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ザ人物伝 島崎藤村 小諸時代から小説へ

2022-08-20 11:11:57 | 連絡
1899年(明治32年) 小諸義塾の英語教師として長野県北佐久郡小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。
北海道函館区(現・函館市)出身の秦冬子と結婚し[8]、翌年には長女・みどりが生れた。
この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。
小諸を中心とした千曲川一帯を見事に描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。
『破戒』を執筆し始めたのもこの頃からであり[9]、同作の登場人物である市村代議士は、岩村田町(現在の佐久市岩村田)の立川雲平をモデルにしたとされる[10]。
1905年(明治38年) 小諸義塾を辞し上京。
1906年(明治39年) 「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。
すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。
ただ、この頃、栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。
1907年(明治40年)『文藝倶楽部』6月に「並木」を発表。孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。
1908年(明治41年)『春』を発表。
1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。
このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、
1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。
1913年(大正2年)5月末、神戸港よりエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランスマルセイユ着、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。
西洋美術史家の澤木四方吉と親交を深める。
第一の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載、「桜の実の熟する時」の執筆を開始。下宿の世話した河上肇などと交流した。
第一次世界大戦の勃発により、1914年(大正3年)7月から11月まで画家の正宗得三郎とともにリモージュに疎開。第二の「仏蘭西だより」を『朝日新聞』に連載。
1916年(大正5年)7月、熱田丸にて英国ロンドンを経て神戸港に到着した。
1917年(大正6年) 慶應義塾大学部文学科講師となる。
1918年(大正7年) 『新生』を発表し、帰国後改めて持ち上がったこま子との関係を清算しようとした。
このため、親類の差配により、こま子は台湾にいる伯父・秀雄(藤村の長兄)の元へ渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。
なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。
1927年(昭和2年) 「嵐」を発表。
翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始める。
 1928年11月3日 加藤静子と結婚する
1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで 夜明け前が『中央公論』にて連載された。
この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられた。また柳澤健の声掛けを受けて日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。
1940年(昭和15年) 帝国芸術院会員。
1941年(昭和16年)1月8日 当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。(戦陣訓の項参照)
1942年(昭和17年) 日本文学報国会名誉会員。
1943年(昭和18年) 「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。



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