千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)70歳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、と秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり、定まっていない。
天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。同年、黄金の茶室を設計。天正15年(1587年)には、北野大茶湯を主管。同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、禄も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。
天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[注釈 1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。
人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ)吾這寶剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころす)提(ひっさぐ)る 我得具足(わがえぐそく)の 一太刀(ひとつたち)今此時(いまこのとき)ぞ 天に抛(なげうつ)— 久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年(1701年))
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます