靴選びの専門家であるシューフィッターという職業がある。
履く人の足の形状に合う最適な靴を選んでくれるのだが、あるシューフィッターがこんな発言をしていた。
「靴はデザインで選ぶのではなく、足に合ったものにすべきです」
理解はできる。
しかし、である。
気に入らないデザインの靴しか自分の足にフィットしなかったとき、その靴を買うだろうか。私は買わない。許容できるデザインの靴のなかから選ぶだろう。だからその発言をすんなりと受け入れられなかった。
いい靴とは足にフィットして、かつ、その人にマッチしたデザインであるべきだ。
家というものは靴よりかなり長い年月に渡って使うものだから、自分にフィットしてマッチしたものにすべきという切実度合いはさらに強いのではないだろうか。
私はデザインだって家の性能の一つだと思っている。流行のオシャレなデザインが必ずしもいいとは限らず、その家族に合ったデザインというのがあるはずだ。
私は古屋を残すという事情があったこともあるが、流行の出来合いのデザインでよしとすることはできなかった。
「普通の人間だから普通の家でいい」とかいって、外観にこだわることを揶揄するような人々がいるが、そういう人がデザイン以外の性能には妙にこだわっていたりするとなんだかなあと思う。
デザインも含め、それぞれの性能は良いにこしたことはない。しかし、すべての性能を最高級にしたら資金がかかりすぎる。だから、こだわりと妥協のバランスを探る。その均衡点は人それぞれで違っていいと思う。
履く人の足の形状に合う最適な靴を選んでくれるのだが、あるシューフィッターがこんな発言をしていた。
「靴はデザインで選ぶのではなく、足に合ったものにすべきです」
理解はできる。
しかし、である。
気に入らないデザインの靴しか自分の足にフィットしなかったとき、その靴を買うだろうか。私は買わない。許容できるデザインの靴のなかから選ぶだろう。だからその発言をすんなりと受け入れられなかった。
いい靴とは足にフィットして、かつ、その人にマッチしたデザインであるべきだ。
家というものは靴よりかなり長い年月に渡って使うものだから、自分にフィットしてマッチしたものにすべきという切実度合いはさらに強いのではないだろうか。
私はデザインだって家の性能の一つだと思っている。流行のオシャレなデザインが必ずしもいいとは限らず、その家族に合ったデザインというのがあるはずだ。
私は古屋を残すという事情があったこともあるが、流行の出来合いのデザインでよしとすることはできなかった。
「普通の人間だから普通の家でいい」とかいって、外観にこだわることを揶揄するような人々がいるが、そういう人がデザイン以外の性能には妙にこだわっていたりするとなんだかなあと思う。
デザインも含め、それぞれの性能は良いにこしたことはない。しかし、すべての性能を最高級にしたら資金がかかりすぎる。だから、こだわりと妥協のバランスを探る。その均衡点は人それぞれで違っていいと思う。