耳順庵日記

60歳を超えて、生き馬の目を抜く首都圏の生活にカムバックした。
浦安太郎が見た、都会の意外な側面を綴ってみたい。

いとこ会

2017年04月04日 13時03分51秒 | 思い出
 私の母方の祖父は、原三猿朗という俳号を持つ俳人だった。

 福岡県南部の田舎町で教鞭を取る傍ら、若くしてホトトギス
同人として活躍し、虚子らとの親好も厚かった様である。
明治の俳壇ではいっぱしの名を馳せて、当時日本領であつた
朝鮮でも、俳句の普及に大きな貢献をしたと言う。
盲腸をこじらせて夭折したが、明治の素封家らしく、2男4女と、
多くの子を残した。

 三猿朗の訓董厚く、原家は俳句一族となり、その6人の
子供たちもそれぞれの境遇の中で俳壇に繋がりを持っていた。
特に長男は父親の俳号を継いで三猿子を名乗り、指導者として
地方で活躍した。ホトトギス一派の親好を得て、年尾や汀子を
招いて句会を催したり、家の庭に一派の句碑を建てたりしていた。
祖母が交通事故で亡くなった折に汀子から贈られた弔句
         恙とてなく更衣されゐしに   汀子
の短冊は、今私の亡母の部屋にある。




 年を経て、6人の兄弟を含むいとこ達が、俳句の絆で集まる
ことになるのは、必然で有ったかも知れない。



 いとこ句会は九州で始まったが、構成員が順次移住するに
伴い、関東地方が中心になった。最後まで福岡県に残って
活躍した三猿子も、長年連れ添った妻女を看取ったあとは、
東京の娘宅に拠点を移した。

 風雪を経て、歯が抜けるようにメンバーが減り、6人の
兄弟は、今は最後の一人を残すのみだが、その子達は、
何と22人を数えるに至った。しかもそのうち12人が関東
圏内で生活している。

 第二世代のいとこ会が出来たのは偶然では無いだろう。

 都会の環境の中では、第一世代が主催する冠婚葬祭で
顔を合わせるだけだったが、気がついたら、我々自身が
昔を懐かしむ、そういう年代になっていた。

 最初は4人が集まり、4回目には9人になった。



 全員が俳句を嗜む訳ではないので句会を持つには至って
ないが、「日本伝統俳句協会」の常連以外にも、地域の
ローカル句会に参加したり、SNSにときどき披露している
者も居るので、そのうち句会に発展するかも知れない。

 しかし今の世の中は、いとこ同士で昔話を懐かしむことは
有っても、それぞれの生活が有るから、昔のように味噌・醤油
を分け合うような、血の繋がりに大きな意味合いは見当たらない。

 一度、みんなのルーツである、三猿朗ゆかりの地を訪ね、
墓参りして、原鶴温泉に泊まり筑後川の鵜飼を見よう、という
話が出ているが、さてそのあとは、どうなるだろうか?

 世の中の人間関係は変化し、隣近所や血縁関係とは別の繋がり
が大きな影響を持つようになったので、第三世代の交流は全くない。

 これから、このいとこ会がどう推移するか、見ものである。

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2 コメント

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崇仁 ()
2017-04-04 16:27:07
ルーツをたどる時は参加させていただきます‼
是非思い立つて下さい!1990
返信する
崇仁 ()
2017-04-04 16:27:08
ルーツをたどる時は参加させていただきます‼
是非思い立つて下さい!1990
返信する

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