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「上陸しても次々と人が死ぬ飢餓地獄」尖閣に漂着後の“無人島生活”を生き延びた日本人の証言

2021-04-04 14:31:37 | 連絡
★厚労省は慰霊祭と遺骨収集団のヒトモノカネ体制予算執行か>

2021/04/04 06:00
(早坂 隆/Webオリジナル(特集班)) 
救助船は8月19日に石垣島の港に帰港。桟橋には出迎えの人たちが多く集まっていた。台湾に向けて石垣島を出発した日から、すでに約50日が過ぎていた。
 そしてこの時、彼らはようやく日本の敗戦について知ったのである。
 魚釣島から生還することができたにもかかわらず、その後に栄養失調などの影響で命を落とした子どもたちもいた。宮良廉良とその妻である幸子の間には二男五女があったが、魚釣島から石垣島に戻って1週間後、五女で3歳の洋子が絶命した。洋子は床に就いてはいたが、前日まで時おり笑顔さえ浮かべていた。父はそんな洋子を見て、
「子どもたちが元気になった」
 とおどけて踊ってみせていたという。
 さらに翌月には、次男で1歳の邦雄も旅立った。
 束の間の幸福な時間は、脆くも瓦解した。
 この一連の遭難事件の犠牲者数には諸説ある。米軍の銃撃から魚釣島で死亡した方々すべてを含めると、延べ100名前後の方々が命を落としたのではないかとされている。
 終戦翌年の昭和21(1946)年、遺族らによる魚釣島への遺骨収集が行われた。昭和44(1969)年には、当時の石垣市長らが魚釣島に上陸。「台湾疎開石垣町民遭難者慰霊碑」が建立され、慰霊祭が執り行われた。
 しかし以降、魚釣島での慰霊祭は、一度も実行されていない。
 遺骨収集も進む気配がない。多くの遺骨はいまだ島内に取り残されたままである。(文中敬称略)


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