写真は9条世界会議から
【今日のメモ】玉島小学校集団登校の見守り。「お元気ですか」の発送終了、後は地域配布が500部です。秘密保護法反対の動きを作るために調整。緊急ですがブログ作成を考えています。
10月21日、この日は国際反戦デーでした。、大学1年で初めてデモに参加し、2年で初めてデモを茨木で主催しました。私にとって反戦デーは思い出深い日です。以前このブログに次のように書きました。
学生時代、ベ平連の集会はいつも三条河原だった。河川敷から三条河原町~四条河原町~円山公園までの大通りを練り歩き、円山公園で総括集会をしたのち解散する。その後は三々五々、四条河原町までの近辺で食事するのがパターンだった。
ただ私はいつも一人の参加だった。何せ新聞奨学生。5時限ある講義は3時限まで受けて、茨木で夕刊を配達し、また京都まで行く。セクトやグループに入っているわけでもない、顔見知りがいるわけでもない。新聞配達の仲間も忙しい。そんな事情で一人だった。それでも趣旨に賛同する仲間が集まり、それぞれのグループがマイクを握りアピールする。帰りの電車では手渡されたビラをじっくりと読む。それなりに楽しいものだった。
大学一年、1971年10月21日の国際反戦デーの集会とデモもこのパターンだった。おとなしく歩いていては何のデモかわからない。ところが私の周辺はしばらくたっても声が出ない。仕方がないので自ら声を上げることにした。誰かが音頭をとれば徐々に調子が出て来る。にぎやかな四条河原町の交差点に近づくころには全体が元気なデモになっていた。
みんなで両手を広げ、両脇の人と手をつなぎ、道路の左側いっぱいに広がるフランスデモ。時にはそれが右にもだいぶ食い込んだ。いろんなデモに参加してきたが、この時ほど解放的な気分を味わったことはない。通行人は共感を持ってデモを眺めていた。タクシーがクラクションを鳴らすこともなかった。周りの人にとって、デモは日常的な光景でお祭りに近い感覚だったのかも知れない。まだ牧歌的な雰囲気が残っていた時代だった。
1971年はベトナム戦争が続いており、市民運動とつかず離れずの社共両党や総評も健在だった。反戦運動も勢いのある時期である。北海道の女子高生から沖縄の基地労働者まで、そして全国都道府県の老若男女が取り組んでいた。もちろん「国際」の名前にあるように、全世界でも「米軍はベトナムから出ていけ」のシュプレヒコールが繰り返されたに違いない。
【情報紹介】
「フライデー」が放射能汚染状況を独自調査 ~海・農地の汚染をもみ消し、汚染水問題への矮小化が横行~
「俺は、君のためにこそ死ににいく」 戦争賛美でない!?
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◆山下HP反核・反原発サイト、放射能情報公開、反原発の歌
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学生時代、ベ平連の集会はいつも三条河原だった。河川敷から三条河原町~四条河原町~円山公園までの大通りを練り歩き、円山公園で総括集会をしたのち解散する。その後は三々五々、四条河原町までの近辺で食事するのがパターンだった。
ただ私はいつも一人の参加だった。何せ新聞奨学生。5時限ある講義は3時限まで受けて、茨木で夕刊を配達し、また京都まで行く。セクトやグループに入っているわけでもない、顔見知りがいるわけでもない。新聞配達の仲間も忙しい。そんな事情で一人だった。それでも趣旨に賛同する仲間が集まり、それぞれのグループがマイクを握りアピールする。帰りの電車では手渡されたビラをじっくりと読む。それなりに楽しいものだった。
大学一年、1971年10月21日の国際反戦デーの集会とデモもこのパターンだった。おとなしく歩いていては何のデモかわからない。ところが私の周辺はしばらくたっても声が出ない。仕方がないので自ら声を上げることにした。誰かが音頭をとれば徐々に調子が出て来る。にぎやかな四条河原町の交差点に近づくころには全体が元気なデモになっていた。
みんなで両手を広げ、両脇の人と手をつなぎ、道路の左側いっぱいに広がるフランスデモ。時にはそれが右にもだいぶ食い込んだ。いろんなデモに参加してきたが、この時ほど解放的な気分を味わったことはない。通行人は共感を持ってデモを眺めていた。タクシーがクラクションを鳴らすこともなかった。周りの人にとって、デモは日常的な光景でお祭りに近い感覚だったのかも知れない。まだ牧歌的な雰囲気が残っていた時代だった。
1971年はベトナム戦争が続いており、市民運動とつかず離れずの社共両党や総評も健在だった。反戦運動も勢いのある時期である。北海道の女子高生から沖縄の基地労働者まで、そして全国都道府県の老若男女が取り組んでいた。もちろん「国際」の名前にあるように、全世界でも「米軍はベトナムから出ていけ」のシュプレヒコールが繰り返されたに違いない。
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