![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/1e/fc39c8e489ebecd31f0d678ee74b6cb7.jpg)
私の母方の祖父は、原三猿朗という俳号を持つ俳人だった。
福岡県南部の田舎町で教鞭を取る傍ら、若くしてホトトギス
同人として活躍し、虚子らとの親好も厚かった様である。
明治の俳壇ではいっぱしの名を馳せて、当時日本領であつた
朝鮮でも、俳句の普及に大きな貢献をしたと言う。
盲腸をこじらせて夭折したが、明治の素封家らしく、2男4女と、
多くの子を残した。
三猿朗の訓董厚く、原家は俳句一族となり、その6人の
子供たちもそれぞれの境遇の中で俳壇に繋がりを持っていた。
特に長男は父親の俳号を継いで三猿子を名乗り、指導者として
地方で活躍した。ホトトギス一派の親好を得て、年尾や汀子を
招いて句会を催したり、家の庭に一派の句碑を建てたりしていた。
祖母が交通事故で亡くなった折に汀子から贈られた弔句
恙とてなく更衣されゐしに 汀子
の短冊は、今私の亡母の部屋にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/cc/63626ea728cfe1f47710cdf4cdc0e1b5.jpg)
年を経て、6人の兄弟を含むいとこ達が、俳句の絆で集まる
ことになるのは、必然で有ったかも知れない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/9e/cb2569985f27db7b554eff664173275d.jpg)
いとこ句会は九州で始まったが、構成員が順次移住するに
伴い、関東地方が中心になった。最後まで福岡県に残って
活躍した三猿子も、長年連れ添った妻女を看取ったあとは、
東京の娘宅に拠点を移した。
風雪を経て、歯が抜けるようにメンバーが減り、6人の
兄弟は、今は最後の一人を残すのみだが、その子達は、
何と22人を数えるに至った。しかもそのうち12人が関東
圏内で生活している。
第二世代のいとこ会が出来たのは偶然では無いだろう。
都会の環境の中では、第一世代が主催する冠婚葬祭で
顔を合わせるだけだったが、気がついたら、我々自身が
昔を懐かしむ、そういう年代になっていた。
最初は4人が集まり、4回目には9人になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/58/e8c42b3a8d41a4e60b4b5d0eb6684b9b.jpg)
全員が俳句を嗜む訳ではないので句会を持つには至って
ないが、「日本伝統俳句協会」の常連以外にも、地域の
ローカル句会に参加したり、SNSにときどき披露している
者も居るので、そのうち句会に発展するかも知れない。
しかし今の世の中は、いとこ同士で昔話を懐かしむことは
有っても、それぞれの生活が有るから、昔のように味噌・醤油
を分け合うような、血の繋がりに大きな意味合いは見当たらない。
一度、みんなのルーツである、三猿朗ゆかりの地を訪ね、
墓参りして、原鶴温泉に泊まり筑後川の鵜飼を見よう、という
話が出ているが、さてそのあとは、どうなるだろうか?
世の中の人間関係は変化し、隣近所や血縁関係とは別の繋がり
が大きな影響を持つようになったので、第三世代の交流は全くない。
これから、このいとこ会がどう推移するか、見ものである。
福岡県南部の田舎町で教鞭を取る傍ら、若くしてホトトギス
同人として活躍し、虚子らとの親好も厚かった様である。
明治の俳壇ではいっぱしの名を馳せて、当時日本領であつた
朝鮮でも、俳句の普及に大きな貢献をしたと言う。
盲腸をこじらせて夭折したが、明治の素封家らしく、2男4女と、
多くの子を残した。
三猿朗の訓董厚く、原家は俳句一族となり、その6人の
子供たちもそれぞれの境遇の中で俳壇に繋がりを持っていた。
特に長男は父親の俳号を継いで三猿子を名乗り、指導者として
地方で活躍した。ホトトギス一派の親好を得て、年尾や汀子を
招いて句会を催したり、家の庭に一派の句碑を建てたりしていた。
祖母が交通事故で亡くなった折に汀子から贈られた弔句
恙とてなく更衣されゐしに 汀子
の短冊は、今私の亡母の部屋にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/cc/63626ea728cfe1f47710cdf4cdc0e1b5.jpg)
年を経て、6人の兄弟を含むいとこ達が、俳句の絆で集まる
ことになるのは、必然で有ったかも知れない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/9e/cb2569985f27db7b554eff664173275d.jpg)
いとこ句会は九州で始まったが、構成員が順次移住するに
伴い、関東地方が中心になった。最後まで福岡県に残って
活躍した三猿子も、長年連れ添った妻女を看取ったあとは、
東京の娘宅に拠点を移した。
風雪を経て、歯が抜けるようにメンバーが減り、6人の
兄弟は、今は最後の一人を残すのみだが、その子達は、
何と22人を数えるに至った。しかもそのうち12人が関東
圏内で生活している。
第二世代のいとこ会が出来たのは偶然では無いだろう。
都会の環境の中では、第一世代が主催する冠婚葬祭で
顔を合わせるだけだったが、気がついたら、我々自身が
昔を懐かしむ、そういう年代になっていた。
最初は4人が集まり、4回目には9人になった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/58/e8c42b3a8d41a4e60b4b5d0eb6684b9b.jpg)
全員が俳句を嗜む訳ではないので句会を持つには至って
ないが、「日本伝統俳句協会」の常連以外にも、地域の
ローカル句会に参加したり、SNSにときどき披露している
者も居るので、そのうち句会に発展するかも知れない。
しかし今の世の中は、いとこ同士で昔話を懐かしむことは
有っても、それぞれの生活が有るから、昔のように味噌・醤油
を分け合うような、血の繋がりに大きな意味合いは見当たらない。
一度、みんなのルーツである、三猿朗ゆかりの地を訪ね、
墓参りして、原鶴温泉に泊まり筑後川の鵜飼を見よう、という
話が出ているが、さてそのあとは、どうなるだろうか?
世の中の人間関係は変化し、隣近所や血縁関係とは別の繋がり
が大きな影響を持つようになったので、第三世代の交流は全くない。
これから、このいとこ会がどう推移するか、見ものである。
是非思い立つて下さい!1990
是非思い立つて下さい!1990