私は季節の移り変わりが好きだ。四季のある国に生まれてよかったと思っている。
そうはいいつつも、厳しい季節のきつい環境を無防備に受け止めるわけにはいかない。
厳しさは家の性能によって緩和してもらうことになる。
この緩和具合が重要だと思っている。
季節感をどのくらい享受できるか、という視点から考えると、その厳しさを完璧に遮断しなくてもいいのではないだろうか。もし高レベルの遮断を是とするならば、住宅はだんだんと宇宙船の構造に近づいていく。
人間は適度なプレッシャーとかストレスがないと変化の楽しみ方もわからなくなり、ひ弱になっていくということが気になる。
若い世代は身体的なプレッシャーには耐性があり、むしろその環境変化を楽しむこともある。楽しむとまではいかなくとも慣れてしまって、少々の変化はストレスにならない。
子供のころはこうした変化への適応力をつける場面が必要だと思う。
こういうことを言うと「家は修行の場ではない」とか言い出す人がいるが、それは極論だ。なにも我慢大会をしようというほどの厳しい環境がいいといっているわけではないのだから。
私が危惧しているのは、言わば、あまりに管理された空間で過ごすことに慣れてしまうことである。
どこかにあった超高性能住宅のセールスコピーのように、「もう他の家では暮らせないね」なんていうような状況は、人間の環境適応能力を劣化させそうで気になってしまう。
私は子供たちには「きょうはちょっと寒い(暑い)よね」って余裕で語れる人間になってほしい、というか、少々の気温変化で大騒ぎしたりグチグチいったりする人間になってほしくない。
文芸春秋の12月号の特集で「家畜化する子供たち」という記事があった。
記事はセンセーショナルにあおっている感があるものの、自宅のトイレ環境・機能が良すぎて外のトイレに入れないというような話は、快適が過ぎると適応力をなくす例そのもののように思えた。
適応能力は戸外で鍛えればいいという意見もあるが、それだけ親が意識しなければならないわけであり、日常生活というシチュエーションで慣れるということも大事だと考えている。
これまでは日常生活で「自然に」身につけられたことが、このごろは住宅が高性能になりすぎて「自然には」身につけられなくなっている、という状況になっているのではないだろうか。温度変化しかり、トイレしかり、である。
一方、年をとって適応能力が衰えてきたときに若い世代と同じでいいとは言えない。家の性能の高さが頼りになってくる。厳しい温度変化を効率的に抑える仕組みは大いに価値がある。
最近、「性能・機能をどのように運用するか」ということが重要だと思いはじめている。
「バリアアリー」(関連LINKその1 その2)の考え方と通じるが、高性能と一口にいっても、「弱者を守る機能」は同時に「健常者・強者を楽にする(もっといえば怠惰にする)機能」だったりする。
住宅の供給側は高性能さを売り込むのに、弱者を守る美談をクローズアップしがちだが、住人サイドが逆の視点に気をつけて暮らさないと、いつの間にか健常者の能力をじんわりと弱めていくかもしれない。
例えば、「寒がり」「暑がり」が暑さ・寒さを回避したい気持ちは分かる。だけど、そもそも「寒がり」にも「暑がり」にもならなくてすむ人間が暑さ・寒さを回避し過ぎて、いつのまにか「寒がり」「暑がり」になってしまうのはどうなのだろうか、という懸念とか・・・。
我が家には老人も子供も、男性も女性もいる。弱者を守りたい一方で強く育てたい者もいる。
性能・機能の運用について考えることは多い。
そうはいいつつも、厳しい季節のきつい環境を無防備に受け止めるわけにはいかない。
厳しさは家の性能によって緩和してもらうことになる。
この緩和具合が重要だと思っている。
季節感をどのくらい享受できるか、という視点から考えると、その厳しさを完璧に遮断しなくてもいいのではないだろうか。もし高レベルの遮断を是とするならば、住宅はだんだんと宇宙船の構造に近づいていく。
人間は適度なプレッシャーとかストレスがないと変化の楽しみ方もわからなくなり、ひ弱になっていくということが気になる。
若い世代は身体的なプレッシャーには耐性があり、むしろその環境変化を楽しむこともある。楽しむとまではいかなくとも慣れてしまって、少々の変化はストレスにならない。
子供のころはこうした変化への適応力をつける場面が必要だと思う。
こういうことを言うと「家は修行の場ではない」とか言い出す人がいるが、それは極論だ。なにも我慢大会をしようというほどの厳しい環境がいいといっているわけではないのだから。
私が危惧しているのは、言わば、あまりに管理された空間で過ごすことに慣れてしまうことである。
どこかにあった超高性能住宅のセールスコピーのように、「もう他の家では暮らせないね」なんていうような状況は、人間の環境適応能力を劣化させそうで気になってしまう。
私は子供たちには「きょうはちょっと寒い(暑い)よね」って余裕で語れる人間になってほしい、というか、少々の気温変化で大騒ぎしたりグチグチいったりする人間になってほしくない。
文芸春秋の12月号の特集で「家畜化する子供たち」という記事があった。
記事はセンセーショナルにあおっている感があるものの、自宅のトイレ環境・機能が良すぎて外のトイレに入れないというような話は、快適が過ぎると適応力をなくす例そのもののように思えた。
適応能力は戸外で鍛えればいいという意見もあるが、それだけ親が意識しなければならないわけであり、日常生活というシチュエーションで慣れるということも大事だと考えている。
これまでは日常生活で「自然に」身につけられたことが、このごろは住宅が高性能になりすぎて「自然には」身につけられなくなっている、という状況になっているのではないだろうか。温度変化しかり、トイレしかり、である。
一方、年をとって適応能力が衰えてきたときに若い世代と同じでいいとは言えない。家の性能の高さが頼りになってくる。厳しい温度変化を効率的に抑える仕組みは大いに価値がある。
最近、「性能・機能をどのように運用するか」ということが重要だと思いはじめている。
「バリアアリー」(関連LINKその1 その2)の考え方と通じるが、高性能と一口にいっても、「弱者を守る機能」は同時に「健常者・強者を楽にする(もっといえば怠惰にする)機能」だったりする。
住宅の供給側は高性能さを売り込むのに、弱者を守る美談をクローズアップしがちだが、住人サイドが逆の視点に気をつけて暮らさないと、いつの間にか健常者の能力をじんわりと弱めていくかもしれない。
例えば、「寒がり」「暑がり」が暑さ・寒さを回避したい気持ちは分かる。だけど、そもそも「寒がり」にも「暑がり」にもならなくてすむ人間が暑さ・寒さを回避し過ぎて、いつのまにか「寒がり」「暑がり」になってしまうのはどうなのだろうか、という懸念とか・・・。
我が家には老人も子供も、男性も女性もいる。弱者を守りたい一方で強く育てたい者もいる。
性能・機能の運用について考えることは多い。