中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(4);醒井宿地蔵川

2012年11月11日 07時14分00秒 | 中山道六十九宿

                    <醒井宿を行く>

  歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(4);醒井宿地蔵川           (五十三次洛遊会)
    2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

       前回までは第7回目の記事を連載していましたが,
    今回から第14回目の記事続きに戻ります.


第2日目;2012年9月16日(日) (つづき)

<醒井宿地図>(再掲




<いよいよ醒井宿>

■醒井宿の概要
 醒井宿は,第61次の宿場である.
 資料3(p.326)によれば,宿内人口539人.内,男266人,女273人.宿内惣家数138軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠11軒.
 資料1(p.166)によれば,醒井という名前は,日本武尊が清水で覚醒したという古事記の伝承に由来するという.鍾乳洞から湧出する水は,水温,すいりょうが四季を通じて一定であり,この清水が宿場の中を流れている.この情景は多くの古文書にも記述されていて,旅人に憩いを与えていたという.

■等倫寺
 10時21分に一里塚を通過した私達は,10時23分に等倫寺に到着する.
 入口に大きな白い車が停車しているので,中の様子は分からないが,山門の奥に本堂の大きな屋根が見えている.
 等倫寺の由来などは,手許の資料では良く分からない.


<等倫寺>

■仏心水
 等倫寺から2~3分歩いたところに仏心水がある(10時26分着).
 傍らにある案内板の記事には,「仏教用語で「仏心」とは,仏の心,大慈悲(心)のことをいう.中山道馬頭観音の近くにあり,街道を往来する馬の息災を祈願して,江戸時代後期に今ルウされた馬頭観音に対して,この井戸には,旅人の喉を潤すだけでなく,御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられる.他に事例が見当たらないこと,中山道の要所にあることから,非常に貴重なものだと思われる」という趣旨の説明がある.


<仏心水>

■醒井宿碑
 10時30分,醒井宿碑に到着する.大きな石に「中山道醒井宿」と刻字した碑である.私達はいよいよ醒井宿に入る.

<醒井宿碑>

<醒井宿散策>

■六地蔵
 10時32分,何だかユーモラスな姿をした六地蔵を見付ける.正直に言えば,この6体の彫像が六地蔵かどうかは,私には分からないが,とにかくユニークなお姿である.この6体の彫像についての説明は,手持ちのどの文献資料にも見当たらないが,面白いお姿なので写真に納めておく.

<六地蔵(かな?)>

鮫島中将の歌碑
 続いて,10時33分,鮫島中将の歌碑に到着する.周囲は何となくひっそりとしている.
 第二次世界大戦戦争中に幼少期を過ごした私は,鮫島具経中将のお名前は良く覚えている.この歌碑に登場する岩倉中将は,あの岩倉中将のことだろうか.手許の資料で調べてみるが余りはっきりしない.
 立派な石造りの歌碑に鮫島中将の詩が刻字されている.
 傍らにある案内板には,「明治28年,北白川能久親王は,台湾で熱病にかかられ,重体になられました,病床で「水を,冷たい水を」と所望されましたが,水がありません.付き添っていた鮫島三方は,かって醒井に来られた時の水野冷たさを思い起こされ,1枚の紙に
   あらばいま 捧げまほしく
      醒井の うまし真清水
           ひとしずくだに
と詠んで親王にお見せになると,親王もにっこりされたと伝えられています.鮫島中将の直筆の,歌碑です.
」と説明されている.
 この説明文に登場する鮫島参謀は,私が覚えている岩倉中将の父親なのだろうか? 
 あるいは,歌碑の最後に登場する鮫島中将とは,鮫島具経中将のことなのだろうか?
 私は混乱する.
 山行までに,資料5によると,「岩倉具経の4男として生まれ、鮫島員規則軍大将の養嗣子となる.太平洋戦争において司令長官職を歴任.ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた.戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという.」

<鮫島中将の歌碑>

■居醒の清水
 鮫島中将の歌碑のすぐ傍に
,居醒の清水が流れている.石垣に沿って綺麗な小川が流れている.醒井はまさに水の都である.
 資料4(p.59)によると,居醒の清水の近くに日本武尊の像があるとのことだが,私達は何となく見落としてしまう.
 同資料によると,日本武尊は伊吹山の戦いで傷つき,その傷をここの清水で洗ったと伝えられているようである. 

<居醒の清水>

■賀茂神社
 引きつづき,10時34分,小川沿いに下ったところに白い鳥居の賀茂神社がある.参道の長い階段を登る気がないのか,先頭が無視してどんどん先へ行ってしまう.私は少々不満.せめて本殿の写真ぐらいは撮りたい.
 心の奥底のどこかで,また“一人旅の方がいいな”と思い始めている.


■緑台寺
 10時34分,台寺の前を通過する.この寺の由来などは,手許の資料では不明.

<緑台寺>

<地蔵川沿いのオアシス>

■延命地蔵尊
 美しい川の右岸沿いの道をそぞろ歩きする.地蔵川という.
 10時35分,延命地蔵堂に到着する.小川の中には沢山の案内杭が立っている.
 残念ながら,先頭がどんどん先へ行くので,地蔵尊本体の写真を撮る暇がない.
 この辺りは観光地らしく,かなり沢山の観光客が散策を楽しんでいる.途中,川の水に手の先を突っ込んでみる.それほど冷たいというわけではないが,やや火照り気味の身体には,とても心地よい.
 近くに「延命地蔵尊縁起」という案内板がある.この案内板には,およそ次のようなことが記されている.
 弘仁8年(817年)に百日を越える旱魃があり草木は枯れ,川や湖が干上がった.そこで嵯峨天皇の命により,伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け,降雨を祈願した.そのとき薬師如来が夢の中に現れ「ここより東へ数十里のところに清浄な泉がある.そこへ行って雨をもとめよ」というお告げを受けた.
 伝教大師が醒井に来ると,水野守護神である白髪の翁が現れ,ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を安置すれば雨が降ると伝えた.
 そこで大師は1丈2尺(3.6m)の地蔵菩薩座像を刻み記念したところ大雨が3日間降り続いた.
 この地蔵尊は,当初水中に安置されていたので「尻冷やし地蔵」と言われていたが,慶長13年大垣城主石川日向守が泉の一部を埋め辻堂を建立したという.

<延命地蔵堂;残念ながら地蔵尊は写っていない>

■丁子屋
 川と道を挟んで向かい側に丁字屋がある.10時34分,店先にある「名水まんじゅう」という幟旗に引かれて,思わず店に入り込む.
 あいにく,外は少々蒸し暑い.成り行きで,一休みすることになる.

<丁字屋の店先>

■地蔵川の畔で休憩
 丁字屋の前で,暫くの間,休憩を取る.
 かなりの方が,丁字屋で購入したソフトクリームを食べている.少々疲れ気味で座り込んでいる人もいる.この写真には,川面は写っていないが,石垣の手前に小川が流れている.

<丁字屋の前で休憩>

<地蔵川沿いの社寺史跡>

■本陣跡
 休憩を終えてすぐの10時45分,本陣跡に到着する.
 本陣跡には神社風の建物があるだけで,説明板のようなものは何もない.あるいは見落としているかもしれないが,そのまま通過する.
 傍らに,烏ネットが置いてあるので,何となく生活臭が漂っている.

<本陣跡>

■醒井宿資料館
 続いて,すぐ隣の米原醒井宿資料館(問屋場跡)に到着する.あいにく閉館中のようである.残念ながら通過する.

<醒井宿資料館>

■問屋場跡
 資料館の直ぐ近くに問屋場跡がある.
 傍らにある案内板によると,ここは米原市指定文化財のようである.問屋を営んでいた旧川口家住宅である.
 この建物は17世紀中頃から後半に建てられたものと推定されるとのことである.
 熱心な一行が,説明板に見入っている.

<問屋場跡>

明治天皇駐輦所
 10時50分,明治天皇駐輦所に到着する.立派な門が残っている.門の中には入らずにそのまま通過する.

<明治天皇駐輦所>

■寺ヶ谷寺院跡源海寺本堂
 続いて,10時51分,寺ヶ谷寺院跡源海寺本堂と書いてある大きな看板の下を通過する.
 私は一寸興味があったが,先頭が通過してしまうので,やむなく通過する.

<寺ヶ谷寺院跡源海寺本堂>

■源海寺
 同じく10時51分,先ほどの大きな看板にほど近いところにある源海寺の参道がある.
 参道の突き当たりに本堂らしい建物が見えている.ということは,川の反対側にあった源海寺本堂という吊り看板との関係はどうなっているのだろうか,良く分からないまま,そそくさと通過してしまう.

<源海寺参道>

■了徳寺
 10時52分,了徳寺の前を通過する.
 資料6によると,浄土真宗本願寺派の寺で,山号は石龍山.もと天台宗だったが文明年間(1469~1487年)に改宗された.本尊は阿弥陀如来.
 資料7によると,境内にあるオハツキイチョウは国指定天然記念物.幹囲4.4メートル,木高25メートル,樹齢150年だという. 
 多分,下の写真の左手に写っている大木がこの木だろうと想像しながら,先を急いで歩く先頭に疋面れるようにして通過する.
 内心では,
 “何で先頭は,何も見ずにむやみやたらに早く歩くんだろう”
と少々不満である.

<了徳寺>

                                         (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AB%E5%B3%B6%E5%85%B7%E9%87%8D
資料6;http://kokokujitanbo.com/maihara-8-6.htm
資料7;http://www.guitar-mg.co.jp/title_buck/25/ryotokuji/ohatsuki_icho.htm

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8363a98a3fa2dbab0eef5df87642882b
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b38ecdfd181beeab3e44b280473092d9

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