯(とう)よりも数段進歩しました。周からは三千二百年経っています。文王の小国は、史書には百里(50㎞)と記載されています。だいたい今で言えば五十キロにも満たないほどです。このような国家をしっかりと治めて、その時代は世界のことを天下と言いましたが、天下第一の模範都市となったのです。モデルとなる地域です。ですからそれを尊称して京師(=国都、首都)としました。京とは何でしょう?京とは都市であり、師は模範を示すことです。この都市はすべての都市のお手本にすることができます。どうでしょうか。中国人は三千年以上前に、実際的なものを人々に見せています。でまかせを言っているのではありません。本当に実行すれば、それを見て、人は納得します。
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【注】里(市里)・・・・中国の単位では一里は0.5㎞。70里であれば35㎞。(日本では一里は3.927㎞)
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今天整個世界社會動亂,人都過得很辛苦,富貴人家辛苦,勞心,貧窮人家也辛苦,勞身,身心都苦。什麼原因?我們把教育疏忽了。中國古代他為什麼能做典範?沒有別的,教得好,全靠教育。你讀中國古時候的典籍你就曉得,古人把教育擺在第一位,從小到老,所謂是「活到老,學到老,學不了」。政治制度上也把教育擺在第一,你看從前最早的時候是商湯,商湯之前就是堯舜禹,那是聖人。他們那個時候就設得有官職,那時候因為地方不大,就像現在小鄉鎮,官員多少?一百個人,從最高領導人到底下是一百人,一百個職務。第一個職位是冢宰,冢宰就像現在總理,他下面就是現在的部長,頭一個司徒。冢宰下面第一個是司徒,司徒是管教育的,就像現在的教育部長、教育局長,就是這種性質的,他管教育。你看把教育擺在第一。這個設施一直到滿清都沒改變,宰相下面第一個部,禮部,禮部就是教育部,古代稱司徒,以後稱禮部,現代稱為教育部,把它擺第一;換句話說,國家所有一切行政為誰服務?為教育服務。所以人人知禮,人人懂得愛。主要的教什麼?教倫理、教道、教因果,教這些東西。人人都知道做好人,人人懂得人與人的關係,不但愛自己,還愛別的國家,愛天下人。所以在政治前面,領導人負責,作之君、作之親、作之師,教人一定先把自己教好,都是從自己開始、從家庭開始,推動到這一個地區,地區就是他們的一個小國家。那個小國家真是人人是好人,事事是好事,你找不到缺點,夜不閉戶,路不拾遺,人與人之中是相親相愛,互相關懷,互相照顧,互助合作,要靠教育!
今日全世界の社会は乱れ、人は皆生き難くなっています。裕福な人も苦労し、憂慮しています。貧しい人も苦労し、労働して、身心共に苦しんでいます。原因は何でしょうか?私たちが教育を疎かにしたためです。中国古代にはどうして模範を示せたのでしょうか?それは他でもなく、しっかりと教えたからです。すべて教育にかかっています。あなたは中国の昔の典籍を読めば分かります。古人は教育を第一に置いていました。子どもからお年寄りまで、いわゆる「生きている限り学び続けて、これで終わりということはない」ということです。政治制度においても教育を第一に置きました。最も古いものでは商湯です。商湯の前は堯、舜、禹、彼らは聖人です。彼らの頃に官職が設置されました。あの当時は大きな地域ではありません。ちょうど今の村や田舎町のようなものです。役人はどれくらいでしょうか?百人です。最高指導者から下層官吏まで百人です。百の職務です。第一の職位は冢宰(ちょうさい=宰相)です。冢宰は現在でいう総理です。彼の下は現在でいう部長です。第一の司徒です。冢宰の下の第一の司徒です。司徒は教育を管轄しました。今で言えば教育部長、教育局長というような性質のものです。彼が教育を管轄しました。教育が第一に置かれています。この施設は清朝までずっと変わりません。宰相の下の第一の部門は礼部であり、礼部とは教育部です。古代では司徒と言い、その後は礼部と言い、現代では教育部と言います。それを第一に置いたのです。言い換えるなら、国家のあらゆる行政は誰の為に奉仕したのでしょう?教育の為に奉仕したのです。ですから誰でも礼をわきまえ、愛することを理解していました。主として何を教えていたのでしょう?倫理、道徳、因果、これらを教えていました。誰でも良い人になることを理解し、人と人との関係を理解していました。自分を愛するだけでなく、他の国をも愛し、天下の人々を愛します。ですから政治の前に、指導者は「作之君、作之親、作之師」(指導者となり、親となり、師となること)を自らに問いかけます。人に教えるには、必ず先に自分を教育しなければなりません。すべて自分から始めます。家庭から始めます。一つの地区まで推し進めます。地区とはつまり彼らの小国家です。その小国家は本当に誰もが善人であり、何もかも良い事であり、欠点を見つけることはできません。夜も戸締まりを必要とせず、道に落ちた物を拾ったりする者さえいません。人と人との間は仲睦まじく、お互いに関心を持ち、お互いに面倒を見て、お互いに協力します。教育に頼らなければなりません!
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現在整個世界社會動亂,什麼原因?中國人疏忽了傳統教育,兩百年了。我看曾國藩先生的這些著書,他距離我們現在正好是兩百年,他在世間的時候慈禧太后執政,慈禧對傳統文化已經就疏忽,不重視了。國家領導人不重視,下面也就不尊重,所以有講學的,但是沒有人照做。曾國藩先生那個時候就感到很憂慮,世風日下,人心不善,比現在好多了!滿清亡國之後,民國成立,到現在一百年了,不但沒人做,講的人都沒有了。所以現在很生疏,什麼是中國傳統文化?我們現在知道外國的東西比知道中國的東西多,對中國的東西不知道,這個才是大問題。國家文化沒有了,這個民族會被消滅,諸位要知道,歷史上所講的世界上四大文明古國,只剩中國,那三個都沒有了。如果我們在這一世不能把中國傳統文化復興起來,那就跟他們一樣,四大文明古國沒有了,都沒有了。我們怎麼能對得起祖先?怎麼能對得起國家民族?所以,今天復興傳統文化,是我們很大的責任,每個人都要盡心盡力來做。
今全世界の社会は乱れています。原因は何でしょうか?中国人は伝統の教育を疎かにして、二百年になります。曾国藩先生の著書を見ると、ちょうど二百年経っています。彼が在世の頃、慈禧太后(じきたいこう=西太后)が執政していました。慈禧はすでに伝統文化を疎かにしていました。重視しませんでした。国の指導者が重視しなければ、下も尊重しなくなります。ですから講学する人はいても、実行する人はいなくなりました。曾国藩先生はあの当時、とても憂慮されていました。世の中の気風が悪くなり、人心が不善になりました。今と比べればまだ良いです!清朝が滅んだ後、民国が成立し、現在まで百年経ちましたが、実行する人がいないばかりか、講じる人さえいなくなりました。ですから今では中国の伝統文化とは何なのか、とても疎くなっています。私たちが知っている外国のものは、中国のものより多くなっています。中国のものを知りません。これこそが大きな問題です。国の文化がなくなれば、その民族は滅びます。皆さん知っておかなければなりません。歴史で言われる世界の四大文明の歴史ある国の内、中国だけが残り、他の三つはなくなりました。もし私たちの世代が中国の伝統文化を復興できなければ、彼らと同じように四大文明はすべてなくなります。私たちはどうしてご先祖様に申し訳が立つでしょうか?どうして国家民族に申し訳が立つでしょうか?ですから、今日伝統文化の復興は、私たちの大きな責任であり、各人が誠意をもってできる限り尽力しなければなりません。
從哪裡做起?從讀書做起,讀什麼書?讀古書,古書從哪裡讀起是個大問題。我們這麼多年來提倡儒釋道的三個根,那是什麼?那是行的紮根,做人的基本行,你得像個人的樣子,儒家的《弟子規》、道家的《感應篇》、佛家的《十善業道》。有了行,就是你有聖賢君子的條件,你也有佛菩薩的條件,你一生努力能有成就,不是不能成就的。這三個行紮下去之後,然後你得學文言文,因為典籍統統是文言文記載的。文言文是中國老祖宗最了不起的發明,你看幾千年前,老祖宗就把語言跟文言分開,因為語言會變。我們小時候口頭上所說的,現在社會上沒有了;現在社會上年輕人講的話,我們聽不懂。語言會隨著時間變、隨著地區變,你說語跟文是同一個軌道,到後來文字就沒人能看得懂。所以中國老祖宗說,語可以變,文不能變,文言決定不變。你懂文言文,你看老祖宗幾千年前留下的東西,就像現在面對面談話一樣,什麼障礙都沒有,這個發明還了得起嗎?全世界沒有第二家。你說老祖宗對於後世子孫多愛護,把他們的智慧,把他們的經驗,把他們的方法,把他們的效果,用這個方法傳給後世,傳給後人。我們今天不學那是大不孝,大不孝是所有一切災難的根源,是所有一切罪惡的源頭。
どこから始めれば良いでしょうか?書物を読むことから始めます。どの書物を読めば良いでしょうか?古書を学びます。古書をどこから学ぶかは大きな問題です。私たちは長年に渡って儒教・道教・仏教の三つの根を提唱しています。それは何でしょう?それは徳行の根を張ることであり、人としての基本的な徳行です。あなたは人間らしくあらねばなりません。儒家の『弟子規』、道家の『太上感応篇』、仏家の『十善業道経』です。徳行を具えれば、あなたは聖賢君子の条件が具わり、仏菩薩の条件が具わり、あなたは一生努力して成就することができます。成就できないことはありません。この三つの徳行の根を張った後、あなたは文語文を学ばなければなりません。なぜなら典籍はすべて文語文で記載されているからです。文語文は中国のご先祖様の最も素晴らしい発明です。数千年前、ご先祖様は言葉と文語とを分けました。なぜなら言葉は変化するからです。私たちが子どもの頃に話していたことは、今の社会にはなくなっています。今の社会の若者が話す言葉は、私たちは聞いても理解できません。言葉は時間を経ると変化し、地域によって変化します。言葉と文語が同じ軌道にあれば、時間が経つとその文字を読める人はいなくなります。ですから中国のご先祖様は、言葉は変わっても文語は変えてはならないと言いました。文語は絶対に変えません。あなたが文語文を理解できれば、ご先祖様が数千年前に残されたものを見て、まるで今向かい合って話をするのと同じように、何の障碍もないのです。この発明はどれほど素晴らしいことでしょうか。全世界に二つとありません。ご先祖様は後世の子孫をどれほど思っていたことでしょうか。彼らの智慧、彼らの経験、彼らの方法、彼らの成果を、この方法で後世の人に伝えたのです。私たちは今日学ばないのは大不孝です。大不孝はあらゆる一切の災難の根源であり、あらゆる一切の罪悪の源です。
文言文怎麼學法?背書。我學佛的時候老師教給我,因為經典是文言文,老師說,你得熟背五十篇的文言文,你就有能力看,有能力閱讀。一個星期背一篇,一年五十個星期,你一年的功夫,你閱讀文言文沒有問題了;你再下一年功夫,能夠背一百篇的話,你就能寫很好的文言文,你不但能看,你能寫了。所以不難!我最近找蔡禮旭老師,讓他在古文裡頭選一百篇,他把這個題目拿來給我看,一共選了一百六十二篇,很好。我說這一百六十二篇裝訂成一冊,文言文必讀的課本。一百六十二篇,只要能夠背一百篇就夠了,要求你能夠背一百篇。你能夠背,能夠講解,你鑰匙拿到了,這是《大藏經》的鑰匙,是《四庫全書》的鑰匙。兩年功夫就做成了,就完成了。你行依照這三個根去做,文言文的金鑰匙,一百篇古文,我們這個書要大量的印,將來在這邊免費提供大家,要認真去讀。
文語文はどのように学べば良いでしょうか?暗唱します。私が仏法を学び始めた頃、老師が教えて下さいました。経典は文語文なので、老師が言われるには、五十篇の文語文を暗唱すれば、読む能力がつきます。閲読する能力がつきます。一週間に一篇暗唱して、一年五十週間、一年の努力で、文語文を読むのに問題はなくなります。更に一年努力して、百篇暗唱できれば、あなたは文語文を書けるようになります。読めるだけでなく、書けるようになります。ですから難しくはありません!私は最近、蔡礼旭老師に古文の中から百篇選ばせました。彼はその題目を私に見せに来ました。全部で百六十二篇選びました。私はこの百六十二篇を一冊に装丁して、文語文必読の教科書にすると話しました。百六十二篇のうち、百篇だけ暗唱すれば十分です。百篇暗唱することを要求します。暗唱できて、講釈できれば、あなたは鍵を手にしたのです。これは『大蔵経』の鍵であり、『四庫全書』の鍵です。二年間で達成できます。完成します。あなたの徳行はこの三つの根に照らして行います。文語文の金の鍵は、百篇の古文です。私たちはこの本を大量に印刷して、将来皆さんに無料で提供します。真剣に学ばなければなりません。
真正向這個方向走的,我還提供典籍,就是《四庫全書》。我這次訂了兩百套《四庫全書薈要》,像《大藏經》那樣的本子五百冊,就是五套《大藏經》這個分量。你們真肯學,我都贈送,把中國傳統文化帶起來。不必多,能有二、三十個人,這二、三十個人十年之後,是全世界第一流的漢學家,在中國是國學專家,就能夠把中國傳統文化帶動到全世界。所以這不難,好好的把根紮穩。我昨天非常感慨,一生生活在感恩的世界,這都是我親自遇到的人。「感激斥責我的人」,毀謗、侮辱我都遇到過,有陷害,統統遇到過。我們不但沒有怨恨,我們有感恩的心,為什麼?他來考我的,我們學傳統文化、學佛法,到底有沒有一點功夫?有沒有看破?這個很重要。為什麼要感激他?因為他助長了我們自己的定慧,我有定功,不會為他所動搖。昨天我說了幾句話,你們就那麼激動,一點定功都沒有,你們煩惱起現行,沒有智慧。所以要生感恩的心,沒有這些人我們怎麼會成就!
本当にこの方向に進むなら、私は更に典籍を提供します。それは『四庫全書』です。私は今回二百セットの『四庫全書薈要』を注文しました。『大蔵経』のような本を五百冊、ちょうど『大蔵経』五セットの分量です。皆さんが本当に学びたいなら、私はすべて贈呈します。中国の伝統文化を担って下さい。多くは要りません。二、三十人いれば、その二、三十人は十年後には全世界の一流の漢学者になり、中国では国学の専門家になって、中国の伝統文化を全世界に普及させることができます。難しくはありません。しっかりと根を張ることです。
私は昨日とても感慨を覚えました。一生感謝の世界を生きることです。―――老法師は資料【注】を見ながら―――これらはすべて私が自らお会いした人々です。「あなたを叱責した人に感謝します」。誹謗、侮辱、私はすべて遭いました。陥れられたこともあります。すべて遭って来ました。私たちは恨まないばかりか、感謝の心を持ちます。なぜでしょう?その人は私を試しに来たのです。私たちは伝統文化を学び、仏法を学んでいますが、果たして少しは技量を身につけたのでしょうか?看破したのでしょうか?これが重要です。なぜその人に感謝するのでしょうか?その人は私たちの定(禅定)・慧(智慧)を伸ばしてくれます。自分に定功(禅定の技量)があれば、その人に動揺することはありません。昨日私が少しばかり話すと、皆さんはあれほど動揺しましたね(笑)。少しの定功さえありません。皆さんは煩悩を起こしました。智慧がありません。ですから感謝の心を持たなければなりません。それらの人々がいなければ、私たちはどうして成就できるでしょうか!
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【注】資料: 浄空法師の法語 *日本語訳は意訳
「生活在感恩的世界」(感謝の世界を生きる)
感激斥責你的人 因為他助長了你的定慧
あなたを叱責した人に感謝します その人はあなたの禅定と智慧を伸ばしてくれました
感激絆倒你的人 因為他強化了你的能力
あなたを陥れた人に感謝します その人はあなたの能力を高めてくれました
感激遺棄你的人 因為他教導了你應自立
あなたを見捨てた人に感謝します その人はあなたに自立を教えてくれました
感激鞭打你的人 因為他消除了你的業障
あなたを鞭打つ人に感謝します その人はあなたの業障を取り除いてくれました
感激欺騙你的人 因為他進了你的見識
あなたを騙した人に感謝します その人はあなたの見識を高めてくれました
感激傷害你的人 因為他磨煉了你的心志
あなたを害した人に感謝します その人はあなたの心を鍛えてくれました
感激所有使你堅定成就的人
あなたを成就させてくれるすべての人に感謝します
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最近我們看到唐太宗編的這部書,叫《群書治要》,唐太宗就是接受別人批評,批評錯的他都接受,他不會處分你。人家都問為什麼?我要處分他,以後沒有人在我面前講真話,我的過失自己永遠不知道。貞觀之治,難!所以他編的這套書非常之好,我現在也是想將來能夠有幾個發心的,十幾二十個專門來學這部東西。這部東西學好了,這部東西要有基礎,就是我剛才講的,你要懂文言文,要有三個根,將來細講這部書。在哪裡講?在廣播電台講、在網路上講,全世界人都看到、都聽到,那對於整個世界的和平安定就起很大的作用。唐朝的盛世貞觀之治,就靠這部書,這部書起了很大的作用。
最近私たちは唐の太宗(李世民)が編纂した、『群書治要』という書物を見ました。唐の太宗は人の批判を受け入れました。誤った批判もすべて受け入れました。彼は処罰することはありません。人々はどうしてなのかと質問します。その人を処罰すれば、その後自分の前で本当の事を話す人はいなくなります。自分は自分の過失を永遠に理解できません。貞観の治は簡単なことではありません!彼が編纂させた書物は非常に良いものです。私は将来発心した人何人か、十数人から二十人が専門にこれを学んでほしいと願っています。これを学ぶには基礎が必要です。先ほどお話ししたように、文語文を理解していて三つの根があれば、将来は詳細な講釈をすることができます。どこで講釈するのでしょう?テレビ、インターネットで講釈します。全世界の人が見聞きします。そうなれば全世界の平和と安定に大きな作用をもたらします。唐朝の盛世、貞観の治は、この書物を頼りとしました。この書物は大きな作用をもたらしました。
這部書是唐太宗,我們知道他十幾歲就跟著他父親打天下,現在講起革命。隋推翻之後,他自己做了皇帝,沒念過什麼書,所以治國、平天下不是簡單的事情。他就想到,要把國家治好一定要吸收古聖先賢的教誨,他就命令魏徵成立一個小組,幫助他蒐集這些書籍。從三皇五帝到隋朝,差不多將近兩千年,這裡面關於修身、齊家、治國、平天下這些理論、方法、效果、經驗,把它蒐集起來,編成一本書。總共是取材於六十五部經史子,集沒有,經史子,編成一部書,叫《群書治要》。很難得,我是在講經的時候提到過幾次,我非常感謝同修幫我找到這個書寄給我,我現在將這個書印一萬套。《國學治要》我也印了一萬套,這都很難得的,都找到了,民國初年專家學者編的。這就是《四庫全書》的精華,將來你要想讀《四庫全書》,從這部書入門,你先看這個東西,對《四庫》就有認識、就有感情;然後想學哪個東西,可以在《四庫》裡頭去選,一門深入,十年修,你就變成漢學專家,我們中國文化就救起來了。所以得要有人真幹,十年時間,兩年紮根,八年是一門深入。「天下無難事,只怕有心人」,古人給我們鋪的這個路,有光明大道,我們要對得起祖宗,要認真努力去學習。所以,歡迎人批評我,歡迎人責備我,不管是善意、是惡意,我們統統感恩。
この書物は唐の太宗です。私たちは彼が十数歳で父親に付き従って天下を取ったことを知っています。今で言う革命です。隋を転覆させた後、彼自身が皇帝になりました。書物を読んだことがないので、国を治め、天下を平らかにするのは簡単な事ではありません。そこで彼は、国をしっかりと治めるには古の先賢の教えを取り入れなければならないと考えて、魏徴に命じて小さな組織を作り、これらの書籍を収集させました。三皇五帝から隋朝まで二千年近くあり、その中の修身、斉家、治国、平天下に関する理論、方法、効果、経験を収集して書物を編成しました。全部で六十五部の経史子(経書、歴史、諸子百家)を集めました【注】。集(詩文集)はありません。経史子を編成した書物、それが『群書治要』です。得難いものです。私は講経の時に何度か触れたことがあるのですが、有り難いことに門徒の方がこの書物を送ってくれたのです。私は今この書物を一万セット印刷するつもりです。『国学治要』も一万セット印刷します。これらはすべて得難いものですが、すべて見つかりました。民国初年(1912年)に専門の学者が編集したものです。これこそが『四庫全書』の精華なのです。将来あなたが『四庫全書』を読もうと思うなら、この書物から入門します。先にこの書物を見れば、『四庫』に対する理解が得られます。二年で基礎を作り、八年間一つの門を深く学びます。「天下無難事,只怕有心人」(天下に難しい事はなく、ただ心がけ次第である)。古人は私たちの為にこの道を敷いてくれました。光明の大道です。私たちはご先祖様の恩に報いようとするなら、真摯に努力して学ばなければなりません。ですから人の批判を歓迎します。人が自分を咎めるのを歓迎します。善意であろうと、悪意であろうと、私たちはすべてに感謝します。
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【注】 経史子集(けい・し・し・しゅう)・・・・漢籍の伝統的分類の大綱。
経部(経書)・・・・中国古代の聖賢の教え
史部(史書)・・・・歴史
子部(諸子)・・・・諸子百家の著作
集部(詩文集)・・・・散文・詩集などの文学書
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「感激絆倒你的人,因為他強化了你的能力」,都是好事。大乘教裡面,無佛也無魔,反過來,有佛也有魔。我們以善心應對,敵對的人是佛,他來考驗我;我們要以怨恨心對他,報復心對他,那外面就是魔。所以外頭是佛、是魔,決定在自己的念頭,我用什麼心態對他。外面佛、魔都沒有,他給我種種打擊,他是來教訓我的,看看我能不能承受、能不能忍辱。像佛經上,釋迦牟尼佛行菩薩道的時候,遇到歌利王割截身體,他有沒有怨恨?沒有,不但沒有怨恨,感恩。你來考試,看我忍辱程度到什麼境界;我圓滿了,一絲毫怨恨心都沒有。所以釋迦牟尼佛成佛了,幫助他成佛,幫助他提升行,幫助證明他定功能夠應付環境。沒有怨恨,有感恩,這就對了!
「あなたを陥れた人に感謝します。その人はあなたの能力を高めてくれました」。すべて良い事なのです。大乗教では、仏も魔もありません。逆を言えば、仏も魔もあるのです。私たちは善心をもって応接します。敵対する人は仏です。その人は私を試しに来たのです。私たちが恨みの心、復讐の心でその人に接すれば、外界は正に魔です。ですから外は仏であり、魔であり、決定するのは自分の心、自分がどのような心で応接するかなのです。外には仏も魔もありません。その人が自分を攻撃するのは、自分に教訓を与えに来たのです。私が受け入れられるかどうか、耐え忍べるかどうかを見ています。仏経にあるように、釈迦牟尼仏は菩薩道を行っていた時、カーリ王に身体を断ち切られました。恨みを持ったでしょうか?ありません。恨まないどころか、感謝しました。自分の忍辱がどの程度の境界なのか、試しに来たのです。自分は円満になり、少しも恨みの心を持ちませんでした。ですから釈迦牟尼仏は仏に成りました。彼の成仏を助け、彼の徳行の向上を助け、彼の定功は環境に対処できることを証明するのを助けたのです。恨みを持たず、感謝します。これで良いのです!
還要「感激遺棄你的人」,在社會上講,不孝父母,背師叛道。我們對他感恩,不要去責備他,不要有怨恨心,「因為他教導你應該自立」。你能自立,你會感化他,他會回頭,回頭是岸。胡小林報告裡面講七個拐杖的故事,你們聽了之後就懂得,那是不孝,最後兒女再回頭都是孝子賢孫。所以不要去責備,尤其現代人,他沒有受過教育,他做種種罪孽是應該的,正常現象;他如果受過聖賢教育,你可以責備他。沒有受!雖然聽了幾天經,沒聽進去,讀一點聖賢書,也沒有讀懂,你怎麼可以怪他!這什麼原因?他沒有恭敬心,他就得不到。再好的老師教他,印光祖師說得很好,「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」,沒有尊師重道的那個心,你跟這個老師再多年都沒用,假的,不是真的。真正有誠敬心,十分誠敬心,你跟這個老師一天都管用,為什麼?你一輩子都不會變質。我們現在到哪裡去找對於道學有真心想學的?找不到。現在都為名利,急功好利,都看眼前,沒有遠大的眼光。所以說,不能責怪這些人。
さらに「あなたを見捨てた人に感謝」しなければなりません。社会的に言えば、親不孝は、師に背き道に叛(そむ)くことです。私たちはその人に感謝します。その人を咎めてはなりません。恨みの心を持ってはなりません。「その人はあなたに自立を教えてくれた」のです。あなたが自立できれば、あなたはその人を感化することができます。その人は改心します。改心すれば救われます。胡小林さんの報告の中には、七つの杖のお話があります。皆さんはそれを聞けば理解できます。あれは不孝です。最後に子どもが改心したのは、すべて孝行な子や賢い孫たちです。咎めてはなりません。特に現代人は、その教育を受けたことがないので、様々な罪業を犯すのはもっともなことです。正常な現象です。その人が聖賢の教育を受けているなら、咎めることができます。受けていないのです!数日経を聴いても、耳に入りません。少しばかり聖賢の書を読んでも、理解できません。どうしてその人を咎めることができるでしょうか!この原因は何でしょうか?その人に恭敬の心がないので、得ることができないのです。どれほど良い先生が教えても、印光大師が「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」(一分の誠敬(=敬う心)があれば一分のご利益を得、十分の誠敬があれば十分のご利益を得る)と言うように、師を尊び道を重んじる心がなければ、老師に何年ついても役には立ちません。偽物です。本物ではありません。本当に誠敬の心があるなら、十分の誠敬の心があれば、老師に一日ついただけで役に立ちます。なぜでしょう?あなたは一生涯変質することはありません。私たちは今どこを探せば真心から道学を学びたい人が見つかるでしょうか?見つかりません。今ではすべて名利の為、成功を焦り、目の前だけを見ています。遠大な見識がありません。ですから、それらの人を咎めることはできません。
底下是「感激鞭打你的人」,這就是我們講陷害,陷害要感激他,消業障!如果我們有怨恨、有報復那就變成仇敵了,以後就變成冤冤相報沒完沒了,雙方都痛苦,那又何必!所以用感恩的心對待他,自己就更向上提升。
次は「あなたを鞭打つ人に感謝します」です。これは陥れるということで、やはりその人に感謝します。業障を解消してくれます!もし私たちが恨みを持ち、報復すれば、仇敵に変わります。その後はお互いに恨み合って切りがなくなります。双方とも苦痛です。そのような必要があるでしょうか!ですから感謝の心でその人に接すると、自分は更に向上します。
「感激欺騙你的人,因為他進了你的見識」,上過幾次當,學會了,不上當沒學會。所以你見識長了、知識長了,長知識。你交了學費,長知識,好事情,不是壞事情,人人是好人,事事是好事。
「あなたを騙した人に感謝します。その人はあなたの見識を高めてくれました」。何度も騙されて、学んだのです。騙されなければ学べません。あなたの見識は高まり、知識が増えたのです。あなたは学費を払って、知識を得たのです。良い事です。悪い事ではありません。人は誰でも良い人であり、どんな事でも良い事なのです【注】。
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【注】 浄空法師の法語。有名な「日々是好日,時時是好時」の後に二句を加えている。
日日是好日・・・・どんな日もみな良い日
時時是好時・・・・どんな時もみな良い時
人人是好人・・・・どんな人もみな良い人
事事是好事・・・・どんな事もみな良い事
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「感激傷害你的人」,甚至於他想置你於死命,你還是感激他,為什麼?死了到極樂世界去,他早一天送我到極樂世界,這個多好、多難得!要不然我還得晚幾年去,還在世界上多受幾天罪。永遠存感恩的心!
「あなたを害した人に感謝します」。甚だしきに至っては、その人があなたを死に至らしめても、その人に感謝します。なぜでしょう?死んだら極楽世界に行くのです。一日でも早く極楽世界に送ってくれるのです。これは得難いことです!そうでなければ何年も遅れて行かなければならず、この世界で多くの罪を受けるのです。永遠に感謝の心を持つことです!
最後,「感激所有使你堅定成就的人」,你只要感恩,你決定成就,不吃虧。害人是害自己,吃虧是福,古人講的一點沒錯,吃虧是福。永遠謙虛,永遠恭敬,永遠看一切眾生,跟佛的看法一樣,「一切眾生本來是佛」。只是他迷了,他做了這麼多錯事,他要受報。他受報完之後,哪一天醒過來,覺悟了,你再來度他。一切眾生皆有佛性,所以一切眾生本來是佛,我們要以這種心態來看一切眾生。
最後は、「あなたを成就させてくれるすべての人に感謝します」です。あなたが感謝できさえすれば、あなたは必ず成就します。損することはありません。人を害するのは自分を害することです。損することは福なのです。古人の説くところは少しも間違ってはいません。損することは福です。永遠に謙虚に、永遠に敬い、永遠に衆生を仏と同じように見ることです。「一切衆生本来是仏」。ただその人が迷っているから、多くの過ちを犯すのです。その人は報いを受けます。その人が酬いを受け終わった後、ある日目が覚めたら、あなたはもう一度その人を助けるのです。一切の衆生は皆仏性を具えています。ですから一切の衆生は本来仏なのです。私たちはこのような心で一切の衆生を見なければなりません。
>>> 感謝の世界を生きる 5/5 につづく・・・。
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/0a96637efa86fe783146a4b18f5c13cd
今天這個世界,整個世界出了麻煩,地球出了麻煩,不是小麻煩,是大麻煩。二0一二的事情,科學家裡頭有一半認為是有可能,另外一半認為是不太可能。有很多人來問我,我說有可能,但是我們有辦法化解。現在全世界,沒有宗教信仰的人我們不提,有宗教信仰的人都會為這樁事情來認真祈禱,祈求來化解。有沒有效?有效,科學家告訴我們,集體意識力量非常大。而且還提醒我們,這些科學家很難得,他們告訴我們一個數據,以全世界的人口做個比例,大概六十五億左右,六十五億人口百分之一的平方根,用這個來計算,大概八千人;也就是說,世界上如果真正有八千人發菩提心,捨己為人,為這個災難祈禱,就能化解。六十五億人造罪孽,八千人能救他嗎?這太少了!可是中國,我們古老的祖先告訴我們,叫邪不勝正,六十五億人他邪,這八千人正,邪不勝正,所以有效果。全世界信仰宗教的人不少,超過一半以上,這些宗教徒們虔誠做祈禱,會產生效果,所以我就感覺得災難並不可怕。還有同修建議我,要我趕快寫信給羅馬天主教皇,我們見過面,有交情,勸他告訴全世界的天主教徒,我們一同來祈禱。我覺得他也應該在做了,我們佛教徒也加進來做。全世界基督教跟天主教合起來,他們的信徒大概是二十一個億,回教徒有十五個億,我們佛教比較少,佛教全世界不超過七個億,可是這個合起來是個很大的力量。
今日この世界では、全世界で問題が出ています。地球に問題が出ています。小さな問題ではありません。二〇一二の事は、科学者の中には半分があり得ると考え、あと半分はあり得ないと考えています。多くの人が私に聞きに来ます。私は、あるかもしれないと言っています。しかし私たちには解消する方法があります。宗教を信仰していない人のことは言いません。宗教を信仰している人はこの事の為に真剣に祈れば、祈りによって解消します。効果はあるでしょうか?効果はあります。科学者は、集団意識の力は非常に大きいと言っています。しかしまた私たちに注意喚起しています。これらの科学者は、得難いことに一つのデータを提起しています。全世界の人口に比例して、だいたい約六十五億ほどの人口の百分の一の平方根、これを計算するとだいたい八千人です。つまり世界の八千人が本当に菩提心を発して、己を捨て人の為に、この災難の為に祈れば、解消することが出来ます。六十五億人が罪業を犯していて、八千人で救えるのでしょうか?これでは少な過ぎます!しかし中国では、私たちのご先祖様は、「邪不勝正」(邪は正に勝たず)と言っています。六十五億人が邪で、この八千人だけが正でも、邪は正に勝てません。ですから効果があります。全世界で宗教を信仰する人は少なくありません。半分以上を超えています。これらの宗教徒たちが敬虔に祈れば、効果が生じます。ですから私は災難はそれほど恐くはないと感じています。またある学生は私に、すぐにローマ法王に手紙を書くように提案しています。私たちはお会いしたことがあり、交情があります。全世界のカトリック教徒に一緒に祈ることを勧めるべきだと言います。私は彼も取り組んでいるはずだと思います。私たち仏教徒も加わって行います。全世界のキリスト教とカトリック教を合わせれば、彼らの信徒はおそらく二十億です。回教徒(イスラム教徒)は十五億です。仏教は少ない方です。仏教は全世界で七億は超えません。しかしこれを合わせれば大きな力です。
造作一切罪業的人要原諒他,不要懷恨,為什麼?迷失自性,沒有好人教導他,所以他造作這些罪業都是正常的,他不是聖人,他是凡夫。凡夫在今天這個社會,怎麼能不造罪業,沒這個道理,所以要原諒。解決社會問題,英國湯恩比博士說,「解決二十一世紀的社會問題,只有中國孔孟學說跟大乘佛法」,大乘佛法也在中國。孔孟學說真能解決嗎?大家提起孔孟學說,都會講到四書五經、十三經,很多人在學。歐洲學漢學的這些學生們都很用功,我去參觀過,就看過。提到大乘,一定想到《華嚴經》、《法華經》、《般若經》,都想這些,行嗎?沒有人能回答。所以我告訴他,我說我們對於湯恩比博士這個話解讀有問題。我說他的話沒說錯,我們想到的都是儒跟佛的花果,不是根本,救要從根本救才行,花果不行。
罪業を造る一切の人を許して、恨みを持ってはなりません。なぜでしょうか?自性を見失って、良い人が教え導くことをしないからです。ですからその人が罪業を造るのは正常なことです。その人は聖人ではありません。凡夫なのです。凡夫が今日この社会にいて、どうして罪業を造らないことがあるでしょうか。そのような道理はありません。ですから許さなければなりません。社会の問題を解決するのに、イギリスのトインビー博士は、「二十一世紀の社会問題を解決するのは、中国の孔孟学説と大乗仏法しかない」と言っています。大乗仏法も中国にあります。孔孟学説は本当に(社会問題を)解決できるでしょうか?皆さんは孔孟学説と言うと、四書五経、十三経のことを言い、多くの人が学んでいます。ヨーロッパの漢学を学ぶ学生たちは真剣に学んでいます。私は見学したことがあります。見たことがあります。大乗を提起すると、必ず『華厳経』、『法華経』、『般若経』などを思います。(社会問題を解決)できるでしょうか?誰も答えられません。私は、私たちのトインビー博士の言葉に対する解釈には問題があると言っています。私は彼の言葉は間違ってはいないと言っています。私たちが考えるのは儒教と仏教の花や果実であり、根本ではありません。救うには根本から救わなければなりません。花や果実では駄目なのです。
孔孟的根本是什麼?仁義,「孔曰成仁,孟曰取義」。仁,仁者愛人,現在人不愛人,為什麼?他不愛自己,他愛自己能自殺嗎?你看現在這世界上自殺的人多少?連小學生都自殺,這還得了嗎?愛自己還能犯罪嗎?還能夠損人利己嗎?他不愛自己,這是最可悲的現象。所以我們一定要提倡,要愛人,起心動念要能推己及人,想到自己一定要想到別人。義是思想、行為合情、合理、合法,這叫義。這是現在社會上普遍缺乏的,我們要推動。這些沒有受過教育的,總有兩百年了,這病很深,所以對於全世界無論做錯什麼事情的人,無論犯什麼罪的人,我們要以忠恕的心對待他。像孔子,曾子說,「夫子之道,忠恕而已」,忠是真心,是清淨心;恕是原諒別人,不要計較,既往不究,不要再追究。從今之後,我們一起好好的來學傳統文化,來學孔孟教育、大乘教誨就好。學了半年,你還有過失,警告你;學了一年,你學過了,你有過失可以懲罰你;沒有學過的,犯什麼罪都不要計較。我們這樣解釋,我相信湯恩比博士聽了會很開心、會很安慰,真能解決問題。大乘,真誠、慈悲,跟孔孟學說的仁義忠恕是一個意思。用真誠心待人,用慈悲心待人,認真把大乘佛法、把孔孟學說發揚光大,一起從紮根學起。這顆印章是放大的,這是「孔孟仁義忠恕,大乘真誠慈悲」;另外還有一個印章,「神愛世人,和平天使」,這是外國人的。二00五年我將這個印章送給布希總統,現在我準備再做兩百個,送給全世界國家領導人,希望他們都做和平天使,都要學神愛世人。
孔孟の根本とは何でしょうか?仁義です。「孔曰成仁,孟曰取義」(孔子は仁を成せと言い、孟子は義を取れと言う)。仁。仁者は人を愛します。今の人は人を愛しません。なぜでしょう?自分を愛していないからです。自分を愛していれば自殺などするでしょうか?今この世界には自殺する人がどれほどいることでしょうか?小学生でさえ自殺します。これはとんでもないことではないですか?自分を愛していて犯罪をおかせるでしょうか?また人を害して自分の利益にすることができるでしょうか?その人は自分を愛していません。これは最も悲しむべき現象です。ですから私たちは必ず提唱しなければなりません。人を愛すること。人を思いやること。自分のことを考えて、必ず他人の身になって考えなければなりません。義とは、考えや行為が情に適い、理に適い、法に適っていることです。これが義です。これは今の社会に普遍的に欠落しているものです。私たちは推進しなければなりません。これらの教育を受けたことがない状況は、二百年にもなり、この病は深刻です。ですから全世界の間違いを犯した人、罪を犯した人に対して、私たちは忠恕の心で接することです。曾子は、「夫子の道は、忠恕のみ」と言いました。忠は真心であり、清浄心です。恕は人を許すことです。咎めることなく、水に流して、追究してはなりません。今から私たちは一緒に伝統文化をしっかり学んで、孔孟の教育、大乗の教えを学べば良いのです。半年学んでまだ過失があるなら、あなたに警告を与えます。一年学んで過失があるなら、あなたに懲罰を与えます。学んでいないのであれば、どんな罪を犯しても咎めてはなりません。私たちはこのように解釈します。私はトインビー博士が聞けば喜び、安心するだろうと思います。本当に解決することが出来ます。大乗は真誠、慈悲であり、孔孟学説の仁義忠恕と同じ意味です。真誠の心をもって人に接し、慈悲心をもって人に接し、大乗仏教と孔孟学説を真剣に発揚して輝かせ、一生に根本から学びましょう。
この印鑑は拡大したものです。「孔孟仁義忠恕、大乗真誠慈悲」。もう一つ印鑑があります。「神愛世人、和平天使」。これは外国人に贈るものです。二〇〇五年、私はこの印鑑をブッシュ大統領に贈りました。今私はあと二百個作って、全世界の指導者に贈る準備をしています。彼らが和平の天使となって、皆が「神は世人を愛す」を学ぶことを願っています。
現在八點鐘了,我想我的話就說到此地。希望大家對昨天說的話不要誤會,不要激動,更不要採取什麼行動,那就錯了。行動就是自己真正檢點自己,學佛菩薩慈悲,學孔子的忠恕,原諒一切造罪業的人。你要知道,造罪業的人真可憐,我們原諒他,他逃不過因果,他將來墮三途,那多可憐!哪一輩子才能再得人身?你往前面一想,憐憫心就生起來,不會再責備他了。這是沒有辦法的,因為有很多性罪,性罪它本身就有罪,像不忠不孝、不仁不義,這是性罪;佛家講的是殺盜淫妄,這是性罪,你造了就有罪。不管你信不信,不管你是不是佛教徒,不管你有沒有受戒,你犯了就有罪,這些妄語、兩舌、綺語、惡口、貪瞋痴慢都是罪,都是性罪。我們對這些人真的要憐憫他,要同情他,他真的是可憐,無知!不要再去責怪他,自己好好修行,認真努力把三個根認真修的話,就能夠化解災難,就能夠幫助社會消弭衝突,促進安定和平。這是我們佛弟子,我們幫助這個國家,幫助社會,幫助全世界。好,謝謝大家。
八時になりました。私の話はここまでにしたいと思います。皆さん昨日の話を誤解したり、興奮したりされませんように。また何らかの行動を起こしてはなりません。それは誤りです。行動するのは本当に自分を慎み、仏菩薩の慈悲を学び、孔子の忠恕を学んで、一切の罪業を犯す人を許すことです。知っておかなければなりません。罪業を造る人は本当に気の毒なものです。私たちはその人を許します。その人は因果を逃れることはできません。その人は将来三途(=三悪道)に堕ちるのです。それは気の毒なことです。いつになったら再び人身を得られるのでしょうか?このことを思えば、憐みの心が起こります。その人を咎めることはできません。これは仕方の無いことです。なぜなら多くの性罪(しょうざい=それ自身が不善である罪のこと)があります。性罪はそれ自身に罪があります。不忠、不孝、不仁、不義などは性罪です。仏家が説くのは殺盗淫妄(殺生、窃盗、邪淫、妄語)です。これは性罪です。これをすれば罪になります。あなたが信じようと信じまいと、仏教徒であろうとなかろうと、戒を授かっていようといまいと、あなたがこれを犯せば罪になります。これらの妄語、両舌、綺語、悪口、貪瞋痴慢はすべて罪です。すべて性罪です。私たちはこれらの人を憐み、同情します。その人は本当に可哀相です。無知なのです!その人を咎めてはなりません。自分はしっかりと修行して、真剣に三つの根を修めれば、災難を解消することができます。社会の衝突をなくして、安定と平和の促進を手助けすることができます。これが仏弟子です。私たちは国を助け、社会を助け、全世界を助けます。皆さんありがとうございました。
――― 感謝の世界を生きる(完) ―――
管理人曰:
意訳を多用しております。
また未熟な素人翻訳ですので、翻訳の問題に気が付かれた方は、
お手数ですがコメントでご一報いただければ幸いです。
<参考>
感謝の心で一切の憎しみを解消する
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/9af3fb932db27f34627be3984ea1235c?fm=entry_awp
學習《群書治要》 承擔救世使命
『群書治要』を学び救世の使命を担う
主辦單位:馬來西亞中華文化教育中心
教育化解危機座談會
主 講 者:淨空老教授
時 間:二○一二年八月四日
地 點:馬來西亞吉隆坡 金馬皇宮
主催:マレーシア中華文化教育センター 「教育は危機を解消する」座談会
講演:浄空老教授
日付:2012年8月4日
場所:マレーシア・クアラルンプール、パレス・オブ・ザ・ゴールデンホーシース(Palace Of The Golden Horses)
尊敬的丹斯里李金友先生、馬華的各位校長老師、馬來西亞中華文化教育中心各位老師同仁、各位嘉賓:
尊敬するタン・スリ(注1)李金友先生、マレーシア華人の校長・先生各位、マレーシア中華文化教育センターの諸先生方、ご来賓の皆様。
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【注1】 タン・スリ(Tan Sri)・・・・マレーシアの国王から授けられる称号の一つ。
(参考: http://www.geocities.jp/hashimnakamura/experience/32th.html)
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大家好!淨空承蒙丹斯里李金友先生的邀請,有幸參加馬來西亞華校校長聚會, 我們欣喜地看到馬六甲的漢學院業已開工,預定兩年建成,將正式招生,這是廿一世紀的第一樁大事! 納吉首相在去年漢學院的動土典禮中致辭說:「馬來西亞漢學院的建立將有助於傳授一種教育理念,不僅是推廣卓越的學術,而且是推廣人類不可或缺的價值觀」。(見尾註英文原文)
皆様こんにちは!浄空はタン・スリ李金友先生にお招きいただき、幸運にもマレーシア華人学校の校長会に参加することができました。私たちはマラッカ(Malacca)の漢学院がすでに着工しているのを見て嬉しく思っています。これは二年で完成させ、正式に学生を募集する予定です。これは21世紀における大事です!ナジブ首相(注2)は昨年、漢学院の着工式典で、「マレーシア漢学院の設立は、教育理念を伝授して、卓越した学術を普及させるだけでなく、人類にとって欠くことのできない価値観を普及させることに役立つものである。」と仰いました。(下記英文の原文参照)
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【注2】 ナジブ・ラザク(Mohd Najib bin Tun Haji Abdul Razak)・・・・マレーシアの第6代首相(現職)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%82%AF
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淨空為馬華慶祝!因為馬華的校長和老師們,將承擔起振興漢學、救世救民的神聖使命。願以六十年學習中華傳統文化、大乘佛學、聖賢教育之心得,向諸位仁者請教。
浄空はマレーシア華人の方々にお祝い申し上げます!マレーシア華人の校長と先生方は、漢学の振興、そして救世救民の使命を担われたのです。私が六十年学んだ中国の伝統文化、大乗仏教学、聖賢教育の心得を、仁者であられる皆様にお教えいただきたいと願っております。
一、人類危機的出路
一、人類の危機からの活路
今日人類社會危機重重——氣候危機、能源危機、糧食危機、環境污染、戰爭衝突、恐怖事件日益嚴重,究其根本,總因在於「人心壞了」,皆由我們疏忽了人性本善、倫常道的教育之所致。左傳曰:「人棄常則妖興」。管仲曰:「(禮義廉恥)四維不張,國乃滅亡」。早在兩千多年前,孟子向梁惠王說明治亂之道:若各國君王只關心怎樣有利於自己的國家,大夫只關心怎樣有利於自己的封邑,士人百姓只關心怎樣有利於自身,則「上下交征利,而國危矣」:當一個國家從上到下互相爭奪利益,那麼國家就危險了!當前全球人類崇尚「私利」,不惜損人利己,為滿足慾望而為所欲為,則必然造成舉世危機,甚至感召全球大災難,正如《尚書·伊訓》曰:「作善降之百祥,作不善降之百殃。」
今日人類社会は様々な危機に見舞われています。――気候の危機、エネルギー危機、食糧危機、環境汚染、戦争、テロ事件など、日増しに深刻になっています。その根本を煎じ詰めれば、すべて原因は「人の心が悪くなった」ことにあります。すべては私たちが、人の本性は善であるとする、倫常道徳の教育を疎かにしたことから招いたことなのです。左伝に曰く、「人棄常則妖興」(人が常識を失えば妖怪が栄える)(注3)。また管仲は、「(礼儀廉恥)四維不張,國乃滅亡」(礼・儀・廉・恥の四つの大綱を張らなければ、国は滅亡する)と説いています。さらに二千年以上前、孟子は梁の恵王に天下を治める道を説いています。もし各国の君主が自国の利益だけに関心を持ち、大夫が諸侯の領地の利益だけに関心を持ち、読書人や庶民が自分自身を利益だけに関心があるようなら、「上下交征利,而國危矣」(君主から庶民まで誰もが利益を争えば、国が危うくなる)(注4)のです。国家が君主から庶民までお互いに利益を争っていれば、その国は危機に陥ります!現状では全世界の人々が「私利」(個人的な利益)を尊んで、人を傷つけて己を利することを惜しみません。欲望を満足させるために、我がまま勝手に振る舞っています。ですから世界的な危機に陥るのは必然なのであり、挙句の果てに世界中に大災害を引き起こしています。これは正に『尚書』「伊訓」に、「作善降之百祥,作不善降之百殃。」(善を行えば百の幸せが降ってくる。不善を行えば百の禍が降ってくる。)と説かれている通りです。
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【注3】 人棄常則妖興・・・・人常を棄つれば則ち妖興る。人が常識を失えば妖怪が栄える。(『春秋左氏伝』)
【注4】 「上下交征利,而国危矣」 (『孟子』梁恵王上)
上下交(こもごも)利を征(と)らば,而ち国危うし。
君主から庶民まで誰もが利益を争えば、国が危うくなる。
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救世之道,惟在回歸傳統聖哲教育,虛心學習並落實老祖宗的聖賢教誨。《禮記·學記》云:「建國君民,教學為先」,乃至安身立命,教學為先;創業齊家,教學為先;禮義之邦,教學為先;穩定和諧,教學為先;國豐民安,教學為先;太平盛世,教學為先;長治久安,教學為先;甚至諸佛報土,極樂世界,無一不是以教學為先也。
救世の道は、伝統の聖賢・先哲の教育に立ち返り、ご先祖様の聖賢の教誨を虚心に学ぶことです。『礼記』「学記」には「建国君民,教学為先」(国を建て民を治めるには、教学が第一である)とあります。また生活を安定させ、心の拠り所を得るのも教学が第一です。事業を始め、家を整えるにも教学が第一です。礼儀を重んじる国を築くにも、教学が第一です。安定と調和も、教学が第一です。国を豊かにし、民を安んずるにも、教学が第一です。太平の世の中は、教学が第一です。長く社会を安定させるのも、教学が第一です。ましてや諸仏報土、極楽世界、教学を第一としないものはありません。
早在五千年前,舜以契為司徒,主管教育。類此,中國歷代君主莫不重視教育,宰相所管轄的各部中,以禮部最居優先,顯示一切行政皆為教育服務。尤其滿清王朝,對教育之重視最為明顯,恒常禮請儒釋道專家學者到宮廷中講學,皇帝帶著文武大臣共同學習聖賢典籍。《四庫全書》中有《日講四書解義》等典籍,明顯展現了清朝康乾盛世時期宮廷講學之內容實況。
五千年前、舜は契を司徒(注5)として、教育を管理させました。このように、中国の歴代君主には教育を重視しない人はいませんでした。宰相が管轄する各部署の中では、「礼部」を最も優先させました。これは一切の行政が教育の為に奉仕していたことを示しています。特に清王朝では、教育を重視していたことは明らかで、常に儒教・仏教・道教の専門家を宮廷に招いて講義を行わせ、皇帝は文武大臣を連れて聖賢の典籍を一緒に学んでいました。『四庫全書』(注6)の中には『日講四書解義』等の典籍があり、その中に康熙帝・乾隆帝の清朝最盛期の宮廷内の状況を見ることができます。
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【注5】 司徒(しと)・・・・中国、周王朝の六卿の一。地官の長で戸籍・教育などをつかさどった。(大辞泉)
【注6】 『四庫全書』・・・・清の乾隆帝(1711-1799)の勅命で編纂された中国最大の叢書。1781年に完成された。
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或曰:「二十一世紀是中國人的世紀」。所以,外國人怕中國崛起要稱霸世界,威脅他國,故提心吊膽,甚至嚴加防範。淨空認為,中國的崛起,決非武力,亦非政治、科技、或經濟,而是中華傳統文化的復興和普及!
ある人は「二十一世紀は中国人の世紀である」と言います。ですから外国人は中国が世界に覇を唱え、他国を脅かすことを恐れ、肝をひやして防衛を強化しています。浄空は、中国の台頭は絶対に武力ではなく、また政治でも科学技術でも、経済でもなく、中華伝統文化の復興と普及にあると考えています!
英國著名歷史哲學家湯恩比博士更云:「欲解決二十一世紀的社會問題,唯有孔孟學說與大乘佛法。」孔孟學說即是「仁義忠恕」,大乘佛法則是「真誠慈悲」,皆是「真誠至愛」的文化。靜觀今日世界亂象紛呈,欲拯救世界,唯有復興中華傳統文化中「真、誠、愛」的教育,才能辦到。
イギリスの著名な歴史哲学者、トインビー博士は、「二十一世紀の社会問題を解決するのは、孔孟学説と大乗仏法だけである」と語っています。孔孟学説とは即ち「仁義忠恕」であり、大乗仏法とは「真誠慈悲」であり、すべて「真誠至愛」の文化です。今日世界に次々と起こる混乱を冷静に観察するなら、世界を救おうとするなら、中華伝統文化の「真」「誠」「愛」の教育を復興させる他はありません。
中華傳統文化是「愛與和諧」的文化,是以五倫、五常、四維、八為核心的人性本善的文化。馬來西亞首相納吉先生在馬來西亞漢學院動土典禮的致辭中說到:「當鄭和在十五世紀來到了馬六甲,…… 他擁有摧毀或破壞當時的馬六甲王國的能力,但他選擇了建立友誼。這是為什麼呢?……鄭和與中國的子民有智慧、價值觀和品格,他們相信,他們將被視為一個偉大的文明,他們來到這裡是建立友誼,而不是為了征服」。此具體說明了中國老祖宗「凡是人,皆須愛」的和諧文化。
中華伝統文化とは、「愛と調和」の文化です。五倫、五常、四維、八徳を核心として、人の本性を善とする文化です。マレーシアのナジブ首相は、マレーシア漢学院の着工式典で、「鄭和(ていわ)(注7)は十五世紀にマラッカに来ました。・・・・彼は当時のマラッカ王国を打ち破る武力を持っていましたが、友好を打ち立てる選択をしました。それはなぜでしょうか?・・・・鄭和と中国の人々には智慧、価値観、品格があり、彼らは偉大な文明と考え、そう信じていました。彼らがここに来たのは友好を結ぶ為であって、征服する為ではなかったからです。」と話されました。これは中国の先祖の「凡是人,皆須愛」(人はみな愛し合わなければならない)(注8)の調和文化を具体的に立証しています。
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【注7】 鄭和(ていわ/1371-1434)・・・・中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C
【注8】 凡是人、皆須愛・・・・凡そこれ人、皆すべからく愛すべし。『弟子規』「泛愛衆」の第一節。
人はみな愛し合わなければならない、の意。
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>>>『群書治要』を学び救世の使命を担う 2/3へ
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/6ef3e789619139d1b21cd80a7a53b89b
二、《群書治要》重現世間的啟示
二、『群書治要』が再び世に現れた啓示
中國的唐朝,是一個多元文化和諧共榮的美好時代。唐太宗李世民(公元五九九年至六四九年)宏雅量,兼容並蓄,虛心學習各種宗教和聖哲學派的典籍,並帶動全國百姓學習聖賢教育。他不僅是佛教的護法,而且是所有宗教的總護法。他尊重宗教,愛護宗教,對各個宗教都能夠優容接納,平等對待。各個宗教之中真正有修行、有行、有學問的大,太宗都奉之為國師,常常向他們請教和學習。
中国の唐朝は、多元文化・調和・共栄の素晴らしい時代でした。唐の太宗・李世民(599-649年)(注9)はとても寛大で、多くのことを抱擁し、虚心に各種の宗教や聖哲学派の典籍を学び、全国民に聖賢の教育を推進しました。彼は仏教を保護しただけでなく、あらゆる宗教を保護しました。彼は宗教を尊重し、宗教を大切に護り、各宗教を寛容に受け入れ、平等に扱いました。太宗は、各宗教の中で真に修行を積んだ、徳行と学問のある大徳を国師として尊重し、いつも彼らに教えを請い、学んでいました。
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【注9】 李世民(りせいみん/599-649)・・・・唐朝の第2代皇帝。在位期間は626年9月4日~649年7月10日。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。(ウィキペディア情報)
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貞觀九年(六三五年)傳教士阿羅本(Alopen)將基督教傳入中國,時稱景教,太宗遣派宰相房玄齡至西郊迎之,並親自會見。貞觀十二年,太宗頒詔於長安義寧坊建教堂一所,名為「敕建波斯寺」,以供基督教傳教。
貞観九年(635年)、宣教師の阿羅本(あらほん、アロベン/Alopen)はキリスト教を中国に伝えました。ネストリウス派と言い、太宗は宰相・房玄齢を西郊に派遣し、また自ら接見しました。貞観十二年、太宗は長安の義寧坊に教会を建てるよう詔勅を宣布しました。名称を「敕建波斯寺」(注10)と言い、キリスト教布教の為に提供されました。
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【注10】 敕建波斯寺・・・・「敕建」は、「勅命により建造する」の意。「敕建波斯寺」は、勅命で建てられた波斯寺、という意味。
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唐朝時期伊斯蘭教傳到中國比基督教更早,相傳唐高祖武年間,伊斯蘭教創始人穆罕默先知還在世,他派門徒四人來華傳教,其中的艾比·宛葛素於唐貞觀初年(公元六二七年)從波斯灣到達廣州,建立懷聖寺,以紀念穆罕默聖人。
唐朝の頃、イスラム教が中国に伝わったのはキリスト教より早く、唐の高祖・武徳年間と伝えられています。イスラム教の創始者・預言者ムハンマド(570頃-632年)はまだ存命していました。彼は信徒四人を中国に派遣して布教させ、そのうちアブー・ワンガスは、唐の貞観元年(627年)にペルシア湾から広州に来て懐聖寺を建立し、ムハンマド聖人を記念しました。
這是國家平等對待各個宗教,因為不同宗教都是神聖與先知智慧經驗的良善教育,能夠幫助國家教化大眾,達到人民和睦相處、社會安定和諧的功效。
国家は各宗教を平等に扱いました。なぜなら各宗教はすべて神聖なものであり、また預言者の智慧と経験による優れた教育だからです。国家が大衆を教化する助けとなり、人々が打ち解けて仲良くなり、社会の安定と調和に効果があるものだからです。
唐太宗在位期間,對文化的最大貢獻是命臣下彙編了一部匡世濟民的治世寶典——《群書治要》。
唐の太宗の在位期間、文化に対する最大の貢献は、臣下に命じて世を正し民を救う治世の宝典、『群書治要』(注11)を編纂させたことです。
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【注11】 『群書治要』(ぐんしょちよう)・・・・中国・唐代初期に、治世のための参考書として編まれた書籍である。太宗の奉勅撰。(ウィキぺディア情報)
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太宗十六歲隨父從軍,起義平定動亂的社會,戎馬倥傯十餘年。二十七歲即帝位後,偃武修文,特別留心於治平之道。太宗英武善辯,遺憾早年從軍,無暇讀書。鑑於前隋滅亡之失,深知創業不易,守成維艱,在位期間,鼓勵群臣進諫,批評其決策過失。令諫官魏徵及虞世南等,整理歷代帝王治國資政史料,擷取六經、四史、諸子百家中,有關修身、齊家、治國、平天下的智慧、理念、方法、效果、經驗之精要。上始五帝,下迄晉代,自一萬四千多部、八萬九千多卷古籍中,選取六十五種典籍,擷取精華,匯編成書,共成五十餘萬言,名之為《群書治要》。
太宗は十六歳で父親に随って従軍しました。動乱の社会を平定する為に蜂起して、軍務に忙殺されること十余年に及びました。二十七歳で皇帝に即位した後、戦をやめて学問を興し、特に天下太平の道に尽力しました。太宗は勇敢に善を行いましたが、残念なことに若い頃から従軍していたので、勉学する時間がありませんでした。前の隋が滅亡した失策を鑑みて、事業を始めるのは容易ではなく、先人の業績を維持するのは難しい事を深く理解し、群臣に諫言させ、方策の過失を批判することを奨励しました。諌官(注12)の魏徴と虞世南等に、歴代帝王の治国施政の史料を整理させ、六経・四史・諸子百家の中から、身を修め・家を整え・国を治め・天下を平定する、智慧・理念・方法・効果・経験の精髄を選出させました。先は五帝から晋代に至るまで、一万四千部余り八万九千巻の古書から、六十五種の典籍を選出し、その精華を取り出して、書物を編纂しました。合わせて五十万字余りに及び、名を『群書治要』としました。
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【注12】 諌官(かんかん)・・・・天子・主君を諫める役職。
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書成,如魏徵於序文中所說,實為一部「用之當今,足以鑒覽前古;傳之來葉,可以貽厥孫謀」的治世寶典。太宗喜其廣博而切要,日日手不釋卷,曰:「使我稽古臨事不惑者,卿等力也」。由是而知,貞觀之治的太平盛況,此書貢獻大矣!誠為從政求學者不可不讀之寶典。
書が完成すると、魏徴は序文の中で、「今これを用いれば、昔を鑑みるに十分であり、次の時代にこれを伝えれば、その子孫に規範を遺すことができる。」(注13)もので、治世の宝典であると述べています。太宗はその広範な知識と重要性を喜び、毎日巻を手元から放さず、「私に古の道を究明させ、事に臨んで惑わせないのは、大臣にも匹敵する力である。」(注14)と語っています。このことから、貞観の治(注15)の平和と盛況は、この書物の貢献が大きいことが分かります!正に政(まつりごと)に参与する学者にとって、読まなければならない宝典です。
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【注13】 「用之當今,足以鑒覽前古;傳之來葉,可以貽厥孫謀」
今これを用いれば、昔を鑑みるに十分であり、次の時代にこれを伝えれば、その子孫に規範を遺すことができる。「貽厥」(いけつ)とは、子孫に残すはかりごと(制度や法則を指す)のこと。
「貽厥孫謀,以燕翼子」・・・・厥(そ)の孫に謀(はかりごと)を貽(のこ)して、以て翼子を燕んず。(『詩経』大雅・文王有声)
【注14】 「使我稽古臨事不惑者,卿等力也」をこのように意訳した。(訳者)
【注15】 貞観の治・・・・唐の太宗の治世。賢臣・名将に補佐され、官制を整備、領土の拡大、学芸の奨励により、国力を充実させた。(大辞泉)
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過去孫中山先生於三民主義講演中(民族主義第四講)曾云,「歐洲的科學發達、物質文明的進步,不過是近來二百多年的事。講到政治哲學的真諦,歐洲人還要求之於中國。諸君都知道世界上學問最好的是國,但是現在國研究學問的人,還要研究中國的哲學,甚至於研究印度的佛理,去補救他們科學之偏。」
かつて孫中山(注16)先生は、三民主義の講演(三民主義第四講)において、「欧州の科学の発達、物質文明の進歩は、ここ二百年余りのことに過ぎない。政治哲学の精髄を語るなら、欧州人はやはりそれを中国に求めるだろう。諸君は世界の学問で最も優れているのはドイツだと知っている。しかし今、ドイツの学問を研究する人は、中国の哲学を研究しなければならず、更にはインドの仏教理論を研究して、彼らの科学の偏りを補わなければならないのである。」と語りました。
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【注16】 孫中山(1866-1925)・・・・孫文のこと。中山は号。1905年東京亡命中に中国革命同盟会を結成、三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)という政治理論を綱領とした。中国では孫文より孫中山というのが一般的。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
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老祖宗留傳至今的格物、致知、修身、齊家、治國的智慧、理念、方法、經驗與成效,均是歷經千萬年考驗所累積的寶藏結晶。《群書治要》至珍至貴!是一部帶動中華和諧文化與道教育在世界範圍內全面復興的寶典。果能深解落實,則天下太平指日可期!若背道而行者,則不免自招災殃,禍患無窮。
ご先祖様が今日まで伝えて下さった格物、致知、修身、斉家、治国の智慧(注17)、理念、方法、経験と成果、どれも千万年の検証を経て累積した宝蔵の結晶です。『群書治要』はこの上なく得難いものです!中華の調和文化と道徳教育を導き、世界的な規模で復興する宝典です。もし深く理解して実行するなら、天下太平は実現間近と言えるでしょう!もし反対の方向へ向かうなら、自ら災いを招くことは免れず、災害は尽きることがないでしょう。
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【注17】 格物、致知、修身、斉家、治国・・・『礼記』大学の一節。物事の道理を窮め正す意。「格物」は理想的な政治を行うための第一段階。(大辞泉) 平和を実現するために、個人の心を出発点としているところに着目すべきであろう。
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《群書治要》在中國至宋初已失傳千年。所幸者,日本金澤文庫藏有日本僧人手寫《群書治要》的全帙。並於清乾隆六十年,由日人送回中國本土。民國初年,上海商務印書館四部叢刊和臺灣分別以此版為底本影印出版。二Ο一Ο年歲末,淨空幸得此書,反覆翻閱,歡喜無量,深刻體會古聖先賢之文化教育,的能為全世界帶來永恆之安定和平,而《群書治要》之重現,實有其神聖使命。遂欣然印出一萬套,贈給兩岸三地暨世界各國、各黨、各級領導共同學習,則對實現和諧社會、大同之治的理想必大有幫助!
『群書治要』は中国では宋代初期に伝承が絶えました。幸いにも、日本の金沢文庫には日本の僧が書き写した『群書治要』の全帙が収められていました。清の乾隆六十年、日本人によって中国本土に送り返されました。民国初年、上海商務院書館の四部叢刊と台湾が、この版を分別して底本として写真製版印刷で出版しました。二〇一〇年の年末、浄空は幸いにしてこの書を得、繰り返し閲覧しました。その喜びは計り知れません。古の聖賢の文化教育に深い感銘を受けました。これは確かに全世界に恒久の安定と平和をもたらすものです。また『群書治要』を重視することは、本当に神聖な使命だと言えましょう。喜び勇んで一万セットを印刷し、中国・台湾・香港、そして世界各国、各党、各指導者クラスの共同学習として寄贈しました。調和社会、理想社会を実現するのに大きな助けとなるものです!
這部書印出之後,中國中央黨校已經將其定為正式的課程。淨空亦向各國領導人和各大宗教領袖推介此書,皆歡喜接受。例如,馬來西亞前首相馬哈迪長老聽淨空介紹此書,即急切希望看到英文翻譯本,於是即請馬來西亞中華文化教育中心的老師們編輯《群書治要三六零》,從全書中節選精華的三百六十小段,加以註解,翻成白話文,再譯成英文,供讀者每天讀一段,一年讀完。此英文版剛編譯好之後,淨空即當面送給馬哈迪長老,長老無量歡喜。納吉首相閱讀此書之後說:「(《群書治要》中的)這些價值觀,身為領導人、部長和官員都需要展現出來的,因為這將幫助我們為人民的利益執行健全的政策。」
この書物が印刷された後、中国中央の幹部党員の教育機関は、すでに正式な課程として採用しています。浄空は各国の指導者と各宗教の指導者にこの書物を推薦しましたが、皆喜んで受け取られました。例えば、マレーシアの前首相マハティール長老は浄空がこの書物を紹介しているのを聴いて、すぐに英文の翻訳本を見たいと希望されました。そこでマレーシア中華文化教育センターの先生方に『群書治要360』の編集を依頼しました。全書の中から精髄である三百六十の小段を選出し、註解を加え、口語文に翻訳し、更に英文に翻訳しました。読者は毎日一段読めば、一年で読み終わります。この英文版の綱領を訳し終えた後、浄空は直接マハティール長老に送りました。長老はたいへん喜ばれました。ナジブ首相はこの書物を読んだ後、「(『群書治要』の中の)これらの価値観は、指導者・長官・役人にとって必要なことがすべて展開されている。これは私たちが人民の利益の為に、健全な政策を執行する助けとなるものだ。」と話されました。
淨空肯定,這部書可以幫助全世界化解衝突,促進社會安定和平。我們希望這個地球上永遠沒有戰爭、永遠沒有衝突,希望每個族群、每個人都能得到幸福美滿的生活,則落實此書必能實現。由此可知,二十一世紀是中華文化的世紀,是《群書治要》放大光明的世紀!
浄空はこの書物が全世界の衝突を解消する助けとなり、社会の安定と平和を促進すると確信します。私たちはこの地球上に永遠に戦争がなくなり、永遠に衝突がなくなり、どの民族も、誰もが幸せな生活を送ることができるよう願っております。この書物を実行すれば必ず実現できるでしょう。このことからも、二十一世紀は中華文化の世紀だという事が分かります。『群書治要』が大きな光明を放つ世紀です!
>>>『群書治要』を学び救世の使命を担う 3/3へ
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/5456b0a446b7e9020cd4410c25cd4a8a
三、學習與弘揚的方法
三、学習と発揚の方法
聖賢傳統文化實為一切眾生自性流露,超越時空,亙古彌新。學習關鍵,端在「誠敬」二字。《曲禮》曰:「毋不敬。」前清康熙曰:「臨民以主敬為本。」又曰:「誠與敬,千古相傳之學,不越乎此。」程子曰:「敬勝百邪。」印光大師曰:「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益。」說明修身進、學問事業、利世濟民,唯「誠敬」二字,方能圓成。若對古聖先王之教育毫無誠敬,縱遍覽群籍,亦難獲實益。
聖賢の伝統文化は、一切の衆生の自性(私たちが本来備えている真の性質)の流露であり、時空を超えて、古今に通ずるものです。学習の要点は、「誠」(至誠)「敬」(敬愛)の二字が糸口です。『曲礼』に曰く、「毋不敬」(敬わざることなかれ)。清の康熙帝曰く、「臨民以主敬為本」(民に臨みて主敬を以て本と為す)、また曰く「誠與敬,千古相傳之學,不越乎此」(誠と敬とは、千古相伝の学、此れを越ふるものあらざるか)。程子曰く、「敬勝百邪」(敬は百邪に勝る)。印光大師曰く、「一分誠敬得一分利益,十分誠敬得十分利益」(一分の誠敬は一分の利益を得、十分の誠敬は十分の利益を得る)。これらは、身を修め徳を積み、学問・事業を行い、世に益をもたらし民を救済するのは、ただ「誠」「敬」の二字によってのみ成就できるという事を立証しています。もし古の聖人・君主の教育に対する「誠」「敬」が無ければ、多くの典籍を見ても、実益を得ることは困難でしょう。
「誠敬」二字亦與《大學》之道相應:「知止而後有定,定而後能靜,靜而後能安,安而後能慮,慮而後能得」。當學者學習聖賢之道(止於至善),必先立定志向,而後能制心一處,心不妄動(靜),則一切順逆境緣所處皆安,進而智慧現前,明瞭聖賢道理(慮),最終證得聖賢境界(得)。
「誠」「敬」の二字は、また『大学』の道にも通じています。「知止而後有定,定而後能静,静而後能安,安而後能慮,慮而後能得」((至善に)踏み止まることを知ってこそ、心を定めることができ、心を定めてこそ、心を平静にすることができ、心を平静にしてこそ、心を安らかにすることができ、心を安らかにしてこそ、物事を正しく考えることができ、物事を正しく考えてこそ、(至善に)達する事ができるのである。)(注18)。聖賢の道(至善にとどまる道)を学ぶ者は、必ずまず「定」を立てることを志し、後に心を一つに集中し、心を無闇に動かさず、一切の順境・逆境において安らかに過ごし、進んでは智慧を働かせ、聖賢の道理を明瞭にし、最後に聖賢の境地を得るということです。
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【注18】 文末の脚注に読み下し文と意訳を記した。
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目前《群書治要》的流通,已引起廣泛的關注和興趣。若須持久推廣,須有師資人才。馬來西亞漢學院,便是培養《群書治要》師資人才的理想學校。
目下『群書治要』の流通について、すでに幅広く興味・関心を持たれています。もし長期的に推進するなら、必ず教師となる人材が必要です。マレーシア漢学院は、『群書治要』の教師となる人材を育成する理想的な学校です。
《群書治要》的內容,從六十五種古籍裡選出,我們需要至少六十位老師,一門深入十年修,則皆成為世界一流的漢學家,身行言教,講解教導此書。若資源允許,則希望每一種書能有三位老師組成小組來深入學習,共約兩百人。例如,《論語治要》小組,《易經治要》小組,《尚書治要》小組,《詩經治要》小組,等等。老師們放下自私自利,放下名聞利養,立志成聖成賢,為世界永久和平、人類真實幸福,貢獻愛心與智慧,用十年專攻一部書,務求知行合一,將所學之聖賢道理落實於自己的生活工作。十年之後,他們都是世界頂尖的專家學者。
『群書治要』の内容は、六十五種の古書から選出したものですから、私たちは少なくとも六十名の教師が必要です。一つの門に深く入り、十年の研鑽を経れば、世界で一流の漢学者になることができるでしょう。身をもって行為と言葉で教え、この書を解説して教え導きます。もし可能であれば、各書ごとに三人の教師がグループを作って深く学ぶと良いでしょう。合計で約二百人です。例えば、『論語治要』のグループ、『易経治要』のグループ、『詩経治要』のグループ、という具合です。教師たちは私利私欲を捨て、名聞利養を捨てて、聖賢になる志を立て、世界の永久の平和、人類の真の幸福の為に、愛と知恵を貢献して、十年かけて一冊の書を専攻し、知行合一を願い、聖賢の道理を自己の生活や仕事において実行しなければなりません。十年後、彼らは世界最高の専門家になるでしょう。
如此六十五個學科的專家團隊,即是一部活的《群書治要》,皆為治世聖哲大師。他們每天可借助遠程教學工具向全球直播,講解這六十五種書的精華,同時培養下一代老師,一代一代傳下去,則中華文化永遠是主導全球的文化。中華文化是全人類共有的文化遺產,人人有份,人人應當學習。世界永遠是太平盛世!淨空今年八十六,暮年之人,有心無力矣。惟願有仁人志士發此大心,成就此無量功之大事業,為往聖繼絕學,為萬世開太平!斯人即是佛、菩薩、救世主再世。
このように六十五学科の専門家集団は、即ち生きた『群書治要』なのであり、全員が世を治める聖哲の大師になるのです。彼らは毎日遠距離教育の技術を借りて、全世界に向けて衛星放送を行い、六十五の書の精華を解説し、同時に次世代の教師を育成します。そうして代々伝えていけば、中華文化は永遠に世界の文化を導くでしょう。中華文化は人類が共有する文化遺産であり、誰もが分かち合い、誰もが学習すべきものです。世界は永遠に太平の世となるでしょう!浄空は今年八十六の晩年を迎えており、「心はやれど力及ばず」です。ただ高い志を持った人が、この計り知れない功徳の大事業を成就させ、「昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く」こと(注19)を、発心されることを願っています!その人は即ち仏であり、菩薩であり、救世主の再来です。
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【注19】 「為往聖継絶学、為万世開太平」
往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。
昔の聖人の為に途絶えた学問を継承し、後世何代も続く世の為に平和を築く。(意訳)
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結語
結び
在座的諸位仁者大,都是從事教育的專長人才,負有為人類社會培養優秀棟樑的偉大使命。淨空虔誠至心希望大家發心學習《群書治要》,學習老祖宗修身濟民的大智慧,然後廣為弘揚,培養後學,功無量!將來我們希望建立一座衛星電視台,每天二十四小時向全世界播放《群書治要》的教學課程。果能如此大力弘揚聖賢教育,相信不久的將來,全世界人類都會覺醒。這一切都有大家共同發心,攜手努力。祝願此一大事因緣早日成就,大同世界早日來臨,淨空今日在此代表一切眾生祈請!感恩大家!謝謝大家!
着席されている仁者大徳の皆様は、すべて教育に従事されている専門の人材であり、人類社会の為に重要な役割を担う人材を育成する、偉大な使命を担われています。浄空は、皆様が発心して『群書治要』を学習し、身を修め民を救済するご先祖様の大きな智慧を、学習される事を心から願っています。そして広く発揚し、後学を育成すれば、その功徳は計り知れません!将来私たちは衛星テレビ局を建設し、毎日二十四時間、全世界に向けて『群書治要』の教育課程を放送したいと考えています。もしそのように聖賢の教育を強力に発揚できれば、近い将来、全世界の人類は覚醒するでしょう。そのすべては皆さんが共に発心し、手を携えて努力することにかかっています。この一大事の因縁が一日も早く成就し、平和な社会が一日も早く近づきますよう、浄空は今日一切の衆生に代わり祈念致します!皆様に感謝いたします!ありがとうございました!
祝願
馬來西亞政府領導人 政躬康泰 國豐民安!
諸位仁者吉祥如意 法緣殊勝﹗
榮譽博士 釋淨空 敬禮
澳洲淨宗學院院長,香港佛陀教育協會董事主席
澳洲昆士蘭大學、格里菲斯大學榮譽教授
附:納吉首相在去年漢學院的動土典禮中致辭之英文原文:
付記:昨年の漢学院の着工式典におけるナジブ首相の挨拶(英文原文)
「The establishment of the Malaysian Academy of Han Studies (MAHS) will help impart an education concept that not only promotes academic excellence but also positive values which are greatly needed by mankind, said Prime Minister Datuk Seri Najib Tun Razak.」 【Source: Bernama, MELAKA, Oct 13, 2011】
<脚注>
18.「知止而後有定,定而後能靜,靜而後能安,安而後能慮,慮而後能得」(『大学』冒頭の一節)
*以下、岩波文庫(青)の『大学・中庸』から読み下し文を参照、訳は筆者の意訳。
知止而後有定,
止まるを知りて后(のち)定まる有り、
(至善に)踏み止まることを知ってこそ、心を定めることができ、
定而後能靜,
定まりて后能(よ)く静かに、
心を定めてこそ、心を平静にすることができ、
靜而後能安,
静かにして后能く安く、
心を平静にしてこそ、心を安らかにすることができ、
安而後能慮,
安くして后能く慮(おもんぱか)り、
心を安らかにしてこそ、物事を正しく考えることができ、
慮而後能得。
慮りて后能く得。
物事を正しく考えてこそ、(至善に)達する事ができるのである。
―――『群書治要』を学び救世の使命を担う(完)―――
未來理想的修學環境 1/8 / 未来の理想的な修学環境 1/8
1997.8 啟講於 台灣緯來電視台 / 編號:24-010
各位觀眾,大家好! 過去在八三年,我在舊金山講經,場所是一家老人公寓。我第一次參觀了美國的老人公寓,我看到之後非常歡喜。這一次講經時間雖然不長,只有短短的一個星期,可是給我很大的啟示。 這個老人公寓是猶太人辦的,辦得非常好,裡面大約住了有三、四百個老人。每一個單位是一個小套房,還有一個小客廳,廚房、陽台都有,合我們台灣大概有十五坪的樣子,每一個單位有十五坪這麼大。
皆様こんにちは!昔、1983年頃、私はサン・フランシスコ(San Francisco)で説経をしていました。場所は老人ホームです。私は初めてアメリカの老人ホームを見学したのですが、見学してとても嬉しく思いました。初めての説経の時間は長くはなく、ほんの一週間程度でしたが、私はとても啓発されました。その老人ホームはユダヤ人が運営していましたが、運営の仕方が素晴らしく、施設にはおよそ3、400人のご老人が住んでいました。どの部屋も小さなスイートルームで、小さなリビングと、キッチン、バルコニーがあって、台湾でいえばだいたい15坪(約50平米)といった感じで、どの部屋も15坪くらいの大きさでした。
有些是夫妻兩個住,有些是單身住,單身的老人佔多數。 猶太人非常聰明,他們在老人公寓樓下,設了一個托兒所,像幼稚園一樣,招收不少的小朋友。每天早晨,他們的父母就把小孩送到這兒念書,晚上就接回去。以後我發現這些小朋友,很多都是這裡面的老人的親屬,這個太理想了!他們的兒女,常常能見面,他的小孫子、孫女,每天都來跟他玩玩。玩久了,老人當然感覺得很厭煩。時間很短,天天能看到,也非常的安慰。
ある部屋には夫婦で住み、ある部屋には単身で住み、単身のご老人が大多数を占めていました。ユダヤ人はとても聡明です。彼らは老人ホームの一階に、幼稚園と同じような託児所を設けて、たくさんの子供たちを受け入れていました。毎朝、彼らの両親が子供を連れてきて勉強させ、夜にはお迎えに来ます。後から分かったのですが、それらの子供たちは、施設のご老人の親族でした。これは素晴らしく理想的です!彼らは子供たちと頻繁に会うことができ、孫や孫娘たちが毎日やってきて彼らと遊ぶのです。遊びも長すぎれば、当然お年寄りも疲れてしまいます。短い時間ですが、毎日会うことができるので、大きな慰めになります。
我對於猶太人這種作法,我很滿意;看了之後,我很讚歎。我覺得二十一世紀的佛教道場,應該是這種形式,這真正能幫助社會解決問題,也是佛法真正修行的道場。為什麼呢?時代不同了,這大家都曉得。 在過去,中國是農業時代,交通不發達,資訊沒有現在這麼便捷。實實在在有老死不相往來,真有!一生他就住在這個村莊,鄰近的村莊,他都沒有去過,確實有這種情形。
私はこのようなユダヤ人のやり方がとても気に入りました。それを見て、私は讃嘆しました。私は二十一世紀の仏教の道場は、このような形式であるべきだと考えています。これは本当に社会の問題を解決する事ができます。また仏法を本当に修行する道場にもなりえます。なぜでしょうか?時代が変わりました。これは誰でも分かっていることです。昔、中国の農業時代は交通は不便で、通信も現在のように便利ではありませんでした。実際に「年老いて死ぬまで往来しない」という状況が本当にありました!一生涯その村に住んで、隣村さえ行ったことがないという状況がありました。
有人住在鄉村,一生沒有進過城市,在那個時代裡面生存,生活悠,農忙有一定的時期。我小時候生長在農村,我九歲離開農村的,所以還能記得一些。農夫們秋收之後,就沒有事了;他休的時間很長。這一段時間到那裡去?有些念佛、學佛的,都到寺院裡面去。有的去參禪、有的去念佛、有的去聽經。所以,寺院多半選擇在這個時期公開的講經。一般讀書人可以到寺院裡面討經單。
ある人は郷村に住んで、一生都会に行ったことがありません。そのような時代は生活もゆったりしていて、農繁期は一定の期間あるだけです。私は子供の頃農村で育ちました。九歳で農村を離れましたが、まだ少し覚えています。農夫たちは秋の収穫の後、用事がなくなります。ゆったりする時間が長いのです。この時間はどこに行くのでしょう?仏法を学ぶ人たちは、皆寺院に行きます。ある人は参禅し、ある人は念仏しに行き、ある人は説法を聴きに行きます。ですから、寺院の多くはこの時期を選んで公開の説法をしていました。一般の知識人たちは寺院に行って「討経単」をします。
討經單就是譬如這個經要講兩個月,我要在寺院住兩個月,它要給一個床舖給我,也分配一點工作,不能在寺廟白住,也幫忙打掃環境,或者是抄寫經書、修補經書,這些讀書人能夠做的事情。還有甚至於是種種菜、種種田都有,利用空的時間。 過年,一般過年是從臘八開始,就是臘月初八開始,一直過到二月二龍抬頭,你看看!這個年假多長!那裡像現在工業時代,大家忙得不亦樂乎,一般的年假,大概只有五、六天。
「討経単」とは、例えばこのお経を二ヶ月説経するなら、私は寺院に二ヶ月滞在しなければなりません。その際にはベッドを準備して、寺の仕事を少し割り振ります。ただで寺院に滞在することはできないので、掃除の手伝いもします。或いは経書を書き写し、経書を補修するなど、これらの(説経をする)知識人にできることをします。それから甚だしきに至っては、暇な時間を利用して、野菜を栽培したり、田んぼに作付けをしたりもします。
年越しは、一般的に旧暦の12月8日(臘八)から始まります、それからずっと旧暦の2月2日(龍抬頭)までです。どうですか!年越しの休みはこれほど長いのです!今の工業化した時代では、皆が忙しく働いて、一般的に年越しの休暇はだいたい5、6日しかありません。
<補足>
「討経単」とは、行脚僧が寺院を手伝いながら投宿することだと思われます。(訳者)
>>>未来の理想的な修学環境 2/8 につづく。
未來理想的修學環境 2/8 / 未来の理想的な修学環境 2/8
1997.8 啟講於 台灣緯來電視台 / 編號:24-010
在美國,我們曉得普通最長的假期只有五天。而中國古時候農業社會,長假有兩、三個月。所以,在這個時候,休沒有事情的時候,正好修行,正好讀書研究經教。但是現在社會轉變了,這種機緣可以說沒有了。寺院裡面縱然這樣做,大家沒有時間去參與。所以,我就想到了,往後工商業一定是突飛猛進,科技會更發達,它不會止住在這個地方。現在科技真的是日新月異,工作越來越繁忙,生活越來越緊張,你要不認真努力學習,你就跟不上科技的時代。
アメリカでは、普通は一番長い休みでも5日しかありません。中国では昔は農業社会で、長い休みは2、3か月ありました。ですからその用事のない期間は、ちょうど修行をしたり経典を研究するのに都合がよかったのです。しかし現在の社会は変わりました。このような機縁はなくなったと言っても良いでしょう。寺院の中では依然としてそのようにしていても、人々はそれに参加する時間がありません。そこで私は考えました。今後商工業は必ず飛躍的に進歩し、科学技術は更に発達し、現状に留まることはないでしょう。現在の科学技術は本当に日進月歩で、仕事は益々忙しくなり、真面目に努力しなければ科学技術の時代についていけないでしょう。
你學校讀書畢業了,畢業了以後怎麼樣?因為不斷在進步,所以你看現在外國,可能中國也有了,許多公司行號的職員,每一年都有兩、三次的進修教育,去補習學習新科技、新的東西,連管理的知識也是日新月異。工作非常緊張,生活的壓力非常的沉重,那裡有時間來修心養性?所以,將來的趨勢,弘法利生的對象,決定是要對退休的這些老人。他們退休之後,才能過一種清靜悠的生活,學佛就太好了。
あなたは学校を卒業しました。卒業の後はどうでしょう?(科学技術は)絶え間なく進歩しているので、外国では、おそらく中国にもあるでしょうが、多くの企業では、年に二、三回の研修があり、最新の科学技術を学習して補っていますし、管理の知識でさえ日進月歩です。仕事は非常に緊張し、生活のストレスは重くのしかかり、どこに心を修め、本性を養う時間があるのでしょうか?ですから将来の趨勢として、法を広めるご利益の対象は、間違いなく定年退職したお年寄りでしょう。彼らは退職した後、ようやく清らかでゆったりとした生活を過ごすことができるので、仏法を学ぶのに持って来いです。
退休之後,如果不學佛,沒有一點精神的生活,住在老人院,可憐!老人院,在那裡怎麼樣?那真是有一些人跟我講的坐吃等死。你看!他是什麼樣的心境,雖然物質條件不缺乏,醫療的條件也很好,精神痛苦!特別是在外國,自己的親人,一個月能來看你一次,那不得了!叫這些外國人慕死了。外國人的兒女離開家庭之後,往往幾年都不回來看看你,沒有這個親情,沒有孝道的觀念。
退職した後、もし仏法を学ぶことなく、まったく精神的な生活がないなら、老人ホームに住むのはかわいそうです!老人ホームはどんな様子でしょう?そこではある人が私に、何もせずに死を待っているのだと言ったことがあります。どうでしょう!その人はどのような心境なのでしょうか?物質的な条件は満たされていて、医療の条件も良いのに、心に苦痛を感じています!特に外国では、自分の身内は一ヶ月に一度見に来る程度ですから、それではたまりません!そのような外国人は死を羨むほどです。外国の子供は家を離れた後、往々にして何年も帰って来ません。肉親の情がなく、孝道の観念がないのです。
能夠在你生日、過年給你寄一個賀卡,你看到已經就是歡欣鼓舞了,「我這個兒女離開這麼多年,還沒有忘記我」。中國人在那裡表現好多了,確實令外國人慕中國文化。 一般中國的兒女一個星期會去看老人一次,給他買一點東西送給他,小孩、兒孫都能夠見見面,至少一個月會看一次。所以,我們覺得老人晚年,真的是非常痛苦,精神憂鬱。在這個時候,我們把佛法介紹給他,使他的生活能夠進入另外一個時空,那就完全不相同了。會讓他的晚年過得最幸福、最美滿,他會感覺到他一生當中最有意義的是晚年,最有價值的是晚年,這個要緊!
誕生日や年越しに挨拶のカードを送れば、とても嬉しいものです。「私の子供は家を離れて何年も経つのに、私のことを忘れていなかったのね」。中国人はそのあたりの表現は良い方で、確かに外国人は中国の文化を羨ましく思っています。一般の中国の息子や娘は、一週間に一度はお年寄りを見に行きます。お土産を少し買って行き、子供たちや、孫にも会うことができます。少なくとも一ヶ月に一回は会いに行きます。私たちはお年寄りの晩年は本当に苦痛で、気持ちも憂鬱になるものだと思います。そのような時に、私たちは仏法を紹介して、お年寄りの生活を別の時空に進ませます。それなら完全に違います。お年寄りの晩年は最も幸福で、最も素晴らしいものになります。お年寄りは一生の中で、晩年は最も有意義で、晩年は最も価値あるものだと感じることでしょう。これは大事なことです!
我們在老人公寓裡面講經就有這個效果,就有這些反應。 所以,我想未來的道場,不要建寺院、庵堂,建什麼呢?建老人公寓。安老院、養老院就是我們弘法的道場。這些老人有很多,但是大多數身體還相當的健康,還不需要人照顧,而且中國這些老人,多少都有一點積蓄,不像外國人。外國人年歲大了,要靠國家養老,每一個月給你寄一點生活費用,你自己沒有儲蓄。中國人有儲蓄的習慣,多少都有一些。而且中國的子女也能夠盡一點孝心,父母有缺乏了,都能夠主動的去幫助一些。
私たちは老人ホームで説法をすると、正にこのような効果があり、このような反応があります。ですから、私は未来の道場は、寺院や僧庵を建てる必要はないと考えています。では何を建てるのでしょう?老人ホームを建てるのです。養老院、老人ホームが私たちの法を広める道場です。お年寄りはたくさんいますが、大多数の人は体も相当に健康で、まだ人の世話を必要としていません。そのうえ中国のそのようなお年寄りは、いくらかの貯蓄があります。外国人とは違います。外国人は年を取ると、国に頼って、毎月の年金生活費を受け取ります。自分に貯蓄はありません。中国人は貯蓄の習慣があるので、少しはあるのです。しかも中国の子供たちは孝心を尽くします。両親が大変になれば、自主的に助けに行きます。
>>未来の理想的な修学環境 3/8
未來理想的修學環境 3/8 / 未来の理想的な修学環境 3/8
1997.8 啟講於 台灣緯來電視台 / 編號:24-010
所以,如果他體力好,老人公寓也可以做一些其他的節目,譬如近距離的郊遊,每一個月舉辦一次,帶老人到處去玩玩,使他們有機會接觸大自然,使他們心情開朗。同時能夠講解一些佛法,或者隨時教導他們如何靜坐、如何調心、調身、怎樣念佛,這都是非常愉快、幸福的生活。如果有體力,也有經濟能力,每一年可以舉辦一、兩次環球的旅遊,讓他們真正歡歡喜喜度他的晚年。
もしお年寄りが元気なら、老人ホームも別のイベントをしても良いでしょう。例えば月に一度、お年寄りを近隣のピクニックに連れて行きます。お年寄りが大自然に接する機会を作って、気持ちを大らかにします。同時に仏法の講釈をしたり、或いは随時、どのように静座するか、どのように心身を調えるか、どのように念仏するかを指導します。これはとても楽しく、幸せな生活です。もし元気があって、経済的に余裕があれば、毎年一、二回、世界を旅行しても良いでしょう。お年寄りに本当に楽しく晩年を過ごしてもらいます。
我們現在常常在外面,看到有一些旅行團,觀光旅遊的,你一看!多半是外國的,全都是老人。我們曉得老人的旅行團,年輕人帶隊,好!這是真正老人的福利。 所以佛教底下一個世紀,應當走向這一個方向,走向這個道路。所以,我就從這個地方得到這個靈感、這種想法。我這個想法就是彌陀村。就是八三年在舊金山老人公寓,講這幾天經得到的啟示,建彌陀村。
私たちは屋外で旅行団体をよく見かけます。見て下さい!半数以上が外国の、お年寄りばかりです。お年寄りの旅行団体には、若者が案内するのが良いでしょう!これは本当のお年寄りの福利というものです。ですから仏教は次の世紀(21世紀)では、この方向を進むべきでしょう。私はそのあたりからインスピレーションを得ています。私のこの考え方は、彌陀村の考え方です。つまり1983年、サンフランシスコの老人ホームで説経をした際に得たインスピレーションは、彌陀村を建てることでした。
當然道場建在郊外,比建在城市好。郊外是你生活在大自然裡面,都市雖然有一些方便,可是這種公寓、高樓,每一個人一個小單位,還是住在鴿子籠裡面,心情很難舒暢。 前幾年(四年前),我到澳州布里斯本,看到澳州人的老人中心,我非常讚歎,非常的歡喜。他們是一個老人有一棟小房子,獨立的,那真的像一個彌陀村了。有一個很大的活動中心,小小的街道,街道裡面有小車(小篷車),車上可以坐五、六個人。老人如果走不動了,隨便一招手,車就來了,這是很值得我們作參考的,值得我們學習的。
当然道場は、都市部に建てるより郊外の方が良いでしょう。郊外の生活は大自然の中です。都市部ではいくらか便利かもしれませんが、あのような高層アパートで、一人一人別々で、小さくて狭い部屋に住んでいれば、気持ちが伸び伸びしません。数年前(四年前)、私はオーストラリアのブリスベーン(Brisbane)で、オーストラリア人の老人センターを見ました。私はとても感心しましたし、嬉しくなりました。彼らは一人のお年寄りに一棟の独立した小部屋です。それは本当に彌陀村のようでした。大きな活動センターがあり、小さな道にはほろ付きの車が走り、車には五、六人乗車できます。お年寄りはもし歩けなくなったら、自由に手を挙げれば、車が来てくれます。これは私たちが参考にし、学習する価値のあるものです。
它有一個醫療中心、有一個很大的活動中心。在我們想像當中,會比他們做得更美滿。我就設想到,這樣一個道場,公共的設施,要有大型的建築,有一個講堂。我們都是修淨土的,一定要有個念佛堂。講堂,我們的建築用方形的,方方正正,表方正的意思。念佛堂的建築建圓形的,像北京天壇圓形的,圓形像一個蓮花一樣。
そこには医療センターがあり、大きな活動センターもあります。私たちの想像の中では、おそらく彼らよりもっと素晴らしくできるでしょう。私はそのような道場、公共の施設、大型の建築、そして講堂をイメージすることができます。私たちは皆浄土を修める者ですから、必ず念仏堂がなければなりません。講堂は、私たちの建物は四角にします。真四角、これは正直を意味します。念仏堂の建物は円形にします。北京の天壇の円形のようにします。円形は蓮の花と同じようにします。
另外,我們有一個圖書館,不必叫藏經樓。圖書館有豐富的庫藏,讓住在這裡面的老人,喜歡讀書的、喜歡研究學術的,提供他一個很好的修學環境。 另外,有一個大的活動中心,這就是共同的起居室。這裡面也可以表演,我們也可以常常請外面的,像學生團體、或者是其他團體,來給我們表演歌舞、表演雜技,我們不必出去,請人來,一個月舉辦一、兩次,這是娛樂的場所,都在活動中心裡面來做。
その他には、図書館を造ります。蔵経棟と名づける必要はありません。図書館には豊富な蔵書を置き、そこに住むお年寄りで、読書が好きな人や、学術の研究が好きな人には、修学の環境を提供します。その他に、大きな活動センターがあり、そこは共同の生活空間です。そこでは出し物をやっても良いでしょう。頻繁に外の学生団体などに依頼して、歌や踊り、雑技などを演じてもらいます。私たちは外に出る必要はなく、月に一度か二度、人を呼ぶようにします。そこは娯楽の場所として、すべて活動センターの中で行います。
>>未来の理想的な修学環境 4/8
未來理想的修學環境 4/8 / 未来の理想的な修学環境 4/8
1997.8 啟講於 台灣緯來電視台 / 編號:24-010
我們辦一個素食餐廳,對內包伙食,對外可以營業。這樣子,你這個道場經濟才能有來源,安定的經濟來源。正所謂「身安則道隆」。你身心不安,你那有情緒來修道、來念佛,不可能的。又說:「法輪未轉,食輪先。」我們基本的生活能解決,才有心去修道。如果天天為衣食住行憂慮,還有什麼情緒去修道?所以,這些問題都要預先把它解決。 至於宿舍,在我們佛門叫寮房,我們現在統統稱宿舍,名詞都把它改過來。
私たちはそこで菜食のレストランを開き、そこで内部の食事を請け負い、対外的には営業をします。このようにすれば、道場の収入源ができます。安定した収入源です。正にいわゆる「身安則道隆」(身安んずれば則ち道隆(さか)んなり)です。あなたの身心が不安定なら、そのような状態で修道し、念仏するのは無理というものです。また「法輪未転、食輪先」(法輪未だ転じざれば、食輪を先にす)とも言います。基本的な生活を解決できて、ようやく修道の心が生まれます。もし毎日衣食住を心配しているなら、どうして修道しようと思うでしょうか?ですからこれらの問題は先に解決しなければなりません。宿舎については、仏門では寮房と言いますが、現代ではすべて宿舎というようになっています。名前も変わってしまいました。
宿舍可以採取單獨式的,一個人一小棟,這個方式也很好;但是土地面積要大,沒有足夠的土地面積,那沒有法子。像在美國都市裡面的老人公寓,因為土地面積限制,只有向空中發展。所以,他們蓋的四層、五層、六層,這是不得已的方法。有足夠的土地,小房子非常之美、非常的優雅,每個人還有個小院子、小街道,真正是賞心目,是一個非常美好的晚年的環境。樹木要多,花草要多,有庭院、有池塘。
宿舎は単独のものを採用します。一人一棟です。この方式が良いでしょう。(そうする為には)土地の面積が十分でないと、どうしようもありません。アメリカの都市部の老人ホームのように、土地面積の制限があるなら、高層にするしかありません。彼らが四階、五階、六階の施設を建てるのは、やむを得ない方法でしょう。十分な土地があれば、小さな住居は美しく優雅なものです。一人一人に小さな庭と小路があれば、本当に目と心を楽しませることができます。それは美しい晩年の環境といえるでしょう。樹木や草花がたくさんあって、庭や池のある環境です。
在這裡面我們每一天講經說法、研究討論、念佛共修。利用現在高科技的設備,如果他在自己房間裡面,懶得出門,他房間裡面都有電視,電視一打開,我們現場就在他面前。他要聽經也可以,念佛也可以,他都能見到。喜歡念佛,每一個房間裡面,都有一個小型的擴音器,我們控制中心,二十四小時播放念佛的佛號不停的;你只要把你的擴音器打開,隨時打開,隨時就有佛號出來,你可以跟著念佛。
そこでは毎日経典の説法をして、研究・討論し、共に念仏の修行をします。今の最先端技術の設備を利用して、もし部屋の中から出たくなければ、部屋の中でテレビをつけると道場の現場が映し出されます。お経を聴いても、念仏しても良いですし、すべてを見ることができます。念仏が好きなら、どの部屋にも小型のスピーカーを設置して、コントロールセンターで二十四時間念仏の仏号を放送しています。ただスピーカーのスイッチを入れれば、いつでも仏号が流れ、それについて念仏することができます。
你喜歡出去散步,很好!你在散步,樹旁邊、亭子旁邊,也都有小喇叭,整個環境裡面一片念佛聲。小亭子裡面,都有閉路電視,在這裡面可以聽經,不一定到現場。希望我們做這樣一個修學理想的環境。 宿舍的標準,宿舍不必太大,一個人住,頂多是夫妻兩個人住,沒有小孩,他整理上比較方便,要小、要乾淨。裡面設備,我們的標準是希望能夠達到四星級旅館套房的標準。這個樣子,每一個人到那裡,都能夠生歡喜心。
散歩に出るのが好きなら、それも良いでしょう!散歩をしながら、樹木の上や、あずまやにもスピーカーがあるので、どの環境においても念仏の音声が聞こえます。あずまやには有線テレビがあり、そこでお経を聴くことができます。道場の現場だけではありません。私たちはこのような理想的な修学の環境を作りたいのです。宿舎は大きくする必要はありません。一人で住むか、多くても夫婦二人で住み、子供はいません。整理するのに便利で、小さくてきれいな部屋にします。中の設備は、私たちの基準は四つ星ホテルのスイートルームの基準です。このようであれば、誰が住んでも満足するでしょう。
所以,我們想找一塊地,我們以這個理想,好好的來規劃、來設計,建一個現代化的道場。這個道場不必用寺院、庵堂。夏蓮居老居士給我們起的名字也很好,他用學會。我們淨土宗的,淨宗學會;如果是學禪的,禪宗學會;學天台的,天台學會。每一個宗派建一個道場,聚集志同道合的人在一塊共修,共度幸福美滿的晚年。使我們這一生當中,年輕時為國家、為社會貢獻出智慧跟辛勞;晚年能夠得到美滿幸福的報酬。這樣子,我們一生就沒有空過了。
ですから私たちは土地を探しています。私たちはこの理想によって、しっかり計画を立て、設計し、近代的な道場を建てようとしています。この道場は寺院や僧庵を使う必要はありません。夏蓮居老居士が付けたネーミングは素晴らしいもので、彼は「学会」という言葉を使いました。私たち浄土宗は、浄宗学会です。もし禅を学ぶなら、禅宗学会。天台を学ぶなら、天台学会です。どの宗派も道場を建てて、志が同じ者同士で集まって共に修行します。共に幸せで美しい晩年を過ごします。私たちはこの一生で、若い時には国家社会の為に智慧と労力を出して貢献し、晩年は美しく幸せな報酬を得ることができるようにします。このようであれば、私たちの一生は空しく過ごすことにはなりません。
>>>未来の理想的な修学環境 5/8