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ザ人物伝 マリ・キュリー 66歳没、長期間の放射線被曝による再生不良性貧血か

2021-09-18 13:15:15 | 連絡
マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー(ポーランド語: Maria Salomea Skłodowska-Curie, 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーとも)。キュリー夫人 (Madame Curie) として有名である。
1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し[1][2]、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルド (1872-1946) からキュリー研究所を与えられた。
放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による[3]。
〇パリでの苦学
3日間の汽車の旅を経て[18]、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであった[20]ソルボンヌ大学(パリ大学)[21] の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリ」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった[22]。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若きイグナツィ・パデレフスキなどパリ在住ポーランド人らとも親交を持った[22]。
しかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間がないことに気づき、姉夫婦の元を離れてパリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて[21] 引っ越した[22][23]。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず[24]、暖房もなかったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ[21]。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年7月には物理学の学士資格を得た[24]。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けることができた[24]。
〇ピエール・キュリー
1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという[28]。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた[26]。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気[31] とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピッド役となった[26]。
ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、2人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた[26][32]。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった2人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年7月に数学の学士資格を得た[21] マリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた[26]。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学は女性を雇い入れなかった[33]。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった[26][32]。
1895年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴もない式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた2人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した[26][32]。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た[33]
〇放射能
グラシエール通りのアパートで新生活が始まった。マリはESPCIで研究を続けながら家事もこなした。裁縫は前から得意だったが、独身の頃はろくにやらなかった料理もどんどん腕を上げた。収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得した[35]。1897年9月12日には長女イレーヌに恵まれ、その出産と育児には義父で医師のウジェーヌ・キュリー(フランス語版)が彼女を助けた[36]。同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げた[37]。
マリは夫と話し合い、博士号取得という次の段階へ進む検討に入った。2人はここで、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩が放射するX線に似た透過力を持つ光線に着目した[38]。これは燐光などと異なり外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが示されたが、その正体や原理は謎のまま[38] ベクレルは研究を放棄していた[35]。マリとピエールは、論文作成のため[10] この研究を目標に据えた[38]
放射は分子間の相互作用等によるものではなく、原子そのものに原因があることを示す[39]。これは、夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事柄である[41]。次にマリは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ち、既知の元素80以上[20] を測定しトリウムでも同様の放射があることを発見した[10]。この結果から、マリはこれらの放射に放射能と、このような現象を起こす元素を放射性元素と名づけた[38]。
彼女は発見した内容を即座に発表することを強く意識し、科学における先取権(英語版)を持つことに敏感だった。2年前にベクレルが自身の発見を科学アカデミーに速やかに公表せずにいたら、発明者の栄誉も、そしてノーベル賞もシルバナス・トンプソン(英語版)のものになっていた可能性があった。夫妻も彼と同じく素早い手段を取り、マリは研究内容を簡潔に要約した論文を作成し、ガブリエル・リップマンを通じて1898年5月12日に科学アカデミーへ提出した[42]。しかし、夫妻はトンプソン同様、トリウムの放射能発見競争では敗れた。2か月前にベルリンでゲルハルト・カール・シュミット(英語版)が独自に発見・発表していたからである[43]。
〇栄誉
放射性物質の研究は、元々はマリの博士号取得を目的に始められたが、多忙のために準備には遅々として進まなかった。しかしそれもやっとまとめられ、アンリ・ベクレルの後押しを受けて[56] 1903年6月に論文審査を受けた。夫と義父、姉、教え子たちが見守る中、3人の論文審査教授陣は、マリにパリ大学の理学博士 (DSc)を授けた[51]。その日の夕食会には、知り合いの他にたまたまパリに来ていて訪問したアーネスト・ラザフォード夫妻も加わっていた[52]。
夫妻の業績を最も早く評価したのはイギリスだった。1903年6月、王立研究所は夫妻を正式にロンドンへ招待し、講演を依頼した。ピエールは実験を交えた講演で喝采を浴び、マリは研究所会合に初めて出席した女性となった。ケルヴィン卿やウィリアム・クルックス、ジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)らとも親交を持った。さらに11月には王立協会からデービーメダルが授与された[57]。そして1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与する決定を下した[注 4]。その理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」であった[57]。こうしてマリは、女性初のノーベル賞授与者となった。夫妻はストックホルムの授賞式には出席できなかったが、賞金の7万フランは一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられた[33][57]。
〇ピエールの逝去
1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上にマリが実験主任に任命され、給与も支払われた[59]。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け[59]、ピエールは科学者そして大学教授としてのさまざまな雑務に追われていた[61]。
それは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日、ピエールはさまざまな予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通り(英語版)を横断していた際に6トンの荷物を積んだ荷馬車に轢かれ、46歳で死亡した[61][62]。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐさま大学に電話で連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅した[62] マリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった[61]。この不慮の事故は世界中に報道された[62]。しかし、21日に生家のソーで行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ[61]。
5月13日、パリ大学(ソルボンヌ)物理学部はピエールに用意した職位と実験室における諸権利をマリのために維持することを決めた。葬儀の翌日に申し入れられた国の遺族年金はきっぱりと断ったマリだったが、この件は回答を保留した[61]。色々なことが頭をよぎったが、彼女は「重い遺産」を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分のやるべきことと決断し、大学の職位と実験室の後任を受諾した。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生した[62]。
〇第一次世界大戦
マリが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に加え、自動車20台となった。マリ自身も、技術者指導の講義と平行してこのX線照射車の1台に乗り込んで各地を回った。そのために自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得した[76]。イレーヌはそんな母の姿に自分もこの活動に加わりたいと申し出て、マリはこれを認めた。さらに母子は貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多いメダルを寄付しようとした。ただし後者はさすがに役所の担当が恐れ多いと拒否した[75] 
〇マリの死去
1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた[74]。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった[74][84]。春にマリはポーランドを訪問したが、これが最後の里帰りとなった[33]。1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った[84]。
療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシー(英語版)にあるサンセルモス(英語版)というサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった[84]。
7月4日水曜日の夜明け前、マリはフランスで亡くなった。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬された[84]。長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられている[85]。放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていなかった[86]。マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいた[87]。マリは長年の放射線被曝によりさまざまな病気にかかり(白内障によってほぼ失明したことを含む)、ついには死に至ったが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかった[88]。







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