A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

京都六角の獄舎

2010年03月07日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
この数年、京都に行ったら探している土地があった。
幕末にいわゆる勤王の志士が多数処刑された六角の獄舎跡である。以前祇園祭を見物し、中古カメラ店のメディアジョイに立ち寄った際に、探したことがあったが、現場にたどりつけなかった。それで昨日は、所用で京都へ来たついでに再度の探索を試みた。
今回は、その所在地が中京区因幡町の六角通りであることは調べがついていた。地図で見ると、二条城の少し南にあたる。四条通りから北に、蛸薬師通り、六角通り、三条通りとなるので、やはり四条烏丸のメディアジョイを起点に西方向へ歩いて行った。因幡町あたりに来ても、当初それらしいものが見当たらず、一度三条通りの商店街に出て、八百屋さんで尋ねてみた。「たぶんあそこやと思います。石碑が立ってます」ということで、その通りに行くと、真新しいマンションの入り口に石碑が二つ立っており、それと分かった。門を入った所にも、石碑、由緒書きがあった。
ひとつは山脇東洋が日本で始めて腑分けを行った顕彰碑で、ふたつめは平田国臣らの殉難碑であった。幕末に京都で大きな火災が広がった際に、通常は受刑者の一時釈放が行われる取り決めであるのに、当時入獄中の平田国臣ら勤王の志士は全員殺害されてしまった。そのことが記されている。
由来書に書かれていないことがひとつあって、それは、その少し前に天誅組がここで処刑されたということである。それを追ってここまで来たわけだ。
土佐山北村郷士の安岡嘉助は、武市半平太の命により、参政の吉田東洋を暗殺し、脱藩。京に上り天誅組に加わって敗走した。捕縛され、処刑されたのが、この六角の獄舎である。高知、梼原、淀、十津川とその行跡を追いかけてきた。最後に残ったのが、この処刑地だった。
現在は、今風のマンションになっていて、ほとんど何の痕跡も残っていない。敷地の広大な感じが、それとうかがわせられるくらいなものか。処刑地の上にマンションというのも、他の土地ではちょっと考えにくいが、京都はどこを掘っても何か歴史的遺物が出てくるはずで、「心霊スポット」などと構っていられないのかもしれない。
壬生からごく近いのも今回始めて気がついた。壬生(みぶ)は、「水生」から来ているという。
近くに武信神社があり、苔むした大きな榎の古木が枝を広げている。樹齢数百年と云われているらしい。ここでも坂本龍馬の因縁話が書かれてあった。妻おりょうの父親が、ここに投獄されており、たびたびふたりでこの神社を訪れ、榎に登って、中を窺ったとか、「龍」の字を掘ったとか書かれてある。今年はNHKでドラマやっているので、しょうがない。
先日ドラマ中に、吉田東洋が登場し、その異様な傲岸不遜ぶりが強調されていた。暗殺後、岩崎弥太郎が下手人の探索方にされるので、安岡嘉助ら暗殺者もドラマ中に出て来きてもおかしくないのだが、あまり期待できない。今まで一度もドラマ、映画に登場したことがない人物なのだ。ほとんど見たことがない大河ドラマを今年見ているのは、実はそこに注目している。
獄の中からは、この大榎が見えたかもしれない。安岡嘉助ら、天誅組は切腹は許されず、斬首となり、遺体は近所の竹林へ捨てられた。数カ月後に従兄弟の権馬らが、雨中現場を訪ねている。遺体をそれと同定できたかどうかは不明であるが、東山霊山で慰霊の催しを行い、土佐山北村の一族墓に墓石が建てられた。当時、処刑された師匠や仲間に対して、こういうことがよく行われた。弟子や家族が内密に刑死体を掘り起こしたり、引き取ったりして、別に懇ろに埋葬するわけだ。吉田松陰や、近藤勇もそう。



宮本常一生誕100年

2007年07月30日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 本屋を覗くと、別冊太陽の特集で、「宮本常一 『忘れられた日本人』を訪ねて」というが本が出ていた。8月1日が生誕100周年のためらしい。
 宮本の残した写真は、ネガのまま10万枚あるといわれていて、誌面にも、たくさん興味深い写真が掲載されている。日本中を旅して撮った写真だが、もはやその風景と生活は失われているので、ますますその記録的な価値は高まっている。民俗学者としてのテキストを補完するための写真が一義的であったはずだが、そこに留まらず、見ること、記録することに憑かれているようなところがある。自分の母親を周防大島の自宅近くの野原で火葬し、その骨上げしているところを上から俯瞰して撮った写真まであって、これは尋常なことではない。
 宮本の残した膨大な仕事の全容は未だ以て掴みがたいのだが、その残った仕事よりも宮本という人間の存在の方がより大きいという事情がある。宮本を神格化して、変に賞揚するよりも、その視線の先を見ることの方が重要だし、そこにしか意義はない。
 「民俗学も、もう古老の聞き書きを中心にして資料採取をする時代はなかば過ぎ去ったのではないか」と宮本が描いたのが1965年である。今やそういう時代は完全に過ぎ去った。別の方法を持った「旅する巨人」、「記録する魂」が必要な所以である。

 小田実氏、死去。

梼原紀行5

2007年05月02日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 わたしの母方の、亡くなった祖父が馬喰(ばくろう)で、叔父が牛市場の獣医をしていた。祖父の大きな家は、街道筋の、牛市場の近くにあった。羽振りのいい時に、旅館を買い取ったものらしい。玄関の間口はさほど広くないが、二階建ての町屋風の造りで、奥行きが非常に長く、一番奥まった所に、祖父母が生活する部屋と牛を繋ぐ納屋があった。その裏は道を挟んで川である。
 祖父は、ニッカボッカに、鳥打ち帽という出で立ちがトレードマークであった。われわれは、畑で鎌を使ってれんげを刈ったり、納屋で大きな押し切りで藁を切りったりする祖父の後を追いかかけて、幼年期の大半を過ごした。
 きれいに洗われた牛の首筋に触ると、短く、柔らかい毛並みをしていて、そっと頬を当てて見ると、気持ちよかった。しかしちょっと油断をすると、滝のような小水を浴びせられるし、糞の山に足を滑らせ、腹を汚れた後足で蹴られるという憂き目にも遭うのであった。
 牛市場が立つと、町は賑やかになり、楽しかった。たくさんの牛が集まって、品評会に掛けられ、ローマのコロッセウムを何百分の一かにしたような、階段つくりの、円形の建物で、セリが行われるのを見物した。 
 いい牛には、赤や黄の、きれいな布が掛けられ、品評会で入賞すると、首にぴかぴか光る、重いメダルが掛けられた。そのメダルは、われわれ悪ガキのこころを惹き付けて止まなかった。なんとかして、それを自分でも、首に掛けてみたいと思いつめた。
 牛が高く売れると、祖父は上機嫌で、自ら牛鍋を作り、昼間から、弱い酒で顔を赤くしているのが常だった。概して祖父は陽気で、冗談ばかり言っている男で、孫たちには人気があった。われわれは祖父のハゲ頭を木魚のように叩きながら、「ハゲ頭の歌」を唄うのだった。
 客の多い家で、いつもどこからか仲間の年寄りがやってきては、式台に腰掛けて、渋い茶と、固い羊羹、キセルたばこを振る舞われていた。祖母はその隣で、いつも着物の仕立て直しをしていた。わたしもここで渋い茶の味を刷り込まれた。
 祖父は、どこかから雌犬のボクサーを手に入れ、かけ合わせて、出産をさせた。小学校から帰ると、わたしは狂喜乱舞して、祖父の所へ飛んで行った。われわれの幼年時代の大事件であった。生まれたばかりの小犬を飽かず、眺めた。
 ボクサーの名前は、ジャッキーであった。JFKの演説をテープで繰り返し聞いていた、英語の好きな従兄が、そう名付けたのだ。ジャクリーヌ・ケネディには、似ても似つかぬボクサー犬であったが、そう呼んでいるうちに、本人(犬)もその気になり、われわれも何の不思議にも思わなくなった。牛には名前を付けなかったはずである。牛飼いの家がみんなそうだったのかどうかは知らない。
 名付けといえば、祖父は、自分の息子たちに、歌舞伎の「蘇我物語」の兄弟に因んで、十郎、五郎と名前を付けた。この辺が、どうも遊技気分であって、われわれシロート筋と違う男であったといつも感じるところだ。
 祖父は納屋の二階から転落して、腰を悪くし、その後、心臓の発作で亡くなった。牛市場も跡形もなく消えてしまった。馬喰の生活を知る者も、もはや多くないだろう。
 ふと「土佐源氏」の馬喰の語りは、あれは土佐弁ではないのではなかろうか、という疑問が頭に浮かんだ。なんとなくわれわれが知っている、坂本龍馬が喋るいさましい土佐部とは違う感じがするのだ。宮本の生まれ故郷の山口県の言葉のようでもある。
 茶屋谷の竜王生まれのタクシーの運転手さんに乗り合わせたが、「あの辺の人は、愛媛の言葉に近い言葉の人もいますよ」と云っていたのを思い出した。モデルの山本鎚造翁は愛媛の生まれで、檮原へ流れて来た馬喰だ。伊予弁なのかどうかも、方言の知識がなくて、はっきり分からないが、中国地方の生まれのわたしにも、「土佐源氏」の語りは、その言いまわしやイントネーションに至るまで、ほぼ完全に、耳の奥に再現できる。これは不思議なことだ。
 俳優の坂本長利さんの一人芝居の「土佐源氏」は、もう三十年以上続いているらしい。十年以上前にチケットを取ろうとしたことがあったが、人気が高くて観られなかった。力演で、評価も高いようだ。でも観なくてもいいやという気もしている。
 わたし自身は、「土佐源氏」という作品に、失われた祖父の言葉が蘇って来るような気がしているからだ。
 

檮原紀行4

2007年05月02日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 司馬遼太郎は、宮本常一の仕事を重んじること篤く、宮本についていくつか文章を書いている。しかし宮本が亡くなった翌年に書かれた「檮原街道」には、周防大島から長州大工が檮原にまで来ていたという宮本の話の引用は出てくるのだが、「土佐源氏」の話は全く出てこない。司馬遼太郎は檮原のことを「あこがれの地」とまで賞揚しているのに、奇妙なことだ。注意深く、排除したとしか思えない。宮本常一における「土佐源氏」という存在は、司馬のバランス感覚をどこか乱すところがあって、それを敏感に感じ取ったからに違いない。司馬遼太郎にとっての、檮原は、あくまで「土佐脱藩の道」であった。
 宮本は愛媛側から入り、司馬は高知から入っている。宮本と司馬の方法は、全く対照的である。宮本は、自分で、見て、歩いて、聞いた話の採取という方法であり、司馬は書き残されたエピソードの徹底的な調査である。司馬が尊敬の念を持ったのは、この及びがたい宮本の方法であったのだろう。
 梼原町のホームページを見てみれば分かるが、ここでも「土佐源氏」は全く触れられていない。「坂本龍馬ほかの土佐脱藩の道」は、観光資源になるが、「土佐源氏」は、どう扱ったらいいか分かりかねるということだろうか。
 佐野眞一の文章はいつも調査が行き届いている。彼の本の中に、90歳に近い、妻のアサ子さんが、宮本の思い出を語り、「あの人の話はとっても面白かったし、それに誰に対してもやさしいじゃない。そんなところがよかったのかなあ」という行りがある。妻にこんなことを云われる男は、真からのやさしさを持った人間であったに違いない。
 木村哲也は、若い人だが、彼の本は清新だ。自分の思った方向に、ためらわず前へ前へと進んでゆく、しなやかで若々しい靱さを感じる。「土佐寺川夜話」で、宮本は土佐山中のカッタイ道で、ハンセン氏病患者の旅人に出会ったことを書いているが、宮本自身はそれを発展させられなかった。木村は、若くしてハンセン氏病患者の聞き書きを始める。

「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫

檮原紀行3

2007年05月01日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 宮本が檮原を調査に訪れたのは、1941年のことで、「土佐源氏」の発表は、1959年だ。その間18年。取材ノートは戦災で失われており、成立ちが分からないのだが、記憶に頼るところが多く、創作に近いものと考えた方がいいのかも知れない。そしておそらくは、そういう創作に宮本を駆り立てる欲求が、当時の彼の心情にあったのだ。

 宮本は、根から、善良、誠実で、人によって態度が変わることもなく、会う人がみな彼のことを受け入れてしまうような人だったと云われている。さまざまな証言があって、それについて疑いを差し挟むことはできない。。しかし当時、彼の身辺には、妻以外の女性の存在があった。

 佐野眞一の「旅する巨人」から妻のアサ子さんの手紙を引用する。
「長い間お世話になりました」
「進んで仕事の協力できぬ才能のなさにお詫びしてお別れの詞とします」
「私は貴男の何をも信じまいとしています」
「xxさんを得られたことによって全ては補われましょう」
「力の足りないお前の出来ないところをよくできる人が補うのだからむしろよろこべと仰有るのでしょう」
「お二人で召し上がるお弁当は私は造る必要はない!」

宮本の手紙。
「追われるようにして出てきた家。あの家に私の居ることがアサ子の心をくらくする。きっとまた暗くするような事をしてくる。
どうにかして笑いをとり戻したい。併し、私が私の中にあるものを殺さない限り、もう笑いは生まれそうにない。アサ子は今つよくそれを要求している。私の行動の中から他へ向く目を完全に封ずることを要求している。当然のことだろう。」
「ただ生きていれば、いつの日にかお互いがお互いを尊敬しあい、いたわりあえる日の来ることを信じる。そして今は。私のあらゆる心の逃げ場までうばい去ろうとつとめる妻に深いいたわりと申し訳なさを覚えこそすれ、いかりもにくしみも感じはしない。」
「今の妻にとって私は価値のないむしろ有害な存在でしかない。だが私自身もゆとりを取り戻す日のあることを信ずる。現在がすべてではない。」

 悪漢小説でなければ吐露できない真実というものもある。おそらく宮本は槌造翁に自分を重ねる気持ちが強かったであろう。妻を裏切り、別の女性と旅を続ける自分。一方では、田舎で畑仕事と子育てをしながら、ひたすら夫を待ち続ける妻。夫は妻の善意、誠実さを疑うことはできないと思っている。煩悶する妻と、それに動揺する夫がいる。
 恣しいままにした女性遍歴。一定した職業に就くことなく、妻に生活の安心を与えることなく過ごした人生。自分は、世間では一人前には思われないような存在、何事をなすこともなく過ぎた一個の乞食のような存在と思い詰めたことがあったかもしれない。
 妻の善意、誠実さを疑うことが出来ないということは、夫も自分の内にそれを取り戻す契機を見いだしたいと思っているということである。おそらく「土佐源氏」は、宮本の「死の棘」である。引用した手紙の最後の部分は、「土佐源氏」の最後の部分に符合しているといってもいいだろう。

「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」

檮原紀行2

2007年04月30日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 檮原(ゆすはら)を訪れたもうひとつの理由は、「土佐源氏」の語られた小屋を見てみたいということだった。
 佐野眞一や木村哲也の文章で、「土佐源氏」のモデルが山本槌造(1864~1945)という盲目のもと馬喰で、檮原の茶ヤ谷にある竜王橋のたもとの水車小屋に住んでいたということは知っていた。
 木村哲也さんの「「忘れられた日本人」の舞台を旅する」という本が、清新で、いい本だと思った。彼は、71年高知県西部の田舎の生まれで、若い民俗学研究者なのだが、横浜の大学生の頃に、すでに「忘れられた日本人」の現地調査を、野宿旅のスタイルで、一人で始めている。そのフィールドワークの現場はすべて辺境の地であって、行く先々で、宮本以来初めての来訪者だと告げられたそうだ。そして、この人の人柄なのだろうか、突然の訪問なのに、どういうわけか子孫の方の家に泊めてもらう巡り合わせになるのだ。現在、彼は、宮本の膨大な資料を収めた、周防大島の文化交流センターの開所とともに、その学芸員となって移り住んでいる。

 もと馬喰の、盲目の乞食の色ざんげと紹介されることが多い、「土佐源氏」は、宮本の文章としては、全く異例で、他に類を見ない作品だ。聞き書きの体裁を取っているが、どこかしら個人的な感懐の響くような感じがして、なぜだろうと思って調べているうちに、いくつかの事実から若干の感想を持った。

「ここは土佐の山中、檮原(ゆすはら)村。そしてこの老人の住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入り口もむしろをたれたまま。
時々天井の上を人の通ってゆく足音が聞こえる。寒そうな急ぎ足である。」

 というふうに始まる「土佐源氏」であるが、子孫の方々から、山本槌造は実は乞食ではなかったということが、異議申し立てされている。愛媛と土佐の山中を渡り歩いて、馬喰をしていたものが、食い詰めて、最後は檮原に落ち着き、当時は水車小屋で穀物を挽いていたというのが事実であって、だから乞食ということはない。宮本が創作したと指摘して、批判した研究者もあったが、槌造さん自身が、韜晦して、そう語った可能性もある。

「あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃアいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん。」
「わしは女と牛のことよりほかには何も知らん。ばくろうちうものは、袂付をきて、にぎりきんたまで、ちょいと見れば旦那集のようじゃが、世間では一人前に見てくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、うそをつくことをばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。」
「どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」
「そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう」
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かもうた女のことを想い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」

 竜王橋は、今はコンクリートの橋に架け変わっている。右手の、一段低くなって、八重桜の咲いているお宅が、山本槌造さんが住んでいた住居である。宮本の聞き取りは、戦前なので、様子は一変していると思われる。水車も取り払われているが、昔は、川の合流部に架かっていたのかもしれない。道を挟んで、左側のお宅は、古い味噌の醸造元という看板がかかっていた。いずれにしても、川沿いの小さな集落である。川のこちら側の山上には、海津見神社(竜王宮)が祀られていた。そして今日(29日)は、竜王さまのお祭りであった。

「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫

檮原紀行

2007年04月29日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 昨夜は、高知駅前のホテルに宿泊した。
 今朝の高知は、気持ちよく晴れ渡っていた。6:05、土讃線、高知発須崎行きワンマン列車に乗車。これから檮原(ゆすはら)に向かうところ。先ほど中学生のサッカー部員が乗り込んできて、車内は、行き交う土佐弁で充ちている。ここから先は、どこまでエアエッジが接続できるか不明なり。
 列車は、晴れた田園風景の中を進む。中学生たちは、佐川で下車して行った。車内は急に閑散として、列車が走る音だけに戻った。世間がゴールデンウイークというのがウソのようだ。
 吾桑(あそう)、多の郷(おおのごう)という変わった駅名あり。7:45 須崎着。須崎(すさき)は、高知県西部の、太平洋岸に近い、小さな市である。高知県は高知市以外というと、小さな町や村ばかりになる。
 8:17 高知県交通の杉の川方面、檮原行きのバスに乗車。これより四国山脈の山中に向かう。とたんにエアエッジが繋がらなくなった。

 山裾を縫うようにして山中に入り、9:45 頃檮原役場前着。川沿いの平地に開けた小さな集落であるが、農協や郵便局、旅館、コンビニ、スーパーなどあり。駐在所で道筋を尋ねるが、茶や谷方面は、平日でも、5便くらいしかバスが出ておらず、今日は休日とあって、朝、昼の2便の様子。12:35の便までは待てないので、タクシーに乗ることにした。この山中にタクシー会社があるのが不思議なくらいだが、無線で予約が入ってきている。運転手さんも竜王の出身ということであった。
 単車線の山道をうねうねと登り、10:20頃竜王橋着。この橋のたもとの民家こそ、「土佐源氏」の山本槌造の住み家である。

 檮原に関心が向いたのには、ふたつの理由がある。幕末の土佐からの脱藩の道という面と、宮本常一の「土佐源氏」の舞台という面とである。坂本龍馬が檮原の関所を抜けて脱藩したというので、それがこの町の観光資源になっている。竜馬脱藩のひと月後に、同じ経路で脱藩したのが、吉田東洋を暗殺した、安岡嘉助と那須信吾らである。
 2年前から「流離譚」の現場を見る旅を、断続的にやっていて、土佐山北、小高坂、十津川、会津七日町と辿ってきた。那須信吾の養子に入った家がこの檮原であったし、天誅組の吉村寅太郎の出身もこの近くである。嘉助の脱藩の行跡を確認しておきたいという目的がひとつにはあった。

会津七日町3

2006年09月26日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
越後街道沿いの七日町を歩いていて、ちょっと驚いたのは、聖書の言葉を引いた看板が次々に現れることだ。
他の土地でも、時にこういう看板を見ることはあるが、ここの数の多さ、執拗さ、土俗的な感じは、ただ事じゃない。
「流離譚」の最後は、明治の早い時期から、土佐山北の女たちに浸透して行くキリスト教の問題になる。
維新に翻弄された土地柄には、共通して、キリスト教を早くから受け入れる土壌というものが醸成されたのかもしれないと思った。
このあたり非常に興味深し。