ポーランド訪問記(20)アウシュビッツ寸景(2)
(スケッチ旅行)
2001年6月16日(土)~6月25日(月)
2001年6月20日(水).第5日目.クラコフ3日目(つづき)
私達は,ガイドの中谷さんの案内でアウシュビッツを見学している.被害者の髪の毛で作られた布や,おびただしい数の靴などを見ている内に,何ともむなしい気分になってくる.被害にあった人達の中には,新しい生活に希望を持って来た人達も多かったようである.たくさんの旅行鞄,子供の靴などなど・・とても正視できない.ポーランド人として産まれたこと自体が犯罪とは何ということだろう.
10時50分,私達はアウシュビッツの見学を終えた.10分ほど休憩を取る.その間にトイレへ行く.トイレに入るのに,50ギルダーの料金を払う.「小」の位置が高くて,背伸びしながら用を足す.
11時丁度に,第2収容所,ビルゲナウへ移動する.ここは,1940年に完成した.面積1.75キロ平方メートル,建物300棟以上というとてつもなく大きな施設である.1945年にソ連軍によって開放されるまでに,28民族,百数十万人の命が奪われたところである.
11時05分に入口に到着する.辺りは一面の麦畑である.入口には巨大な監視塔が建っている.この建物は1941年後半に建てられたものである.
塔の最上階は四方がガラス張りになっていて,全方向を見渡すことができる.
ここから見下ろすと,広い敷地の中に線路が引き込まれている.外から敷地内に入ったところに転轍機があって,長いプラットフォームの両側と,引き込み線の3本に分岐しているのが見える.
プラットフォームの周辺は荒涼とした広い空き地になっている.その空き地を挟んで向かって右側には男性,左側には女性,それぞれ6万人ずつ収容する施設がある.
左上:引込線
右上:収容所の建物群
左下:収容所の広場
右下:トイレ(90度回転して見る)
小屋の一つに入ってみる.小屋の中には,両側に3段ベッドがズラリと並んでいる.中央には暖炉が設置されている.しかし,この暖炉は,虐待していないことを立証するためのカモフラージで実際に使用することはなかったという.
<実際には使われなかった暖炉>
ここに収容された人達は,クラコフの南部にあった工場で働かされていたという.
トイレを見学する.コンクリート製の長い便座に丸い孔がズラリと空いているだけである.もちろんプライバシーの配慮など問題外である.
売店で,この収容所に収容されていた画家Jezy Adaw Brandhiber(1897年生まれ)がアウシュビッツでの生活を描いたはがきセットを購入する.
11時25分,私達はアウシュビッツを後にした.
自動車で北へ北へと走ってみる.だんだんと交通量が増え始め,道路も立派になる.私達は,これから大気汚染と地盤沈下であえぐカトビッツエ地方を一目見ておこうと思っていた.
(つづく)
「ポーランド訪問記」の前回の記事
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