司馬遼太郎の最後の「街道を行く」がこの三浦半島の三浦一族を取り上げたものだったのだった。ちょうどその頃、自分は三浦一族の本拠地であった衣笠城跡の近くに住んでいた。それで興味を引かれて、花見時分などに何度か登ってみたことがある。当時は、自分の郷里の美作三浦氏と関係があるなどとは知らなかった。
三浦一族は源頼朝に呼応して、この衣笠城で兵を挙げ、鎌倉幕府内では、重きを置かれた一族だったが、常に悲劇的な影が付きまとっていた。88歳の三浦大介の衣笠城での自刃、同族内での血で血を洗う争い、そして北条氏による一族滅亡と続く。わが美作国など各地に流れてきたのは、その生き残りの庶流である。
三浦貞宗が15世紀に美作で高田城を築城した後も、尼子や毛利の侵攻を繰り返し受けて、落城と奪還を繰り返しながら、最後は滅亡してしまうので、こちらでも悲劇の一族で終わったことになる。
三浦一族は源頼朝に呼応して、この衣笠城で兵を挙げ、鎌倉幕府内では、重きを置かれた一族だったが、常に悲劇的な影が付きまとっていた。88歳の三浦大介の衣笠城での自刃、同族内での血で血を洗う争い、そして北条氏による一族滅亡と続く。わが美作国など各地に流れてきたのは、その生き残りの庶流である。
三浦貞宗が15世紀に美作で高田城を築城した後も、尼子や毛利の侵攻を繰り返し受けて、落城と奪還を繰り返しながら、最後は滅亡してしまうので、こちらでも悲劇の一族で終わったことになる。