<鵜沼宿脇本陣>
歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第1日目(4);鵜沼宿(1)
(五十三次洛遊会)
2012年6月22日(金)~24日(日)
2012年6月22日(金) (つづき)
<鵜沼宿地図>
※再掲
<鵜沼宿今昔>
■鵜沼宿の概要
鵜沼宿は江戸日本橋から52次目の宿場である.資料3(p.280)によれば,宿内人口246人.内男性119人,女性127人,宿内惣家数68軒,内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠25軒の規模である.次の宿場,加納までは4里10町(約16.8km)である.
資料1(p.138)では,「周辺の丘陵は大規模な新興住宅地になり変化が著しいが鵜沼宿には静かなただずまいが保たれている.濃尾地震の被害が大きく,茗荷屋と両隣に,自身以前の建物が残るに過ぎない」と紹介されている.
■少し前の情景
下図は資料3(p.282)から引用した地図である.この資料の筆者今井氏は,多分,1970年代の50,000分の1の地形図を引用していると思われる.
前掲の地図と比較すると,1970年代には標高100メートルほどのうねうねと続く丘陵地帯だったところが,今は,正に原形を留めないほどに変貌していることが分かる.
現在,地図上に見えている池のいくつかは,どうやら大規模宅地造成のときに作られた人工池のようなきがしてくる(もちろん,これは私の勝手な想像で,実際は違うかもしれない).
引用;今井,1994.
<うとう峠から鵜沼宿へ>
■赤坂神社
合戸池を右手に回り込むようにして,天主坂を一気に下る.進行方向左手から右手に下る坂に沿ったトラバース道である.両側は大規模な住宅地である.
坂道が終わりかけた頃右折する.赤坂神社の参道のようである.参道にしては少々狭いし鳥居もないなと思いながら路地を進むと突き当たりに赤坂神社の社殿前に到着する.13時16分である.中々立派な神社である.
資料5によると,赤坂神社は鵜沼宿の東側に位置する神社で,江戸時代には天王社と呼ばれていたようである.これで,先ほど下ってきた坂道を天王坂と言うのも納得できる.
<赤坂神社>
■地蔵祠
赤坂神社の参拝を済ませてから,再び,天主坂に戻る.
天主坂を下りきったところの五叉路を右へ鋭角に曲がる.その曲がり角に道標を兼ねた地蔵祠が建っている(13時20分).意外にも随分と立派な祠である.観光案内によると,この地蔵は「赤坂地蔵」と呼ばれ,今でも大切に守られているようだ.
<地蔵祠>
■赤坂神社参道
鋭角に曲がってすぐに赤坂神社参道前を通過する.傍らに常夜灯が立っている立派な参道である.これで,先ほどの路地のような道は,正面の参道ではないことが分かり,納得する.
<赤坂神社参道>
■霊雲山晃桃院
13時22分,霊雲山晃桃院と刻字した大きな石塔の前を通過する.この辺りに寺があるはずだが,どこにあるか分からない.探すのも面倒なので,そのまま通過する.
手許の資料では,この寺の曰く因縁は全く分からない.ここはもう手抜きで行くしかない.
<霊雲院晃桃院>
■うとう峠の案内石碑
13時24分,「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠」と刻字した大きな石塔の前を通過する.
ここからが,いよいよ鵜沼宿である.
<うとう峠と鵜沼宿の境目に立つ石塔>
<鵜沼宿>
■常夜灯
いよいよ,ここからが鵜沼宿である.
13時25分,早速,立派な常夜灯の前を通過する.
<井沼宿の常夜灯>
■高札場
13時27分,高札場に到着する.
傍らに立つ案内板によると,鵜沼宿の高札場は,東の見付(どこだか分からない)と天王社(現在の赤坂神社)の間にあったようである.現在の高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて,ほぼ当時のまま復元したものとのこと.また,復元の際に見やすいように楷書体に書き直している.
<高札場(復元)>
■問屋場跡
大安寺川を渡り,13時31分,問屋場跡に到着する.今は,壁に案内板が貼り付けられているだけで,それらしい建物は残っていない.
案内板によると,江戸時代,鵜沼宿には東町と西町にそれぞれ1箇所問屋場があった.東町では野口家が代々この地で問屋場を務めていた.西町の桜井家と一日交替で務めていたようである.
野口家は,江戸時代後期になると,西町の板井家に代わって脇本陣を務めていたという.
この説明文を読みながら,
「素人のオレには,内容が細かすぎるな・・」
と思っている.
<問屋場跡>
■古い石柱2本
問屋場跡のすぐ近くに,古い案内石柱が立っている.「従是?西??」と書いてあるようだが,全く何が書いてあるか分からない.
すぐ近くに,「太田町二里八丁」とハッキリ読める石柱の案内道標が立っている.
「・・・ということは,今朝,太田から歩き出して,2里8丁歩いたと言うことか・・・」
私は独り言を言う.
<古い石柱>
<案内道標>
■鵜沼宿町屋館
13時33分,鵜沼宿町屋館に到着する.
近くにある案内板の説明によると,ここは江戸時代に「絹屋」という屋号の旅籠だった.その後,昭和30編台まで郵便局を営んでいたという.旧武藤家住宅である.平成18年,建物の寄付を受けた各務原市が建物を公開した.
屋敷は中庭を囲むように,主屋,東側の付属屋,西側の離れの3棟からなっている.3棟とも各務原市登録有形文化財であり,景観重要建造物である.
<町屋館>
■武藤家住宅
13時34分,武藤家住宅に到着する.立派な構えの豪壮な住宅である.ここは市重要文化財に指定されている.
<武藤家住宅>
■鵜沼宿本陣跡
13時36分,鵜沼宿本陣跡に到着する.
傍らの説明文によると,ここは桜井家が務めていた.桜井家は本陣,問屋,庄屋の三役を兼ねていたようである.1749年(寛延2年),10代将軍家治に輿入れした五十宮をはじめ,多くの姫君が宿泊,休憩したことがあるという.また,1809年(文化6年),伊能忠敬ら測量方も宿泊している.
<本陣跡>
■芭蕉の句碑
本陣跡のすぐ側に松尾芭蕉の句碑が立っている.
近くの案内板の記事によると,1675年(貞享2年),「野ざらし紀行」途中の芭蕉が鵜沼を訪れ,脇本陣板井家に滞在したという.
円筒形の句碑には,
“ふく志るも喰へば喰わせよきく乃酒”
という句が刻字してあるようだ.
<芭蕉の句碑>
■鵜沼宿脇本陣
案内板の説明によると,この脇本陣は,板井家が代々これを務め,安政年間になり野口家が務めた.松尾芭蕉が当家に宿泊して句を詠んだと伝えられている.
また,案内板によると,現在の建物は,「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣板井家を復元したものだという.
<鵜沼宿脇本陣>
■二ノ宮神社
13時42分,二ノ宮神社鳥居の前に到着する.目の前に長い石段.億劫なので登るのを諦める.
資料5によると,本殿は古墳の上にあり,鵜沼宿成立以前から地域の信仰を集めていたという.拝殿は明治後期に建築されたもの.当時,ここで盛んに地芝居や歌舞伎が上演されていたらしい.市有形登録文化財である.
二宮神社と道路を挟んで反対側に秋葉神社がある.せわしく移動するので,写真を取り損ねる.この辺りには,秋葉神社が随分沢山あるような印象を持つ.
<古墳の上に建つ二ノ宮神社>
■板井家住宅(丸一屋)
13時44分,板井家住宅の前に到着する.
案内板の記事によると,主屋は1894年(明治27年)の建物.中山道に向かって門を構え,全面に塀を巡らしている.
<板井家住宅>
■梅田昭二住宅
案内板によると,主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く,明治元年の建築だという.木造二階建の切り妻造りで正面中央に入口,向かって左側に鉄格子,右側が木格子である.
<板井家住宅>
■弘法堂の石造仏
13時51分,弘法堂の石造仏群に到着する.おびただしい数の石仏が並んでいる.
資料5によると,「江戸時代,巡礼の旅に出掛けられない人々は西国三十三箇所観音などに見立てた石仏を村内に建立し参拝したと」いう.
弘法堂の敷地内に,こうした石仏類が集められている.
<沢山の石造仏が並ぶ弘法堂の石仏>
■衣裳塚古墳
石仏群のすぐ隣が坊の塚・衣裳塚古墳である.
傍らの説明板によると,この古墳は岐阜県下最大の円墳で直径52メートル,高さ7メートル.この古墳が造られた年代は不明だが,およそ古墳時代の前期から中期(4世紀から5世紀前半)の頃,(後で見ようと思っている)坊の塚古墳に先行して築造されたもののようである.
<衣裳塚>
■光雲山空安寺
13時53分,空安寺に到着する.新しい建築の立派なお寺である.
資料5の説明によると,ここは1484年(文明16年)創立の浄土真宗のお寺である.それ以上のことは手許の資料では不明.
<空安寺>
■坊の塚古墳
地図を眺めながら,坊の塚古墳がどこにあるか探すが,この古墳は道路に面していないので,なかなか分かりにくい,その内に,進行方向左手の家並みの向こうにこんもりとした森の木が見え始める.多分,そこがこの古墳に違いないと思って,家並みの途切れたところで左折.ほんの数十メートル入ったところで,それらしい小さな丘の写真を撮る(13時56分).
この写真が坊の塚古墳かどうか,良く分からないが,多分,間違いないだろうと思う.
<坊の塚古墳>
■津島神社
14時02分,津島神社に到着する.村社津島神社と刻字された立派な柱が立っている.
資料1(p.139)には,この神社に回り舞台があると書いてある.それ以上のことは良く分からない.
<津島神社>
■山の前一里塚
14時33分,国道21号線のガード下に到着する.
地図を確かめながら,この辺りに山の前一里塚がありそうだと思うが,リーダーが構わず一人でドンドン先に行ってしまう.
近くの中学校の生徒と思われる男女数十名がガード下の清掃を行っている.生徒達は私たちにきちんと挨拶をする.好感が持てる.
私たちは,結局,ここの一里塚は見落としたまま,先行するリーダーを追いかけることになる.かなり悔しい思いが湧き出る.
グループの旅も良いが,こんなときは一人旅の方が気楽に行動できて良いなとつくづく思う.
<ガード下の山の前一里塚案内;結局,一里塚は見ないまま秋へ進む>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「各務野歴史街道探訪マップ」各務原市歴史民俗資料館
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8a9831706a6cbe3dff76a6b36e1dab0c
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/21d1c1f39f894709d51578d3c43300c1
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