中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(5):三留野宿

2011年12月21日 05時01分56秒 | 中山道六十九宿

                            <中仙道から南木曽駅を見下ろす>

     中山道六十九宿巡り(第11回);第2日目(5):三留野宿
            (五十三次洛遊会)
       2011年11月11日(金)~14日(月)

第2日目;2011年11月13日(日) 
(つづき)

<ルート地図>


(再掲)



<三留野宿に入る>

■三留野宿の概要
 13時42分,三留野宿に入る.道路の両側には昔の宿場町の雰囲気を残した建屋が続いている.
 三留野宿は,江戸から41番目の宿場である.
 宿内人口594人(男310人,女284人),宿内惣家数77軒(本陣1,脇本陣1,旅籠32)の規模の宿場である(資料1,p.223).
 本陣は明治天皇が泊まられた翌年焼失したが,庭に銘木が残っているという(資料2,p100).

<三留野宿の面影>

■本陣跡
 13時44分,本陣跡に到着する.
 古びた一対の門柱が建っている.その奥に目地天皇行在所碑がひっそりと立っている.資料1(p.223)には,この奥の建物は長野地方法務局読書出張所だと記されているが,資料2(p.119)と資料3(p.41)には南木曽町森林組合の建物だと記されている.一見(いちげん)の旅人である私には,ここが本陣跡だと分かれば,現在何に使われていようが,どちらでも良いことである.なお,「読書」は,この辺りの地名である.
 敷地内裏手に枝垂梅の古木があるとのことだが,確かめずにそのまま通過する.なお,この古木は昔から評判の木であり,現在南木曽町天然記念物に指定されているという.幹の周囲1.7メートル,高さ8メートルだという(資料1,p.224).

<三留野宿本陣跡>

■脇本陣跡
 本陣と道を挟んで反対側に脇本陣跡がある.
 民家の敷地内に大きな案内板が立っているが,敷地内の建物はどうやら脇本陣とは関係がなさそうな新しいものである.この案内板には,次のようなことが書かれている.
 「脇本陣は代々宮川家が務めた.宮川家はまた三留野村の庄屋も務め,本陣の鮎沢家,問屋の勝野家などとともに指導的役割を担った,宮川家のあるこの周辺が,江戸時代の三留野宿の中心部であった.なお三留野宿は1881年(明治14年)の大火によって全焼し,現在の建物は祖霊香の物である」.

<脇本陣跡の案内板>

■立派な常夜灯と等覚寺
 13時49分,立派な常夜灯の前を通過する.この辺りで三留野宿の核心部は終わりになる.
 なお,街道から少し離れたこの辺りに評判の等覚寺があるが,街道から離れているので,残念ながら通過してしまう.この寺は曹洞宗,山号を日晃山(にっこうざん)と言う.境内右手のお堂の中に円空仏が11体保存されているので有名だという(資料1,p.224).
 この寺を見学せずに通過するのは誠に残念である.

<立派な常夜灯>

<南木曽駅へ>

■梨子沢を渡る
 13時50分,梨子沢に架かる梨子沢橋を渡る.橋の袂に「なしざは」と書いた銅板がはめ込まれているのを確認する.

<梨子沢を渡る>

■南木曾小学校脇の路地
 13時51分,南木曾小学校入口の石段に到着する.
 地図で確かめると,中仙道は,この石段を登る途中で,右に曲がることになっている.曲がり口を見つけながら登っていくと,小学校の校庭に突き当たってしまう.なおも,注意深く探すと,民家の庭先のような所を中仙道が通っている.
 庭先のような所を通過するのは,随分と気が引けるが,粛々と通過させて頂く.

<南木曾小学校の入口>


<民家の庭先のような中仙道>

■蛇抜橋
 民家が点在する細い道を進むとカーブミラーのある三叉路に突き当たる.ここを右折する.すると,すぐに道幅がやや広い道路に突き当たる.ここを左折して南へ向けて歩き続ける.
 13時58分,蛇抜橋を渡る.

<蛇抜橋>

■園原先生の碑
 14時08分,園原(えんげん)先生碑に到着する.傍らに大きなイチョウの木が生えている.
 資料1(pp.224-225)によると,園原旧富は『木曽古道記』『御坂越記』『木曽名物記』などの著者で,1776年(安永5年)に歿した人物のようである.また,資料3(p.41)によれば,園原は神道学者で,三留野東山神社神官の家に生まれ,多くの門人を要していた人物らしい.
 資料4には,「1700-1776 江戸時代
中期の国学者.元禄(げんろく)13年生まれ.信濃(しなの)(長野県)の人.京都で吉田兼敬(かねゆき)にまなぶ.木曾(きそ)三留野(みどの)神社神職をつとめ,木曾谷を踏査して「木曾古道記」をあらわした.安永5年7月2日死去.77歳.通称は耶麻登.号は桂翁.著作はほかに「神国石臼歌」など」と紹介されている.

<園原先生碑>

■南木曽駅に到着
 14時13分,跨線橋を渡ってJR南木曽駅に到着する.
 中仙道の旅第11回第2日目の旅の終わりは,この南木曽駅である.
 日は未だ高い.明日,第3日目の長い行程を考えると,できることなら,今日の内に次の妻籠宿まで足を延ばしたい.ただ,もしこれから妻籠宿まで行った場合,妻籠宿から南木曽駅まで戻る路線バスがあるかどうかが気がかりである.
 このようなときに,素早く行動するのがリーダーO村氏の真骨頂である.バス会社の窓口で調べた結果,帰りのバスも確実にあることが分かる.
 そこで,今日の内に次の妻籠宿までの5.9キロメートルを歩くことに全員が一致する.
 「今日中に,妻籠宿まで歩いちゃいましょう!」
 私は,内心で,随分と心強い仲間だなと思っている.

<JR南木曽駅前>

                             (つづく)

[参考文献]

資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』
資料4;http://kotobank.jp/word/%E5%9C%92%E5%8E%9F%E6%97%A7%E5%AF%8C

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6ba2b88656d8256ce64156c26023015d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9fff3e8497d77127125507910e173d2c



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