てのひらの中の偶然

携帯iphone12、そしてOLYMPUS OM-Dが切り撮った日常の風景

最初で最後の夢

2008-11-25 | 太陽・雨
ブック・マークさせていただいてますぢんぱちさんのブログの本日のエントリ
祭りとしての「人間60年 ジュリー 沢田研二」を拝読して、
日経新聞の夕刊文化面「こころの玉手箱」を読みました。

-プロ野球選手、最初で最後の夢-と題された澤田研二少年の将来の夢のお話です。

研二少年は父親譲りで足が速かった
小学校三年生のころは、クラスで一番ソフトボールがうまいと周りからも言われ
初めて自信というものが持てた。

平安高校から立教大学そしてジャイアンツへという夢を描く。

中学二年の夏休みに京都府大会のベスト4まで進むが
大剛球の相手ピッチャーに完封され、この惨敗で夢は挫折する。

思えば夢を持ったというのは、野球選手になりたいというのが最初で最後だったかもしれない。

と、この記事は結ばれている。


若い頃、歌手沢田研二は、ずっとずっと歌が下手だと言われ続けていたという、
夢にまでみたプロ野球選手になることは、簡単に挫折してしまったのに、
歌うことには挫折がなかったのでしょうか。

歌の上手下手より、人気や売り上げがその頃の沢田研二を支えていたのでしょう。

では、売れなくなった時代、コンサートにも人が集まらなかった時代
ジュリーを支えていたのは何だったのでしょう?
「不思議なもので下手だと言われなくなってからの方が売れなくなったんですよ」
いつか、そのようなことを口にしていたことも思い出しました。

「今は、曲のヒットは望まないわけではないが、歌い続けられることの方が大切」
そんな沢田研二を支えてきたのは、
スタイルを変えても応援し続けてきたファンがいたからだと、わたしは思います。
加えて、いい時も良くない時代も歌い続けてきたのは、他にできることがなかったからではなく、
歌うことが沢田研二にとっては天職だったのでしょう。
彼もきっと「選ばれた人」の一人に違いありません。


二足、三足のわらじをはける人はいても、
二つの人生を生きることはできない。
研二少年の挫折は心に痛みは感じるけれど、
申し訳ないけれど、挫折してくれてありがとうの思いです。

この「こころの玉手箱」沢田研二は、今週金曜日
つまり京セラドームのジュリー祭りの前日まで連載されるそうです。


























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