A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

東京日和3

2005年03月22日 | 街の底で
不忍の池の対岸のホテルが卒塔婆か供養塔のように見えて仕方がない。
上野戦争で敗走し、不忍の池に隠れた彰義隊の残党は、息をしに水面へ上がってきたところを官軍の兵士に狙い撃ちされたという。

Sumilux Asph.35mm/F1.4

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東京日和

2005年03月21日 | 東京23区
 春分の日。晴れ。春らしく、汗ばむくらいに温かい一日だった。年を取るとともに、季節感を味わいたいという思いがますます強い。
 ライカにプラナー50mm/F2、広角はGR21で外出。

 朝、靖国神社。葛飾北斎の版画に千鳥が淵を描いたものがある。その面影は今の地形にも認められるが、当時は靖国神社などというものはまだない。靖国神社は明治の近代国家と軍制とともに、招魂社として始まったからだ。去年の桜の季節に、千鳥が淵で桜見物をし、インド大使館のバザーでカレーを喰ったことを思い出した。靖国神社はそれ以来ということになる。
 巨大な大鳥居を入ると大村益次郎の銅像が高い塔の上に立ち、上野の山の方向を睨んでいる。本来ならば、大村がそこに立っていてもよかったはずなのだが、変わりに西郷隆盛が立っている。大村はこの逆賊西郷をはるかに監視しているのだ。明治の為政者達は、西郷の銅像建立は赦しても、大村に監視でもさせなければ安心できない思いであったのであろう。 
 早咲きの桜が咲き始めていた。軍歌を三味線で引き続けている男。韓国語を話す一群。どういう人たちであろうか。
 大扉に巨大な菊の紋。天皇家と菊の紋との結びつきは、後鳥羽院が菊の花を殊更に愛でたことに始まり、例の戊辰戦争の際に岩倉具視の発案で錦の御旗に菊花を意匠として使用したことで決定的となった。

 靖国神社から、大村の視線に導かれて、上野へ向かった。アメ横は賑わっていた。プラナー50mmでスナップ。不忍の池には、たくさん貸しボートが浮かんでおり、対岸に細長く高いホテルが見渡せる。不忍の池で写真を撮影する度に気になる建物で、何か不吉な感じの写真になるのが常であったが、今日ふと気が付いた。卒塔婆のように見えるのだ。
 岩崎邸へ立ち寄った後、根津まで歩き、三浦坂から谷中へ上がる。東京は坂の多い都市である。谷中から日暮里側の崖まで歩くと、そう遠くない昔、その辺り一帯が海の入り江であったことが一目瞭然に理解できる。
 お彼岸でもあるし、墓参りの家族や散策の人が数多く見られた。谷中に上がってくるのに、私の最も気に入っている坂道が、この三浦坂である。以前散策の折りに偶然にこの坂の由来を知った。坂の昇り口や坂上の大名時計博物館があるあたりにかけて、三浦氏勝山藩の下屋敷があったことから、この坂がそう呼ばれるようになったのであるが、その勝山藩というのが、私の郷里に近い美作の国の1万2千石の小藩のことである。上屋敷は地下鉄の霞ヶ関駅のあたりにあった。
 田舎から出てききた美作なまりの下級武士が、馴れぬ江戸の毎日をこの下屋敷で送っていたわけだ。
 上野戦争の際には、彰義隊がこの下屋敷に押し込み、参加を強要したという。勝山藩は幕末の動乱の中で佐幕を標榜するという要領の悪さで、何ぶん田舎の小藩のことであるから、困り果てたことであろう。
 三崎坂を下って行くと、テレビドラマのスタッフと女優さんが撮影をやっていた。千駄木駅より地下鉄にて帰宅。

L○S◎I○

35mmムービーカメラ

2005年03月17日 | 街の底で
 35mmムービーカメラは、16mmと違って、フィルム代、現像費などランニングコストがべらぼうに高く、安価な映写機というものもないので、アマチュアは手を出さないのが常識だった。
 ところが最近、デジタル処理や映像ソフト、テレシネなどを組み合わせることで、アマチュアでも手をだせるのではないかと考えている。いろいろ実験を開始したところなので、成果が上がれば、ここにも上げて行きたい。

 35mmムービーカメラは、ARRIFLEXがなかなか買えず、ロシア製のKonvas2Mを使っている。モーターの15EPSSは、コントローラーと充電池が一体になっていて使い勝手が悪いので、ずっとクリスタルシンクの17EP-16APKが欲しかった。eBayのショップでは、17EP-16APKが700ドル位が相場で、ちょっと手が出なかった。最近300ドルで出品している、NYブルックリンのショップを見つけ、本日代金を振り込んだところ。少し半信半疑。

横浜物語

2005年03月15日 | 横浜、横須賀
横浜日劇。いろいろなドラマの舞台にもなった映画館。

ラストサムライvsミスティックリバー。
ラストサムライのモデルは西郷吉之助と山岡鉄太郎だと云われています。
では西郷のことをラストサムライと言った最初の日本人はだれでしょうか?
答えは、内村鑑三。意外ですね。
彼の著作「代表的日本人」は、明治20年代に英文で発表されましたが、この中で西郷を取り上げ、そう呼んだのです。
内村鑑三はキリスト教徒でありながら、西郷が大好きでした。
「代表的日本人」は、岩波文庫で読めます。

Summilux 35mm/F1.4

3月1日尾道の日記より

2005年03月13日 | 旅の破片
 尾道は映画の街である。現在も戦艦大和の映画の企画が進んでいるらしい。海に面した市役所があって、その近くに映画資料館があった。
 資料館の入り口に大きな35mmフィルム映写機が飾ってあり、中に入ると、小津安二郎のスチル写真の展示。撮影で使用していたミッチェルのムービーカメラや、アリフレックスIIcも展示されていた。このアリIIcを撮影。(うーん、長年これが欲しいのだ)
 志賀直哉と小津が並んで歩いている写真があった。小津は志賀直哉に私淑していたとかで、尾道というのは、志賀直哉つながりでもあったのかと納得。「東京物語」を撮影中の小津があぐらをかいて、さらに屈み込むようなローポジションでバルナックライカをマジメに構えている写真もおかしい。特別展示ということで、美空ひばりのスチル写真と映画ポスターの展示も併設。
 地形の変化に富んだ尾道は、人々の生活の息吹きが感じられる町でもあって、訪れる旅行者が、初めてなのに懐かしさを覚える土地である。映画の舞台としてとても魅力的な土地であるのだろう。今までもたくさんの映画がここで撮影されてきた。
 映画好きの若者が16mmカメラを回していたりするのが似合う町である。 
 
 アリ16STとコダクロームを持ってもう一度訪れたいと強く思った。