本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

『絆通信』135号から(1)。

2007-12-13 08:53:44 | 社会
 ■こんにちは、がんばってます!
 山内さん、昭和25年生まれ、57才。兵庫県尼崎市出身。

「両親、妹の4人家族です。物心ついたときにはバラックに住んでいましたね。辺り一面原っぱ。冬は寒いけど夏は風通しが良くて涼しかったです。僕が小学校に入ってすぐに建て替えて、5軒続きの長屋になりました。天井が60センチ四方の太い柱1本でつながっていて、屋根裏に上がると隣近所の声が丸聞こえでしたね」
「親父は工員でした。なにごとにも四角四面の人でしたね。お袋は病気がちで入退院をくり返していました。親父も内臓が悪くて入院していることが多く、両親のどちらかが家に居ない状態が普通でしたね。夏休みといえば、妹といっしょに田舎の愛媛県に帰らされていました。ただ誕生日、正月、入学式、参観日など記憶に残る行事のときには必ず親がいる。たぶん無理をして家に戻っていたんでしょうね。お袋の妹が近くに住んでいて、彼女が僕とあまり年も変わらなくて、家のことをやってくれていました」
「両親は愛媛出身です。親父は15才で少年飛行兵として予科練に行きました。お国のために働くんだ、と難しい試験に受かってね。英雄扱いされて故郷を出て行ったのに、特攻に行く前に終戦を迎えたそうです。祖父母によると、親父は生きて故郷に戻ってからグレたということでした」
「親父は大地主の長男でした。終戦後の様々な改革の中でも特に農地改革は祖父母にとって納得いかなかったようですね。お袋は小作人の娘でしたが、母方の祖父母から地主に対するうらみ、つらみを聞いたことは一度もないですね。そういう意味では大地主だった祖父母は人間味があったのかもしれません」
「特攻に行く気満々だった親父は、生きて戻ってから魂の抜け殻みたいになった。劇団に入って芝居に打ちこむことで、何とか生きる拠り所としていたんでしょう。小作人の娘という、身分の違うお袋との結婚を親に反対されて、駆け落ち同然で神戸に出てきたそうです。屋根裏に住んで、それでも家賃は取られたそうですけど(笑)」
「小学校時代はまじめでしたね。学校を休んだことも遅刻したことも一度もない。音楽と体育以外は成績良かったです。校舎の2階から飛び降りたことがあります。友達とふざけて『飛び降りることできる』と言ったんでしょうね、『言ったやないか、やってみろ』と言われて、躊躇なく飛び降りた。偶然にもけがをしませんでしたが、どこか恐いもの知らずのところがありましたね」
「2年生のときだったかな、参観日があった。先生が算数の解き方を黒板に書きながら説明していたんです。僕は説明きかなくてもわかるからノートに自分で解いてやっていた。それを見て先生が怒ってね、固い出席簿で僕の頭を叩いたんです。そしたら、お袋が突然『何が気に入らないでうちの息子を殴るんや』と怒鳴ってね。『どこが悪いんや、説明せえ』と。女の先生、泣いていましたね。お袋は相手がだれであろうと、納得できないことに対しては向かっていく。権力者であろうがヤクザであろうが関係ない。そういう人でした」

============

『絆通信』のメイン記事は『遠野物語』を髣髴とさせるこの聞書き↑です。長いので今日はここまで。w

cf.〒557-0004 大阪市西成区萩之茶屋2-5-23 釜ヶ崎解放会館1F
 釜ヶ崎炊き出しの会
 (TEL)06-6631-7460 (FAX)06-6631-7490
(振替)00990-8-302431
以上本文は(発行)'07.11.20からの引用です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。