本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

キリスト教ゲームとドラゴンクエスト。

2005-08-11 12:30:50 | web・メディア
*以下はwired news8/4からの引用です。

2005年8月4日 2:00am
キリスト教ゲームが集結したカンファレンスJohn Gartner

 オレゴン州ポートランド発――『Grand Theft Auto』のようなセックスや暴力シーンに満ちたビデオゲームに代わるものを世に送ろうと考えたキリスト教徒たちが、より健全な作品で『プレイステーション』世代を引きつけようとしている。

 先月28日から30日(米国時間)にかけて開かれた『クリスチャンズ・ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス』では、世界中から創業間もない企業が集まり、旧約聖書や新約聖書から引用した道徳観や物語をテーマとする、未就園児や青少年向けの新作ゲームを披露した。

(中略)クリスマスシーズンに合わせて売り出される予定のゲームでは、アクションよりもストーリーや学習に重点が置かれている。

 たとえば、オーストラリアの新興企業、ホワイト・ナイト・ゲームズ社が開発したアドベンチャーゲーム『Timothy and Titus』(スクリーンショット)では、プレイヤーはかつて地中海沿岸地域にキリスト教の教えを広めた使徒パウロの2人の弟子、テモテとテトスを演じる。

 他のロールプレイング・ゲームで使われるヒットポイント(生命力)や武器ポイントの代わりに、プレイヤーは伝道を遂行するための愛や希望、信仰心のポイントを収集する。敵に遭遇したときも、『Halo 2』(ヘイロー2)のように手榴弾で殺傷するのではなく、相手のために祈ったり、「神の御手」を使って邪悪な心を追い出すなどして栄光(halo)を獲得する。

 このゲームのプロットを考案したホワイト・ナイト社の責任者、ローレンス・エスカランテ氏によると、今後のバージョンでは、プレイヤーは敵に対して武力を行使することができるようになるかもしれないという。「人々が自分の行動を決められるようにしたい。たとえそれが間違いだったとしてもだ」とエスカランテ氏は述べ、さらに暴力に頼ってもこのゲームでは勝てないと付け加えた。

 エスカランテ氏は、『Timothy and Titus』では、ゲームの構成上の都合から聖書の物語を脚色していることを認めている。本来の物語では、テモテは異教徒によって殉教させられるが、11 月に発売予定のコンピューターゲームでは、2人の聖者はすべてのレベルで生き延びる。

 また、米レベル・プラネット・クリエーションズ社の『The Rebel Planet』(スクリーンショット)は、ティーンエージャーや青年向けで、暴力的な部分もいくらか含まれていると、同社の創立者、ピーター・チャーネス氏は説明する。プレイヤーが恐竜や巨大グモ、敵役の人類と戦うこのゲームは、「天地創造」の後から「ノアの箱舟」の前までの時期を舞台としている。

 ルター派教会の牧師でもあるチャーネス氏は、このゲーム(2006年夏リリース予定)で人の死を扱うかどうかをまだ決めかねているが、暴力シーンはそれほど血なまぐさくならないはずだ。チャーネス氏によると、アダムが(イブの死後に)キャラクターとして登場し、聖書の登場人物、エノクは「オリオン」と名前を変えられているが、聖書からの引用はないという。

 ビデオゲームは子供たちに影響をおよぼす媒体としては映画以上の存在だとチャーネス氏は述べ、神の言葉を広める前向きなメッセージの必要性を訴えた。「コンピューター・グラフィックスは物語を伝えるツールとして最適だ。この世で最も偉大な物語を語るのに、これ以上よい方法があるだろうか?」

(中略)
 『The Great Escape』では、コンピューターの中に閉じ込めらたプレイヤーは、ウイルスやスパムに打ち勝って、破壊された電子メールを解読し、家に帰る道を見つけ出さなくてはならない。アニメーションを担当するのは、『ムーラン』など数本のディズニー映画を手がけたトニー・バンクロフト氏だ。

 デジタル・プレーズ社の新作ゲームには、他にもビデオシリーズの『ハーミーと友だち』(Hermie and Friends)やアニメ『ライト・レンジャー:メンディング・ザ・マニアック・マッドネス』(Light Rangers: Mending the Maniac Madness)のキャラクターを使ったものがある。いずれも子供たちに嘘をついたり、盗んだり、ずるをしたりしてはいけないと教えるもので、あらゆる宗教の信者を対象に作られている。「信仰心を持つ人々は生き方からして違うのだ」とビーン副社長は述べた。

(中略)ただし、米ジュピターメディア社のアナリスト、ジェイ・ホーウィッツ氏は、巨額の予算をかけて制作される、ゲーム専用機向けの悪徳に満ちたゲームと競い合うことは新興企業にとって厳しい挑戦だと語っている。同氏は、小売店で陳列棚のスペースを確保することも難しいと指摘する。「かなりの大手でなければ、ウォルマートに商品を置いてもらえない」のだ。

 それでもホーウィッツ氏は、最近になって米ゲイロード・エンタテインメント社のような企業がキリスト教をテーマにしたメディアで成功していることをみると、このようなゲームを受け入れる層もあると考えている。「キリスト教的なコンテンツの威力はあなどれない」とホーウィッツ氏は語った。
[日本語版:石川あけみ/長谷 睦]

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 以上引用終わり。

*所謂RPGに関して私も一言、いや二言三言・・・もっとかな?

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 40歳過ぎて覚えたDQⅢ(←8ビットのファミコン仕様だった)には衝撃を受け、世の中にこんな面白いものがあるのかと驚いたと、私は以前にもこの欄に書いた。
 テーマ曲に乗り一列に並んで街の中を行進するのが楽しかったが、最初のうちはうまく十字キーを使えなくてあちこちにボコボコ衝突していた。これも書いた。年寄りはリフレインが多い。これも昨日他所に書いた。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 私をそそのかしてDQⅢを始めさせたのは当時25歳の青年だったが、彼は自分では「二十歳過ぎてファミコンをやっていると公言するのは少し恥ずかしい」と自認していた。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 その後DQはⅦまでやったがPS2がないのでⅧは出来ないでいる。
 ⅠとⅡは手元にあった時期もあるが、セーブが面倒でクリアしないまま確かどこかへ売り払ってしまった。ドラクエはⅢからが面白いのだと今でも思っている。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 敵を倒して(殺して?)HPやゴールド(F・Fならばギル)を獲得しないと主人公は一歩も成長できないという基本的システムに、私はいつも疑問と不審を感じていた。アクションゲームと根は同じだと思った。そこには「奴は敵だ。敵は殺せ」という究極の政治の論理と相通じるものがある。
 あるいは別の言い方をすれば「AとBとを峻別する《近代そのもの》がそこにある」とも言い得る。

 何かこういう旧態依然の発想以外の新機軸は成立し得ないのだろうかと、私はいつも不満を感じていた。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 それに勝手に他人の家に入って壺や樽を壊したり、箪笥や引き出しを開けるのはどう考えても犯罪奨励だ。住居侵入、器物損壊、窃盗(←もし話し掛けてからの犯行なら強盗だ)・・・。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 でもゲームをクリアするためというよりは話を先へ進めるため、私は嬉々としてそれらの犯行を繰り返していた。ゴメンチャイ!(←教会で懺悔しないといけないかな?)

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 その教会だけれど、あれはどうみてもキリスト教の教会だが、カソリックかプロテスタントかもわからずに私は毎日通っていた。
 あそこへ行かないとセーブできないし、毒消し草がないと毒の治療が出来ないもんね。死んだ仲間の棺桶をいつまでも引き摺っていられないし、逃げ回った挙句全滅したときは自動的に最後に寄った教会に行ってしまうし・・・。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 「地獄の沙汰も金次第」そのままに、あそこはゴールドを積みさえするばどうにでもなる教会だった。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 ところでカソリックとルター派等新教の違いは、聖母マリア様を崇めるのがカソリックで、神の子イエスを拝むのがプロテスタントだと昔誰かに教わったけど、これって正しいのかな? すみません、初歩的なこともわからず・・・。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 欧米は何と言っても『キリスト教社会』だから、この記事にある『キリスト教ゲーム』も充分受け入れられる素地はある。逆にDQの『教会』は日本型無神論(?)に根差しているためか、キリスト教の《神》に対してはかなり冒涜的だから、彼らにしてみれば到底許し難いものがある筈だが・・・。

 ♪どうでもいいですよぉ~♪

 『キリスト教ゲーム』が日本で流行るかどうかは偏に個々のゲームの完成度の高さに左右されるだろうと思う。この国のゲーマーはお宅度は高くても宗教心も思想性もありませんからねっと♪


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