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畑野 勇
1971年生まれ。51歳。
95年、武蔵工業大学工学部電気電子工学科卒業。
2002年、成蹊大学大学院法学政治学研究科博士後期課程修了、博士号(政治学)取得。
著書に『近代日本の軍産学複合体』(創文社)。
太平洋戦争の戦況を変えたと言えるミッドウェー海戦から80年が経過した。敗因は数多く挙げられているが、終戦の日にあたり「切所における最高指揮官の判断」を考えてみたい。
いまから80年前の1942年6月5日(日本時間)、日本海軍の第一機動部隊、いわゆる南雲艦隊が発進させた索敵機の1機が敵空母艦隊を発見し、電報で報告した。
そのとき、日本側の空母4隻の搭載機は、対艦攻撃用の魚雷や徹甲爆弾から、米ミッドウェー基地攻撃用の陸上用爆弾へと、装備を積み換えているさなかであった。
この報を受けて、山口多聞第二航空戦隊司令官は、南雲忠一長官に対して「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」と具申したが、南雲は山口の意見を容れなかった。
このとき即座に発進が可能だった攻撃隊は、山口が率いる空母「飛龍」・「蒼龍」艦上で陸上用爆弾を搭載していた爆撃機36機であった。
この時点で南雲艦隊は敵航空機から絶え間ない攻撃にさらされており、飛行可能な戦闘機はその迎撃に使用されていた。
山口は、味方の戦闘機による護衛が得られず、大きな損害を受ける可能性が高いものの、この戦力でも敵空母には相当な打撃を与えうるものと観測し、この機会を逃さないことを重視したのである。
それに対し南雲は山口の提案を退け、その代わりに護衛戦闘機を随伴させ、対艦攻撃用に再度の兵装転換を終えた4空母の搭載機によって敵艦隊を攻撃することを決定した。
また、その準備中に、この日の早朝からミッドウェーの空襲に向かわせていた約百機の攻撃隊を、それぞれの母艦に収容することとした。
この攻撃隊の準備には最低2時間は要するが、その間に敵の空襲が続くとしても、艦隊護衛の戦闘機によって撃退できるという判断が、その根底にあったといえる。
〇明暗を分けたのは「運命の五分間」ではない
史実として、攻撃隊の発進前に「赤城」・「加賀」・「蒼龍」の3隻の空母が被爆して大火災を生じ、日本側が海戦の主導権を失ったのであるから、この決定は失敗であったことになる。
なお、3空母の被爆炎上が日本側の攻撃隊発進完了のわずか5分前であったという、いわゆる「運命の五分間」説が戦後長く広まっていたが、1971年に刊行された防衛研修所編纂の公刊戦史『戦史叢書・ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社)では、「3空母は被爆時に攻撃隊の準備を終えておらず、兵装転換の作業中であった」旨の記載がある。
「運命の五分間」説へのこのような否定的見解を採るならば、南雲の決定は、決定時の予想よりも攻撃隊準備に相当長い時間を要し、戦闘の見通しを誤ったものとして、いっそう批判を受けることになる。
南雲艦隊司令部のこの判断には、敵機の長時間にわたる波状攻撃への対処に追われ、またその敵機(爆撃機や雷撃機)が戦闘機の護衛を持たず、日本側の艦隊直衛機(ゼロ戦)に次々と撃墜される様子を目の当たりにしたことが、心理的に影響したといわれる。
では、結果としては失敗であった南雲艦隊のこの決定をくつがえす機会はなかったのだろうか。
〇楽観的過ぎた見立て
もともと連合艦隊司令部は、米軍がミッドウェー海域に空母を出撃させて日本側を待ち構えている可能性をほとんど考慮しておらず、「米空母は日本側がミッドウェーを攻略した後に出撃してくる」という、後世から見れば一方的・楽観的に過ぎた観測のもとに作戦を立てていた。
また、東京にある軍令部(大本営海軍部)は、この作戦の主目的を「ミッドウェー島を攻略し、同方面よりする敵国艦隊の機動を封止し、兼ねて我が作戦基地を推進する」と、同島の占領であることを定め、わずかに作戦要領において「攻略作戦を支援掩護すると共に、反撃の為出撃し来ることあるべき敵艦隊を捕捉撃滅す」と示すだけであった。
そして南雲艦隊司令部は、その軍令部の命令に沿って、ミッドウェー基地の空襲破壊を重視して行動しており、敵艦隊の捜索体制はきわめて不十分であった。
そのうえ日本側は、前月の珊瑚海海戦で受けた損害からミッドウェー作戦への参加可能空母数が6隻から4隻へと減少し、かつ、米側に暗号を解読されて3隻の空母による待ち伏せを受けていながらそれに気づかないという不利な状況に陥りつつあった。
その状況下にもかかわらず、自軍の艦艇がほとんど損害を受けていない間に敵艦隊を発見することができたのである。
このとき連合艦隊司令長官山本五十六が座乗し、南雲艦隊から後に数百キロ離れた海域にいた戦艦「大和」も、その報告に接していた。
山本は、「すぐ攻撃隊を発進させるよう南雲艦隊に命令すべきではないか」と述べたが、連合艦隊参謀の黒島亀人は、「南雲艦隊はこのような事態への対処は万全なはず」として同意せず、何の措置も講じられなかった。
〇通信環境により伝わり切らなかった切迫感
遠く離れた「大和」から何ら命令が発せられなかったとしても、冒頭に記したような、航空戦指揮の経験が深い山口多聞による意見具申が採用されれば、米空母艦隊のそれよりもはるかに高度な技量を持っていた日本側の航空兵力によって、日本海軍の一方的な敗北は避けられたはず、という意見もあるかも知れない。
しかし、米艦隊ですでに実用化され、戦闘に常用されていた艦対艦・艦対空・空対空の超短波電話(VHF)は、日本側では艦対艦の通話が使えるかどうかという状況であり、山口が南雲に意見しようとしても、発光信号か電報に頼るほかなかった。
考えてみれば、山口が南雲に直接電話で、戦機を逃さずに攻撃隊を即時発進させることの重要性を伝えるのではなく、「直ちに攻撃隊発進の要あり」という発光信号(あるいは手旗信号)を受け取り、その内容を記した紙を信号兵が司令部に届けるだけで終わるのでは、南雲艦隊司令部における判断の材料として、その重要性・緊急性がきわめて低くなるのは避けられない。
そのときに、作戦部隊全般を指揮する立場の連合艦隊司令部が、結果として無為に終止したという批判は免れないであろう。
作戦の前提が崩れたことが判明したときや想定外のことが起きたときには、その責任を明らかにして、どう体勢を立て直すかを迅速に判断して麾下に明示するのが最高指揮官のなすべきことであると考えるならば、この海戦の敗北における最高指揮官としての山本の責任は、きわめて大きいと言わねばならない。
〇敗因はミッドウェー海戦前からあったのか?
ミッドウェー海戦の直後に機動部隊(第三艦隊)の情報参謀となり、翌年から連合艦隊司令部で情報参謀として勤務した中島親孝(終戦時に中佐)は、戦後出版した回想『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(光人社)において、
「連合艦隊の戦いのあとをふりかえってみると、一般的には批判されることのすくない、戦争前半の作戦指揮に、かえって問題があると思われてならない」と総括している。
ハワイ作戦の計画実施からガダルカナルの撤退、山本の戦死までの間、山本本人や司令部スタッフの観測や判断、軍令部との関係や麾下の艦隊への指揮統率ぶりなどをたどり、いまからちょうど77年前の敗戦をもたらした因子がどこにあったかを考えることはきわめて重要な作業といえるだろう。
(本稿の執筆にあたっては、阿部安雄氏のご教示に負うところがきわめて大きかった。記して謝意を申し上げます)
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