<八幡宮本殿>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第1日目(3):群馬八幡
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)~14日(日)
※本稿の初出は2012年10月17日である.
初稿の地図の差し替え,本文の加除修正を行った.
2012年10月12日(金) (つづき)
<高崎宿地図>
<碓氷川に沿って>
■浅間神社
上豊岡町の集落を抜けて,碓氷川右岸にある三叉路に突き当たる.自動車の往来が結構激しい道路である.
旧中仙道は,この三叉路を回り込むように迂回して碓氷川右岸沿いの自動車道に合流する.
14時06分,合流点の直ぐ近くにある浅間神社に到着する.
この神社の故事来歴は,手許の資料では不明である.
<浅間神社>
■長閑な堤防道
地図で確かめると,旧中仙道は,車の往来が激しい自動車道と碓氷川の間を走る堤防道ののうである.ところが,付近に横断歩道がないので,堤防道にはなかなか出られない.私達は車列が途絶えるのを辛抱強く待って,“それ~っ!”とばかりに道路を横断して,堤防道に這い上がる.
堤防道に入ると,雰囲気が一変する.進行方向左手の河川敷には畑が広がっている.後ろを振り返ると,今朝方歩き出した高崎の市街地が見えている.まるで緑の中に浮かんでいるように沢山のビルが見えている.
<碓氷川の堤防を行く>
■大鳥居
やがて前方右手に赤い大きな鳥居が見え始める.多分あれは八幡八幡宮の鳥居だろう見当を付ける.地図を見ながら,慎重に位置を確かめ,頃合いを見計らって,堤防から自動車道に下りる.
14時30分,先ほどから見えていた大鳥居に到着する.
八幡八幡宮は,この鳥居のところで右折して,約600メートル先にある.
「ここから八幡八幡宮まで,片道約600メートル,往復で1200メートルあります・・・参拝しますか?」
と一行の希望を伺う.全員が折角だから参拝しようと賛成する.勿論,私も参拝大賛成である.なにしろ,近くにJRの群馬八幡という駅があるくらいだから,ここを見落としてしまうのは臍のない蛙のようなものである.
中山道から右折して参道を北北西に向けて歩く.
<八幡八幡宮大鳥居>
■八幡八幡宮遠望
途中,高崎市立八幡小学校の脇を通過する.続いて信越本線の踏切を渡る.
やがて,前方の小高い丘一帯に八幡八幡宮の建物が見え始める.なかなか大きな神社である.八幡八幡宮に近付くと,ちょっとした門前町のような雰囲気になる.バス停,数軒の商店が建ち並んでいる.
<八幡宮遠望>
<八幡八幡宮参拝>
■八幡八幡宮の由来
資料5によると,「村上天皇の天徳元年(957年),京都の石清水八幡宮を勘請(かんじょう)した.古くから,一国一社の八幡宮として広く尊崇されてきた.特に代々源氏の崇敬が深く,頼義・義家(八幡太郎)は奥州征伐のおり,八幡八幡宮に必勝祈願し,戦勝の結果社殿を改築されたという.また,源頼朝は鎌倉に幕府を開くと神田百町を寄進し,全社殿の改築,参道杉並木の開さく,遠鳥居の建立などを行った.建物は神仏混淆式で,殿様式の建物も残存している.例えば,もと本地堂の天満宮,もと仁王門の神門,鐘楼(しょうろう),拝殿内の護摩堂(ごまどう)などである.本殿は権現造で宝暦7年(1757年)に新築されたものである.境内北西隅にある地主稲荷社は,元宮として知られている」という.
■広い境内
14時39分,長くて急傾斜の階段を登って八幡八幡宮に到着する.境内の片隅に,八幡八幡神社の由来や,太神楽,算額,胴丸などの案内板が並んで立ててある.
肝心の神社の由来を説明した案内板は金属製のためか,折角の説明文が消えかけていてほとんど読めない.
見えない案内板を,やっと拾い読みをすると.この神社は上野国一社で,地元では「やわたのはちまんさま」と呼ばれ,親しまれている神社のようである.
資料4(p.16)によると,八幡太郎義家が奥州下向の際,ここで1泊したようである.また,鳥居の八幡宮の字は弁慶の書だという.ここには義家の甲冑が奉納されているらしい・.また,源頼朝や武田信玄の信仰も厚かったという.
<境内には案内板が沢山並んでいる>
■拝殿で参拝
立派な拝殿に圧倒される.うやうやしく参拝を済ませる.
それにしても立派で威風堂々の建物である.参拝を済ませてから,拝殿裏手に回ってみる.あまりの素晴らしさに,ただ,ただ,圧倒される.
<八幡八幡宮を参拝>
<立派な造りに圧倒される>
■疫斎神
拝殿裏手に,まっ赤な社殿がある.疫斎神を祀った神社のようである.手許の資料では,詳細不明である.
<疫斎神>
<板鼻へ>
■信越本線の踏切を渡る
八幡八幡宮から往路を戻る.途中で信越本線の踏切を再び渡る.
<信越本線の踏切>
■実りの秋
復路の途中で,進行方向右手,遙か彼方に榛名山(かな?)の山並みが見えている.手前には稲刈り直前の田んぼが広がっている.正に実りの秋である.
15時05分,再び大鳥居のある三叉路に戻る.ここで右折して再び中山道を西へ向かって歩き出す.
■寒念橋供養塔
15時15分,寒念橋(かねつばし)供養塔の前を通過する.大きな石柱に「板東秩父西国橋供養」と刻字されている.傍らに説明文があるが,ほとんど消えかけていて読めないが,安中市指定史跡に登録されているようである.
資料4(p.16)によれば,寒念仏で浄財を集めて,石橋を改修した享保2年(1717年)念仏供養二万日達成記念供養のものだという.
<観念橋供養塔>
(つづく)
[加除修正]
2013/3/4 本文の加除修正を行った.
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/ky-bunkazai/bunkazai/bunka/yawahati.htm
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d5e2cd962c126a4cfcb0b1c05624c8ff
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/65e546c2ff5e4f26ea6d6b317fef04af
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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