写真の改竄がはっきりわかったのは、(よく考えればかっきり)約50年前です。
同じクラスではない人が、クラスごとの写真に不自然なくらい自然に収まっています。
(ただ、実態と写真、写真の中で、わずかにあり得ないポイントは認められました。)
その後も変わりました・・・
母に「これ変、・・」とチラっと言っても、「2クラスで撮ったんじゃないの?」と言ってサッとその場から離れてしまう・・・
その母の適当に言ったことに従って、写真上でどんどん、人や人数が変わってったってこと。
今、経験数とそれらの影響力数が変わっただけで、そういった運びは、思えば結構 似かよっています。
防犯カメラとやらが役に立たないであろう心配も、カメラ(写真)のときと前後するくらいで、当時家庭では「8ミリ」といっていた映写機の映像とその再生状況で心得ていました。
その私の、ビデオ・カメラに対する注視のしかたは、他の方とは違う
スポーツはたいていテレビ観戦・・・
(テニスとかバレーボールとか柔道とか相撲・・・)
フェアの精神でなければいけないスポーツで、ありえない場面を見せられてから、あたかもビデオ判定がありがたいものと出てくる・・・(いろいろと半信半疑で私のチェックは始まる。)
かなりほんの最初だけ、しっかり合っているかの判定画像、結果を出されながら、
そんな私でも、一定時はビデオ判定結果に、あ、そうなの になる。
比較画像も映り方曖昧化させるなどに変わりつつ。
妙にビデオ判定に頼る場面が増えまくるのと、
明らかに、(ビデオに決められた)結果が、前映像(リアルタイム)と違う現象 が多くなる
のは同じくらいのタイミングに起こり始め、
スポーツ観戦を純粋に楽しめなくなる。
楽しめなくする(ちょっとした?)いやがらせが 私に、特に起こるのと、
おそらくは、他のかたには、ビデオ判定に従わなければならない決まり が、ビデオ結果1点にしか注目しないこととさせ、ビデオ結果が正しいかどうかという判断行為を逐一持ち込んでいないので、
どなたも私ほどには気づかないのだろう。
ビデオ(映像・動画)だけでも、私関連となれば ざっくり、こんな傾向です。
スポーツひとつとっても、ビデオ判定に限らず、隠れ犯側のありとあらゆる八百長事が起こるのは、私としてもずっとチェックしてきているし、予告ワードにも聞かされています。
安倍氏の命が絶たれたことは、
思いこまれてくる運びの死因とは、異なります。
本当の原因を推察せねばならない警察は、鈍くなければ普通でもわかる事をほったらかして、(結果的に)かっこ悪さだけ責任感じ、一部設定情報の見かけ護衛だけに着目し、されていったわけです。
目視や映像ごとも、絡んでいることの1つです。
この事件も、隠れ犯のやりよう、テク盛り込み満載な一例です。
個人的には、防犯カメラありきの場所で、結局なんら、(暴力以上の事を)やられている現場が押さえられていないんだ・・と、わかりだしてからは、逆の心配が出てくるのが、そう遅くはなかったのです。
ところが、年末の事件(にされてしまったこと)の前、4度ほどたて続けに目立つ交差点でひっくり返り、パソコンを守って自分も派手に転ぶということが起こり、そこまでならありがちだけど、そういうときに声をかけてもらうという確率は限りなくゼロに近かったのに、3度は、そばにきて声がけしてくれたり、ちょっと助けてくれようとしたりがあって、(ありがたいことなのに)奇妙に思っていたところでした。
とりもなおさず、ビデオがあたかも活用できているかのような例を、そういうタイミングでもってこられたのだと、自己納得していたりします。
毎日のように、私には極端な落とし穴で、それだけで済まないシビアごとなのです。。。苦しいことから、より確実に苦しめられてきた、逃れようもない犯罪被害連鎖。。。
オリンピックの金銀銅メダルが入れ替わるかもって思うの私だけかな~?
いやいや世界中の人が思うよね テヘッ
もともと、選手も審判も正直、公平でないといけないという「人」の祭典だから、ビデオ判定は本来の意味からすると異質事です。
その前には、目視が成り立たなくなっている異常事が起き、選手側は不満が出ます。
このブログではまだふれていませんが、ほかにも隠れ犯のやる聴覚替え、触覚、位置瞬間変わり等々、大きな異常がもたらされたから、そんなことになっています。
勝手に意図的に変わるいじわるビデオ様よりも、本来の公平な精神のもとの正確さに尽力した人の結果のほうが私はずっとずっとありがたかったのですが。
「平和を志す人づくり」を託したオリンピックも、隠れ犯により、ずいぶん自然な神聖さを失いました。
勝利やメダルは嬉しいけど、おまけ。お互いを讃えあい、優れた人を敬えれば、それでいいのです。
スポーツは。
今はその尊さからしたら、いびつになりきりました。