<馬籠峠頂上で記念撮影>
中山道六十九宿巡り(第11回);第3日目(3):馬籠峠
(五十三次洛遊会)
2011年11月11日(金)~14日(月)
第3日目;2011年11月14日(月)
<ルート地図>
<再掲>
<山道に入る>
■木橋を渡る
10時11分,右折して木橋を渡る.橋の名前は良く分からない.
木橋を渡った途端に,これまでは全く雰囲気が変わった深山幽谷の風景になる.
<木橋を渡る>
<落ち葉が積もる山道になる>
■熊除けの鈴
人里離れた峠道を歩いていると,ところどころに熊除けの鈴が設置されている.
仲間の中に,この鈴を見つけると必ず鳴らす人と,鳴らさない人がいる.面白い.そういえば,ここで鈴を鳴らす人は,社寺を訪れたとき,必ずといって良いほど釣鐘を突こうとする.
人は無くて七癖とは良く言ったものだ.
<熊除けの鈴> <サワラの説明>
■サワラの巨木
なだらかな登り路が続く.
10時20分頃,サワラの巨木が生えている場所に到着する.傍らにサワラの説明板が立っている.この説明文によると,対岸のサワラの大木は合体木だとのこと.
道路近くにひときわ大きなサワラの木がある.木の近くにある説明板の記事によると,樹齢約300年,胴回り5.5メートル,樹高41メートル,材積34立方メートル.
また,この案内板の説明によると,このサワラの下枝が立て上がっている.このような形を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)とうそうである.別名“天狗の腰掛け”とも言われているようである(資料3.p.42).
<樹齢300年のサワラの大木>
<妻籠宿と馬籠宿の中間の一石栃>
■一石栃口の白木改番所跡
10時28分,一石栃(いっこくとち)の白木改番所跡に到着する.木酢で囲まれた広場に吾妻屋が設けられている.
近くにある説明板によると,ここはこそから移出される木材を取り締まるために設けられたところである.檜の小枝に至まで,許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったという.木曽の森林資源は,領主の尾張藩にとって重要なものだった.
私たちは,ここで,暫くの間,休憩を取る.
<一石栃の白木改番所跡>
■子安観音
番所跡脇の枝道を100メートルほど上ると左手に子安観音のお堂がある.
私は好奇心が強いので,とにかく子安観音堂まで登ってみる.近くに生えている枝垂れ桜の枝振りも良いので,下で休憩している仲間に,
「おいで,おいで,・・・素晴らしい枝垂桜があるよ・・」
と声を掛ける.
疲労でアップアップの方を除いて,大半の仲間が,観音堂まで登ってくる.
観音堂の説明板によると,一石栃沢流域の住民は難産しないという言い伝えが古くからあり,この信仰の対象として,子安観音がここに祀られているという.
<子安観音堂>
■枝垂桜
子安観音堂の前に,立派な枝振りの枝垂桜が生えている.説明板によると,「この枝垂桜は慶応元年と明治37年の大蛇抜けにも耐えてきた古木で町天然記念物である」とのことだが,大蛇抜けって何だろう?
たまたま資料4に,次のようなきじがけいさいされていた.「この言葉は古くから木曽谷の人々が怖れてきた山津波ともいわれる土石流のことで,梅雨時等の大雨が降ったときに沢伝いの土砂が崩れ,沢を蛇が抜けていくように土石流が襲ってくるという.木曽谷ではこの蛇抜けが度々発生し,多くの家屋を押し流し人命が失われてきた・・・」
なるほどガッテン!
<子安観音の枝垂桜>
■立場茶屋
10時36分,立場茶屋に到着する.
近くの案内板によると,「立場茶屋は宿と宿の中間にあって,旅人に急速と利便を与えた.一石栃は妻籠宿と馬籠宿野中間に位置し,往時は7軒ほどの家があって栄えていたが,今ではこの牧野家住宅1軒だけになっている.牧野家住宅は江戸時代後期の建物で,当初は間口が10間半もあるおおきなものであったが,現在は南側が切り取られて8間になっている.」
<立場茶屋>
<いよいよ馬籠峠>
■道案内と観光客
立場茶屋までくると,どこからともなく,また,観光客の姿が増え出す.どうやら上の方から下ってくるらしい.ということは,もうすぐ車が使える場所に到着するということだろうか.
どこからともなく,菅笠を被った老人が近付いてくる.ボランティアガイドのようである.色々教えて頂くのは有り難いが,ときどきガイドさんの中には,こちらの時間の都合などお構いなしに,得てして自分の知っていることを全部はなそうとするからたまらない.
全体の行程のタイムキーピングが気になる私には,そんな時間のことは,サッパリ気にせずにガイドのツボにはまってしまう人が居るので,実にイライラする.申し訳ないが,心の中だけで,
「どうせ聞いてもすぐ忘れるだけなのに・・・もう少し全体の進捗に留意してくれよ・・」
と悪態をつきたくなる.
<峠が近いのか観光客が増え出す>
■馬籠峠頂上
立場茶屋から,緩やかな登り路をほんの少し歩いて,10時55分に馬籠峠頂上(標高801m)に到着する.万歳.
全員で集合写真を撮る(この記事冒頭の写真).
当然のことながら,この写真のシャッターを押している,私,つまりFHはこの写真には写っていない.
正直なところ,仲間の中に脚力が少し弱い方が若干居られるので,頂上の到着するまで,少々心配をしていたが,心底からホッとする.
<馬籠峠山頂>
■山頂の石塔とバス停
馬籠峠の山頂には大きな石塔が立っている.この石塔がいつ頃作られたものかは知らないが.結構,味わい深い形をしているなと思いながら写真を撮る.
峠には自動車路が通っていて,南木曽町地域バスのバス停,「馬籠峠」がある.1日4往復ほどのバスの便があるようだ.
さきほど出会った観光客も,ひょっとしたら,このバスを使って,ここまで来られたんだろうと勝手に想像する.
<馬籠峠石塔> <バス停「馬籠峠」>
■馬籠峠を下る
11時丁度に,馬籠峠を出発.岐阜県側に下りはじめる.もっとも,つい数年前までは,この峠の先の馬籠宿まで長野県だったが,今は,この峠が岐阜県と長野県の県境になっている.
妻籠宿のどこかで,地元の人が,
「・・・馬籠宿は岐阜県に取られてしまった・・」
と悔しそうに話していたのを思い出す.
ごく緩やかな下り勾配の道が続く.すごく歩きやすいので,自然に歩行速度が速くなる.全員が元気に歩いているので,ホッとする.
<馬籠峠を岐阜県側に下る>
■熊野神社
11時04分,前方に集落が見え出す.紅葉に囲まれた静かな集落である.
すぐに,集落の入口に鎮座する熊野神社に到着する.境内には明治天皇御小憩碑がある.
いよいよ,馬籠宿も間近である.
<集落が見え出す>
<熊野神社>
(つづく)
[参考文献]
資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
資料4;http://tomozoaruku.blog89.fc2.com/blog-entry-228.html
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「中山道六十九宿」の前回の記事
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