<焦点:一帯一路・海外遠征・戦狼外交、共産党一党独裁政府、国家安全維持法=国内域外・事後遡上適用法=施行、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」の恐怖
https://jp.reuters.com/article/germany-china-idJPKBN1HO07I
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スポーツウェア、野球用具、ゴルフクラブ、カッターシャツ、ボストンバッグ、ポロシャツ、さらには「夏の甲子園」まで、数々の偉大なるイノベーションの生んだ水野利八。その原点には、苦労を厭わず勉強に励み、あらゆる体験を自分のものにして、誰もやらないなら"俺がやる"という精神があった。
水野利八美津濃株式会社 創業者
1884年5月15日大垣市に生まれる。1896年、興文小学校高等科を中退、水野家再興を誓い大阪の薬種問屋に奉公。1900年、京都の織物問屋「小堀商店」の店員となる。1904年、職を辞し大垣へ帰省。
翌年、日露戦争に出征するも、肺尖カタルを病み本国に送還される。
1906年、弟利三と「水野兄弟商会」を創業、洋品雑貨のほか野球ボールなどを販売。1907年、運動服装のオーダーメイドに開始。1910年、運動服装の既成品生産を開始。1911年、運動用具の生産を計画。販促策として実業野球大会を開催。
1913年、関西学生連合野球大会を開催(現在の夏の高校野球大会の前身となる)。1918年頃から大阪のファッションリーダーとして、カッターシャツ、ボストンバッグ、ポロシャツなど、次々と新しいネーミングのアイデア商品を生み出す。
1923年、国産スキー生産に乗り出す。1936年、ゴルフクラブ四品種を一斉発売、日本におけるパイオニアに。1969年、取締役会長に就任。1970年3月9日、心不全のため逝去。従五位勲四等瑞宝章を受ける。
1971年、生前の野球界への貢献を讃えられ、業界人初の「野球殿堂」入り。
米国から渡ってまだ新しいこのスポーツに対する一般の認識はあまりなかった。水野さんが実業団野球大会を呼びかけたのは明治44年だったが、この人の執着は中等学校野球にあったようで、いろいろと強力な推進団体をさがしていた。毎日新聞あたりにもちかけてみたがあまり乗気でない表情だった。「そんならわてのところでやってみるワ」ということになったのが翌年の明治45年。しかしこの年は明治大帝の訃報があって国民の気持が沈み、折角の計画も一年延期された。新聞社が定期的に主催していたスポーツは毎日新聞の浜寺テニス大会があった程度で、野球に対してこんな計画をするなど、よっぽど物好き扱いにされていた。
美津濃主催の関西学生連合野球大会には、関西一円の二十五校が参加した。大正二年と年号が改まっていたこの時の優勝校は、大阪商業である。
──野田三郎『ボールを見つめて──浪商小史』から要旨(『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』より転載)
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アジア / オセアニア
上海美津濃有限公司
SHANGHAI MIZUNO CORPORATION LTD.
No.505, Shen Zhuan Road, Shen Xiang, Zhu Jiajiao Town, Qing Pu, Shanghai 201714, China
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