檮原(ゆすはら)を訪れたもうひとつの理由は、「土佐源氏」の語られた小屋を見てみたいということだった。
佐野眞一や木村哲也の文章で、「土佐源氏」のモデルが山本槌造(1864~1945)という盲目のもと馬喰で、檮原の茶ヤ谷にある竜王橋のたもとの水車小屋に住んでいたということは知っていた。
木村哲也さんの「「忘れられた日本人」の舞台を旅する」という本が、清新で、いい本だと思った。彼は、71年高知県西部の田舎の生まれで、若い民俗学研究者なのだが、横浜の大学生の頃に、すでに「忘れられた日本人」の現地調査を、野宿旅のスタイルで、一人で始めている。そのフィールドワークの現場はすべて辺境の地であって、行く先々で、宮本以来初めての来訪者だと告げられたそうだ。そして、この人の人柄なのだろうか、突然の訪問なのに、どういうわけか子孫の方の家に泊めてもらう巡り合わせになるのだ。現在、彼は、宮本の膨大な資料を収めた、周防大島の文化交流センターの開所とともに、その学芸員となって移り住んでいる。
もと馬喰の、盲目の乞食の色ざんげと紹介されることが多い、「土佐源氏」は、宮本の文章としては、全く異例で、他に類を見ない作品だ。聞き書きの体裁を取っているが、どこかしら個人的な感懐の響くような感じがして、なぜだろうと思って調べているうちに、いくつかの事実から若干の感想を持った。
「ここは土佐の山中、檮原(ゆすはら)村。そしてこの老人の住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入り口もむしろをたれたまま。
時々天井の上を人の通ってゆく足音が聞こえる。寒そうな急ぎ足である。」
というふうに始まる「土佐源氏」であるが、子孫の方々から、山本槌造は実は乞食ではなかったということが、異議申し立てされている。愛媛と土佐の山中を渡り歩いて、馬喰をしていたものが、食い詰めて、最後は檮原に落ち着き、当時は水車小屋で穀物を挽いていたというのが事実であって、だから乞食ということはない。宮本が創作したと指摘して、批判した研究者もあったが、槌造さん自身が、韜晦して、そう語った可能性もある。
「あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃアいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん。」
「わしは女と牛のことよりほかには何も知らん。ばくろうちうものは、袂付をきて、にぎりきんたまで、ちょいと見れば旦那集のようじゃが、世間では一人前に見てくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、うそをつくことをばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。」
「どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」
「そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう」
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かもうた女のことを想い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」
竜王橋は、今はコンクリートの橋に架け変わっている。右手の、一段低くなって、八重桜の咲いているお宅が、山本槌造さんが住んでいた住居である。宮本の聞き取りは、戦前なので、様子は一変していると思われる。水車も取り払われているが、昔は、川の合流部に架かっていたのかもしれない。道を挟んで、左側のお宅は、古い味噌の醸造元という看板がかかっていた。いずれにしても、川沿いの小さな集落である。川のこちら側の山上には、海津見神社(竜王宮)が祀られていた。そして今日(29日)は、竜王さまのお祭りであった。
「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫
佐野眞一や木村哲也の文章で、「土佐源氏」のモデルが山本槌造(1864~1945)という盲目のもと馬喰で、檮原の茶ヤ谷にある竜王橋のたもとの水車小屋に住んでいたということは知っていた。
木村哲也さんの「「忘れられた日本人」の舞台を旅する」という本が、清新で、いい本だと思った。彼は、71年高知県西部の田舎の生まれで、若い民俗学研究者なのだが、横浜の大学生の頃に、すでに「忘れられた日本人」の現地調査を、野宿旅のスタイルで、一人で始めている。そのフィールドワークの現場はすべて辺境の地であって、行く先々で、宮本以来初めての来訪者だと告げられたそうだ。そして、この人の人柄なのだろうか、突然の訪問なのに、どういうわけか子孫の方の家に泊めてもらう巡り合わせになるのだ。現在、彼は、宮本の膨大な資料を収めた、周防大島の文化交流センターの開所とともに、その学芸員となって移り住んでいる。
もと馬喰の、盲目の乞食の色ざんげと紹介されることが多い、「土佐源氏」は、宮本の文章としては、全く異例で、他に類を見ない作品だ。聞き書きの体裁を取っているが、どこかしら個人的な感懐の響くような感じがして、なぜだろうと思って調べているうちに、いくつかの事実から若干の感想を持った。
「ここは土佐の山中、檮原(ゆすはら)村。そしてこの老人の住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入り口もむしろをたれたまま。
時々天井の上を人の通ってゆく足音が聞こえる。寒そうな急ぎ足である。」
というふうに始まる「土佐源氏」であるが、子孫の方々から、山本槌造は実は乞食ではなかったということが、異議申し立てされている。愛媛と土佐の山中を渡り歩いて、馬喰をしていたものが、食い詰めて、最後は檮原に落ち着き、当時は水車小屋で穀物を挽いていたというのが事実であって、だから乞食ということはない。宮本が創作したと指摘して、批判した研究者もあったが、槌造さん自身が、韜晦して、そう語った可能性もある。
「あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃアいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん。」
「わしは女と牛のことよりほかには何も知らん。ばくろうちうものは、袂付をきて、にぎりきんたまで、ちょいと見れば旦那集のようじゃが、世間では一人前に見てくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、うそをつくことをばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。」
「どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。」
「そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう」
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かもうた女のことを想い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。」
竜王橋は、今はコンクリートの橋に架け変わっている。右手の、一段低くなって、八重桜の咲いているお宅が、山本槌造さんが住んでいた住居である。宮本の聞き取りは、戦前なので、様子は一変していると思われる。水車も取り払われているが、昔は、川の合流部に架かっていたのかもしれない。道を挟んで、左側のお宅は、古い味噌の醸造元という看板がかかっていた。いずれにしても、川沿いの小さな集落である。川のこちら側の山上には、海津見神社(竜王宮)が祀られていた。そして今日(29日)は、竜王さまのお祭りであった。
「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫