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弧状列島,公助,「寄り添うだけでは被災地は救えない」原田前大臣が進次郎氏に忠告、 三栗谷用水、鉱毒泥砂除去施設

2019-09-18 16:59:36 | 連絡
「大気汚染でも水質汚濁でも、結局は原因物質を希釈して排出するしかない。問題なのは、希釈によって下がった汚染物質の濃度が、人体に影響を与えるかどうかです。処理水については、厳格さで知られる原子力規制委員会でも、更田豊志委員長が『海洋放出が最も合理的』と述べています。小泉くんに助言をするなら『寄り添うだけでは被災地の人々は救えないぞ』と言いたい」 (注1)

(注1)
  • 1610年 足尾銅山開山。
  • 1661年~1687年(寛文・貞享期)が銅山の全盛期であった。
  • 1877年 古河市兵衛が足尾銅山の経営に携わる。
  • 1884年 足尾銅山の銅生産量が日本一となる。
  • 1885年 朝野新聞、鉱毒被害を報道。
  • 1887年 松木村で大規模山火事。間藤付近まで飛び火する。
  • 1890年 渡良瀬川の大洪水で鉱毒の被害が拡大する。
  • 1891年 田中正造、第2回帝国議会で鉱業停止要求。
  • 1896年 通洞が貫通
  • 1896年 田中正造、第9議会において永久示談の不当性を追及。有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置。

  • 1950年 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置。総工費3,200万円のうち100万円を古河鉱業の寄付金でまかなう。
  • 1953年 待矢場両堰土地改良区と和解成立。土地改良資金800万円を寄付する。
  • 1954年 小滝坑、廃止。
  • 1956年 自溶製錬設備が完成し、亜硫酸ガスの排出が減少。
  • 1958年 源五郎沢堆積場決壊。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
  • 1961年 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
  • 1966年 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
  • 1968年 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
  • 1970年 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出。
  • 1971年 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される。
  • 1972年 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
  • 1973年 足尾銅山閉山、製錬事業は継続される。
三栗谷用水が、歴史上特筆されるに至ったのは、三栗谷用水組合が大正期の大旱魃を体験したことから、鉱毒水ばかりでなく洪水や用水枯渇の原因が足尾銅山にあるとの認識に至り、鉱毒被害の永久的解決を企図した三栗谷用水の幹線改良事業を実施したところにある。この事業は1933年(昭和8)に具体化し、1977年(昭和52)に一応の完成をみるという大規模なもので、鉱毒水の流入防止と用水不足を補うための補助水源としての目的を持った集水暗渠や効率的な沈砂地による鉱毒泥砂の除去施設に特色を持つ。 





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