A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

檮原紀行2

2007年04月30日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 檮原(ゆすはら)を訪れたもうひとつの理由は、「土佐源氏」の語られた小屋を見てみたいということだった。
 佐野眞一や木村哲也の文章で、「土佐源氏」のモデルが山本槌造(1864~1945)という盲目のもと馬喰で、檮原の茶ヤ谷にある竜王橋のたもとの水車小屋に住んでいたということは知っていた。
 木村哲也さんの「「忘れられた日本人」の舞台を旅する」という本が、清新で、いい本だと思った。彼は、71年高知県西部の田舎の生まれで、若い民俗学研究者なのだが、横浜の大学生の頃に、すでに「忘れられた日本人」の現地調査を、野宿旅のスタイルで、一人で始めている。そのフィールドワークの現場はすべて辺境の地であって、行く先々で、宮本以来初めての来訪者だと告げられたそうだ。そして、この人の人柄なのだろうか、突然の訪問なのに、どういうわけか子孫の方の家に泊めてもらう巡り合わせになるのだ。現在、彼は、宮本の膨大な資料を収めた、周防大島の文化交流センターの開所とともに、その学芸員となって移り住んでいる。

 もと馬喰の、盲目の乞食の色ざんげと紹介されることが多い、「土佐源氏」は、宮本の文章としては、全く異例で、他に類を見ない作品だ。聞き書きの体裁を取っているが、どこかしら個人的な感懐の響くような感じがして、なぜだろうと思って調べているうちに、いくつかの事実から若干の感想を持った。

「ここは土佐の山中、檮原(ゆすはら)村。そしてこの老人の住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入り口もむしろをたれたまま。
時々天井の上を人の通ってゆく足音が聞こえる。寒そうな急ぎ足である。」

 というふうに始まる「土佐源氏」であるが、子孫の方々から、山本槌造は実は乞食ではなかったということが、異議申し立てされている。愛媛と土佐の山中を渡り歩いて、馬喰をしていたものが、食い詰めて、最後は檮原に落ち着き、当時は水車小屋で穀物を挽いていたというのが事実であって、だから乞食ということはない。宮本が創作したと指摘して、批判した研究者もあったが、槌造さん自身が、韜晦して、そう語った可能性もある。

「あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃアいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん。」
「わしは女と牛のことよりほかには何も知らん。ばくろうちうものは、袂付をきて、にぎりきんたまで、ちょいと見れば旦那集のようじゃが、世間では一人前に見てくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、うそをつくことをばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。」
「どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」
「そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう」
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かもうた女のことを想い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」

 竜王橋は、今はコンクリートの橋に架け変わっている。右手の、一段低くなって、八重桜の咲いているお宅が、山本槌造さんが住んでいた住居である。宮本の聞き取りは、戦前なので、様子は一変していると思われる。水車も取り払われているが、昔は、川の合流部に架かっていたのかもしれない。道を挟んで、左側のお宅は、古い味噌の醸造元という看板がかかっていた。いずれにしても、川沿いの小さな集落である。川のこちら側の山上には、海津見神社(竜王宮)が祀られていた。そして今日(29日)は、竜王さまのお祭りであった。

「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫

檮原紀行

2007年04月29日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 昨夜は、高知駅前のホテルに宿泊した。
 今朝の高知は、気持ちよく晴れ渡っていた。6:05、土讃線、高知発須崎行きワンマン列車に乗車。これから檮原(ゆすはら)に向かうところ。先ほど中学生のサッカー部員が乗り込んできて、車内は、行き交う土佐弁で充ちている。ここから先は、どこまでエアエッジが接続できるか不明なり。
 列車は、晴れた田園風景の中を進む。中学生たちは、佐川で下車して行った。車内は急に閑散として、列車が走る音だけに戻った。世間がゴールデンウイークというのがウソのようだ。
 吾桑(あそう)、多の郷(おおのごう)という変わった駅名あり。7:45 須崎着。須崎(すさき)は、高知県西部の、太平洋岸に近い、小さな市である。高知県は高知市以外というと、小さな町や村ばかりになる。
 8:17 高知県交通の杉の川方面、檮原行きのバスに乗車。これより四国山脈の山中に向かう。とたんにエアエッジが繋がらなくなった。

 山裾を縫うようにして山中に入り、9:45 頃檮原役場前着。川沿いの平地に開けた小さな集落であるが、農協や郵便局、旅館、コンビニ、スーパーなどあり。駐在所で道筋を尋ねるが、茶や谷方面は、平日でも、5便くらいしかバスが出ておらず、今日は休日とあって、朝、昼の2便の様子。12:35の便までは待てないので、タクシーに乗ることにした。この山中にタクシー会社があるのが不思議なくらいだが、無線で予約が入ってきている。運転手さんも竜王の出身ということであった。
 単車線の山道をうねうねと登り、10:20頃竜王橋着。この橋のたもとの民家こそ、「土佐源氏」の山本槌造の住み家である。

 檮原に関心が向いたのには、ふたつの理由がある。幕末の土佐からの脱藩の道という面と、宮本常一の「土佐源氏」の舞台という面とである。坂本龍馬が檮原の関所を抜けて脱藩したというので、それがこの町の観光資源になっている。竜馬脱藩のひと月後に、同じ経路で脱藩したのが、吉田東洋を暗殺した、安岡嘉助と那須信吾らである。
 2年前から「流離譚」の現場を見る旅を、断続的にやっていて、土佐山北、小高坂、十津川、会津七日町と辿ってきた。那須信吾の養子に入った家がこの檮原であったし、天誅組の吉村寅太郎の出身もこの近くである。嘉助の脱藩の行跡を確認しておきたいという目的がひとつにはあった。

空港へ6

2007年04月28日 | 旅の破片
 連休の初日。
 午後、赤坂の集まりに出席した後、ホテルを出ると、激しい雨が降っていた。タクシーを待って、雨の中、羽田空港へ向かう。
 車は、飯倉の交差点で、いったん下って行って、すぐに上がり、東京タワーを右手に見て、赤羽橋から首都高へ入った。タクシーの車中から見る雨の街は、なんだかずいぶん新鮮な眺めに見えた。
 十年以上、首都高を、自分の運転で、走ったという記憶がない。もう、こんな強雨の日に、首都高を走れるという自信はなくなっている。人の運転でよかった。レインボウ・ブリッジ、お台場あたりを過ぎて、30分ほどで、羽田に着いた。
 今朝、GRDで使っているSDカードが、書き込みも、消去もできなくなっているのに気がついた。見ると、プラスチックの突起に、ヒビが入っていた。SDカードも消耗品だ。突然どこかで壊れてしまうのは、フィルムにはない現象だ。買って置かなきゃと思いつつ、空港まで買うヒマがなかった。今回の旅の目的地では、絶対に入手できないと分かっている。羽田のショップを探し回って、やっと1GのSDをゲットした。
 19:05発のJALの便に乗って、1時間半の夜間飛行。文庫本を読み終わる間もなく、四国の高知に到着した。