ニュースを漁っても餃子中毒関連ばかりだし,他に根多もないので,久々に思いつきで歴史根多でも書こうか・・・。
小学生の頃,児童書の「平家物語」を読んで合戦場面に血湧き肉躍る思いをした記憶がある。
不謹慎とか残酷とか言われそうだが,チャンバラや戦争ごっこ同様,当時の男の子はこうしたものが好きだったのである。
特に気に入ったのは,平治の乱で伊豆に配流された頼朝が挙兵し,石橋山の合戦で10倍の平氏軍に敗れるものの,やがて勢力を盛り返して駿河の富士川まで進出する場面だった。この時,頼朝軍と緩い同盟関係にあったと思われる甲斐源氏の武田一族(武田信義,安田義定,一条忠頼)が別働隊の役割をして,富士川の戦いの勝利に貢献する。
ただそれだけの話だが,当時の私は妙に感心してしまった。
10歳に満たない時期に,大河ドラマ「天と地と」を見ていたので,甲斐の武田信玄,という存在は知っていたが,その祖先が信玄よりも400年前に活躍していたことを思っただけで,何とも言えない歴史の因果を感じた。
以前述べたように,武田氏の先祖は八幡太郎義家の弟義光の子,義清まで遡る。
12世紀初頭に常陸国に起こって,甲斐に移ってから発展した。
鎌倉・室町期は有力な守護大名であり,安芸・若狭・上総・松前等に分家を輩出した。
大名としての滅亡は1582(天正10)年であるから,500年近く甲斐に君臨したことになる。
では,近代まで残った(つまり維新まで残り,華族に列した)大名で,長く続いたのはどこだろう。
例えば,我がご当地大名である伊達氏は,先祖は多くの東国武士団同様藤原北家魚名流-つまり近江三上山の百足退治や平将門と戦ったことで有名な俵藤太秀郷である。
出身は常陸の伊佐郡(常陸西部)とも下野の中村荘とも言われ,当初伊佐氏を称していたが,頼朝の奥州征伐の初戦で信夫荘司元治(義経郎党の佐藤兄弟父)を破った功によって,陸奥国伊達郡(福島県北部)を拝領したのが起こりである。
12世紀末から現代まで連綿と続いているわけだが,藩祖政宗でさえ仙台築城までに羽州置賜郡米沢~奥州会津郡黒川~同玉造郡岩手沢(岩出山)~同宮城郡仙臺と4度も本拠地を変えているのである。
甲斐の武田氏の500年には及ばない。
そう考えると,今年の大河ドラマに登場の島津氏は凄い。
鎌倉幕府成立後,秦の始皇帝の子孫と称する惟宗氏出身の忠久が氏祖であるが(頼朝落胤説は有名),13世紀初頭から一貫して薩摩を本拠とした。
約700年であるから,一国に留まって中世初頭より近代に至った例としては最長ではないかと思われた。
しかし,それを凌ぐ大名家があったのである。
対馬を本拠地とした宗氏がそれである。
平知盛が先祖,と称しているが,島津氏同様に惟宗姓と思われる。
発祥は島津氏より古く,12世紀まで遡る。
平氏政権下の在庁官人だったと思われるが,800年間対馬を支配した。
一貫して本拠地を動かなかった大名の例としては,この宗氏が最長ではないかと考えられる。
古代~中世発祥の大名で,本拠地を移動した例としては,武田氏と先祖を同じくする佐竹氏が挙げられる。
佐竹=秋田と東北の人間は捉えがちだが,発祥は常陸である。
秋田に移ったのは,関ヶ原で西軍に与したため幕府によって国替えを命じられた17世紀以降であり,12世紀初頭から500年間常陸を本拠とした。
その佐竹氏と隣接する相馬氏も,歴史は鎌倉初期まで遡る。
本来は平姓千葉氏の一族で,下総北部の相馬御厨を支配していたことが氏族の発祥である。現在の福島県相馬市付近に移ったのは南北朝期であるが,相馬市は本来中村が地名だった。
地名を氏姓とする例は極めて多いが,これなどは氏が地名となった珍しい例であろう。
中世から近世にかけて,相馬氏は隣接する伊達氏と度々争ったが,敗れても屈することなく,近世大名としての家を保った。
・・・ということで,思いつきで書き始めたが,このあたりで続かなくなってきた(汗)。
多分,本拠地を動かなかった大名は多くないが,あちこち動きながら命脈を保った例は結構有りそうである。
そうそう,肥後人吉の殿様の相良家。
発祥は藤原南家工藤氏の一族であり,遠州相良荘に起こり,鎌倉初期に肥後の地頭職となったから,これまた長く保った大名家である。
尤も,18世紀に筑後の秋月家より養子をとって家名のみ残したため血は絶えたようだが,600年程肥後を支配したことになる。
意外な大名家がまだまだ有りそうである・・・。
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