今町<いままち>
下新町の坂を上りきると、聞名寺の門前町として発展した今町になる。開町の当時は中町と呼ばれていた。どこからどこまでが今町なのか、今でも自分などには境界がよく分からない。
浄土真宗の聞名寺は、1551(天文二十)年、現在地に寺域を定めた。総欅造・銅板葺きの大きな本堂は、1812(文化9)年に再建されたもの。最初、八尾は、独特の地形から、浄土真宗の門前町から発達した中世の町に時々見られるような寺内町かと思ったのだが、それは違っていた。外観は、商業を厚く保護した、独立武装都市が成立してもおかしくないような地形、立地条件に恵まれているのだが、現実には、そういう発展はしなかった。しかし聞名寺側の最初の目論みとしては、そういう発想があったんじゃないだろうかというのが小生のささやかな仮説。
聞名寺の境内では、他支部を排除して、「越中八尾おわら道場」の講中の人たちのおわらが繰り広げられる。「越中八尾おわら保存会」との行き違いの件はいろいろ耳にしたが、取りあえずは、自分のようなよそ者には関係がない。去年はここの輪踊りに紛れ込んで、振り付けの練習をしたのであった。
今町は、わずか32世帯からなる、東新町に次いで小さい町で、そのために、今町出身者や有志らの支援を受けているとのこと。風の盆前夜の深夜の町流しを見たことがあったが、他に観光客がなくて、ほとんど1対1で着いて歩くという贅沢な経験だった。おわらって、本来こういうものかなと思ったのであった。
林写真館のウィンドウに、毎年おわらのポスター写真や町民の家族写真などが飾られていて、通りがかりにこれをチェックするのも、自分の定点観察行為のひとつ。
下新町の坂を上りきると、聞名寺の門前町として発展した今町になる。開町の当時は中町と呼ばれていた。どこからどこまでが今町なのか、今でも自分などには境界がよく分からない。
浄土真宗の聞名寺は、1551(天文二十)年、現在地に寺域を定めた。総欅造・銅板葺きの大きな本堂は、1812(文化9)年に再建されたもの。最初、八尾は、独特の地形から、浄土真宗の門前町から発達した中世の町に時々見られるような寺内町かと思ったのだが、それは違っていた。外観は、商業を厚く保護した、独立武装都市が成立してもおかしくないような地形、立地条件に恵まれているのだが、現実には、そういう発展はしなかった。しかし聞名寺側の最初の目論みとしては、そういう発想があったんじゃないだろうかというのが小生のささやかな仮説。
聞名寺の境内では、他支部を排除して、「越中八尾おわら道場」の講中の人たちのおわらが繰り広げられる。「越中八尾おわら保存会」との行き違いの件はいろいろ耳にしたが、取りあえずは、自分のようなよそ者には関係がない。去年はここの輪踊りに紛れ込んで、振り付けの練習をしたのであった。
今町は、わずか32世帯からなる、東新町に次いで小さい町で、そのために、今町出身者や有志らの支援を受けているとのこと。風の盆前夜の深夜の町流しを見たことがあったが、他に観光客がなくて、ほとんど1対1で着いて歩くという贅沢な経験だった。おわらって、本来こういうものかなと思ったのであった。
林写真館のウィンドウに、毎年おわらのポスター写真や町民の家族写真などが飾られていて、通りがかりにこれをチェックするのも、自分の定点観察行為のひとつ。