奥武蔵の風

72 生命の尊さ(観音様の教え)

 7月6日は、語呂合わせで「南無阿弥陀仏」の「南無」。ということで、仏教に触れてみたいと思います。

 ちなみに、翌7月7日は「七夕」ですね。人間らしい生き方と世界平和への願いを込めて、現代の仏教書から、短い物語を以下に掲載いたしますので、ぜひお読みください(著者承諾済み)

  

  生活が豊かになるにつれて、人々のあいだに美食を求める風潮が生まれ、飽食(ほうしょく)の結果、目に余る食べ残しや食品の廃棄(はいき)が恒常化するようになった。
 すると、ある時、観世音菩薩の声が聞こえた。
「人間は、老いや病気で死んだ動物の肉を食することはできない。枯れた野菜や腐った果実を食することもできない。
 人間が食することができるのは、健康で新鮮な、生命ある動植物だけである。
 多くの動植物の生命が食材となり、人間はそれをみずからの生命の糧(かて)とするのである。
 生命を紡(つむ)ぐものは、生命である。食事ができるということは、多くの生命が自分のために捧(ささ)げられるということである。
 みずからが他の生命に食されることのない人間は、食物連鎖(れんさ)という『生命の連鎖』の頂点にあることを自覚し、あらゆる動植物に感謝し、生命を慈(いつく)しみ、育(はぐく)まなければならない。」
 そして、観世音菩薩は続けた。
「人間は、人間らしく生きてこそ人間なのである。人間として生まれたからには、人間らしい生き方を追い求める必要がある。」
 そのうえで、観世音菩薩はこう戒めた。
「食する以外の殺生(せっしょう)を、仏教は禁じる。
 人間どうしが殺生をする必要性はどこにもない。仏教は戦争を禁じる。
 飢餓(きが)とは、食べ物すなわち自分のために捧げられる生命が何一つ存在しない死の環境の中で、生をつなぐ営みである。弱者を飢餓に追いやることを、仏教は禁じる。」
 人々は、気づいた。美食にふけっている自分たちの愚かしさに。そして、戦争をくり返しては貧困や飢餓を生み出している人間世界の愚かしさに。

 

(月野一匠著『今を生きる仏教―観音様の108話』より 第104話「生命の連鎖」)。

(写真上)© 南無 釈迦如来。(「釈迦 霊鷲山(りょうじゅせん)説法図」

(写真上)© 南無 観世音菩薩(第42回 掲載写真に同じ)

***************************************************

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「提言」カテゴリーもっと見る